中学校の同級生であり、バンド仲間のキーボーディストだった前田君の自伝小説。全てが彼の記憶に基づく実話です。書きためていた物を「4/28鹿児島ライブ」の意義にも通じると言う事で僕のサイトでの掲載をお願いしました。きわめてプライベートな内容ではありますが情報のない昭和の鹿児島で器楽合奏のレベルから手探りでロックを始めてゆく少年達の姿が素晴らしい文字表現で描かれています。「What's チロル?」・・・まあ、読んでみて下さい(笑)。 週2、3回の更新を予定しています。お楽しみに!    末原


 

  作;前田芳文   青春自伝小説  1969〜in 鹿児島 /チロル会音楽部・ロック青春記』

 主な登場人物
前田芳文、南貞則、鮫島秀樹、末原康志、 中学の同級生達&先生


  【第1話/マンモス中学校】

今年1月下旬のある日曜日、夕方5時過ぎに、携帯電話を充電ホルダーから取り上げてみると、知らない番号からの着信が、数回記録されていた。一体誰だろう? と首を傾げながらパソコンに向かい、メールを開いてみると、福岡在住の友人からメッセージが届いていた。

―さっき鮫島君から電話が来ました。末原君との
ジョイントコンサートのプロモートで鹿児島に来て
いるそうです。末原君とも何十年ぶりかに話しました。

バナナスタジオの宮脇さんとも打ち合わせが
あるみたい。明日か明後日ぐらいまではそちらにいるようです。
君の携帯の番号も教えたので電話来るかも?

 メール中に出てくる鮫島君・末原君は、同じ中学の同期生でミュージシャン。“バナナスタジオの宮脇さん”は、最近出入りしている貸しスタジオの経営者だ。4月に故郷・鹿児島でジョイント・ライヴをするということは、宮脇さんから聞いて知っていた。ライヴ・ハウスのキャパは小さいから、宣伝費までは出せない。関係者一同で集客に協力しなきゃならん、という話をしていたのである。

着信記録の主が誰なのか、これでようやくピンときた。慌てて電話してみると、二人揃って天文館のジャズ喫茶にいた。午後6時から、キッチン・バー《赤とうがらし》でライヴの打ち合わせをやるから、気が向いたらどうぞ、という誘いだった。“気が向いたら”ってあんた…、気が向かないわけがないでしょうが(笑)

6時まで、すでに30分を切っている。これといって用も無い日曜日。油断空間にどっぷりと浸り切っており、髪の毛の寝癖もそのまんま、髭も剃ってないというスタイル。そんなんで人に会えるわけがないのだ。大慌てでシャワー室に飛び込んだ。

元ハウンドドッグの鮫島君とは、5年ほど前、当時住んでいた長野県にツアーで来たとき一度会っているが、末原君とは、電話で一度話したことがあるだけで、実際に会って話したことはない。最後に会ったのは、鹿児島にいた18才の頃だから、31年ぶりということになる。

約1時間遅れで店に着くと、末原君と鮫島君が席を立ってきて握手で出迎えてくれたのが嬉しかった。

すでに乾杯も終わり、半分以下になったジョッキが並んでいた。この日の連絡は、主催者、バナナスタジオ、同窓生と、様々な経路で回ったらしいが、誰もが、僕への連絡は真っ先に行っているだろうと思ったらしい。

末原君の横の席に案内され、懐かしい話に花が咲いた。その後の話は、もうすべて省略(笑)

鹿児島市立城西中学校、今では、生徒数600人余という、ごく普通の規模になってしまったが、その昔、僕らが通っていた頃は、3千人という桁違いの生徒数を抱えるマンモス校として有名だった。1学年20クラスもあり、三階建ての校舎が3棟並んでいる様子は、さながら大病院のようであった。一学年全ての生徒の顔を覚えるなどということは、まず不可能であり、それどころか、全校にたぶん100人以上いたであろう先生方の中にも、知らない顔がざらにあった。

そんなマンモス校の悩みのタネの筆頭格は、運動会だった。3度経験した運動会は、すべて開催方式が異なっていた。

1年のときは、各学年ごとに別れ、校区内の3つの小学校で行なわれた。上級生のいない不慣れな運動会は、盛り上がるはずもなく、正直言って、なんの記憶も残っていない。

2年のときは、県立競技場を使って、全学年合同で行なわれた。しかし、大競技場を借り切っての運動会は、いかにも閑散としていた。何万人も収容できる会場で、3000人しかいないのである。観客席の一箇所で行なわれる応援合戦は、晴れ渡った空に空しく吸い込まれ、眼前に迫ってくる桜島が、やけにでかく見えた。

3年のときは、以上の反省を踏まえて、狭き本校のみで、全学年、全生徒が参加して執り行われた。運動会担当の先生たちにとっては、これは大変な難問題だったと思う。

全員参加が前提の運動会である。3000人の生徒をどこかの競技に参加させるために、複数の競技がゴチャゴチャと同時進行で行なわれた。で、競技を見るのは地面の上ではなく、校舎の窓からである。派手な応援合戦などできるはずもない。ちなみに、そのときぼくが参加したのは、「走り高跳び」である。こんな競技、普通、運動会でやるかいな? 砂場に設えられたバーに向かって走っている最中も、どこか他の場所で、ゴチャゴチャとまるでフリー・マーケットのようにいろんな競技が行なわれていて、気分は拡散しまくりだった。

まぁ、そんなバカでかい中学の中で、僕らは知り合ったのである。 (つづく)


プロローグはつい最近の出来事。今年の1月に4月のライブの準備で鮫島と鹿児島に戻った日から始まっています。この日の鮫島はとにかく色々な人に電話をしまくっていました。この頃の城西中学校は日本1のマンモス校で生徒会をやっていた僕は朝礼の時に3000人を前にいろんな発表をするのが快感でした。第1話はまだ何も起きていませんがこれから様々な出来事が始まります。 3/1 SUE


 【第2話/チロル会発足 】

 中学に入学して間もなく、音楽の先生から声をかけられて、器楽合奏部に入部した。このことが良くも悪くも、中学3年間を濃厚に彩ることになる。

現在ギター名人と呼ばれる末原康志君と知り合ったのも、その器楽部でのことだった。まだ4月中だったと思うが、音楽の先生から指名され、彼が部員全員の前でギターを披露した場面を、昨日のことのように思い出す。曲は「禁じられた遊び」だった。

 僕が生まれた昭和31年というのは、ちょうど終戦から10年が経過、経済企画庁から「すでに戦後ではない」という宣言がなされ、高度経済成長が始まろうとしていたころである。戦後の荒廃から立ち上がり、世の中がようやく豊かになり始めたころ、かつて自分が習いたくても習えなかったピアノを、子供には習わせたいと考える親も多かった。そんな心を、楽器販売戦略と結びついたヤマハ音楽教室の体系的な早期教育が見事に捉えた。自分の意志などと関係なく、気が付いたときは音楽教室に通わされていた。両親ともにクラシックなり、ジャズなり、ポップスなりの音楽を楽しんで聴くという習慣を持っていたわけではなく、生活の中にほとんど音楽的環境は存在していなかったと言ってよい。それまで、レッスンで、ツェルニーの練習曲や、モーツァルト、ベートーヴェンのソナタなどに接したのと、学校の音楽の時間に鑑賞教材を聴いた程度の音楽体験しかなかった。

小学校5〜6年、モーツァルトのソナタを弾くようになったころから、ようやく表現することの面白さを感じ始めてはいたが、それも束の間、高校教師だった父が、ピアノを続けていては、勉学に差し支えるのではないかと言い出し、中学入学直後にやめてしまっていた。こうやって改めて当時を振り返ってみると、そのころまでの音楽との付き合い方というのは、少しばかりイメージ的に豊かな広がりを欠いていたと言わざるを得ない。

 その日、末原君は、大切そうにギターを取り出して弾き始めた。目の前で弾かれる生ギターの音色そのものが新鮮に感じられたし、興味の赴くままに、自分が弾きたいから始めたという彼の姿勢が、なにやら眩しくもあった。ハンマーで打弦し、大きな共鳴板を響かせるピアノと違い、ギターは、指先で直接弦に触れて音を出し、フレット・ノイズが聞こえたり、フィンガリングによる音色変化も微妙で、皮膚感覚がそのまま伝わってくるような、より繊細な手作りの音がする。両手に抱え、何か音を愛しむように爪弾かれるギターの音色を聴いていると、自分がそれまで体験してきた、「演奏」という行為につきまとう、生真面目な堅苦しさから解き放たれ、楽な気分になってゆくのを感じていた。

1学年900人以上もいる生徒の顔も知らない顔ばかり、そこにあつまった部員たちの顔もまだ、よくわからない。まだ、詰襟の学生服にも慣れず、中学生活そのものが新しく、緊張と期待に満ちていた。そんな空気の中で、彼がギターを演奏する姿を見て、漠然としたものではあったが、器楽合奏部に何か楽しいことが待ち受けているような期待感を感じていた。

 ところが、その期待感は見事に裏切られる。器楽部で男子部員が置かれた立場というものは、あまり居心地の良いものではなかった。アンサンブルの中で活躍する場面は、その後ほとんど無く、打楽器を除いたほぼ全員がハーモニカ要因。来る日も来る日も、あのちっぽけな道具を口にくわえて左右にもぞもぞと動かす作業を、面白いと感じている者はいなかった。そして、どういうわけか、ピアノ担当としてスカウトされたはずの僕も、ハーモニカに回された。ピアノ要員は3〜4人いて、ピアノを弾かないときはピアニカを担当するということになっていたのに、ピアニカの台数が足りなかったのである。その後、補充すると言いながら、いつまでもそれは実現しなかった。指導の先生から個人的に好かれていなかったことは確かである。まぁ、彼とは、実際色々あって、結局卒業するまで気まずい関係にあった。

 やがて、男子部員が最も楽しみにするようになったのは、実は、練習終了後、下校途中のひと時だった。誰が発案したのか、ジャンケンして負けたものが、当時定価10円だったチロルチョコレートを全員に奢るという遊びが定着してしまった。名づけて「チロル会」。1個10円という破格値が、中学生同士の、こういったささやかな楽しみを実現可能にしてくれたのである。

そのうち、チロル会も徐々に規模拡大。ジャンケンは廃止され、裕福な家庭の子が、皆に大盤振る舞いするようになった。学校のそばにあった、まるみ屋というパン屋に寄り、調理パンとベビーコーラを注文するというのが定番となった。このパン屋、販売スペースの奥に、簡易食堂みたいな食事スペースが設けて有り、そこでのひと時が、なんとも魅惑的な空間となった。まだコンビニというものが存在せず、サンドイッチやカツロールなどが、今みたいにどこにでもは売っていなかった時代に、その店の一番の人気商品はカツパンだった。濃厚ソースのかかったハムカツと刻みキャベツが、ロールパンに挟まっていたのだが、あのパンが、中身は柔らかくて、焼き面には艶があって、しかもこちらは食べ盛りの10代である。それはもう最高に美味かった。今こうして思い出しながら書いていたら、思わずよだれが出てきそうになり、笑ってしまった。

そこで話題の中心となったのが、部活の愚痴というのが少し悲しい感じがしないでもないが、器楽部での表の世界と、下校途中でのクスクス笑いに満ちた裏世界、この2つが表裏一体となって、心理的なバランスが保たれていたことも、ある意味事実であった。生徒間のこの繋がりがなければ、たぶん早々と器楽部をやめていただろう。

この中学生たちの晩餐は、次第に派手になってゆき、甚だしいときには、調理パン2個にコカコーラのホームサイズをラッパ飲み、なんていうダイナミックなことをするヤツもいた。名誉あるチロル会会長・山下君である。長身で飄々とした感じの彼の、またのあだ名は馬。体も胃袋も、サイズは大きめだった彼にしても、それだけのモノを胃袋に入れると、当然、克服しなければならない問題が発生する。夕食が喉を通らないのである。

彼が考案した対応策は、家が近づくと、暫く走り、息を切らしながら帰り着き、家族が誰か見ているところで、水をカブ飲みする。食事中に、首を捻りながら「水を飲み過ぎて、食べられない」と呟く。しかし、こんなことが繰り返し通用するわけがない。この作戦には、皆、腹をかかえて笑った。

(つづく)


まるみ屋のハムカツパンとコーラは本当にうまかったな〜!学校の正門を出てまっすぐ歩いて行き小さな川を渡った突き当たりにあるパン屋さんでした。会長の山下君はどうしているのでしょうか? この時弾いたギターは生まれて始めて買ったギターでナイロン弦でした。確か2500円だったかな。必死でお金をためた覚えがあります。購入して何日間は叱られるのが恐くて父親に見せられず、母親がタイミングを計らって出してくれました。後々はこの父親の応援で僕はギタリストとして育って行く訳ですが。         SUE 3/4


  【第3話/チロル会危機一髪! 】

 ある日、末原君が怪情報を入手する。それはたちまち会員全員に伝わり、全員の胸中に激震が走った。というのは、もちろん大袈裟に言っているわけですが(笑) 事の内容は、ほぼ次のようなものである(大袈裟ついでに、12〜3才の小僧たちの心境に立ち戻って、目一杯大袈裟に書いてしんぜよう。それが当時の内面の真実ということにもなる)。

登校中、ある女生徒の一団がお喋りに興じており、そんな中からこんな言葉が聞こえてきたらしい。

 「ねえ、チロル会って知ってる?」

 この瞬間、ギョッとした末原君。会員以外誰にも話していないはずなのに、なんでだ・・・? 

これは1年坊主にとっては底知れぬ不安と恐怖をもたらす重大問題だった。親にも先生にも隠れて自分たちが最高に楽しめる場、それを失うわけにはいかない。もし学校当局が捜査に乗り出したら幸福な巣窟はあっけなく消滅させられる。それだけは、この世に決して起こってはならない最悪の事態だ。

口外した奴が内部にいるのだろうか? あいつか? こいつか? 誰もが疑心暗鬼になった。しかし、そんな内輪揉めをしている場合ではない、という結論に達した。

もしかすると、油断している間に、噂はかなり広がっているのかも知れない。捜査の魔の手は、意外とすぐそこまで忍び寄っているのかも知れないのだ。何はともあれ、来るべきXデーを無事乗り切るために備えておかなくてはならない。それが先決だ。

「職員室に呼ばれて「チロル会って何だ?」 と訊かれるかも知れんぞ」

「まさか事実を答えるわけにはいかないよね」

「あたりまえじゃん」

「どんな噂が広がってるか分かんないよ」

「しかし噂はあくまでも噂でしかないってことだ」

「先生に直接目撃されたことは無いよね」

「無いと思う」

「奉仕活動をしている会です、と答えればいいかもね」

「じゃあ、なんでチロル会っていう名前になってるんだ? と訊かれるぞ」

「そこが苦しいな」

「ちょっと待て、チロルっていうのが、チョコレートの名前だって先生が知ってると思うか?」

「あ、たぶん、知らんな」

「チロル地方っていうのは、アルプスの麓にある綺麗なところだろ?」

「じゃあ、公園の早朝掃除でもすればいいじゃん」

「なんで?」

「公園が汚くなっているのを見て、綺麗にしたくなったんですよ。美しいチロル地方にあやかって、チロル会という名前にしました、と答えれば、ちゃんと辻褄合うぞ」

「じゃあ、実際に早朝に公園の掃除をして、誰かに目撃されれば良いということだな」

「城西公園なんかいいじゃん。学校のそばだし」

こうして《チロル会奉仕活動部》という部門の発足が、正式に可決された。その後、会員中、公園に近い2〜3名で実際に奉仕作業が1〜2度実行された。か、どうかについては記憶が定かでない。

それで、会本来の活動がその後どうなったか…、そのへんもどうもはっきりしないのだが親バレで、あっけなく終焉を迎えたような気もする。どうだったかな?

