高校フットボールと戸山高校

 
 1969年卒、須賀 潔
先輩の熱意に支えられ、自主運営を貫いて半世紀
〜戸山フットボール小史〜

大学から始まったわが国のフットボール

 わが国のアメリカンフットボールは1934(昭和9)年、立教大、明治大、早稲田大の3大学が「東京学生フットボール連盟」を発足させてスタートした。続いて法政大、慶応大、日本大が加わり、関西でも35年に関西大、40年に同志社大、41年に関西学院大に部が創設された。この間、東西で学生リーグ戦が開始されたほか、米大学選抜チームが来日、東京学生選抜チームが米国に遠征するなど、わが国のフットボールは大学を中心に発展した。

 旧制中学に根付くには至らなかったが、戦前、フットボール普及を目指してライン、バックス各3人の6人制フットボールが考案された。この6人制フットボール大会が40年の第1回に続いて41年、第2回が行われ、中学部門で横浜にあった日系2世を対象とした瑞穂学院が青山学院中等部を降して、優勝した。しかし、戦争が激しくなり、フットボール自体が「敵性スポーツ」として排除され、大学フットボールの衰退とともに日本のフットボールは火が消えた。

終戦とともにフットボール復活

 第2次世界大戦が終了して、米軍を中心とする占領軍が日本に進駐してきた。米軍は兵士の士気高揚を目的として、積極的に軍対抗フットボール試合を開催した。これに戦前のわが国フットボール経験者を招き、各大学での復活を奨励した。大学リーグは46年春、関西がOBも含めた形で先に再開され、関東は同年秋、一部チームによるオープン戦でよみがえった。47年4月、東西の大学チャンピオンが学生日本一を争う毎日新聞社主催の「甲子園ボウル」がスタート、第1回大会は慶大が同志社大を破って優勝した。当時、わが国の大学フットボールは関東の6校、関西の3校のみで、さしたる社会人チームもなく、甲子園ボウルの優勝校が事実上、日本のチャンピオンだった。

旧制中学にタッチフット誕生

 46年9月、米大阪軍政部民間情報局所属の日系2世、ピーター岡田氏が旧制大阪府立池田中学(現池田高校)にアメフト防具を持参して、それを簡易化したタッチフットボールを指導。池田高校と隣接した同府立豊中中学(現豊中高校)をタッチフットの研究指定校とした。これが、わが国旧制中学タッチフットの始まりとなった。

 47年3月、文部省はタッチフットボールを体育指導要領に取り上げ、各地で講習会を開催。新しいスポーツに意欲的に取り組んだ若い体育教師を中心に、旧制中学でタッチフットが広がり始めた。48年4月、学制改革により中学は高等学校に変わり、関東では同年10月、麻布、慶応、都立九段、都立六高(現新宿高)、都立十高(現西高)、都立府中農林高(現都立農業)の計6校による「第1回東京高校タッチフットボールリーグ戦」が開催され、麻布が5戦全勝で優勝、2位は4勝1敗の十高だった。麻布は49年1月開催の第2回甲子園ボウルで創設された高校王座決定戦に、関東代表として出場、関西代表の池田高に敗れた。

 戸山の永年にわたるライバル、西高の創部は48年春。戸山に先立つ2年前である。西高50年史によると、体育教諭の平山清太郎先生が体育好きの生徒数人に呼びかけ、タッチフット部作りに乗り出し、米軍主催の講習会に参加してルール、技術を学んだ。

 戸山の創部前にタッチフット部があったのはこのほか、正則、都立青山、都立北園、聖学院、早稲田学院など。しかし、その後廃部になったり、さまざまな事情で途中休部し、無事50周年を迎えた高校は多くはない。

戸山の創部は生徒主導

 戸山の創部は50年4月。都立第四高校からの改称と同時期だった。西高などと異なるのは、タッチフット創部が、米軍試合を観戦して興味を覚えた生徒からの発案だったことにある。郊外にある西高と違って、生徒自身がアメフト試合を頻繁に行っていたナイル・キニックスタジアム(神宮競技場、後の国立競技場)近くに住んでいた、という事情も大きく関係していた。創部前から手製のフットボールを作って協力してくれた金子英一先生が50年10月に他校へ転勤、代わって着任した23歳の青年体育教師、伊原公男先生が獅子奮迅の努力で盛り上げてくれたとはいえ、チーム運営の中核を担っていたのは、当時2年生の創部メンバー、細見淳、西川郁三(ともに52年卒)らだった。

