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 運動場の東南の隅っこから小川に沿って一寸歩くと機関区へ出た。その附近の家を官舎と呼んでいたが、他には官舎がなかったので、それは国鉄のものと決っていた。 3年生になって大平センセ(当時亀山先生と恋仲だった・・・)が担任となった。センセはSLもお好きだったようで、絵の時間には機関区へ出かけて、生徒達と一所に機関車をスケッチした。当時はタンク車が多く、土讃線が難所であったから、8600型とか9600型の大型機関車も見られた。特に8600型は名車で、あの整った姿はサラブレッドを見る思いがして子供心を躍らされたものだ。そのころ東海道線にはC55が出現して、「流線型」ともてはやされた時代だったが、遂に四国線に配属されることはなかった。・・・(後になってC58や、D51は見ることが出来たが・・・)ディーゼル車が来たのは更に後のことで、線路ぎわに電柱が並んでいたが、架線は一切見られず、のどかな田園風景が子供時代の情緒を育んでくれた。近くには機関車の釜で燃えかすになった石炭の山が築かれ、コークスを拾う小母ハン達の姿をよく見かけたものだ。

 手前の小川には蛙やどじょうや小鮒がいた。この小川は駅前の豊田旅館や大原の辯当屋の所ではドブ溝の様相を呈したが、鉄道に沿って鴨の踏切の近くまで延び、そこで曲がって線路の下を流れていた。人家を離れると再び清流を取り戻し、場所によってはシジミが取れたり、金魚藻が見られた。大雨の後では希に鯉にもお目にかかったが、あれは多分「大森」の池から逃げ出したものと思われる。大人が本気でうなぎの穴釣りをしているのにも縷々出会ったりして、夢多い故郷の小川であった。時期には蛍も飛び交っていたんですぞ・・・。


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