一太郎やあい

 
 一太郎やあい

 桃陵公園には、港が見える展望台があり、その近くに一太郎やあいの銅像がある。桃陵公園の開園に合わせて昭和6年に建設されたが、昭和17年に戦時の金属回収で供出された。しかし、翌昭和18年には、コンクリート像として再建された。左の写真は昔のもので、陸軍のマークがある。子供の頃は、見なかったし、一太郎やあいの銘板もはずされていた。






尋常小学校国語読本巻七
  第十三 一太郎やあい

 日露戦争当時のことである。軍人をのせた御用船が今しも港を出ようとした其の時、
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
といひいひ、見送人をおし分けて、前へ出るおばあさんがある。年は六十四五でもあらうか、腰に小さなふろしきづつみを結びつけてゐる、御用船をみつけると、
「一太郎やあい。其の船に乗ってゐるなら、鉄砲を上げろ。」
とさけんだ。すると甲板の上で鉄砲を上げたものがある。
 おばあさんは又さけんだ。
「うちのことはしんぱいするな。天子様によく御ほうこうするだよ。わかったらもう一度鉄砲を上げろ。」
 すると、又鉄砲を上げたのがかすかに見えた。おばあさんは「やれやれ。」といって、其所へすわった。聞けば今朝から五里の山道を、わらじがけで急いできたのださうだ。郡長をはじめ、見送の人々はみんな泣いたといふことである。


 

一太郎やあい 奉公記念碑 碑文

 明治三十七八年戰役ハ皇國興廢ノ岐ルル所ニシテ殉難 奉公ノ氣慨國内ニ横溢セリ 當時旅順攻圍ニ參加セル丸龜聯隊ノ出征御用船ノ當港解纜ニ際シ 埠頭ニ馳ケツケ タル一老婆 一太郎ヤアイ鐵砲ヲアゲロ家ノ事ハ心配スルナ 天子樣ニ克ク御奉公スルダヨト叫ンテ其愛子ヲ 激勵シタル事實ハ 全國民ノ意氣ヲ鼓舞シ 出征美談トシ テ國定教科書ニ載録セラレタリ 此ノ母子コソハ本縣三豐郡豐田村岡田かめ女ト其一子梶太郎ナレト 一度大阪 朝日新聞ニ報セラルルヤ 忠愛ノ情ニ燃ユル我國民性ハ翕然トシテ母子ノ禮讃トナリ 演劇ニ映畫ニ浪曲ニ琵琶歌講談等ニ依ッテ精神教化ノ資ニ供セラル 大正十一年本縣ニ於ケル特別大演習ニ際シテハ畏クモ 高貴ノ御馬前ニ謁ヲ賜ヒ 更ニ昭和六年宮城參殿ヲ許サルル等 幾多ノ光榮ニ浴セルノミナラス 日本婦人ノ典型トシテ 海内ニ喧傳歎美セラルルニ至レリ 斯ノ如ク有事ニ際 シテ欣然最高ノ犠牲ヲ君國ニ捧クル報國ノ精神ハ 平時 ニ在ッテ更ニ讃仰スヘク之ヲ永久ニ顯揚センカ爲メ 全國小學校兒童及篤志家ノ賛助ニ依リ 縁故深キ此地ニ教科書ノ全文ヲ掲クルト共ニ其ノ姿影ヲ鑄造シ奉公記念標トシテ建設シタルモノナリ 小野高介撰 白川大吉書


 一太郎やあいの銅像は、昭和17年に金属回収で供出されたが、翌年にはコンクリート像として再建された

 昭和25(1950)年に撮影したもの

一太郎やあいの真実

インターネットでは井上俊夫さん(詩人・元帝塚山学園大学講師)の一太郎やあいに関する詳細な考察がでています

平成16年(2004年)の様子

上の写真は1950年の写真です.それから半世紀,現在の一太郎やあいの様子です.

   
台座裏側

上の奉公記念碑の碑文によって,教科書の全文を刻んだ銘版があったことが分かるが,私の記憶にもなく,戦後直ちに撤去されたものと思われる.


台座横の銘版

前銅像ハ大東亜戦酣ナル時金属回収に供出セリ
此ノ像一太郎ヤァイハ真ノ母性愛ヲ表徴セルモノニシテ永遠ノ平和ヲ記念センガ為再調シタルモノナリ

 これは戦後に付けられたものと思うがいつごろか不明である.正面に「一太郎やあい」の銘版がついており,同じ時に付けられたものであろう