 このころの関東は慶応高の全盛時代。慶応高は49〜51年、3年連続で関東代表として、甲子園ボウルに出場し、49年暮れは奈良高を破って高校日本一になっている。

新興・戸山の躍進

 細見、西川はコーチ不在の1年目を反省し、50年暮れ、自ら高田馬場駅近くに住んでいた法政大・尾上博久主将にコーチを依頼。快諾を得た尾上コーチの指導の下、メキメキと強くなり、実績がなくて2部扱いだった51年春、前年の関東優勝校の慶応に0−6と善戦、同年秋の大会では無失点で関東2部優勝を果たした。東西高校オールスター戦が行われた正月のライスボウルには、慶応の出場辞退があって戸山から8人も選ばれ、QBは西川がフル出場した。創部直後の戸山は関東の最強チームへと成長、第1期黄金時代を迎えていた、と言える。

 52年春、戸山を卒業した細見は浪人、西川は尾上コーチの勧めで法政大に進学。合間を見て母校に駆けつけ、細見監督、西川ヘッドコーチという両輪体制で、後輩の指導に当たった。選手17人を数えた創部メンバーの大量卒業は戦力ダウンにつながり、52年は春秋とも西高に敗れて2位。特に秋は0−6という惜敗だった。戸山を降した西高は3連覇中の慶応高を退け、関東代表として甲子園ボウルに出場した。創部メンバーの卒業があと1年遅かったならば、西高に代わって甲子園ボウルに出場するという栄光の歴史を刻んだことだろう。

 部員不足はなおも続いたが、戸山は熱心なOBの指導で厳しい練習を重ね、54年春3位、同年秋2位など、関東上位を争う立場を維持した。対照的に西高は甲子園ボウル出場を境に急速に戦力が低下。西高50年史は、「50年代後半まで、最下位が『指定席』になった」と記している。 これに対して、麻布、聖学院が台頭、戸山の前に立ちはだかった。だが、これら関東代表も、甲子園ボウルでは連勝街道ばく進を始めた関学高に完敗している。

二つの全国大会

 54年、甲子園ボウルの高校王座決定戦とは別に、トーナメントの全国高校タッチフットボール大会が創設され、第1回大会が冬休みの12月27、28両日、大阪・藤井寺球技場で開催された。しかし、関東優勝の麻布は12月6日の甲子園ボウルには出場したが、この大会は不参加。代わって戸山と並んで同率2位の聖学院と、戸山に0−25で完敗した日大一高が出場した。関東側には、「高校日本一を決めるのは甲子園ボウル」という意識があり、3年生主体の戸山にとっては「大学受験直前の遠征試合は考慮の対象外」といった心境だったのだろう。全国タッチフット大会は関東の最強チームが不参加になる場合が多く、長らく関西の独壇場が続いた。

輝く2年連続甲子園ボウル出場

 56年、法政大を卒業して社会人となった西川ヘッドコーチは、戸山の校風、力量を見極めた戦略を追究、当時の宿敵・慶応、聖学院打倒、甲子園ボウル出場を目指した3年計画に着手した。しかし、いつも11人+αという慢性的部員不足が響いて十分な練習を重ねることができず、用意周到に練られた作戦は必ずしも満足すべき結果につながらなかった。それでも、56年春、57年秋、58年秋準優勝と、あと一歩に迫り、57年夏には若手OBが世話を買って出て、待望久しい初合宿を茨城県で実施した。特に3年計画の1年目に入学してきた9期生が3年生になった58年秋は主力にケガがなければ、優勝した聖学院を破ることが不可能でなかったほど戦力が充実していた。

 59年、例年になく多数の新入部員が入部し、上級生を合わせて20人という大所帯になり、チャンスが到来した。西川コーチは法政大のヘッドコーチも兼務する多忙の中、QB川上の強肩を生かしたパス主体の「フライTフォーメーション」を考案、見事秋季関東大会決勝の聖学院戦に12−6で勝利を収め、甲子園ボウル初出場が実現した。しかし、甲子園では開始直後にQB川上が負傷、本来の力を出せないまま関学高に0−52で大敗した。