(おわり)

と、これで、面白くも何ともない。わざわざ小説仕立てにして書く必要もないし、大体、『チロル会音楽部』というタイトルの意味も、なんだかあやふやになってしまう。「器楽合奏部の裏活動」と無理に辻褄合わせを試みてもいかにも不自然である。

つまらない引っ張り方をしてしまったが大方の皆さんがとっくに勘付いている通りチロル会の会員たちは音楽部を設立したのである。

器楽部でハーモニカを吹く毎日に不満を感じ、ある日、ある時、自分たちで楽器を持ち寄って自分たちだけのアンサンブルを楽しんだ。それが1回では終わらずにその後も続けられた。それがこのシリーズのタイトルでもある「チロル会音楽部」である。

(つづく)


前田君、随分引っ張りましたね(笑)。次回位から少しずつ音楽の話が始まりますがロックにはまだまだ遠いです(笑笑)。すぐに更新すますネ。 SUE 3/7


   【第4話/チロル会音楽部、活動開始!】

実は、「チロル会音楽部」が始められるまでの経緯を、僕は知らない。チロル会本体にも、初回からは参加していなかったし、その後も毎回参加していたわけではなかった。
時系列に関する記憶もかなり曖昧で、男生徒同士のジャンケンによるチロルチョコ奢り合いが次第に豪華に変化していった流れの途中のどこかで、音楽部もスタートしていた可能性も高いし、奉仕活動部の話が出たのも、会発足からどのぐらいの月日が経過したころだったのか、分からなくなっている。
そこに加えて、チロル会というのは、ここまで読んでお分かりいただけたように、総合的な組織なので(笑) 各分野ごとの流れを追って書くと、どうしても分野間の時間のずれが生じてしまうわけです。

 チロル会音楽部の演奏に最初に接したのは、録音されたものを聴いたときだった。男子部員数名が、末原君宅に楽器を持ち寄って、ギター、ウクレレ、オルガン、ハーモニカ、タンブリン、大正琴などで、独奏やアンサンブルなどを演奏して楽しんだ。その日演奏された曲が何だったか、おぼろにしか覚えていないが、映画音楽の『駅馬車』のテーマと、小牧君が、ザ・タイガースの『花の首飾り』を歌っていたことだけは覚えている。
 それを録音したオープンリール・テープを学校に持ってきて、部活が始まる前の時間に、音楽室の備品のテープレコーダーで聴いて、楽しんでいた。
ところが、その日に限って、いつもはそんな時間には姿を見せない指導の先生が入ってきた。
 

ヤバいぞ。その瞬間、全員凍りついてしまった。

 勝手に備品を使っているのを目撃された。しかも、録音されているのは、部活に不満で演奏している自分たちの演奏。曲目も学校教育の場に相応しいとは言えない。相手は、決して穏やかな性格の持ち主ではない。常日頃、特に男子生徒に対する指導には容赦がなく、言葉も辛らつ極まりない。
ところが、彼の反応は、意外にも好意的なものだった。 その様子から判断すると、たぶん彼は胸のうちで、こう呟いていたに違いない。

「熱意ある俺の指導が、こんなに音楽好きな子供を育てたのかノ」
勘違いした彼は、上機嫌で、録音された我が教え子の演奏に聴き入った。そして、器楽部の練習を開始する前に、それを皆に聴かせ、好意的なコメントを添えた。
 

 初回のメンバーの中に誰がいたのか、記憶はかなりぼやけている。ギターの末原君以外に、ウクレレの倉石君、パーカッションの池田君、ヴォーカルの小牧君、オルガンの徳森君が居たのではないかと思う。大正琴を弾いていたのは、誰だったのかノ。
 ウクレレや、大正琴など、当時、中学生が演奏するのは珍しく、徳森君の電動オルガンも、バッハのコラールみたいな格調高いもので、皆が描いていたチープなイメージを超えていた。聴いていた器楽部員たちも、小声で「へえ、これオルガンなの?」と感心してささやき合う、といった反応を見せていた。
 1曲ごとに、メ会長モ山下君のナレーションが入っているのも面白かった。声に張りがあり、抑揚も豊かでなかなか茶目っ気があった。中でも、徳森君の演奏の前で「普通のオルガンですよ。カッコいい!」と言っていたのだけが、今でも妙に耳に残っている。
 こんな感じで、チロル会音楽部がスタートし、2回目の練習からは僕もそこに参加させてもらうことになる。その後、メンバーも入れ替わってゆき、3年になった頃からは、急速にロック・バンドとしての方向性が固まるが、このころは、まだそんな気配は微塵もなく、そのまんま老人ホームの慰問に使えるような、素朴でのどかな音を出していた。

 話は一旦変わって、ぼくらが駅馬車などを演奏し始めた1968年という年、イギリスのロック・ワールドに目を移すと、大きな変革の波が押し寄せていた。ヴォーカルのみがヒーローだった時代は去り、才能溢れるギタリストたちが視線を集め始めていた。高度な演奏技術と革新的な表現力を前面に押し、新たな時代のヒーローとして台頭してきていた。
主な記録を拾い出してみると、
* ジミ・ヘンドリックス&ジ・エクスペリエンス、アルバム『アー・ユー・エクスペリエンス』で初のゴールド・ディスクを獲得。
* ジェフ・ベック・グループ、NY・フィルモア・イーストでアメリカ・デビュー。
* クリームが、『クリームの素晴らしき世界』をリリース。
* レッド・ツェッペリン、アトランティック・レコードと契約。

 一方、日本では、タイガース、テンプターズらのグループサウンズ全盛時代。ある意味魅力ある若者たちで、その個性的な歌声も懐かしくはあるが、アイドル的人気が席巻する中、際立った音楽的才能が登場する土壌は育っていなかった。
 前年暮れの、フォーク・クルセダース『帰って来たヨッパライ』のヒットで、アングラ・ブームが起こり、何か面白いことをやりそうな気配は漂っていたが、ちょっと毛色の変わった音楽という以上のものではなかった。
 68年の来日アーティストの顔ぶれからも、当時の日本における音楽市場の未熟さが見えてくるようだ。
ウォーカー・ブラザーズ、モンキーズ、ベンチャーズ、スプートニクス、エリック・バートン&ジ・アニマルズなど。英米でジミ・ヘンドリックスや、クリーム、ジェフ・ベックらが活躍していた、まさに同じ年のことなのだがノ。
 これは、海外から伝わってくる情報が、極端に少なかったということの現われとも言える。
 
    (つづく)


どうして「駅馬車」だったのか(笑)? 多分、コードとメロディーがコピーしやすかったのでしょう。この頃から録音好きだったんだな〜。     3/8  SUE


   【第5話/ギター小僧・末原くん】

 
 末原君の家は音楽仲間の溜まり場になっていて、そこで音楽雑誌『ミュージック・ライフ』などを頼りに、音楽談義に花を咲かせたものだ。最初のころは、ポップ&ロックの知識をほとんど持っていなかったので、ほとんど受講生と化し、いろんな話を、ただ有り難く拝聴するだけの立場だった。
 当時のブリティッシュ・ロック界は、先ほどチラリと書いたとおり、スーパー・ギタリストが出現し始めた時期で、ギター小僧たちはさぞかし胸をときめかせたことだろう。末原君の憧れの的は、ギターの神様と言われた、クリームのギタリスト、エリック・クラプトン。何度となく彼の名前を聞かされ、そして“Wheels of Fireモ(邦題「クリームの素晴らしき世界」)から「クロスロード」を何度も聴かされたものだ。
その心酔ぶりは相当なもので、とにかくクラプトンの存在は、単なる1人のギタリストという枠を超えて、人間としてあるべき理想の姿のように思っていたようだ。容姿が神々しいとか、名前の響きが良いとか、ライヴ・レコーディングで聞けるメEric Clapton, Please!モというジャック・ブルースによるMCがカッコいい、などと可能な限りあらゆる角度から嬉々として語る姿が、昨日のように思い出される。

 ただし、そういったロック・ヒーローたちの存在は、まだ遠い目標でしかなく、集まって練習する曲の中心は、初回練習時からの定番『駅馬車』やカルメン・マキの『時には母のない子のように』、そしてグループ・サウンズのナンバーであり、そこに、ビートルズの『イエスタデイ』、楽譜が出回っていたベンチャーズの1〜2曲が加わる程度だった。
 1〜2年のころの自分を振り返ると、これといったキーボード・ヒーローも存在せず、従ってキーボーディストという意識も目覚めてはいなかった。その頃、イギリスでは、のちにエマーソン、レイク&パーマーでブレイクするキース・エマーソンが、ザ・ナイスを率いて、高度な演奏テクニックと派手なパフォーマンスで人気上昇中だったが、まだその存在には、気付いてもいなかった。チロル会用のコピー譜をせっせと書いたり、タイガースのセカンド・ヴォーカリスト加橋かつみの声に憧れ、それを真似て歌ったりと、音楽的にはまだまだ原始的混沌の真っ只中で、とろ〜〜んとしていた(笑) その頃の名残で、今でも、カラオケに行ったときなど、酔いが回り始めると、タイガースの『廃墟の鳩』や『花の首飾り』を真似て歌い、周囲の「似てる!」と、いう反応を引き出すことに全精力を注いでしまうのである(笑)

そのころ、よく末原君との間で、アドリブとはどうやるのかが話題となった。プレイヤーにとって、最も自分の存在をアピールできるのは、技巧的なソロをとる場面である。かつては、ヴォーカルの合間の「間奏」でしかなかった部分が、ジミ・ヘンドリックスや、クリームの登場で時間的に引き延ばされ、演奏時間の長さそのものが実力の証として賞賛の的となっていた。

 ある日ある時、その憧れのアドリブを、二人で実験的に試みてみようということになったことがある。しかし、やりかたが全然わからない。それじゃあ、取り敢えずAマイナーだけで適当にやってみようということになった。使う音はコード・トーン、つまり、ラ・ド・ミの3つのみ。使用楽器は、セミ・アコースティック・ギターと電動オルガン。最低15分は続けるということを条件に、厳かに即興演奏が始まった。
イントロは電動オルガンで鍵盤中央から、ドラドミ〜、ミドミラ〜、ラミラド〜、と上行したのを覚えている(笑)。そこにギターのトレモロ・アームを利かしたシングル・トーンが絡む。その後は、ミドラ、ミドラ、ミミドラ、ミミドラ…、そんな感じで、ちょっと空虚、いや、かなり空虚だった(笑) 途中、ギターにトレモロを深くかけたり、コードを荒々しく掻き鳴らしたり、指をメチャクチャに動かしまくったり、オルガンのトーン・クラスター(音塊奏法)を使ったりして、あとは、どんなことをやっていたか、今となってはもう分からない。中学生のうぶな感性は、ちょっとしたことで、弾けるような歓喜の世界に入り込んでしまう。あとは、憧れの演奏時間15分突破を目指して、それなりにトリップしていった。
録音したテープを聴きながら、サイケデリックな出来栄えに満足。自己評価は、極端に高く、末原君は確か、
「クリームの演奏だと言っても、どうせ分からないよ」
と言ったと思う。
早速それを友だちの誰それに聴かせようということになり、自転車を漕いだ。その間、カセット・レコーダーを回転させっ放し。道行く人に、少しだけでも自慢の音を聴かせたい中学生くんたち。のどかな春だった。

その後、多少知恵が付いてくると、恥ずかしくなってこのテープを消去してしまったが、逆に、今こうして当時を思い出しながら書いていると、デタラメをやりながらも、それなりの面白さがあちこちに散らばっていたのかもしれない、などと思ったりもする。

       (つづく)


最近の作品は殆ど聴かなくなったクラプトンですがこんなに好きだったのですね。この日のアドリブの実験は鮮明に記憶しています。今、思えばとっても大きな大事な出来事だったのではないでしょうか。この日を境に何かが変わったと思います。「クリームの演奏だと言っても、どうせ分からないよ」は最高に笑えます!!  3/8  SUE

    

   左から末原、前田、鮫島


     【第6話/チロル会演劇部★ドッキリ企画!!】
 
 この話をここまで書いている間に、新たに思い出したことがある。テープレコーダーに録音したのは、演奏だけではなかった。チロル会には、「演劇部」なるものが存在したのである。そう、確かにそんなものがあった! これは久々に思い出したのだが、じつに懐かしい気分に浸っている。チロル会とは、何と幅広い活動をしていたのだろう(笑) 愛すべき子供たちよ! 書き手が1人でこんなに喜んでいては、読んでいるあなたが白け切ってしまいそうなので、このへんで話を先に進めることにする。
 演劇といっても、それは音声だけのラジオドラマ。効果音や回転スピードの変化を使って、コミカルなショートドラマを録音したことがあった。ストーリーまでは、よく覚えていないが、思い出す場面が2つだけある。1つは、馬役のメ会長モ山下君が出てきて走り出す場面。どうやって音を作ったかまでは覚えていないが、「パカッ、パカッ」と上手に馬の足音を作っていた。もう1つが、ディズニー・アニメに登場するキャラクターメチップとデールモの登場場面。普通に喋ったものを回転速度を4倍速ぐらいにすると、まったくメチップとデールモそのものの声になり、早口で何を喋っているかわからなくなる。
ストーリーの展開上、チップとデールの笑い声が必要になったが、素人なので、自在に笑うという芸当はできない。
では、どうしたら笑えるかノ。そこで一計を講じ、次のようなセリフを録音することになった。
 「どうせ何を喋っているか分からんのだろう?」
 「そう、絶対にわからないよ」
 「じゃあ、好きなことしゃべろうぜ」
 「○○のバカが」(○○の中には、器楽部を指導していた先生の名字が入っていた。)
 「わはははははは! おいおい、あはは、しかしノ、大丈夫かなぁ? あはは」
 「絶対に分からんって」
 「いつもわけのわからんことばっかし言いやがって、あの○○は!」
 「○○けしめ!」(※「けしめ」は、鹿児島弁で「死ね」という意味)
 「はよ、けしめ! あはははは!」
 「あははははは!」
 以後、爆笑の嵐である。
実際、腹の底から笑っている声を録音するには、こんなセリフが最も有効だったのだ。録音終了後、速度を上げて聴いてみると、実際、何を喋っているのか全くわからなかった。
 このあと、チロル会演劇部員は、そのシナリオの続編を、録音世界の中から引っ張り出し、リアル空間への中に描いた。
その内容とは、できあがった演劇のテープを学校に持って行き、その中で高笑いの対象にした、その当の本人に聞かせる。そうして、自分がバカにされているのも知らずに大喜びする姿を、その後、物笑いのタネにする、というところまでで完結。これは、生徒たちにとっては、魅惑のストーリーだった。

そして、実行の時がやってきた。全員、朝からわくわくしながら、その時を待っていたのだ。授業が終わると、皆踊るような足取りで音楽準備室に集まった。そして、いよいよ音楽の先生が姿を現し、待望の時がやってきた。生徒たちは、彼をテープレコーダーの前に呼び、逸る気持ちを抑えつつ、再生スイッチをスタートさせた。
チップとデールが出てくる場面になった。

「ほう、本当にディズニーの漫画みたいだなぁ」
感心して聴いている。
上手くいった! 小僧たちは、内心、笑いをこらえている。
異変が起きたのはその直後だった。
「これは、何と言っているんだ? ちょっと回転を落としてみろ」
一瞬、息を呑むチロル会の面々。
「あ、いえ、つまらないことしか言ってないので、聴いてもしょうがないですよ」
何かを隠している空気は見え見えである。面白いことを言っていそうだと感づいた彼は、興味津々といった面持ちで、自らテープレコーダーに手を伸ばし、通常の回転速度で再生し始めた。
凍りつくチロル会会員たちノ。静まり返った音楽準備室に、スイッチ音だけが、「カチャ」っと、無常に響き、やがて、テープレコーダーからは、声の主の顔をはっきりと浮かび上がらせながら、身も蓋もないセリフと下品な笑い声が、リアルに再生され始めた。
「お・・・、おい、頼むから黙ってくれ」
いくらそう思ったところで、録音された声が止まるはずもない。
身じろぎ一つしない生徒たち。
動きを失ったのは、生徒だけではなかった。音楽教師は、回転するオープンリールを見つめながらテープレコーダーに、じっと耳を傾けていた。その時、彼が何を思っていたか、知る由もない。
彼はテープを止めた。
じっと顔を覗き込む生徒たち。
しばしの沈黙の後、彼はニヤリと薄笑いを浮かべた。
「ふふん」
一声発した後、くるりと踵を返し、スタスタと出入り口に向かい、そのまま無言で姿を消した。
「おい・・・、どうする?」
「どうするって・・・」
「この後、部活でどんな顔をして会ったらいいんだ・・・」
「わからん」

