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その後の職業柄、当時の医療事情についてふれてみ度いと思う。町には4人の医師(山本、是澤、高畑、塩田の諸先生)と3人の歯科医(島田、横田、小野。後になって久本先生が加わった)がいて、住民の健康維持に当たっていた。まだ無医村の多かった時代に、これほど多数の医師がいたことは恵まれた医療環境にあったと云うべきだろう。医師達は皆、「仁」を感じさせる風格のある人たちばかりだったので、医の倫理は極めて高かったに違いない。主だった診療科目はあったが、4人共全疾患に対応するスーパードクターで、大変な努力をなさったとは思われるが、自ずから限界があった。例えば、急変の患家へ急ぐのも自家用車は4人共人力車で、時には車夫の足にいらだちと失望を感じられることもあったのではなかろうか。専門疾患になると眼科は丸亀の桑原さん、耳鼻科は琴平の長尾さん、外科は岩崎さんや高松の三宅さんまで出かけるという有様だった。難しい病気の時は、限られた人々は遠く岡山医大や阪大の病院を泊まりがけで受診すると云うことも珍しい話ではなかった。医療が分化進歩し多様化した現在から考えると、聴診器と注射器を駆使して頑張った諸先生の勇気と医術に敬意を払わなければならないが、当時「65才の同窓会」を開くと云う考えが果たして在ったかどうかを考えると、レベルの差は如何ともし難いものがあったと思われる。
体位向上と栄養補給と云うことで、町の学校では、児童に肝油が与えられた。注射器のような器具で一定量を注入し、口直しにもらえるドロップに人気があったので、可成りの数の希望者いたようだ。
当時、全国的に流行した疾患に「ハヤリ眼」があった。トラコーマ(Trachoma)である。何故かトラホームと呼ぶ方が一般的で、眼科医でも当時はトラホームと云っていた。私達の学校でも、最悪事には、全校の70%近くの学童が罹患し、校医の山本先生は、軽トラ、中トラ、重トラの診断に大変だったし、日本名で顆粒性結膜炎と云われたとおり、重トラでは顆粒を取り除く必要があったので、専門眼科医を受診するように指示された筈である。中にトラコーマ小体があり、これが病原体封入体で、この疾患の原因であろうと考えられていた。その後、日本の社会の住の改善に伴い急速に減少、現在では、眼科医の間でさえ伝説的なものとなってしまった。あれ程大がかりな眼洗い場を作ったことを考えると、将に、今昔の感にたえない。
その頃山の避病院が崩れ落ち、南の踏切を渡った町のはずれの国道添いに新しい避病院が作られた。ポプラのあった菅の乳屋よりは町寄りの所だったが、田んぼの真中のひっそりした建物だった。
三年の頃、チフスが流行して、仲間のY君が罹患した。当時の処置は大変おそまつで、水分補給と絶食療法を続け、医師は患者を励まして自然治癒を待つというものだった。幸いY君は回復したが、高熱の為、頭髪のなくなった姿が思い出される。上水道もなく、吉っあんが水を売って歩く時代だったのである。