 60年も春は聖学院、秋は新興・日大世田谷(現日大桜丘)を破り優勝。2年連続となった甲子園ボウルでは、フライT対策を講じていた関学高にまたも0−32で屈した。20歳代後半に入って社会人として仕事も忙しくなっていた細見監督、西川ヘッドは、甲子園2連敗を機に61年3月、指導の現場から退いた。以後の戸山は、大学生OBが現役の面倒を見る指導体制となり、部員の自主運営は一層強まった。

 61年春の優勝で春秋関東4連覇を飾ったが、秋はAブロック代表決定戦で西高に屈し、3年連続の甲子園ボウル出場を逃し、日大桜丘に関東代表の座を譲った。細見・西川体制最後となったこの時期までが、戸山の第2期黄金時代だった。 二つの全国大会に、高校フットボール界の王者として君臨していたのが関学高。しかし、61年を最後として、「高校の全国大会は一つ」という全国高校体育連盟の方針により、甲子園ボウルの高校王座決定戦は、関学高11連覇のまま廃止され、トーナメントの全国高校タッチフット大会に一本化された。

 甲子園ボウルを唯一の目標にしていた戸山は、全国大会が一本化された後も全国タッチフット大会の出場は「考慮の対象外」だった。だが、西高は違っていた。積極的に全国タッチフット大会に挑戦、長期低迷から脱出しかけた59年12月、関東5位で第6回大会に初出場してベスト4。61年の第8回大会、62年の第9回大会でもベスト4になるなど、アメフトに転換してタッチフット大会が姿を消す72年の第19回大会まで計7回も出場した。

全国高校大会に初出場

 戸山は63年秋の関東準優勝を最後に、優勝争いから後退。日大桜丘、法政二高など私学優位の時代に入った。関西でも62、63年の全国タッチフット大会で市立西宮が常勝・関学高にストップをかけて優勝するなど、地盤変動が起き始めていた。 それでも戸山は秋まで一部の3年生を加えて練習・試合を続け、上位をうかがう立場にいた。65年12月、全国タッチフット大会が初めて関西の地を離れ、東京・駒沢球技場で開催されたが、主力の2年生が2人とあって、参加には至らなかった。2年生が9人残っていた67年12月の全国大会には3年生2人、1年生4人を加えて初出場。戸山にとって60年の甲子園ボウル以来の関西遠征となったが、1回戦の崇徳(広島)に8−12と逆転で敗れた。この時の優勝校も、市立西宮だった。

アメフト転換遅れる

 68年の全国大会で、日大桜丘が関東勢として初優勝。このころからタッチフットをアメフトに切り替える高校が相次ぎ、戸山は転換の見通しがないままタッチフットを続け、69年秋、その年全国制覇することになる法政二高に6−12で惜敗する健闘を見せた。これは、戸山タッチフット最後の意地とも言えた。

 68年から2年間の試行期間を置いて70年、関東高校連盟はアメフトに切り替わり、全国高校アメフト選手権がスタートした。同じ都立の西高は68年からアメフト移行準備に入り、タッチフット、アメフト両方の練習を続けていた。しかし、戸山は安全性を重要視する学校側の指摘、また高価な防具購入経費捻出をクリアできず、移行の話は遅々として進まなかった。一時的に連盟非加盟状態となって、経過措置として70〜72年に行われた全国高校タッチフット大会出場の道も閉ざされた。春秋に都立三田と1試合ずつ練習試合を行うだけの部継続となったが、アメフト転換の日を夢見る若手OBの献身的な後輩指導が部を支えた。

73年転換決定、74年移行

 アメフトが公式戦となった70年以降は、日大桜丘、日大一高、法政二高に加え、新興・駒場学園が優勝争いを演じるようになり、西高もこれらに次ぐ戦績を残した。しかし、秋の大会に続く全国高校選手権では、関学高が伝統の力を発揮して関東勢を撃破、西高東低状態が続いた。