その後、両者の関係に、どのような変化があったかは覚えていない。変化するも何も、生徒側の捉え方としては、常時敵対関係にあったような印象だったが、今こうして振り返ってみると、なかなかどうして、じつにチャーミングな関係を築いていたようにも思えてくる(笑)

 (つづく)


人間というものは、あまりにも恐かった出来事は自分の記憶から削除してしまうらしい(笑)。この第6話を読むまですっかり忘れていたが回転を戻して再生した時の恐怖が完璧に蘇ってきた。多分、文章に出来ない様な事も言っていた様な気もする。最後の2行で救われますね〜!!  3/11  SUE


  【第7話/バンドやる奴いないかなぁ…】

 
 「演劇部」の話が出てくるのが遅かったのは、書いている本人がなかなか思い出さなかったためで、実際は、「チロル会」なる名称ができたばかりのころ、1〜2回ふざけてやった程度だったと思う。器楽部指導の先生に、例の低速度録音の元ネタがバレた段階で、悪ノリモードもはじけ飛んでしまい、その時点で活動は終焉を迎えたのではなかったか…。   
その事件にしても、チロル会面々の冗談好きを物語るものだが、その類のエピソードには事欠かなかった。書いて面白いというほどのネタは、そうそうなかったが、普通の中学生なら、普通に思いつくような悪戯で、日々笑い転げていた。

 そんなノリで、演奏をテープに録音するとき、ナレーションでメンバー名をニックネームで紹介していたが、そのニックネームというのが、すでにお馴染みの山下会長以下、倉石あかるい(暗いし明るい)、前田うしろだ、末原千恵子(「末原」は「まつ原」とも読めるので、女優の松原千恵子に引っ掛けて)、小牧ちまき、奥原ひりふるへれほろ(これには、本人顔を真っ赤にして抗議したが、誰も受け付けなかった。彼の場合、もっと気の毒なことに、「楽譜めくり・奥原ひりふるへれほろ君。はらひりふるへれほろと、めくりのテクニックは見事です」と、笑い声の混ざった声で紹介されていた。)といった具合だった。
 こういった遊び心と、音楽への好奇心や、感動しやすい感受性などとは、どこか通じるものがあったように思う。仲間が集まれば、何かしら楽しいことが待っているような気分が、常に充満していた。


器楽合奏部の裏活動みたいにして始まった「チロル会音楽部」。最初は、持ち寄った楽器で、それぞれの音楽嗜好に沿った演奏を、隠し芸大会よろしくごった煮的に録音していたが、次第にロック志向が濃くなってくると、全員の足並みが揃わなくなってくる。“会長”山下君はムード音楽が好きだったし、倉石君が貸してくれたシングル・レコードは、軽いヒット路線のポップスだった。
2年生になったころには、「チロル会音楽部」は、器楽部の裏活動という意識も薄れ、メンバー探しが、日課となってゆく。ボーカルに末原君の同級生A川君が参加したり、リズム・ギターに幼馴染みのU村君を誘ったりと、いろんな顔が思い浮かぶ。
話の冒頭で、マンモス校ゆえの困難話を書いたが、メンバー探しなどのためには1学年千人近い人数というのは、いろんな人材が潜んでいそうで、漠然と期待を持たせてくれた。

そんなある日、ビートルズのファンだった同級生のK田徹君から、ギターの上手いヤツがいるという話を聞いた。それが鮫島秀樹君だった。初めて誘いをかけてから、実際に音を合わせるまでに、家の引越しか、仕事の手伝いだったか忘れたが(この部分は、そのうち本人から聞いて書き直すことにする)、1週間ほど待たされた。
K田君の話によると、末原君より上手いかもしれない、ということで、末原君も期待半分、恐れ半分という感じだった。ただし、中学生だった当時のレヴェルというのは、まだまだ大したことはなくて、周辺に現われては消えてゆくギターが弾ける子というのは、コードを2〜3弾ける程度で、ハイポジションが押さえられない子ばかりだった。そんな中で、2回ほど参加してくれたU村君は、造作も無くコードが弾けたので、皆継続参加を望んだのだが、本人が練習の場の空気を馴染まなかったのか、3度目の誘いには乗ってこなかった。

ここで、少しだけ、この話の冒頭に書いた飲み会の話に戻るが、今登場した、K田君とU村君も、そこに顔を出している。中学生当時は、直接一緒にバンド活動をやったメンバー以外にも、音楽談義やレコードの貸し借りをした仲間が多かった。K田君は、ポール・マッカートニーのファンで、ビートルズのあるシングル・レコードのジャケット写真に写ったポールの顔が、少しK田君に似て見えることから、すっかり気を良くして、また名前が徹(とおる)であることから、トール・マッカートニーを自称していた。それに刺激された伊集院T君という級友は、“イジョージ・ハリスン”なんていう、めちゃ苦しい洒落で、自分をジョージ化していた(笑) 
この伊集院君からも、ギターの上手いヤツがいるという話を聞いたことがあったが、大隈半島の鹿屋に転校してしまったということだったので、まさか知り合うとは思っていなかったのだが、その後、あることから偶然知り合うことになる。しかし、それは3年になってからのことなので、ここに登場するのはまだまだ後のことになる。

さてと…、鮫島君の登場を待ち望んで、ここまで読んできた方も、中にはいらっしゃると思うので、少し時を遡って、小学生のころのことから書いてみようと思う。
鹿児島市立西田小学校に、彼が転校してきたのは、4年生のとき。1学年6クラスあった中で、同級になったことはなかったが、いくつかのエピソードが残っている。

        (つづく)


「奥原ひりふるへれほろ」最高!この響きはよく覚えています。「誰々は誰よりうまいギターを弾く。」こういう情報は日常茶飯事でまるでスポーツの世界の様でした。さあ、いよいよサメの登場です。  3/14


       【第8話/奇襲戦法大成功! 】

 小学校時代の鮫島君に関して、どういうわけだか、ある1場面が記憶に刻まれている。当時西田小学校の南東にあった正門(現在は閉鎖)付近を歩いていたとき、自転車で左後方から現われ、立ち漕ぎ気味に、そのまま右の彼方へすーっと斜めに横切っていった。その場面が映画の1場面のように、妙に鮮やかに記憶されている。
彼がブルージーンズを穿いていたせいもあるだろう。今では、誰もが普通にジーンズを穿いているが、その頃は、まだそうではなかった。単純に、そのジーンズが印象に残っただけのことかもしれない。しかし、なぜか彼の行く先に、何か面白いことが待っているように見えて、どこに向かっているのか、一瞬想像したのを覚えている。

ぼくは、転校の経験が1度もない。そのせいもあってか、どこか知らない空間からやってくる転校生には人一倍興味を持った。4年生になったときには、教壇に立った転校生が2人いた。その時の担任の先生の紹介の仕方が、ちょっと変わっていた。
「いかにも4年生らしいねぇ」
一瞬「?」と思ったが、そう言われてみると、その2人が4年生らしく見えたのが不思議だった。
山形さんと、津江さん。2人の女の子は、その紹介のせいもあってか、他のクラスメイトより個性的に見えた。自己紹介する口調も、鹿児島市近辺のイントネーションとは違っていて、津江さんは熊本訛りで自己紹介した。山形さんは、色黒で大柄。いかにも活発そうな容姿だった。
それとほぼ同じ時間に、鮫島君は、別なクラスの教壇に立ち、大阪弁で自己紹介していたことになる。鹿児島では、それだけでもかなり目立ってしまう。

運動場のどこからか「サメー!」という呼び声が聞こえてくるまでに、さほど時間はかからなかった。大阪から来た足の速い「サメ」と呼ばれる男の子。なんとなくではあるが、他のクラスのどこかに、そんな子がいることは感知していた。
運動場を駆け回る男の子の遊びでは、足の速さがモノを言う。俊足の噂は、何となく伝わってくる。秋の運動会でも、鮫島君の姿は目立っていた。皆の注目の的になる学級対抗リレーで、憎っくき他学級の選手として、余計な活躍をしていたから(笑)
彼の脚力に関しては、もっと後、高校1年のとき、体力測定の結果を伝える言葉が忘れられない。50メートル走の結果を、半ば自分に呆れながら教えてくれた。
「5秒台やった。まさか5秒台とは、思ってもみなかった」
これって…、一流のスポーツ選手並でしょう? 100メートルに換算すると10秒から11秒台、運動部に所属していたわけでもないのにデスヨ…。こっちは、本人以上に呆れた。後にベース弾きとして一流になったのと、こういった優れた運動能力を有することとは、たぶん直接結びついていると思われる。

話を小学校4年生のときに戻そう。鮫島君とは、学校の相撲大会で1度対戦したことがある。これが、なんとも印象深く記憶に残っているのだが、その瞬間のことを話すには、その前のことから説明しなければならない。
相撲のスタイルには、大別して、押し相撲と組相撲がある。まわしを取る相撲と、まわしを取らせない相撲という言い方もできる。ぼくは、回しを取る相撲が好きで、それなりに成果も上がっていたので、クラスの代表選手に選ばれたのだが、1度、それを真っ向から覆され、一瞬で負けたことがある。
相手の顔と名前をはっきり覚えている。中村M君だ。彼とは、5〜6年で同級だったので、対戦したのが4年のときだったことは間違いない。校庭の片隅に設えられた土俵の上で、睨みあいの後、行事役の先生が持つ軍配が返った途端、世界の見え方が激変してしまった。
一瞬、空が見えたり、地面が見えたり、応援している生徒たちが見えたり、高速スライドショーが始まった。
「な、なんだこれは」
そう思った瞬間、すでに土俵の外にひっくり返っていた。ひっくり返ったまま、その場で起こったことを考えてみた。どうやら、いきなり胸板やら顔面やら肩やらを突かれまくり、そのまま突進されて、押し出されたのだ。
悔しかった。だが、勝負は付いている。無念で無念でしょうがなかったが、もう1度相撲を取らせろ、と思っても、もう、どうにもならない。
この無念さを、どこに向けたらよいのか…。答えは1つ。次の対戦相手である。で、その対戦相手が、鮫島秀樹君だったのである。
土俵に上がってきた彼は、そんなことなど何もしらずに平和な顔で、土俵に上がってきた。こちらは、作戦実行に向けて虎視眈々である。
軍配が返った。ドカスカビシバシ★ゴガゲガドドи★!! 一瞬で勝負はついた。土俵の外にひっくり返っている鮫島君。彼の悔しさは、こちらも先刻体験済みである。これほど悔しい負け方はないのだ。
勝負が終わった後、土俵下でばったり顔を合わせた鮫島君。こちらの顔を忌々しげに見つめ言い放った。
「おぼえてろ〜」
その言い回しが、鹿児島っぽくなかったのと、悔しそうな中に、なぜか人懐っこい表情が見えたのとで、その瞬間の記憶が、今でも鮮明に残っている。
その後、鮫島君の取り組みがどのようなものであったか、説明の必要もないだろうが、一応レポートしておこう。たまたま、それを見てしまったのだが、予想通り、軍配が返った途端に爆進し、当然のように圧勝。自分が負けた時と同じ悔しさを、対戦相手にしっかりプレゼントしていた。

      (つづく)


僕は別の小学校へ通っていたのでこの時代のサメや前田君の事は知りません。市内の中ですが引っ越しで違う学区から移って来て城西中校へ入ったのです。この引っ越しが無かったら,もしかして鹿児島時代のバンド仲間には合う事もなくミュージシャンになっていなかったかも知れません。そう思うと人生って不思議ですよね。そうなる様になっていたのでしょうか?無意識でも、そういう出会いに気が着いてそれを育てて行く事はとても大事な事かも。 そう言えば僕も小学校時代ですが足は結構速かったです。 SUE 3/17


   【第9話/ そして鮫島君がやってきた】

        

 小学校での相撲大会にまつわる話を紹介させてもらったが、全くこれ以上ないという傑作なタイミングで鮫島君と当たったものだと思う。それから40年も経って、こうして当時を振り返って文章化を試みている今、まるで偶然の神様が、茶目っ気たっぷりに設定してくれたプレゼントのように、ぼくには思えるのだ(笑)
この小学生時代の数少ないエピソードの中にも、いかにも鮫島君らしいものを感じる。対戦後に偶然すれ違ったときに「おぼえてろ〜」という言葉を発したときの表情や口調を、ここに再現できないのがもどかしい。ひとつは、それが鹿児島弁にない表現だったので印象的だったということもあるが、それまで親しく話していたわけでもない他のクラスの子が、そういった反応を見せたことが面白かった。毎年開かれていた相撲大会での対戦相手は何人もいたはずなのに、特にめぼしい記憶は、他には残っていない。
彼の人懐っこさは、一種の才能とも言えるかも知れない。中学・高校時代を通じて、よく一緒に行動したわけだが、どこに言っても知り合いのような雰囲気で、レコード屋の店員のお姉さんなどから、当然のようにいろんな情報を仕入れていた。

鮫島君がバンドに合流したころ、もう「チロル会音楽部」の名称は使われなくなっていたが、相変わらず「駅馬車」やタイガース、ベンチャーズなどの曲を演奏していたし、実際初めて合わせた曲も、まずは簡単な曲から、というわけで「駅馬車」だった。それでも意識だけは変化してきていて、それらの曲を練習することを、ロックを演奏するまでの練習段階として捉えるようにはなっていた。
メンバー探しが日々の課題になっていたと既に書いたとおり、セカンド・ギタリストやドラマー、ロックを歌えるヴォーカリストなど、ロックを演奏するために不可欠なメンバーが、身近に出現していなかったという現状も「まだロックはできない」という意識に直結していた。

 鮫島君にとって末原君との出会いは、生涯を通じても大きな出来事だったらしく、「ギターではこいつに適わない」と判断し、以後あっさりベースに転向してしまう。そのあたりの事情は、インターネットでも公開されているので、ファンであれば知っている人も多いと思う。中学の頃は演奏を始めて間もなかったせいか、まだまだベースの腕も特に目立つほどではなかったが、彼の出現には、単に「ベーシストが見つかった」という以上の意味があったことは確かで、そのころから、ロックに対する仲間うちでの空気が一段と熱っぽいものになっていった。
 たまたまレッド・ツェッペリンのデビュー時期と重なっていたということも大きいかもかも知れない。セカンド・アルバムからカットされたシングル『胸いっぱいの愛を』を貸してくれたのは、僕にとってちょっとした事件だった。

 チロル会音楽部に参加したとき、それは、器楽合奏部、ひいては学校生活へのアンチテーゼとして、自分にとって欠かせないものとして機能していた。少人数で、自分たちで楽譜を作って、自分たちの手で具体化してゆく過程の面白さは、ピアノのレッスンや、器楽合奏部からは得られないもので、最初のうちは、演奏する音楽は何でも良かった。
自分たちの手でアンサンブルを楽しんでいるうち、末原君からあれやこれやとロックの情報が入り、次第に耳も馴染んでいたが、何となくまだ、それらを“ギター小僧”末原君の背後に感じていた。そんな状態からまた一歩進んで、すっぽりとめりこむ切っ掛けになったのが、レッド・ツェッペリンであり、それを教えてくれた鮫島君だった。

彼から紹介されなかったとしても、いずれは好んで聴くようになっていただろうと思う。だが、そういった経緯があったことから、今でも、クリームを聴けば末原君を思い出すように、アルバム『レッド・ツェッペリン
II』を聴くと、鮫島君を思い出す。
 初めて聴いたときは、実はその良さが分からなかった。そのひとつの原因は、自宅にあった再生装置があまりにもショボかったことにもあったと思う。薄っぺらい電蓄しかなくて、トランジスタ・ラジオ並の音で聴いていたのだから、本来の迫力が伝わらないのも当然だった(ところで、今使った電蓄という言葉、果たして、どの世代まで解るだろう?? 若い人が見ると、蓄電池のことだと思うのではないだろうか?)。
 

