浅草の歴史

浅草は古来より、漁業を営む人々が集まっていた小さな土地でした。しかし、推古天皇36年(628年)3月18日、桧前浜成・竹成(ひのくまはまなり・たけなり)という兄弟の漁師が大川(今の隅田川)において、漁をしているときに一体の金の仏像が網に掛かった事で大きく変わっていきます。その仏像を、土師中知(はじのなかとも)が見て、「これは聖観音菩薩像だ。」と気づき、それを奉ったものが今の浅草寺の始まりです。

それからと言うもの、浅草には数多くの庶民がこの観音様を参拝に訪れ、徐々に人が集まりだし、大きな町へと変わっていったのです。源頼朝や徳川家康も参拝し、江戸・明治・大正・昭和と時代が変わっても、「浅草は庶民の文化の発信地でもあり、日本でも1・2を争う商業地」に発展してきました。
第二次世界大戦後、時代も移り変わり、浅草の役割も「文化の発信源と言う役割から、情緒あふれる下町」という様に変わってきました。しかし、浅草には今でも「人々が活気にあふれ、何か面白い物がある町」という所は変わっていないと思います。
ちなみに、江戸三大祭りと言われる三社祭は、前出の3人が奉られている浅草神社(三社大権現)のお祭りであり、浅草寺のお祭りではないことを皆さんご存知でしたか?
常寿司の歴史

常寿司は、初代の店主が戦前(第二次世界大戦前)に浅草広小路(今の雷門通り)に屋台の寿司屋を開いたことが始まりです。その通りには、午後4時になると、寿司・おでん・牛飯・天ぷら・そば等、色々な屋台約100件強が集まり、午後11時まで、犬の散歩も出来ないほどの賑わいを見せたそうです。そして戦後(第二次世界大戦後)、今の場所に店を構え、代々昔ながらの江戸前鮨を今に伝えています。

店の屋号(常寿司)の由来は、初代の兄弟子が店を構えたときに、つれあいの名前を店につけたところ、大変繁盛した事にあやかってだそうです。ちなみに初代のつれあいの名前が「ツネ」です。もちろん、初代の名前が「次三郎」と言う店には付けにくい名前だった所もありますが・・・

当時を再現した模型
  


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