 移行が遅れていた戸山も73年夏、現役部員の熱心な願いが通り、東大アメフト創部にかかわった市川新(55年卒)が監督、大学生だった日吉信晴(72年卒)がヘッドコーチとなる指導体制を学校側が承認して、アメフト転換が決まった。防具はOB会が寄付金を募り、を購入。これに伴って、学校側の顧問に、タッチフット創部直後から10年余、顧問を務めた伊原公男先生が復帰した。アメフト初試合は1年後の74年11月10日、早大学院を戸山に迎えて行われ、0−45で敗れた。アメフト初勝利は、転換後の初公式戦となった75年4月20日、戸山で行われた都大会1回戦の都立三田戦(20−0)だった。

転換5年目の都大会準優勝

 関西勢に名をなさしめていた秋の全国高校選手権は77年12月、駒場学園が関学高を降して、関東勢として初優勝、翌78年も慶応高が全国の頂点に立った。 戸山では世間のアメフトブームが追い風となって、新入部員も毎年10人前後残り、部員数が一段と増大した。那須寮で実施されていた夏季合宿に、女子マネージャーが初参加して、スタッフとしてチーム運営の一角を任されるようになった。 78年の春季都大会では、決勝に進出。決勝では強豪・駒場学園を終盤までリードしていたが、残り11秒で相手に90ヤード独走TDを許し、12−16で逆転負けした。初めて関東大会にコマを進め、慶応高には敗れたものも、港南台(神奈川)を12−6で破って関東3位になった。 話題を集めた戸山だったが、これ以外は春秋とも、よくて都大会3回戦。初戦敗退が大半という時代が10年以上続くのである。

重大事故発生

 80年の夏合宿最終日に、1年生の古閑修君が倒れ、すぐに近くの病院に運ばれたが、様態が重篤なためすぐに、医師である父君の手配で栃木県小山市内の脳外科病院に転送された。しかし、脳に障害が残り、後遺症と闘いながら懸命にリハビリを続けていたが、、8年後に帰らぬ人になった。改めて、古閑君の冥福を祈る。 古閑君は午前中の練習の最後、1年生だけによる1on1が終わったところで、頭痛を訴え、そのままグラウンドに崩れ落ちた。衝撃によって脳が頭蓋骨の中でローリングしたため血管が切れ、その出血により脳が圧迫された、ということだった。合宿中の詳細な練習日誌が女子マネージャーによって書き残されており、事故報告が直ちに都教育委員会に提出された。頭部に大きな衝撃を受けた経緯はなく、アメフト技術習得上の期間的短さによるものでもなかったが、同じ衝撃でも脳が受けるダメージには個人差が大きく、選手の体質・健康管理という重要な課題がクローズアップされた。

 合宿後、不安を抱いた保護者が相次いで子供を退部させる事態が招来。同年秋の大会は参加したが、それ以後1年生は試合に出さない、という学校側の方針が打ち出された。翌81年、監督が市川から、医師の毛利昌史(56年卒)に交代。選手の健康管理に一層の配慮がなされるようになった。

 古閑君は闘病生活を送りながら、伊原先生が戸山在職中の88年3月まで在校生として扱われ、同年5月5日亡くなった。

戸山の黄金時代再来

 春季大会を最後に3年生が引退する戸山にとって、2年生主体の秋季大会は多くを期待できず、春季大会に重点を置くようになった。冬の全国高校選手権に照準を合わす私学勢がまだ、新チーム作りに乗り出した直後とあって、上位を狙いやすい時期からだ。従って、秋季大会は翌春の本番を目指した準備段階と位置付けられ、今日に至るまで、戸山の全国高校選手権出場はまだ一度もない。

 大学生時代から戸山の専任コーチを務めてきた田淵浩司(80年卒)が社会人3年目を迎えた87年、毛利の後の監督に就任。多数の大学生コーチをまとめるとともに、OB会活動の発信役も務め、チームサポートの体制が充実した。93年から毎年発刊されている前年度の軌跡をまとめた部誌「GREEN HORNETS」は田淵監督一家と元女子マネらの努力の賜物である。