そんな状況を見るに見兼ねてか、鮫島君が小型のステレオ(今でいうミニコンポぐらいのサイズ)を貸してくれたことがある。何が切っ掛けで、なぜそうしてくれたのか、どういうタイミングだったかまでは思い出せないが、ぼくがなかなかツェッペリンの迫力に気付かないことにじれったいものを感じたせいだったのかも知れない。
 ロバート・プラントのスーパー・ハイ・トーン・ヴォーカルも、最初に聴いたときにはただのダミ声にしか聞こえなかった。末原君も、「はじめは変な声だと思った」と言っていた。ビートルズやストーンズ、クリームのジャック・ブルースあたりと比べても、目一杯シャウトするスタイルは、当時かなり独特なものに聞こえた。
 ところが、その後、『胸いっぱいの愛を』が最高の音楽として胸に響くようになる。感情の炸裂こそが最高の音楽表現であると、本気で思うようになっていた。
 また彼らの容姿もカッコよくて、大いに憧れた。波打つブロンドと堀の深いギリシャ神話の登場人物のようなロバート・プラント。いかにも繊細そうな細身の体付きに長い黒髪、神秘的な眼差しのジミー・ペイジ。それぞれ、男性の一つの理想像に見え、それに比べて、周りの大人たちが何と萎びて見えたことか…。
 その後、次々と現われるロック・ヒーローたちが創り出す、革新的な迫力あるサウンドに、心はすっかりヒートアップし、充実した毎日を送ることになる。それは思わぬ相乗効果を生み出し、学校の成績まで、ホップ・ステップ・ジャンプと、飛躍的に転げ落ちていった。

 (つづく)


いよいよベーシスト「鮫島秀樹」が誕生しましたね。文章もロックの香りが漂って来てウキウキします! 今回、登場したレコード屋のお姉さんはこの後の僕達にとって重要なキャラクターになって行きます。僕の部屋でベースを弾く鮫島です。この頃は「ざ・さ〜し〜す」と名乗っていたと思います。窓の感じが昭和ですね〜。 3/19 SUE


    【第10話/アンプが足りないのだ】

     

ロック志向がはっきりしてくると、小型アンプ1台にギターもベースもぶち込んで出している状態への不満は高まってゆく。迫力ある、ギターのディストーション・サウンドや、ベースの重低音などへの憧れと渇望感は、日々募っていった。
ある日のこと、いつものように練習目的で彼のウチへと向かって自転車を進めていると、遠くから、なにやら耳慣れない音による旋律が聴こえていた。少し近づくと、それが初心者のヴァイオリンのように聴こえ、さらに近づくと、想像していたより大音量なのが分かった。辿り着いてみると、音の主は末原君だった。ファズ・ボックス(音を歪ませるエフェクター)を入手した直後で、いかにも満足げに、そして周囲に対しても誇らしげに弾いていたのだ。
ベンディング(和製英語でいうチョーキング)や、荒々しいトレモロ・アームの使い方などを知らなかったので、表現もややおとなしく、遠く離れた場所で聞いていると、ヴァイオリンのように聞こえた、というわけだ。
中学生の小遣いでは、このようにファズ・ボックス1つ(確か当時3000円程度ではなかったか?)購入するのでも一大事だった。
ギターもベースも、片手で軽々持てる小型アンプに繋ぐという状態も長らく続き、それも不満のタネだった。
鮫島君のそれまでの音楽仲間の1人に、アンプを自作する男の子がいて、その中の1台がベースの重低音を出せたので、それを大いに気に入ってしばらく借りて練習していたことがあった。すぐに使う予定はないので、しばらく貸し出しても良いというので、大喜びで借りた。ベースの音が良くなって喜んで演奏していたのだが、3日目あたりだったと思う。スピーカーに異変が起こったときは、さすがに慌ててしまった。
誰かが、叫んだ。
「わ! 煙が出てる!」
「え?」
「うわぁぁ〜〜〜!」
叫び声を上げながら、鮫島君がアンプに飛びつき、電源を切った。その動作の素早かったこと。当然といえば当然のことであるが…。やはり、親友との友情を壊すわけにはいかないのだ。こうして、しばしのベース・サウンド充実も、水の泡と化す。
アンプは持ち主の元へと返還され、その状態が心配されたが、発見が早かったせいか、壊滅的な状態ではなく、その後もしっかりと使用に耐えたようだ。
迫力ある良い音を出したい。それは、なかなか適わない夢だった。音楽雑誌に掲載された写真の中で、憧れのミュージシャンが肩から提げているギターや、ステージに置かれている、マーシャルだのフェンダーなどのアンプを見ては、夢見心地で語り合う毎日だった。
音に関する問題は、そういったことだけではなかった。むしろそれ以外に、大きな問題が立ちはだかってくる。


チロル会音楽部のころと比べると、音量も飛躍的に大きくなっていたため、末原君の家族は、メンバーの集まる時間に合わせて「外出する」という形で協力してくれていた。
末原君の家以外では、ぼくの家でも2〜3度練習したこともあった。その頃は、ロックを演奏する中高生というのは極めて珍しく、したがって現在のように練習用の貸しスタジオなどというものは存在しなかった。自宅以外に、適当な練習場所など、なかなか見つからなかったのである。
 今思えば、末原君のご両親は、よく協力してくださったものだと思う。ほとんど休日の度に、半日も家を空けるというのは、なかなか出来ることではない。それは僕らにとって本当に有り難いことだった。そのお父さんとは、2人でポップスの話をした記憶もある。その内容まではよく覚えていないのだが、エルトン・ジョンのことが話題になり、彼が音楽を担当した『フレンズ』のサントラ盤を貸してくれたことがある。そのアルバムを大切にしておられ、自分でも聴きたいので、ということで期限を指定されたのだが、返却時期が大幅に遅れて顰蹙を買ったという、苦い記憶が残っている。

世間の大人たちが、皆同じように良き理解者だったら苦労は無い。ある日、ついに来るべきものが来てしまった。近所から苦情が来たのである。
 
 (つづく)


あのファズ・ボックスは何処に行ったのだろう?  両親には頭が下がります。   SUE



                             いよいよ、後半です!


   「チロル会音楽部 〜ロック青春記」 第11話

        近所からの苦情、勢古市の思い出

 苦情が、手紙で来たのか、電話だったのか、その内容が具体的にどのようなものだったのか、そのあたりの記憶がぼやけているのだが、それに対して、自分たちの音楽を理解しないことに腹を立て、そして単純に敵意を感じたことだけは確かだ。「無理解に対しては、当然対抗するしかない」程度の考え方しかできなかったと思う。

 そんな短絡的な反応を見せる中学生どもに、適切な助言をくれたのが、末原君のお父さんだった。世の中の全ての人が、自分たちの音楽を理解するべきだと考えるのは、単なる自分勝手というものだ。休日のゆっくりしたい時間に、大きな音で、好きでもない音楽が聞こえてきたら、嫌だと思うのは当然のこと。私らは親だから協力して外出しているものの、それを近所の人にまで要求することはできない。まずは、謝りに行って来るべきだろう。いきなり、自分たちの都合ばかりを主張すべきではない。まず、とにかく謝って、それで許してくれなかったら仕方がない。もうここでは練習するわけにはいかなくなる。大体、そんな内容の助言だったかと思う。
 それを、中学生たちは、すんなり受け止めることが出来ない。苦情を言ってきた相手は「敵」であって、そんな相手に、頭を下げに行く気になど、なかなかなれなかった。  
かと言って、自分たちを正当化し得るだけの論理は、当然見つからない。胸中に存在するのは、何だか割り切れない気持ち、ただそれだけなのだから…。

練習できなくなる事態を想像して、
「そんなのないよぉ」
などと、単純な言葉を繰り返すぐらいしか能が無かった。正直な気持ちを暴露すれば、苦情など無視し、今までどおりに練習を強行したかった。
しかし、実際に苦情が来た今、迷惑を承知で音を出し続けるのであれば、それは軽犯罪になると言われた。未成年は罰せられないのではないか? と問うと、苦情が来た事実を保護者が知っている以上、それを黙認すれば、管理責任を問われ、親の罪になると言われた。
 そう言われたら、これはもう、助言に従って、謝りに行くしかない。たぶん、理屈など分かっていなかったと思う。結局は助言に従い、僕らは、苦情の手紙を寄越した主の住所を訪ねて歩いた。道すがら、どんな人が出てくるのか、どんなことを言われるのか、想像逞しく話しながら、なんとも心細い思いに取り付かれながら歩いていた。

 玄関のドアが開き、苦情の主が出てくると、言われた通りに、まずはペコペコと頭を下げ、ひたすら謝った。すると、その人は、訪ねて来た子供たちを見て、想像していた姿と大きく違っていたのが意外だと言った。もう少し年上の、いかにも不良然とした若者が音を出していたと思っていたらしい。そういう時代だった。バンドなど不良がやるものだと見られていた。
 将来音楽の道に進むことを考えて、真面目に練習していることを告げると、有り難いことに、それを受け止めてくれて、きちんと取り合ってもらえた。
その場で、具体的にどんな取り決めがされたかまではよく覚えていないが、練習時間を何時間までと決めること、そして音量はできるだけ絞ること。この2点を約束したと思う。音量に関しては、もし大きくなり過ぎるようなことがあったら、また言ってください…、というようなことで、取り敢えず練習続行不可能という事態は避けることが出来た。全員、ほっと胸を撫で下ろして、練習するために再度末原君宅へと向かった。
 その後の練習では、時計を見ながら、音を聞いているであろう人たちの存在をいつも気にしながら演奏するようになった。
末原君のお父さんには、このように、色々な面でお世話になっている。当時は、それに対して甘える一方で、ちゃんとお礼を言うことさえなかった。もし会う機会があるならば、当時のことについて、これからでも感謝の気持ちを伝えたいのだが、すでに帰らぬ人となっている。


 思う存分に音の出せる場所もない。良い音の出る楽器も音響器材もない。思えば、そんな悪条件の中での練習だった。良い楽器が無いという点では、キーボードなど最たるもので、結局、中学を卒業するまで、自宅ではピアノで練習していたが、集まって合わせるときは、ずっと電動オルガンで代用していたのだ。
ここで、ようやくチラリとキーボードの話を出したが、リアル空間で僕と繋がっている人は、ここまで読んできて、キーボードの話がほとんど出てこないことに疑問を感じているのではないだろうか? そこまで考えていなかった人でも、今改めて、そう問いかけると「そう言えば、そうだな」と思うはずである。

 レッド・ツェッペリンでロック開眼したと書いたが、ツェッペリンの演奏で聴かれるキーボードは、ベーシストのジョン・ポール・ジョーンズがたまに担当するぐらいで、専門のキーボーディストは不在である。初めて聴いて感動した『胸いっぱいの愛を』など、全くキーボードが登場しない。
 この時点で、まだ憧れの対象は、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベックら、ギタリストだった。自分たちの仲間に、末原君というギターの上手い子がいることが自慢で、ロックのキーボードは、練習しなくても弾けるもの、バンドのアンサンブルに厚みを与えるもの、という捉え方だった。そして、相変わらず、コピー譜を書いてはメンバーに渡す、という役目を担っていた。

 実は、ギター演奏にチャレンジしたこともあったのだが、指が太く短いため、コードが上手く押さえられず、あっさりと断念してしまった。
ドラムを叩く者がいなかったので、格安の中古ドラムを買ってもらって練習したこともあった。
と、書いたところで…、忘れてはならない場所を思い出した!!
 話は一旦わき道に逸れることになるが、当時のメンバー全員にとって、あまりにも懐かしく、絶対に避けて通れない場所。それは、甲突川に架かっていた五石橋の1つ新上橋(しんかんばし。※脚注参照)のそばにあった。
 『出物の勢古市』。今で言うリサイクル・ショップだが、まだそんな外来語は存在せず、雰囲気も全然垢抜けていなくて、狭くて薄暗くて何だか小汚い、ガラクタ倉庫みたいな店だった。何でも扱う店で、古びた骨董品や電化製品、生活雑貨の中に、ギターやコンボ・オルガン、アンプやエフェクターが混ざっていたり、剥き出しのスピーカーや、真空管があったり、ときには想像も付かないような面白いものが見つかったり…、ぼくら中学生にとって、大変にファンタジーを掻き立ててくれる場所で、誘い合ってはよく出入りしていた。そこで買った部品でアンプを組み立てたやつもいた。鮫島君の友だちが作ったアンプも、そうだったのではなかったか…。
 2万円でドラムセットを入手したのも、その『出物の勢古市』だった。それで、ベンチャーズの曲を叩いたり、レッド・ツェッペリンのドラム・ソロ付きの曲をヘタっぴいに叩いたり、テン・イヤーズ・アフターの曲を歌いながら叩いたり…、と、最近では思い出すこともなくなっていたが、そんな不思議な時期もあったのだ(笑)

    (つづく)
 脚注
※新上橋
[平成5年の大洪水で、武之橋と共に流失。残った三つの石橋、西田橋・高麗橋・玉江橋が、石橋記念公園に移設された。]


『出物の勢古市』懐かしいです! 毎日、誰かが覗いては情報を交換していました。今ではPSE問題の真っただ中ですが・・・・。 SUE

これは僕です。初めてのエレクトリック・ギター! 買ってもらった事でこんなに嬉しかったことはありません。


    【第12話/3年生になった】

  3年になると、末原君と鮫島君が同じ3組になり、一方の僕は10組。3階建ての校舎のうち、最も北側に位置していた中の最上階に、1組から11組までがワンフロアにズラリと並んでいて、ほぼその端と端である。遠近法の効果も著しく、長〜い廊下の遥か彼方にある彼らのクラスが、えらく小さく見えた。
10組の担任は、社会科担当の、当時40代前半(だったと思うが、確証はない)の男の先生だった。剣道をやっておられたようで、高校受験に向けてクラスの空気を引き締めるために、“一の太刀を信じて二の太刀はなし” “肉を切らせて骨を断つ”という薩摩示現流の心得を繰り返し説いていたのが、もっとも印象に強い。毎朝、真剣より思い木刀を振っているという話も、よく聞かされた。

3年ともなれば、どこのクラスでも受験色が強くなるのは当然のことなのだが、生徒にしてみれば、それを自分のクラスの中で、最も強烈に感じることになり、受験一筋ではない僕のような生徒にとっては、教室を1歩出ると少しほっとするという具合だった。
また、10組では、好きな音楽の話も存分にはできなかった。当時心酔していたレッド・ツェッペリンのファンがいなかったし、クラプトンやジェフ・ベックの話も通じなかった。時は1970年。5月にビートルズのラスト・アルバム『レット・イット・ビー』が発表され、クラスの話題もそちらに集中。ピアノによるイントロを練習する生徒がいたほどの人気ぶりで、弾き方を請われるままに、備品のオルガンで教えたこともあったが、内心ではイマイチつまらなく感じていた。その後、1人でツェッペリン啓蒙活動を行なうも、状況にほぼ変化無し(笑)


そういった中にあって、どうしても、クラスから1人浮き勝ちになっていた。
修学旅行から帰ってきた翌日、担任の先生から全日程を総括した感想が伝えられたが、その中で、
「他のクラスの生徒とばかり交流していた者もあったが、もう少し自分のクラスメイトとも打ち解けるようにしてもらいたいものだがねぇ」
と、いかにも残念そうに語る姿が、今でも忘れられない。その言葉に該当する生徒など、どう考えても1名しかいなかった。担任の先生の目からも、その1名の行動は、よほどズレて見えたようだ。


修学旅行後も、昼休みや放課後など、足繁く遠征したものだ。2人のバンド仲間以外にも音楽の話のできる男女数人がいて、そこに漂うロック空間がとにかく楽しかった。
よく話題にした中で、特に当時を強く感じさせる記憶として、テレビで朝7時20分から放送していた若者向けの情報番組『ヤング720』(TBS系1966年〜1971年)が思い浮かぶ。ロック映像が極端に少ない時代、番組のワンコーナーでたまに紹介される海外のミュージシャンの姿や、国内のバンドのスタジオ・ライヴなどを常に待ち受け、かぶり付きで観ては、それをよく話題にしたものだ。放送時間が微妙で、登校前に、遅刻ぎりぎりの時間まで見てから玄関を飛び出す毎日だった。

国内のバンドでは、フラワー・トラヴェリン・バンドに憧れたものだ。ヴォーカリストのジョーは、当時の日本では、ブリティッシュ・ハード系のハイ・トーン・ヴォイスを披露出来る唯一の存在だった。彼らのナンバーで、特にカッコいいと話題にしたのが『21世紀の狂った男』だった。不規則で、複雑なリズムによる決めフレーズが特に良かった。この曲、てっきりオリジナルだと思っていたのだが、その後、キング・クリムゾンのデビュー・アルバムの国内盤が、本国イギリスに遅れて発売され、初めて耳にしたときに、その曲が冒頭でいきなり聴こえてきたときには驚いた。
 70年と言えば、まだ海外のロック・バンドが来日することもほとんどなく、国内のロック・バンドは、まだ海外のバンドをお手本にしている感覚があり、カヴァーというより、そのまんまフル・コピーして演奏することも平気で行なわれていた。日本のロックが、まだまだ黎明期にあり、シーン全体が、良くも悪くもアマチュアイズムの延長線上にあった。
前年の69年、アメリカで開催された『ウッドストック音楽祭』の映像も、この番組でそのほんの一部が紹介され、想像を掻き立てられた。鹿児島でこの伝説の音楽祭の記録映画が公開されたのは、中央より少し遅れてだったと思うが、ビートルズの『レット・イット・ビー』と同時上映だったのがありがたかった。学校の許可映画になっていなかったので、坊主頭も恥ずかしげに、こそこそと入館し、そして、ジミ・ヘンドリックスや、テン・イヤーズ・アフターのアルヴィン・リーの演奏を、それこそご神託のごとく受け止めたものだ(笑)

 話題にしたのは、もちろんロックだけではなかったわけで、校内でのいろんな噂話にも花が咲いた。あれやこれやと、互いに笑い合うことが多かった。そんな中で、鮫島君に関する、ちょっと面白い話を耳にしたことがあった。
ラジオの某リクエスト番組に、鮫島君に葉書を書いて出してもらうと、必ずそれが採用されるというもの。始めは単なる偶然だろうと思ったのだが、局から景品として送られてきた非売品のシングル・レコードを末原君から実際に見せられ、あいつもこいつもそうだと、実名入りで例を挙げられたときは、確率的にもどうも偶然では片付けられず、不思議な気分にさせられた。
 

そこで、僕もそれにあやかろうと、本人に頼んでみたのだが、クラスが違うせいもあってか、何となくそのまま実現せず仕舞いで終わった。
その当時は、なぜ彼の書いたリクエスト葉書が採用されるのかという話まではならなかったが、今、ごく普通に考えて、鮫島君の書いた葉書が、良い意味で選者の目に止まり易かったのではないかと思う。目立つ葉書は採用されやすいと聞いたことはある。
彼は1年のときから美術部に席を置いていて、美術の先生にも目をかけられていたようだ。イラストを描くのが好きで、音楽雑誌などから切り抜いたミュージシャンの写真と組み合わせたりして、遊びながらもわりとセンスの良い作品に仕上げていたのをよく見たし、3年になって初めてもらった年賀状にしても、何やら楽しげなイラストが、色彩も鮮やかに、サラサラと描きこまれていた。リクエストの葉書を見たことは当然ないが、たぶんそれらと同じように、魅力的なイラストが書き込まれ、面白い一言が添えられていたのだろうと思う。目立つ葉書でも、同一人物のリクエストが毎回採用されるということは、そうそう無いだろうが、違う名前、違う住所で出されたので、そのつど新鮮に受け止められ、採用された…、と、いかにも月並みな想像だが、こういう推理は、平凡なほうが当たると思うのだが、いかがなものだろう?

まあ、ざっとそんな感じで、ロックに浸る日々を過ごしていた僕らの目に、「勝ち抜きエレキ合戦」という、いかにも時代を感じさせる企画に関する情報が飛び込んできた。鹿児島県内で《六月灯》という夏祭りが行なわれるが、中でも、鹿児島市最大規模を誇る神社照国神社の六月灯の一環として、市が企画したものではなかったかと思う。その前後の記憶から判断すると、夏休み前だったことは確かなので、たぶんそうだろうと思う。参加資格が18才以上ということで、自分らは参加できなかったが、どんな腕達者な人たちが出場するのだろうかと、興味津々の中学生たちであった。

(つづく)


『ヤング720』は本当に夢中で観ていました。学校に遅れそうになった事は数えきれません。フラワー・トラヴェリン・バンドは凄いインパクトでした。後々僕はジョー山中さんのサポートをやる機会があり、ビビリながらも(笑)感激でした! 鮫島ともよく話をするのですが『ウッドストック』と『レット・イット・ビー』この2つの映画はバイブルでした。なんせ昔の鹿児島ですから動く外国のミュージシャンを観られる機会は殆どなかったのです。  SUE



 

       【第13話/勝ち抜きエレキ合戦〜日高くんとの出会い 】

 何日も前から楽しみにしていたその日がやってきた。誘い合わせて、会場の中央公園に行ってみると、仮設舞台の周りに人が集まり始めていた。子供の自分たちが上がることのできない、憧れのステージ空間を、羨ましげに見上げていると、開演前に、ミスター鹿児島のコンテストが始まった。半裸のボディービルダーたちが、次々に登場し、胸の筋肉をピクリと動かすたびに、水商売らしき女性郡から嬌声が上がるのが、中学生たちには大層気色悪く思えた。中年になった現在であれば、そういった光景に大して特に抵抗も感じないが、時代的にもまだボディービルダーたちのマスコミへの露出度が低かったうえに、とにかくみんな子供だった。そういったものに対する耐性というものが全く無かったので、何故に真面目な演奏の競い合いと、悪趣味なコンテストを同じステージで行なうのか、主催者の考えを疑い、お陰で見たくもないものを見させられて大迷惑だと、散々陰口を叩きあっていた。

 大いに気分を害した後、ようやくお目当ての「勝ち抜きエレキ合戦」(書くたびに笑ってしまう言葉だ)が始まった。気分を入れ替えて、演奏開始を待った。
 最初の演奏は、まだまだギターに触れ始めたばかりという感じで、すぐに興味がそがれ、次の登場を待ちながら、雑談に興じた。続く何組かも似たようなもので、最初の方に初心者を固めたのだろうか、などと話しながら、碌に耳を傾けず、上級者が登場する後半を待ちながら雑談に興じていた。1組、また1組と入れ替わってゆく参加者たち。しかし、演奏のレベルが、上がってゆく気配が一向に感じられない。段々と嫌な予感に包まれ、それと共に、自然としかめっ面になった。

「この様子じゃ、たぶんこの後も期待できないんじゃないかな?」
「もしかすると…、そうかもしれないね」
「だけど、よくこんなので、人前に出てくるよね」
「何か、腹が立ってきた」
「拍手してる人たちの気が知れないよ」
「知り合いなんだろうけどね」
「これに比べたら、俺たちのほうがま〜だマシだよ」
「こんなもんだと前もって分かっていたら、来るんじゃなかった」
「まったく何しに来たんだか分からないね」
「だけど、一応最後まで聴こうよ。もしかして1 組ぐらいはまともな人が出てくるかもしれないよ」

今考えてみると、そこはただの宴会場だったのである。企画者周辺の人々が、知り合いを集めて、ちょっとした自己満足に浸りながら、面白おかしく盛り上がれればそれで良かったわけで、そのついでに一般に呼びかけて「勝ち抜き合戦」という名称を付け、ステージをでっちあげたみたいな感じだった。要するに、現在のカラオケ感覚である。見知らぬ大人たちのカラオケ・ルームに、真面目な発表の場と勘違いして迷い込んだ子供たち、それが僕らだったのだ。
がっかりして、ひそひそ声で陰口を交わしあっていると、集団の中に、盛り上がっている周囲の人々とは明らかに様子の違う、高校生くらいの2人組がいるのに気付いた。どうやら、自分たちと同じように落胆しているらしかった。

彼らに近づくと、どちらからともなく声を掛け合い、期待を裏切られた胸のうちを互いに明かし、バンドを組んで演奏している同士だということも分かり、意気投合してしまった。
年を訊くと、高校生ではなく、同じ中学3年だということがわかった。鹿屋市からこの企画を楽しみに来たのだという。高校生のように見えたのは、被っていた学生帽が、鹿児島市のある高校の制帽のようによく似ていたためだった。
 親の転勤で今は鹿屋在住。鹿児島市にも泊まれるところがあって、ちょくちょく来ることもあるということだったので、互いの連絡先を教えあい、再会を楽しみにしてその夜は別れた。
少し時間を戻して、第7話の中に、自称イジョージ・ハリスンこと伊集院T君という、2年のときの同級生が登場したのを覚えているだろうか? 彼の話の中に、ギターの上手い友だちが出てきたのだが、その噂の人物こそが、こうして中央公園で知り合った日高康寛君だった。
当時の鹿児島の中学生で、ロックを演奏する子がごく少数で、生の演奏に触れる機会がほとんど無かったということを象徴するかのような、当時ならではの出会いである。
砂漠で水を求めるかのように、そのステージに期待し吸い寄せられ、それ故に落胆し、その落胆振りを、まるで合言葉のようにして知り合ってしまった中学生。今となってはなかなか考えられないストーリーだ。
 
 次に末原君の家で会ったとき、日高君は自分たちの演奏を録音したものを聴かせてくれた。曲はベンチャーズや寺内タケシといった、いわゆるエレキ・バンドのものがほとんどで、まだ新しく起こりつつあったロックのムーヴメントには触れていないようだったが、演奏の水準は高かった。日高君のギターだけでなく、ドラムの技術もしっかりしていて、パワーと勢いが感じられることに感心して聴き入った。
 その後、自分たちの録音を聴いてもらったが、比較すると、演奏に勢いが欠けているように感じられた。録音を意識して、間違えないようと気にするあまり、小ぢんまりと縮こまった演奏になっていた。その時は、そんな感想を持ったが、その他に、むしろもっと大きな理由があった。周囲から苦情がくるのを畏れ、小さな音でこそこそと合わせているうちに、勢いのない、生き生きとした表情の感じられない演奏になっていた。
その後、どんな音楽を目指しているのかを、互いに話し合った。その時点で、音楽的志向の開きが気にならないでもなかった。心酔していたレッド・ツェッペリンのレコードを聴いてもらったのだが、その時の反応が極めて分かりづらいものだった。
こちらは、聴き終った途端の、共感と驚きに満ちた好反応を期待し、すぐさま意気投合することを想像していた。当然そうなるだろう、ぐらいに思っていたのだが、日高君の反応はちょっと意外なものだった。
反応を待つ僕らの視線を少しだけ避けるように、鋭い視線で空中を見つめ、ただ黙って小刻みに数回頷いた。何かを確信したというような顔付きだったが、その口からは何の感想も聞かれなかった。

 その日、彼が帰ってから、一体どう感じていたのかが、当然話題になった。せっかく腕の確かな仲間に出会ったというのに、もし目指す方向が全く交わらなければ、一緒にやっていけるかどうか分からない。ああだ、こうだと、しばし論議は続いた。
分かり易い反応ではなかった。しかし、はっきり拒否感を示したわけでもなかった。また会おうという約束にはなっているのだから、今、あれこれ考えても仕方がない。それが、ひとまずの結論だった。
その日聴いてもらった曲は、ジミー・ペイジの無伴奏ソロが含まれる『ハート・ブレイカー』だった。後でわかったことだが、日高君には、そのソロ部分が、メチャクチャに弾いているみたいに聴こえ、ヴォーカルもただうるさいだけで、好い印象が残らず、ほとんど無関心だったのだ。

 (つづく)


この日の事はよく覚えています。今はベーシストとして活動している日高君の事は御存じの方も多いと思いますがこの頃の彼のギターテクニックは、かなりのもので相当の影響を受けました。これも大きな出会いの一つと言えるでしょう。   SUE

僕のギターを調整してくれている日高くんです。これは2本目のエレキギター。中古品で(1本めは新品でした)多分、5千円位で買ったと思います。


     [第14話/夏の日のビル屋上演奏会]

 日高君と出会ったときに感じた音楽的な感覚のズレは、ほんの瞬間的なものでしかなかった。最初は拒絶したジミー・ペイジのギター・プレイだったが、ほどなく賞賛の対象となり、鹿屋からやってくるたびに、ギターの音が変化していった。その変化については、当時、末原君らとよく口にしたものだ。それまで、ベンチャーズや寺内タケシしか演奏したことのなかった中学生が、ほんの数ヶ月の間で、ハード・ロック・ギタリストへとあれよあれよの大変貌を見せた。 
 日高君と末原君は、ギターの奏法について、色々と教えあっている姿をよく見た。以後、相談相手、あるいはライバルとして、良き友となったようだ。
 そのころから、他にも色んな意味で状況が変化してゆく。そして、その年の夏は、中学3年間の間でも、最も強い印象を残す思い出深い夏となった。
 まずひとつ嬉しかったことは、それまでに経験したことのない、広くて音量の出せる練習スペースを使わせてもらえたことだった。彼のお母さんが当時勤めていた会社の、南九州営業所が、鹿児島市の、城西中学校区からそう遠くないビルの中にあり、その倉庫に空きスペースがあったため、営業時間終了後、そこを使わせてもらえることになった。
 ここまで読んで、事情を熟知している方ならば、十分に解ってもらえると思うが、これはもう、天の助けのように思えた。
 末原君宅から、リアカーに器材を乗っけて運び、エレベーターで階上へと運び上げる作業が、なんと楽しく思えたことか…。

 練習場を提供してもらっただけでなく、発表の場までも設定してもらえた。ビルの屋上で毎年開かれる会社の納涼慰労パーティで、余興として何曲か演奏してもらえないかという話が浮上してきた。もちろん、ギャラが貰えるわけでもないのだが、人前で演奏できるだけでも無性に嬉しかった。  
 その前日、会場となる屋上に、楽器を運び上げての練習が始まった。オルガンは、相変わらず電動オルガンだったのが今では可笑しいが、マイクで音を拾って、アンプで音色をコントロールし、幾分音を歪ませ、そしてリヴァーブをかけた。その頃は、そうやってあたりに自分の出す音が鳴り響かせるだけでも嬉しかったものだ。
 ビートルズが『レット・イット・ビー』収録曲の録音をアップル社の屋上で敢行し、周囲とのトラブルを記録した映画とイメージを重ね、すっかりいい気分になっていた(笑)
 実は、その頃弾いていた曲というのが、どうもはっきりと思い出せない。オルガンが少しだけ目立つ曲としては、アニマルズの『朝日のあたる家』の間奏とか、アメリカのアート・ロック・バンド、アイアン・バタフライの『ガダ・ダ・ヴィダ』のイントロあたりだったろうか…。その程度でも「上手いねえ」などと言われていたような気がする。
 周辺に、幼児期からピアノを習っていた男の子もいなかったので、自分のポジションだけは常に安泰だったが、その他に、必要に応じてヴォーカル、ドラムと、曲によってポジションが変わる中途半端な時期だった。自分のやっていたことだけを注視すると、何でも屋からキーボード専門への移行期みたいな、なんとも中途半端な気分が思い出される。

 慰労会での演奏を楽しみに準備、練習したものの、残念なことに、当日は、自分だけが参加できなかった。
 理由は、その頃、現役の教員だった父親に、迂闊にも「ビアガーデンで演奏することになった」と告げたことによる。未成年者がアルコールの出るところで演奏することは法的に禁じられている、ということで直前ストップがかかった。
 もちろん、食い下がった。商売でアルコールが出るのではなくて、顔馴染みの人たちが家族的な雰囲気の中で飲むだけだからいいではないかと…。しかし、それに対しての父の言い分は、およそ次のようなものだった。
 もし、そのことを外部の誰かが聞き付け、事実を捻じ曲げて大袈裟に騒いだとしたら、問題にならんとも限らない。万が一問題になった場合、そのことを教員である父親が事前に知っていたとなると、洒落では済まされなくなる。
 校則や教育基本法などに縛られるというのは、教員の家庭に生まれ育った者の宿命とは言え、無防備に“ビアガーデン”などという言葉を使ったのが失敗だった。実質は、親族の宴会で子供が歌を歌うことや、結婚式の余興などと何等変わりは無いのだが…。
 中学生時代というのは、高校時代と比べてみても、経済的にはもちろんのこと、精神的にもまだまだ、どっぷりと親の傘の下にいるという意識が強かったような気がする。

 バンドの1人が教員の息子で、親からのストップで参加できなくなった、という情報は、慰労会の主催者側にも伝わり、重く見たようで、それに対して苦慮した様子が、当日の演奏を録音したテープから十分すぎるほど伝わってくる。
 