 さらに、78年の都大会準優勝の立役者となった後、関西学院大でプレーした小野宏(79年卒)が88年、最新の理論と技術を携えてコーチに就任。8年ぶりに出場した同年の秋季大会は都大会3回戦に進出。部員数も50人前後に増えた翌89年秋も都大会3回戦まで勝ち進んだ。そして、90年春、中大付を破って都大会に初優勝、勢いに乗って続く関東大会でも決勝に進み、法政二高に16−34で敗れたとはいえ関東準優勝に輝いた。92年春は都大会準優勝、関東ベスト4、93年春は再び都大会に優勝。アメフト転換後25年余経過した歴史を振り返ると、この時期が最も輝かしい成績を残している。

 小野は93年2月、母校・関西学院大のコーチとして関西に戻ったが、大学時代に選手として活躍したOBが社会人となっても戸山のコーチを務める雰囲気が残り、96、97両年春の都大会3位と関東大会出場を実現。タッチフット創部以来、戸山のフットボールは半世紀にわたって熱い息吹をアピールし続けている。

差し迫る課題

 今後チーム運営に大きな影響を及ぼすと思われるのが、新校舎建設に伴って校庭が使用できなくなることと、2003年から実施される公立学校の完全週休2日制だ。

 校庭が長期間使えず練習に大幅な制約が生まれた事態は、過去に2度ある。最初は都大会準優勝の直後の78年8月から翌79年2月まで行われた校庭改修。夏休みは東大駒場グラウンド、2学期からは週2日ずつ学校の渡り廊下と三田高多摩川グラウンドで練習。3学期になって校庭が使えるようになっても、スパイク使用は禁止された。練習不足はもろに響き、準優勝後のチームも期待されながら、80年春、初戦大敗で終わった。

 2度目も86年10月〜87年3月の校庭改修。この間、平日はトレーニング、土曜日に多摩川の河川敷で防具をつけて練習した。戸山以外での練習試合が認められていなかったため、88年卒の38期生は、自分たちのチームとして3年生の春季大会1試合をやっただけで終わってしまった。

 今秋から予定されている新校舎建設に伴って、校庭に仮校舎が建設される。そのための校庭使用不可は、5年間も続く。半年でも影響が大きかったというのに、5年間ともなると想像を絶する。95年から始まった隔週週休2日制は代わりの7時限目設定もあって、ただでさえ少ない練習時間をさらに短くしている。顧問の先生のご足労を願って、休日の土・日曜日を使って練習試合を行っている。完全週休2日制の実施は、土曜日に練習指導、激励をしようとする社会人の母校来訪を難しくし、コーチ・OBと現役が接触する機会の減少に直結する。

 ともに一筋縄では行かない難しい問題である。OB・OG諸氏の英知をお借りして、苦難を乗り越えたいと思う。




アメフト移行のころ

 

 戸山のアメリカンフットボールは創部直後の1951年12月、コーチだった尾上博久氏の尽力で法政大の1、2年生とヘルメットをつけて試合をしたことがあった。しかし、それは例外的なことで、以後、ずっとタッチフットが続けられた。アメフト転換が部員の希望として形になってきたのは60年代後半、私学を中心にアメフトに移行、あるいはアメフト部を創設する高校が増えてきたころからである。

 68年の3学期、戸山とは同じような校風を持つ西高が転換を決定。学年が切り替わったころから、不ぞろいながらアメフト防具をつけた練習が始まっていた。しかし、戸山のタッチフットは大学生のOBコーチが来るだけで、高校生が自主運営。経費捻出、指導スタッフ整備などの重要な課題には手をつけられず、高校生の願望以外に具体的な動きはなかった。

顧問辞任、存続の危機

 関東では69年秋、アメフト、タッチフット両方の公式戦が行われ、70年からは高校連盟そのものがアメフトに切り替わった。こうした最中の69年秋、教員側も安全管理に責任が持てなくなって、顧問が辞任。アメフト転換以前に、顧問不在で廃部の危機に陥った。これは<、当時2年生の石塚泰也(71年卒)が武藤徹先生に顧問就任を依頼、快諾を得て事なきを得た。 出遅れた格好になった戸山だったが、選手数自体はフットボールブームが追い風となって各代7〜8人おり、一時期のように3学年合わせて10人前後というようなこともなく部が存続、厳しい練習を続けていた。

急速に転換が進展した73年春

 若手OBが先輩たちと会合を持ったこともあったが、71年春、東大でアメフト選手の死亡事故が起きたり、アメフト選手の傷害保険料がボクシングやスカイダイビング並みに高額だったりで、移行運動は一時とん挫した。

 急速に転換が進展したのは、73年春だった。唯一の試合相手だった三田高がアメフトに移行することになり、遅々として移行が進まない戸山の状況に業を煮やした若手OBが戸山校内で"総決起集会"を開催。聞きつけて集会に参加した市川新(55年卒)が「慎重論の伊原先生を説得しなければ」と若手OBにアドバイス。その足で、体育教官室の伊原先生を訪ね、「大学でのアメフト経験者がやってくれれば」という言質を取った。OB会長の細見淳(52年卒)も、伊原先生と何度も話し合いを持った。東大で部を創部した市川が監督、慶大の同好会「バイソン」でプレーして戸山によく足を運んでいた日吉信晴(72年卒)がヘッドコーチに就任するという条件で、伊原先生も納得した。夏休み前に、細見淳ら古参OBも多数参加して戸山の教室でOB会が開かれ、OB会が経費、スタッフとも全面支援すること決議。細見は集まったOBに「一生、フットボールと連れ添う覚悟でいてくれ」と檄を飛ばした。

OB会が防具15組を購入

OB会がヘルメット、ショルダーを15組購入、毎年5組ずつ買い足していくことが決まった。当時ヘルメット、ショルダーが1組3万円。資金集めが始まった。OB会幹事長の三木侃(57年卒)が中心になって趣意書を送付、日吉が手ごまのようになって雑用を引き受けた。OBの寄付が約60万円に達した段階で、必要なものを発注。しかし、ジャージ代などを含めると、まだ足りない。九段にあった富士丸産業にジャージ代を払うと、防具代金が払えなくなり、OBが関係していた中村スポーツには支払いをしばらく猶予してもらった。

 移行が決まったといっても、防具到着はまだ先。1年間は試合をせず、じっくりアメフトに耐えうる体力を蓄え、練習ではけが人が出ないようにと、鬼ごっこだとか、走りながら前転、立ち上がって再び走り出すといった内容を繰り返した。73年12月には市川監督の指示で日吉、萩原嘉行(72年卒)が全国高校アメリカンフットボール選手権の行われている関西へ、自費視察に出向いた。こうして74年11月、転換後初のアメフト試合が行われ、現在に至っている。




愛称「グリーンホーネッツ」の歴史

 

1985年、「ペンギンズ」から変更

 戸山フットボールのチームカラーは、創部した1950年に初めてユニホームを作った際、米国フットボール発祥のノートルダム大のスクールカラーである緑と黄色をモデルとしたことから始まった。まだ戦後の復興期で、緑のジャージを作るのがやっと。パンツまでは統一するまでには至らなかった。ジャージは緑地に番号を縫い付けただけの簡単なものから肩部分を全面的に白くしたり、肩部分を白いテープで囲んだりと変化した。しかし、基本的にはアメフト転換まで、創部以来、緑のジャージだけが戸山フットボールの唯一の特徴だった。もちろんヘルメットもニックネームも存在していなかった。

 1979年冬、2年生が同期でそろいのスタジアムジャンバー(スタジャン)を作った。この時、女子マネージャーだった片山の趣味で、胸にペンギンのマークワッペンを付けた。一説には、この期のQB市岡が、背が低くて歩き方がペタペタとペンギンのようだった、とも言われている。どちらにしても、この時からペンギンマークが付いた。 これ以降、毎年2年生がスタジャンを作る習慣ができたが、デザイン、色は代によってまちまち。初代は紺に黄色ライン、真っ赤な代もあり、なぜかチームマスコットのペンギンだけは引き継がれた。

 82年冬、新開主将の代の時、「ペンギンズ」という文字がスタジャンのワッペンに付き、 このころからチームの愛称が「ペンギンズ」になった。

「グリーンホーネッツ」誕生秘話

85年冬、伊藤主将の代は、1代上が背中に「Penguins」の文字のあるジャンパーを着て全国大会の決勝を観戦していたところ、他の高校から「ペンギンだってよー」と笑われたことを記憶していた。デザインを変えようとしても、格好いいペンギンをデザインするのは極めて困難だった。