 ではテープ再生。
 「みなさん、こちらに並んでおられるのは、日高さんのご子息と、そのお友だちです」
 (へぇ〜。こんなに大きな息子さんがいるのねぇ)
 「本日の慰労会で、演奏していただくことを楽しみに、私共も、倉庫を練習場として提供させていただき、彼らも、それに応えて、一生懸命練習してきました」
 盛大な拍手がおこる。
 「しかし、残念ながら学校のほうから、お酒の出る場所で演奏することはまかりならん、というお達しがありました」
 (えぇぇぇぇ〜〜!)
 会場全体がざわついている。
 「そういうわけで、彼らは、本日ここでは演奏できないことになりました」
 (残念だぁ。聴きたいよねぇ〜)
 「その件とは全く別に、彼らから練習場所として屋上を使わせてもらいたいという依頼がありまして…」
 一部から、くすくすと笑いがもれ始めた。
 「慰労会とのバッティングを避けて、気兼ねなく練習してもらいたかったのですが、あいにく、この時間帯以外に練習時間が取れないということで、慰労会の途中ではありますが、やむを得ずこれから練習を始めます。あくまでも、これは練習です。もしかすると、こちらに音が漏れてくるかもしれませんが、そうなったとしても、皆様、どうか大目に見てくださいますよう、お願い申し上げます」
 爆笑と拍手の嵐が起こる。
 そして演奏、ではなくて練習(笑)が始まった。

 テープを聴いている最中、皆、その場を思い浮かべて大喜びしていた。
 さすがに営業畑の人である。柔らかい考え方と、人の心を掴む話術は、さすがに天才的だと、口々に言い合った。
 演奏の随所に、メンバー1人1人の見せ場が設定されていて、それに対する拍手も惜しみなかった。
 そして、末原君。
 「ここで拍手がこれだけ来るんだから、君がいれば絶対拍手が貰えたんだよ」
 いたずらっぽい笑みを浮かべながら、悔しさを120パーセント引き出すような茶目っ気たっぷりの言い方をしてくれる熱き友情が憎らしかった(笑)
 
 この件の他にも、親が教員故の行動規制がきつくて、1人だけ悔しい思いをした経験が度々あった。そんなことは、もう、久しく思い出すこともなかったのだが、こうして昔を思い出して書いているうちに、心がすっかり当時に戻ってしまい、改めて悔しい思いをしている自分にふと気付き、何をいまさら…、と笑ってしまった。

 お盆休みには、存分に練習できるようにと、日高君にビルの鍵を預けてくれたが。3日間、中学生だけでビルを占領して、好きなように過ごしたのが懐かしい。練習に疲れたら、ビル全体を走り回り、エレベーターも勝手に使って、鬼ごっこに興じた。
 こうして言葉にしてしまえば、あまりにも他愛ないことだが、中学生諸君にとっては、このビル内鬼ごっこは、この上もなく楽しい時間だった。
 それから30年余が経過、凶悪犯罪が頻発し、セキュリティーが発達した現在では、まず100パーセント考えられないことだが、当時にしても、中学生にビルの鍵を渡すなどといういことは、異例中の異例だったと思う。そう、あまりにもおおらかなプレゼントだった。
 これまでに書いてきたいくつかのエピソードの中には、めったに思い出さないこともあるが、ビルを借してもらって遊んだことについては、中学3年時代を象徴する楽しい数日間としてときどき、ふと思い出すことがある。
 練習を継続させるために、近所の苦情の主を訪ねて謝罪したり、勝ち抜きエレキ合戦に出場した大人たちに冷ややかな視線を浴びせたりしながらも、角度を違えて見ると、まだまだ、こんなにも無邪気な子供たちだった。

 練習場として提供してもらったビル内の倉庫も、ほどなく物が増え、空きスペースが無くなってしまい、ひと夏の夢は、あっけなく過ぎ去った。

      (つづく)


この14話は特に好きなンです。後々、考えていたのがこの頃は車もないのにどうやって機材を運んでいたか?って事。やっぱりリヤカーだったんだ(笑)。実はこの時の写真がたくさん残っています。今回は大放出!




    { 第15話 ちょっと淡い恋みたいな…}

その夏を境に、ぼくは、一気に熱血キーボード小僧へと開眼してゆくことになる。それまでは、キーボードの演奏技術を向上させることにほとんど無頓着だった。1〜2年のときは、単に仲間内でアンサンブルをすることを楽しんでいただけだったし、それには、幼児期から続けたピアノのレッスンで身につけた技術で、十分事足りていた。だから、バンドというのは、キーボードの腕を磨く場だという意識は皆無だった。

キーボード小僧へと突っ走り出すまでの動機は、いくつか考えられる。

日高君ら鹿屋一派との出会いも、その中の1つ。日高君とともにドラムの川原君が加わることによって、その分野の人材不足が解消。無理をしてドラムを叩く必要が無くなったのと、鹿屋にはいなかったタイプの鍵盤弾きとして、日高君の評価がけっこう高くて、大いに気を良くした。そんなときに、ザ・ナイスのキーボード・プレイヤー、キース・エマーソンを知って、これが完璧に追い討ちをかけて、泥沼に嵌り込んでしまったのだ(笑)

ただ、そこに至るまでの過程には、1つ1つを見れば単純な理由が、複合的に絡んでいたような気がする。

たとえば、末原君からのこんな言葉。

「ギターは持ち運びも簡単で目立つからいいけど、キーボードは運ぶのも大変な上に、全然目立たないから損だね」

一見取るに足らない冗談のようなセリフだが、これを何度となく繰り返されているうちに、じわじわと心の中のかなり奥まで染み込んでいたようだ。それで、いわゆる「寝た子を覚ます」みたいなことが起こった(笑)

ほかにも、ここでは語り尽くせない、色んな心理的要素が絡んでいたような気がする。

中学生を外側から見ると、授業とかクラブ活動が表の世界で、オフタイムの友だち付き合いが裏の世界のように見えるだろうと思う。僕にとっても入学した当時はそうだった。それが、3年になるころには、ここに書いている内容からもお分かりいただけるように、意識の中で、ほぼ逆転していた。音楽仲間と過ごしている時間や、音楽を聴いているときが、本当の自分になれる時間であり、学校生活は、その合間を埋めているみたいな感じになっていた。そして2年のときが、ちょうどその中間的な感じだった。

その2年生だった年のクリスマスの日、忘れがたい思い出が残っている。そのことは、バンドとは直接何の関係もないし、それがキーボード開眼と関係あるかと言えば、直接的には「無い」というのが正解だろう。ただ、もっと焦点をぼかして、「中高生時代にロックに嵌り易い」こととは、限りなく薄くではあるが、どこか繋がっているように思える。話が繋がるかどうか分からないが、それを書いてみたい気持ちも強い。

そのクリスマスの思い出から、時間をさらに少し戻して、2学期の頭から話は始まる。

クラス対抗の校内器楽合奏コンクールに向けての練習が始まったのが、そのころだった。自分の担当は、ソプラノ・アコーディオン。器楽合奏部では、ピアノとしてスカウトされていながら、ハーモニカを吹く毎日だったが、クラス単位で合奏する場合、そこが定位置であり、それがちょっとした快感でもあった。オーケストラに当て嵌めるとファースト・ヴァイオリンに相当し、合奏の中では、最も技術を要するパートだが、ピアノのレッスンに比べると比較にならないほど難易度は低かった。

アコーディオンを担当するのは、ほとんどが女の子で、指使いを教えたり、間違いを指摘したりと、まあ、ついイイ気になり過ぎて、反感も買い兼ねない雰囲気を漂わせていたかもしれない。たぶん9割9分そうだったと思う(笑)

参加曲として選ばれたのは、モーツァルトのシンフォニー40番をアレンジしたもの。そのスコアは、教科書の巻末に掲載されていたて、原曲はト短調だが、黒鍵を少なくして弾き易くする意図か、イ短調に移調されていた。中学の一般クラスとしては難曲の部類に入ると思う。アコーディオン担当の女の子たちの多くが、苦労して練習していた姿を思い出す。

そんなある日。パート練習がある程度進み、全体練習が始まってほどなく、あることに気付いた。指揮の男の子がタクトを振り上げる直前から振り始めるまでの間に、こちらをチラっと見る視線を感じるのだ。最初は、偶然だと思っていたが、それが毎回必ずとなると、「これは何だ?」と気になり始めた。みんなが指揮棒を見ている中で、1人だけから注がれる視線は、一瞬とは言え、かなり目立った。

僕は、次第にそれを楽しみにするようになった。その視線の主は、テナー・アコーディオン担当で、弓なりに並んだ前列端っこにいる僕の視線の左側に、自然に入ってくる位置にいた。目の大きな、美少女として評判だった子である。

指揮棒があげられる前後、そのたびに僕の顔を覗き込むような視線をよこす。それはもう偶然でないことだけは確かだった。

演奏開始前、指揮棒が上げられるのを合図のようにして、ぼくらは必ず見詰め合うようになった。お互いの気持ちを確認し合う瞬間だった。

校内コンクール当日の一場面を特にはっきり覚えている。ステージに当てられた照明がまぶしく、いつもと違う雰囲気に、皆緊張していた。もちろんぼくも緊張していた。

あ、そうだ! ふといつもの「儀式」を忘れていた。ふと、それを思い出し、いつものタイミングより少し遅れてテナー・アコーディオンの方に目をやると、不安げな顔つきで、こちらの視線を、覗き込むようにして待っていた。目が合うと、その瞬間、安心した顔つきに変わり、ようやく演奏開始の構えに入った。

あぁ、僕が視線を寄越さないと、寂しい気持ちになるのだな、と、えらく感じ入ってしまい、正直言って、これはもう完全に愛だと確信した。

互いの気持ちを確認する儀式が、ほぼ毎日繰り返されたのだから…、その見詰め合いが、その後どう発展するか、当然大いに期待した。

しかし、同様の瞬間は、ステージでの演奏を終えると、その後なかなかやってこなかった。演奏開始前というお決まりの時間が無くなり、互いの気持ちを確認し合うタイミングが掴めなくなってしまったらしい。と、思うことにしていた。

読んでいるあなたは、こう思うのではないだろうか? 確信しているのだったら、なぜもっと積極的にアプローチしないのかと…。

世は1969年(昭和44年)である。中学生同士が普通に付き合うなんていうことは、極めて稀だった時代である。

その余韻醒めやらぬ12月。クラスメイトのK田君が、クリスマス・パーティを企画した。「その7」で登場したトール・マッカートニー君を覚えているだろうか? 鮫島君をバンドに紹介してくれた男の子である。

招待されたのはK田君本人を含めて、男子3人、女子3人。その中には、例のアコーディオンの子も含まれていた。良いタイミングだと思った。このときほど、K田君を好ましく思ったことはない(笑)

芳文少年が、そのパーティーにどれだけ期待したか、お分かりいただけるだろうか…。

そして、その日が来た。会場はK田君宅である。

主催者であるK田君は、その日を楽しい想い出にするために、綿密なシナリオを練りあげていた。500円以内程度に価格設定されたプレゼントを持ち寄り、クリスマスによくやるように、輪になって歌を歌いながら順繰りに回してゆく交換会が行なわれた。

その後も、しっかりと進行が設定されていて、中学時代最高の楽しい1日となった。少なくとも男の子にとっては間違いなくそうだったと思う。たぶん、女の子3人にとってもそうだったのではないかと思う。もし今後会う機会があったとしたら、この1日の思い出を話してみたい気がする。

男の子にとっては、楽しい1日…、これは確かにそうだった。ただし、この「男の子」とは、なぜか3人ではなかった。K田君が、男らしくたった1人で全員を代表して、全てのお楽しみを一手に引き受けてくれたのである(笑)

      (つづく)


ちょっと色っぽい話になって楽しいですね。実は4/28のライブの準備で1月に鹿児島に戻った時、打ち合わせや,お願いでたくさんの人に会った中に、この時の器学部で後輩だった女性に偶然にも御会いする事が出来ました。文中に出て来る女の子はどうやらこの人ではないらしいですが、久しぶりに見る彼女の顔は色んな事を思い出させてくれて楽しい時間を過ごす事が出来ました。   SUE


    [ 第16話 お地蔵さんだよ芳文くん! ]

K田君は、その後、大好きなビートルズの話を始めた。

「日本の音楽なんか幼稚だよ」

などと言いながら、得意げに曲の解説を始めた。そして、その曲のレコードがあるから聴いてみないか、とステレオのある部屋に誘った。

「あ、前田と○○は、ちょっと待っててね。すぐ戻って来るから」

彼は、軽い口調でそう言い残した。

男の子2人がそこに残った。そして、軽い冗談を飛ばし合いながら、曲が終わるのを待っていた。

そして曲が終わった。

あれ? なかなか戻ってこないな…。と思っていたら、今度はギターの爪弾きが聞こえてきた。それに続き、K田君の歌声が聞こえてきた。ビートルズ・ナンバーの弾き語りを始めたのだ。英語で歌うK田君の声が、別部屋にいる二人にもはっきり聞こえてきた。女の子3人をはべらせての、ミニ・コンサート。すっかり独壇場である。

これはちょっとやばいかも…。2人は冗談を言う気力も失せ、漏れ聞こえてくる歌とギターに茫然自失状態だった。早く歌が終わってくれないかなぁ…。情けない気持ちでそんなことを祈るばかりだった(笑) そして歌が終わった。さあ、これで彼らも主会場であるこの部屋に戻ってくるだろう。

しかし、4人は、それでも戻って来ない。ステレオのある部屋で何が行なわれているのか分からない。2人は、さすがに待ち疲れて、その部屋に行ってみた。

そこは、ギター教室と化し、K田君を先生にして、女生徒3人が目を輝かせてコード奏にチャレンジしていた。そこには他を寄せ付けない空気がしっかりと出来上がっていて、声を掛けることさえ出来なかった。

「ここにピアノがあれば…」

強くそう思ったが、無いものは無い。

しばらくその様子を見ていたが、そこに割り込んでゆく手立ても見つからず、2人揃ってとぼとぼと、元居た部屋に戻るしかなかった。ここまで来て、ようやく現実に目覚めた。

計られた! パーティーを思い立ったときから、彼の頭の中には、この日の展開が、全て描かれていたに違いない。

K田君は、その後も延々と3人を独占し、ギターを教え続けた。残された2人は、その時点で腹を立てて帰ってしまえば良いものを、敗北感に打ちひしがれながら、つまらないギャグを連発し合い、面白くもないのにこわばった顔で無理に笑いながら、空しく時間が過ぎるのを、阿呆のように、ただただ耐え抜いたのだ。

何のためにそこに来たのか、全く答えを見出せない2人であった。

ダシにされたことに対しては、まあ、してやられたり! と、寛大な心で許すとして、テナー・アコーディオンの美少女よ! こうして、せっかく同じパーティに足を運び、語らうチャンスを得たのに、まったく目もくれないとはどういうことなのか?? あの見詰め合った日々は、一体何だったのだ??? ぼくには、君の心が解らない。

哀れ、芳文少年の頭の中には、底知れぬ闇のように謎が膨張しまくり、はちきれんばかりになっていた。この世は何と不可解な不条理に満ちていることか!

中学生とは、実に純粋な心を持っている。それがプラスに作用すると、大きな共振作用を生み出し、感動的な結末を引き出すことにもなるが、野放しにしていると、純粋な分だけ原始的なエゴが剥き出しになりやすい。ちょっとしたことから、露骨な蔑みや嘲笑、からかい、いじめ、稚拙な陰謀術策などが跋扈し始めることにもなる。

思えば、妙ちきりんなことを、次から次へと体験したものだ。そんな中にあって、ここに書いた2年の時の思い出は、別段陰湿さもない、ごく普通の光景だと言える。ただ、当時のぼくにとっては、現実から激しくズレた思い込みが働いていたこともあって、天国から地獄へと突き落とされるように、一瞬にして世界の見え方が変わってしまったという、かなり妙ちきりんな体験であった。

ところで、そのクリスマスのできごと。本当に当時感じたとおりだったのか? まるでK田君の陰謀に嵌められたみたいに思ってしまったのだが、それは、もてなかった自分たちの真実を否定したいがための、捻じ曲がった解釈だった可能性も高い。単なるK田君の1人勝ちだっただけの話。女の子たちと楽しい時間を過ごすための話題も術策も無い、日ごろからそのための研鑽を積み重ねてもいなかった。いわば“あたま丸腰状態”で、のこのこ出て行った2人が、相手にされないのも当然のことと言えるかも知れない。

では、例の見詰め合った日々。これは一体何だったのか…、それについても、中学生だったころは、ことさら考えてみるようなこともなかったのだが、約20年経ったある日のこと、文芸同人誌に加入し、中学時代を題材にしたエッセイを書き始めたときに、改めて当時を振り返って、ようやく見えてきた。

あの頃、ある女の子が、そのアコーディオンの子に関して、こんなことを言っていた。

「みんな何となく、イメージ的に私が弾けると思って、アコーディオンの担当にしたみたいなんだけど、本当は全然弾けなくて、すごく苦労して練習してるんだよって…、そんなふうに言ってたんだよ。でもそんな風に見せないところがあの子の偉いところだよね」

その証言と、あの視線の交わり…。そうか…。この結びつきには気付かなかった。

考えてみると、演奏の直前だけに、決まってこちらを見るなんて、恋心の表れとして考えると、かなり変なのだ。

ここからは想像だが、演奏に対する不安な気持ちを、いつもは隠していたが、演奏の直前になると、それが心の奥から吹き出してきて、ちょうど視界に入るところにいる、楽々とアコーディオンを弾ける男の子の顔を見ることで、気持ちを整えていたのではなかろうか。不安に突き動かされた、ほとんど無意識の行動だったかも知れない。

しかし、想像してみてほしい。来る日も来る日も、大きな瞳が魅力的な美少女に、しっかり見つめられて、すがるような不安げな表情を見せられた日にゃあ、これを芳文少年がどう勘違いしたところで、誰が彼を責めることができようか?

だが、現実は無残だった。おい、芳文君、しっかりしたまへ! 要するに、その美少女にとって、君は不安解消のための願掛け地蔵みたいなモノに過ぎなかったのだよ。 

 こうしたクラスメイトたちとの思い出と、バンド仲間との思い出。この2つの流れは、それぞれ別な空間での出来事として記憶されていて、わざわざ同じ座標の中に並べてみたことは無かったのだが、こうして書いているうちに俄然興味が沸いてきて、レコードの発売日を調べて割り出してみた。

 爆発的な感情の炸裂に感動し、ロックにのめり込む切っ掛けとなった、レッド・ツェッペリンのシングル・レコード『胸いっぱいの愛を』。それを鮫島君が初めて貸してくれたのと、このクリスマスの思い出とは、時間的に極めて近いのである(笑)

 その4ヵ月後、3年になってからは、クラスメイトに背を向け、音楽仲間とばかり付き合い、そして夏以降、熱血キーボード小僧と化するのも、流れとしては、ごく自然に思える(笑)

当時の音楽志向の変化を振り返って、その心理的要因となった可能性の強いエピソードを、面白おかしく綴ってみたが、ここらで、再び話しを音楽のフィールドへ戻そう。心理的な要因だけでは、音楽には出会えない。

ピアノを習っていた子が、中学1年でアンサンブルの面白さに目覚め、次第にロックに興味を持ち、そしてツェッペリンでハード・ロックに傾倒し始めたとすれば、その後、ロック・キーボードで、そのテイストを目一杯表現したくなるのは、ごく自然な流れでもある。

最初に興味を持ったロックのキーボーディストはアル・クーパーだった。ミュージック・ライフの人気投票「ピアニスト&オルガニスト部門」で1位にランクされていたし(まだキーボード・プレイヤーという呼称は一般化していなかった。シンセサイザーは電子音楽スタジオで使用する“装置”でしかなかった)、ブラス・ロックの旗手BS&Tの創始者としても知られていた。アルバム『スーパー・セッション』や、『クーパー・セッション』などのアルバムも、雑誌での露出度も高く、レコード屋の店頭でも見かけたので、LPを1枚入手してみて、けっこう気に入ってもいた。

末原君が、ミュージック・ライフの紹介記事を見て、ザ・ナイスを率いていたキース・エマーソンを聴くことを勧め始めたのがいつごろだったか、実はよく思い出せない。オルガンとピアノを駆使し、ギターレスのトリオでやっているのだから、よほどスゴイはずだ、というのが彼の考え方だった。彼の心酔するクリームが、ギターを中心としたトリオで、そのキーボード・ヴァージョンという捕らえ方だったと思う。

鮫島君からも、オルガンにナイフを突き刺す過激なテクニシャンという噂を聞かされていた。2人とも実際の音は聴いたことは無かったのだが、音楽雑誌から仕入れた情報を、そのままこちらに流していたので、その紹介記事が載っている雑誌も見せてもらい、次第に興味は膨らんできていた。

ナイスというバンドは、本国イギリスではある程度人気が出ていたが、日本では、ほとんど無名だった。ミュージック・ライフの人気投票にも無関係。ラジオなどで聴けるチャンスも、ほぼ皆無だったし、地方都市鹿児島のレコード屋でも一度も見たことがなかった。

当時は、月に千円の小遣いしか貰っていなかったので、LP1枚買うのに、丸2ヶ月何も買わないで我慢しなければならず、今みたいに、興味を持ったら取り敢えずすぐに注文して買ってみる、というわけにもいかなかった。そういうわけで、一度も耳にしたことの無い音楽に対しては、なかなか手が出ない状態だった。

初めてその音を聴く機会に恵まれたのは、当時、天文館アーケード街にあった十字屋という楽器屋だった。末原君、鮫島君らと連れ立ってレコード屋巡りをすることが、習慣となっていた。鮫島君が『夢を追って』というシングルを探し出してきたときは、「よくあったなあ!」というのが真っ先の感想だった。そして大いに期待して3人で試聴した。

 

 (つづく)


僕がキース・エマーソンに興味を持った切っ掛けは覚えていませんが勧めた手前かなり集中して聴いていました。あの音楽はその後、そして今でも大きな影響を受けています。   SUE


        [第17話/ザ・ナイスのキーボード・プレイヤー]

『夢を追って』は、ナイスの全ナンバー中でも代表的な曲で、クラシック風の流麗なピアノ・ソロによるイントロも大きな魅力の1つだ。
開始後約20秒でミディアム・テンポのピアノ伴奏に導かれ、ささやくようなヴォーカルに、部分的に混声合唱が控えめに添えられる。このあたりまでを聴いていると、“クラシカル・フォーク”という言葉で、ほぼその印象を言い尽くせる(ピアノのハーモニゼーションのあちこちに、いかにもキースらしいテンション・ノートが使われているが)。

さて、場面は再び十字屋での試聴コーナー。
『夢を追って』のイントロが聴こえてきた。その直後に末原君が口を開いた。
「なんだクラシックみたいだがね(鹿児島弁的言い回しである)」
全然ロックらしくないと不満もあらわにし、店員さんに早々と試聴中止を申し出た。
「あ、もうちょっと聴きたい」
という言葉を発する間もなかった…。
その後に試聴を待っているお客さんもいるので、一旦中断したものを、連続でかけてもらうわけにもいかない。
その先を聴くつもりで耳を傾けていた僕は、おおいに不満を感じたが、聴きたいのは3人の中でも自分1人だけのようだし、またの機会に、こんどは1人で聴こうと心に誓ったのである。

そのころの末原君にとっては、ロック・ビートの効いたものか、アコースティック・ギターによるフォーキーなサウンドが全てだったような印象がある。つまり、オーソドックスなロック・バンドの音が好みで、そのころは、ブラスが好きじゃないとか、ヴァイオリンが好きじゃないなどと言っていたのを思い出す。中学のころは、僕にしても許容範囲が極端に狭かった。ジャズを聴くようになったのは高校生になってからだったし、末原君同様、当時はブラス・ロックが好きじゃなかった。
 
 自転車を連ねてのレコード屋巡り。これは当時の習性的な行動とも言えた。
CDがこの世に登場する10年以上も前のこと。30センチLPや17センチシングルなどの、アナログ・レコード全盛の時代に、ほぼ全商品が試聴可能だった。売り場から目当てのレコードをレジへ持っていくと、それを店内で流してくれたのだ。順番待ちがあるときは、何番目にかかるか教えてくれたので、指折り数えて待ったものだ。

CDは完全密閉パックされているが、当時のアナログ・レコードは、取り出し自由だったので(CBSソニーやコロンビアなど、ごく一部例外はあったが)、そういうサービスも可能だったわけだが、再生するたびに、針先と盤面の物理的接触によって、ごく微量ずつではあるが、しかし確実に磨耗する商品を、それを承知で試聴させてくれる売り手や、試聴によって磨り減ったレコードを買っていく消費者が仲良くほのぼのと暮らしていた時代だった(まあ、細かいことを言えば、傷によるトラブルなどもけっこうあったでしょうけど)。
足繁く通ったレコード店が3ヶ所。天文館商店街の北寄りにあった十字屋楽器店、南寄りにあった古川楽器店、高見橋そばにあった学習館(今思えば、レコード&オーディオショップとしては珍しい名前だった)。
新譜の発売日などには、自転車を飛ばして、真冬でも汗をかきながら店頭に駆けつけたものだ。その店になければ別の店へとすっ飛び、ほとんど運動会の借り物競争のような状態だった。
なお、今あげた3店舗のなかで、2店舗は現在姿を消し、十字屋が残るのみだが、その十字屋も店名が変更になり、当時あった場所から移転している。時は流れるのである。
 当時、鹿児島のレコード屋に、どのくらいロックのLPが並んでいたか、若い人にクイズを出したとすると、まず外れるのではないかと思う。現在はアーティスト別に区分けされ、ロックだけで図書館のように並んでいるが、当時は、ビートルズ、サイモン&ガーファンクルなど、片手で数えられるほどのアーティストが単独で区分けされ、あとはまとめて「ロック」で括られていた。その「ロック」の総数が、100枚を余裕で切っていたと思う。
 そんな状態だったから、各レコード屋に、現在どんなロック・アルバムがあるか、大体頭に入っていたほどだった。それほどに、ロックはマイナーなジャンルだった。

 学習館でナイスのLPを見つけたときは、かなり嬉しかった。日本で無名に近かったザ・ナイスのLPが店頭に並んでいることなど、まず有り得ないことだと思っていた。
当時、鹿児島市内全域を探しても、ナイスを知っている人が、どのくらいいたか…。その後、古川楽器店でたった1度だけ、珍しくもナイスのアルバムを見つけたことがあった。ナイスの全アルバム中最高傑作の呼び声高い『ジャズ+クラシック÷ロック=ナイス』。小遣いが溜まるまでの約1ヶ月間、売れないだろうとは思いながら、誰かに買われてしまうことを恐れて、何度もそこに足を運び、確認しては胸を撫で下ろした記憶がある。結局そのアルバムは、自分の手元にやってきたのだが、何だか、自分以外に買う人など存在しないのではないか、という気にさせられた。

それ以外に、ナイスのアルバムを店頭で見かけることはなく、全て注文して取り寄せてもらった。そんな中には、福岡にも在庫が無くて、入荷が予定より遅れ、2〜3度足を運んだ、などということもあった。
学習館にあったのは、オリジナル・アルバムではなく、東芝の企画モノ『ポピュラー白銀シリーズ』の中の1枚で、『ナイス・ナイセスト!』というタイトルの編集盤。まったくセンスの感じられない企画名だが、それはジャケット・デザインにも反映されていて、銀紙で覆われたジャケットの中央に、横長のはがき大の写真があしらわれているという、無味乾燥なもの。しかし、そういった企画モノがあったおかげで、鹿児島でもナイスのアルバムを手にとって見ることができたということでもある。

それを最初に見た瞬間、ナイスのアルバムだとは気付かず、1枚ずつ順番に見ていた手が、そこで止まることもなかった。オリジナル・アルバムのジャケット写真は皆頭に入っていたので、まさかそれが、あのザ・ナイスのアルバムだなどとは考えもしなかったのである。それでも、ひと通りそこに置いてあった『白銀シリーズ』全部を見終わったあと、「ナイス」という文字が、なんとなく気になり、再度良くみてみると…、
え? 中央の写真に…、キース・エマーソンの姿が写っているではないか! 
両手に取って、まずはため息。そしてジャケットを反転させ、曲名を見ると、途中までしか聴いたことのない『夢を追って』も収録されている。そして、憧れの『ロンド69』も…、入っていた!! 
ナイスのライヴでは『ロンド』が代表的なナンバーで、キース・エマーソンがテクニックを見せびらかすように弾き捲くり、クライマックスではオルガンにナイフを突き刺すということは、音楽雑誌を見て知っていた(ただし、どのようにナイフを使うのかは想像出来なかった)。「怒涛のようなオルガン・プレイ」という表現が使われていて(それで初めてその言葉を知った)、ロック界では異例な才能の持ち主、クラシック、ジャズに精通し、普段は物静かな紳士だが、一旦ステージに上がると、狂気に取り付かれたように豹変する、というようなことが書かれていた。

 学習館というレコード・ショップは、試聴はさせてくれたが、「選択のためなら」という条件付きだった。つまり、「買わずに聴くだけという行為はご遠慮ください」という方針を貫いていた。
所持金は、アルバムの価格に届かない。これでは聴かせてもらえない。しかし、目の前にナイスのアルバムがある今…、聴きたい。どうしても聴きたい。
気持ちを押さえられなくて、店員さんに願い出た。今はお金を持っていないが、後で必ず買いに来るので、どうか聴かせてほしい。生徒手帳を差し出し、そして名前を控えてもらいたいと頼み込んだ。
すると店員さん、
「あなたは顔を覚えてるからいいよ」
と笑った。
自分の顔は見えないが、たぶん、その時は祈るような表情をしていたのだろうと思う。
「奥に売場に置いてあるステレオを使っていいから」
「え? あ、どうも…」
「これ、他の人が買わないようにこちらに置いておくから、聴いたら持ってきてね」
心は狂喜乱舞である。
 
                (つづく)


最後に出て来る学習館の店員さんは「第7話」で少しだけ登場するレコード屋のお姉さんではないかと思う。僕もこんな感じで大変お世話になりました。ロックに詳しい年上の女性は大変魅力的でした。  SUE


        [第18話/出会いは1枚の葉書から]


 オーディオ機器の売り場、店の奥に配置されていて、使って良いと言われたステレオは、その左側手前にあった。当時良く見た木製の家具みたいなでかいやつだ。ターンテーブルに盤をセットし、そして真っ先に聴いたのが『ロンド69』だった。
これはもう、前から興味津々だったので、聴く前から冷静でいられなかった。フィルモア・イーストでのライヴ録音。会場MCが、ザ・ナイスを紹介すると拍手が起こり、アップテンポでベースのリフ、それに続いてドラムが入り、勢いよく始まった。
そして、いきなり聴こえてきたハモンド・オルガンの派手で鋭角的な和音。ところが、その音程が揺れながら落ち始めたのだ。
「あれ? レコードの回転が止まったノ」
これには実際メチャ焦った。無理を言って、展示品のステレオで試聴させてもらっている。変な扱い方をしたつもりはないのにノ。
が、それも一瞬のことだった。ターンテーブルではなく、実際に、オルガンの音程が揺れていたのだ。演奏は止まることなく続き、その後、破壊的なノイズや地を揺らすような低音のクラスター(音塊奏法)、そして煮えたぎるような効果音が聴こえてきた。そのメ煮えたぎるような音モとは、特殊なグリッサンド奏法なのだが、そんな音は、それまで聴いたこともなく、だから、一瞬何が起こっているのか分からなかった。
聴く前からときめいて待ち受けているところに、原始的な混沌を思わせる、怒りを叩きつけるようなエネルギーに満ちた世界に、心をかき乱され、理性など吹っ飛んでいた。
「なんか、すっげぇなぁノ」
そんな言葉しか出てこなかった。

店内で、LP1枚分、全曲聴いた。ようやく聴けたナイスの音である。誰かに止められない限り、自分から止めるなんていうことは有り得なかった。
A面1曲目には、十字屋で途中まで聴いた『夢を追って』が入っていた。曲の途中から曲想が一転し、アップテンポになりベースのリフに乗せて、ジャズ風味のピアノ・ソロが繰り広げられる。それが何とカッコよく聴こえたことかノ。とくにアップテンポになった直後に聴こえてくるフレーズのセンスの良さ!
『夢を追って』は、その後、十字屋で途中までしか聴かなかった末原君にも、最後まで聴かせたところ、展開のカッコ良さに驚き、あの時は途中で止めて悪かった、と謝っていた。