スタジャン作成の段階で、胸につけるワッペンを、「オーダーもの」にするのが非常にコスト高であることから、既製品の中から選ぶことになり、当時流行していたアメカジ(意味のわからない若い方は30歳前後の人に聞けば分かるだろう)の店「バックドロップ」(今でも渋谷にあるようだ)に、メンバー数人が出向いた。そこで見つけたのが、チームカラーである緑に黄色が混じったスズメバチの既製品ワッペンだった。緑のスズメバチが、「グリーンホーネッツ(GREEN HORNETS)」。今や戸山フットボールの代名詞となった「グリーンホーネッツ」も、由緒をたどると、「なあーんだ」である。

これ以降、チームのニックネームは現在まで「グリーンホーネッツ」となっている。

スタジャン作製は1988年が最後

揃いのスタジャンは、現在作られていない。最後は88年冬。その時、2年生だけが作っていたスタジャンを、1年生も一緒に作った。1年生が23名に増えた年で、デザインも背中に派手な刺繍のあるものだった。これが問題視され、職員会議で取り上げられた。

 それまで上級生だけがお揃いだったから、せいぜい十数名で、あまり目立っているわけでもなかった。だが、部員が増えて2学年一緒に作ったため、派手なジャンバーを着ている人数が三十数名に膨れ上がった。校内での目立ち方が際立つようになって、「いかめしい奴らが徒党を組んで、周囲に威圧感を与えている」と指摘された。休み時間など、廊下に部員同士がよく集まっているために、そのように見えるというだ。授業態度がほめられたものでなかったのも災いした。

こうしたことから翌89年冬、次の1年生たちが「自分たちも同じスタジャンを作りたい」と言い出した時、関係者が反対し、スタジャンの伝統は消えた。その後、スタジャンの声が出る度に、田淵監督がこの話をして、やめさせているという。

ヘルメットは黄→金→黄

ヘルメットはアメフトになってから、NFLのグリーンベイパッカーズにならって、黄色に緑と白線だった(一説には、初めは線がなかったとも)。78年夏、新チームが、金色に緑と白線に変更した。発案者はQB杉本だった。その理由は、都大会準優勝という華々しい成績を残した前チームのイメージを一新するためだった。また、当時グリーンベイパッカーズが非常に弱かったのも理由で、新カラーはノートルダム大をイメージした。UCLA、オハイオ州立大やNFLのダラスカウボーイズ、オークランドレイダーズなど当時強かったチームのヘルメットは、金や銀だったことも大きかった。同じ理由で、練習の時の声も、「四中ファイト、ファイト」から「チャージ」に変えた。これは今でも続いている。  

 以降、都大会初優勝を果たした1993年春まで、金色のヘルメットが続いた。その年の夏、新チームに変わった際、部員の要望によって黄色へ戻り、現在に至っている。




伊原杯

 

最も頑張った部員に授与

 伊原杯は、戸山高校アメリカンフットボールに多大にご尽力をされた故伊原公男先生の名前をいただき1997年度に創設された。同部の発展と選手達の意識向上を目的とし、引退する3年生の中から、最も頑張った選手を表彰している。選考方法は監督、コーチで選考会議を開き、ベストライン賞、ベストバックス賞を決定する。  伊原先生は創部以来、88年に戸山を退官されるまで顧問として指導に当たられたが、94年11月逝去。特にタッチフットボールの時代、関東高校連盟の理事長を務めるなど、高校フットボールの振興に貢献され、95年1月3日のライスボウルにおいて、日本アメリカンフットボール協会から功労者として表彰され、ヒサエ夫人が前年11月に亡くなった故人の代理として出席した。

年度ベストバックス賞ベストライン賞特別賞
1997年度中村 浩人(LB59)石井 賢輔(TE84)石田朋子、加藤友子(MGR)
1998年度泉  賢(DB28)今尾 英一(TE88) 
1999年度野間 謙治(WR4)浦川  圭(DE53) 
2000年度山根 庸平(RB30)斎藤  勉(DL97)