それ以前とそれ以後では、確実に音楽観が変わっていた。キーボードという楽器が、ロック・ミュージックの前面に出るだけの表現力を持つものであるという認識を得てからは、キーボード主体のロック・アルバム(ナイスのアルバム全ての他に、クォーターマス、アッティラ、アトミック・ルースターなど)を買い集めるようになり、それらをコピーするようになった。
ナイスを解散させたキース・エマーソンは、この年の6月、エマーソン・レイク&パーマーを結成し、8月にはワイト島・ポップ・フェスティバルに出演しているのだが、まだその詳細な情報は、日本に入ってきていなかった。

その夏、鹿屋の日高君、川原君と知り合ったことによって、ギター、キーボード、ベース、ドラムスが揃い、あと、足りないのはヴォーカルだけだった。だが、中学生でロックを歌える子など、そうそういるものではない。14〜5歳では、大体において声が可愛すぎるのだ。
「ミュージック・ライフ」の募集欄に、鹿児島市在住の中学3年生が掲載されていたのは、すでに「入試前」を実感し始めた頃だった。たぶん12月ではなかったかと思う。
その投稿記事には、ローリング・ストーンズかレッド・ツェッペリン・スタイルのバンドでヴォーカルをやりたいと書いてあり、自分たちと音楽嗜好もピッタリで、皆大いに関心を持った。
他のバンドに横取りされても困るので、一刻も早く獲得せねばいかん! 末原君、鮫島君と3人、大急ぎで自転車に飛び乗った。

雑誌に載っていた住所が頼りだったが、すぐそばまで来ていることは確かだった。いよいよ、1軒1軒探し回ろうというときに、ふと見上げると、2階の窓からこちらを見下ろしている同い年ぐらいの男の子がいる。もしかしてこの子かもね? などと冗談半分で言いながら近づき、訪ね先の住所と名前を訊いてみると、冗談ではなく、彼がその本人、南貞則君だった。
この出会いの一場面は、互いにとって不思議な印象を残した。ぼくらにしてみれば、南君の様子が、まるで自分たちが来るのを分かっていて、待っているような感じに見えたし、逆に、南君にしてみれば、なぜ3人が自分を訪ねて来たのか、分からなかった。3人組の中の1人末原君は、南日本放送の公開番組で見て姿を覚えていた。抽選で当たって前に出て行ったとき、お洒落な服を着ていて、学生服姿の南君にはまぶしく見えた。そのときの男の子が、なぜ訪ねてきたのだろう? そう思ったらしい。
部屋に入って、互いの事情を話し始めると、不思議な出会いの謎も晴れた。南君は、別件での尋ね人を待って、窓から見下ろしていたのだが、自分の投稿葉書が雑誌に採用されたことをまだ知らずにいたのだ。
彼は、レコードに合わせて歌った録音を聴かせてくれた。周囲に音楽仲間もいなくて、ラジオ番組を聴いたりしながら、1人でロックを楽しんでいた。ローリング・ストーンズが好きで、よく1人で歌っていたが、レッド・ツェッペリンの『胸いっぱいの愛を』に感動し、その高揚感で、葉書を書いて、ミュージック・ライフの募集欄に投稿したらしい。それが採用されて、その後どうなって、という具体的な考えまでは特になかったと言う。鮫島君も、レッド・ツェッペリンを知ったときは、衝撃のあまり学校を休んでしまったというが、同じように感動している中学生がここにも1人いたのだ。
彼の部屋で最も目についたのは、襖一面にべたべたと貼られたミュージシャンの写真だった。雑誌から切り抜いたそれらの写真の中には、キース・エマーソンの写真もあったのを覚えている。

翌日、南君は、練習場となっていた末原君の家へやってきた。そして、アニマルズの『朝日のあたる家』を合わせ、南君のヴォーカルを皆が歓迎した。こうして、バンドの形が整った。

     (つづく)


この「18話」の前半は前田君の興奮振りが伝わって来る素晴らしい文章ですね! さて、いよいよボーリスト・南君が登場しました。この日の出合いも印象に残っています。こんな感じで,後から思うと不思議な瞬間でした。ボーカリストを得た僕らは加速してバンド形態へ進化して行きます。鹿児島在住の彼には4/27の鹿児島コロネット・セッッション・ライブでストーンズの曲を歌ってもらう様お願いしてあります。楽しみ〜  SUE


        [ 第19話/春休み、やんちゃ日記 ]

 高校入試が迫っていたが、相変わらず毎日のように集まって音を出す生活。ロックをやりたいという気持ちが強くなるばかりで、卒業後、高校に通って勉強をしたいという意欲は希薄になってゆくばかりだった。
 高校へ進学せず、上京して、雑誌に出ていた広告で知ったジャズの専門学校へ通いたいと考え、その旨、父に申し出たのだが、高校教師だった父は、当然反対した。
音楽をやるにしても、まだまだこれから勉強しなきゃならんことがいくらでもある。高校を出てからで十分だ、と言われた。まぁ、どう考えても、それが妥当な反応である。それに対して、「ロックを教える人などいない」と主張したのだが、父としては、それを実感として理解できない。そのころは、実際、高校に行っても、ロックを教えてくれる音楽の先生などいなかったのだが、「教える人がいない」という表現を、単なる思い上がりと受け止め、その言葉に激昂した。あとはもう、勢いで押し切られてしまった。
今考えると、これは親に相談するような内容ではない。それを実行するには、普通に考えると家出しかない。

 高校に進学するしか道が無いとなると、唯一楽しみに思えたのが、鹿屋にいた日高君が、同じ高校を受験するということぐらいだった。鹿屋に住んでいる間、鹿児島市に来たときに泊まっていた所が高校入学後の住所となるのだが、番地から判断すると、どうも我が家からそう遠くないらしく、それでは行ってみようということになり、実際に案内されて行ってみると、遠くないどころか、歩いて5分という近さだということが分かった。
 2人とも、鹿児島市内の某公立普通高校に合格し、仲良く連れ立って登校する毎日が始まり、中学3年のころと同じように、学校生活に背を向けて、ロックのことばかり考えての生活が始まることになる。

ロック仲間の日高君が近所に住んでいるというのは、それまでにない楽しい状況だった。入学までの少し長めの春休みの大半を、ロック・アルバムを聴いたり、日高君の弾くアコースティック・ギターで歌ったり、ロック談義をするなどして過ごしたが、そんな中で、少しだけ異色な思い出がある。
当時、すぐそばの山の上に、大規模な団地を建設するための宅地を造成中で、作業終了時刻の午後5時以降になると、その方向から、無数のカラスが騒ぎ立て、その鳴き声が不気味なほどに響き渡ってきた。ねぐらを失ったカラスたちの怒りの行動だったのかも知れない。
鳴き声が聞こえてくる宅地造成中の現場に、日高君と一緒に上ってみると、そこには、カラスの大群が押し寄せていた。こちらから近づいて行くと、警戒して、こちらから一定の距離を保ち続け、大群は少しずつ後退していった。

そんなカラスに近づいてみたくて、地面に仰向けになり、しばらくじっと待っていると、次第にカラスたちも近づいてきて、すぐそばから飛び発ち、空中でゆっくりと翼を動かすときに生じる羽音が、パサッパサッと聴こえてきて、感動したものだ。
カラスが都市部にまで押し寄せてきて、ゴミを漁るようになったのは、そのもっと後のことだったと思う。当時、カラスは人に無闇に近づいたりしなかった。その姿は、間近に見るのでなく、少し離れたところから鳴き声が聞こえ、そして、夕焼けの空を遠い山へ向かって飛び去る姿を見るのが、普通だった気がする。童謡「夕焼け小焼け」の中に、「カラスと一緒に帰りましょう」と、親しみを持って歌われているイメージ通りの存在だった。
現在、わざわざカラスに近づいてみようと思ったり、その羽音を聞いて感激する、などということがあるだろうか?

夏休みにはビルが遊び場になったように、宅地造成中のだだっ広い工事現場も、格好の遊び場になった。
そして、建設途中の大きな排水溝を見たときに、まるでその空間が自分たちを誘っているかのように感じ、そして当然のように、そこに潜り込んだ。そんなことを考え、反射できに実行してしまうあたりが、やはり現役中学生の面目躍如といったところである(笑)
その密閉された細長い空間は、日ごろなかなか経験することのないもので、数百メートル離れた場所で発する声が、すぐそばに聞こえるのが面白くて仕方がなかった。大声を出すわけでもなく、ごく普通の声量で、会話しながらどんどん離れてゆく、そして互いに端と端に達して、同時に地表に上がってみると、とんでもなく遠いところに、互いの姿が小さく見えるのは驚きだった。
理屈の上では、密閉空間の中では音が拡散しないことは分かるが、そういう、細く長い空間を実体験してみると、その余りにもリアルに伝わる話し声に驚いた。その驚きが、想像を遥かに超えたもので、これは、皆にもぜひ教えようということになって、バンドの仲間たちを、そこに招待することにした(笑)
そしてやってきたのは、日高君のほかに、鮫島君と南君の、計4人だったような気がするが、他に1人2人いたかもしれない。招待客たちの反応は、こちらの注文どおりで、皆、その体験を心の底から面白がっていた。

とっぷりと日が暮れて、暗くなった宅地造成地を歩いていると、たまに、そこを近道として使う車が、国道から逸れて登ってきた。人影の無いだだっ広い荒地で、自分たちのような数人を見かけると、一体何で歩いているのだか不思議だろうね、などと話しているうちに、それでは不思議ついでに、もっと不思議な体験をプレゼントしようではないかという発想になってしまうあたりが、これまた中学生の中学生たる面目躍如である(笑)
歩いているだけでも不思議なんだから、全員が人形のようにピタリと止まっていたとしたら、メチャクチャ不思議だろうということになり、次にヘッドライトが近づいてくるのを、今か今かと待ったのであった。
ライトで照らし出されるように、道路がカーブしているところを選んだ。そして、それぞれ、腕を広げたり、歩く途中で止まった感じだったりと、かなり不自然な格好で固まり、しかも、それぞれが別な方向を向いて立った。そして、車が近づいてくるのを待った。
運の悪い車が近づいて来た。次第に速度が落ちるのが分かった。左側通行が原則なのに、僕らが立っている右側に、不自然に近づいてくる。そして通り過ぎたと思ったら、突然加速し、猛スピードで走り去った。

悪ガキども大爆笑である。
「近づいて来るとき、こっちをジーっと見てたよ(笑)」
「変な顔をしてたねえ」
「スピードを急に落としてたしね」
「びっくりして頭を左右に振ってたよ」
「ものっすげえスピードで離れていったね」
「絶対スピード違反だよ」
「今ごろ家に帰り着いて、家族に話してるかもね」

いやはや何とも。何でわざわざこんなことをして喜んでいたのだか? 
人をからかったり驚かしたりするのが大好きな、ちょっと困った中学生たちであった。
         (つづく)


他にいた1人2人は私です!(笑)これが証拠の写真である。やっぱり「ナイス」の試聴を中断した僕を前田君は恨んでいたのかな?? 17話を読んだ小川文明氏が「最後まで聴かせてやれ〜」と言っていました。本当に申し訳ない(笑)。 さて物語はいよいよクライマックスへ突入して行きます。この小説も、もう少しで終わりになります。寂しいな〜。          

左から日高、南、鮫島、末原


          [第20話/ザ・レイク、華々しく登場!! ]

高校への入学祝いに、今は亡き伯母から贈ってもらったのが、エマーソン、レイク&パーマーのデビュー・アルバムだった。
 本国イギリスで、そのアルバムが発表されたのが、前年の11月だったが、日本での発売がいつだったのか、思い出せないでいる。そのころは、現在と事情が異なり、同時発売ということはなかった。たぶん年が明けてからだったと思うが…。
 彼らがデビューしたときの、日本国内でのレビューは、「高度な音楽性を誇る玄人好みのバンド」というイメージを伝えるものだった。その年の11月に『展覧会の絵』が発表され、NHKのテレビ番組『ヤング・ミュージック・ショー』でライヴ映像が放映されるまでは、そんな感じだったと思う。
 ファースト・アルバムの1曲目「ザ・バーバリアン」を初めて聴いたときの興奮を、今でもはっきり覚えている、とくにイントロからオルガンが始まるまでは、一刻一秒に対する心の微妙な動きまでを再現できるほどだ。
 このバンドの出現は、その後の人生に大きく影響を及ぼした。中学3年が、ザ・ナイスに興味を持った時期だとすれば、高校の3年間は、EL&P一色に染められた時期と言い切れる。ロックそのものに対する興味は、プログレッシヴ・ロックの衰退とともに、20代前半で薄らいでしまうが、高校卒業後、国立音大作曲科に進学し、その後、作曲や音楽制作を続けてきたのは、この時期にまずロックへのめりこんだことに端を発している。

 高校入学を待つ春休み、バンド仲間の行動範囲が急に広がった時期というイメージがある。鹿児島の繁華街天文館商店街の中にあったロック喫茶《コロネット》に出入りするようになり、社会人の先輩バンドや、ダンスホール《ヒルトン》で演奏していたプロのミュージシャンとも交流するようになる。

 そして、高校進学後間もなく、末原君が一旦入学した高校をあっさり退学してしまったことには驚かされた。その理由は、単純なもので、長髪に対する規制がきつかったから。教師から毎日口うるさく言われ、髪の毛を引っ張られたりするのに嫌気がさし、別な高校に通っていた鮫島君が髪の毛を長めにしていたのを見て、1年浪人して受験し直したのである。
 しかし、後に語ったところによると、この再受験は、何の意味もなかったらしい。鮫島君にしても、末原君同様に、髪の毛を引っ張られたりするのに耐えながら、髪の毛を伸ばしていたのである。わざわざ別な高校に入学し直したというのに、辞めた高校と、ほぼ同じ仕打ちが待ち受けていたのだ(笑)
 一方、僕と日高君が通っていた高校では、2年生のときの生徒総会で、男子生徒が立ち上がり、髪の毛に関する規制を完全撤廃に持ち込んでしまった。末原君、再入学先を間違えたようだ(笑)
 話のついでに触れておくが、その髪型規制撤廃は、男子生徒だけを対象としたもので、女子生徒については、それまで通り、長さや髪形などの規制が残ったままだった。その結果、男子だけが自由に髪を伸ばし、中にはパーマをかける者も出てくるという、摩訶不思議な状態を招くこととなった。

 高校入学後、最初の大きな思い出は、ヤマハ主催の《ライト・ミュージック・コンテスト》に出場したことだった。翌年に《ポピュラー・ソング・コンテスト》が開始されているので、コピー曲でも参加できたそのコンテストの最終回だったことになる。
 その直前あたりに、ヴォーカルの南君と出会って以来の、新しいメンバーとの出会いがあった。それが、ドラムの中間和之君。この話の冒頭で、メールを送ってきた「福岡在住の友人」というのは、他でもない、その中間君である。

 中学時代に鹿屋から合流した川原君が、高校に進学してからは剣道部の活動が忙しく、なかなかバンド活動に参加できない状態になった。そんなころ、鮫島君が高校で加入したブラスバンド部で、同じフルートを担当していた1年先輩が彼だった。2人とも、ブラスバンドに所属していたのは、ほんの僅かな期間でしかなく、後で考えると、まるで知り合うためだけに入部したようなものだった。
 コンテストへの参加メンバーは、ヴォーカル・南貞則、ギター・末原康志、キーボード・前田芳文、ベース・鮫島秀樹、ドラム・中間和之。参加曲は、ステッペン・ウルフの『ワイルドで行こう』だった。
県医師会館という大きな会場で、大勢の人が見ている前で演奏できることが嬉しくて、腕試し的に出てみよう、という感じの気楽な参加だった。

 この県大会で、ぼくらは反則行為を行なった。事前の打ち合わせで「アンプのボリュームはいじらないこと」という指示があったのだが、それに逆に反応してしまい、全員アンプのボリュームを全開にしたのである(笑)
始めから、入賞することなど考えてもいなかった。参加者中、最年少である。年上の人たちに混ざって、大きな会場で、大勢の人がいる舞台で、思いっ切り演奏できることが嬉しくてしょうがなかっただけである。だから、事前の注意など、ハナからどうでも良かった。ロックにとっては大音量こそ命。この目立つチャンスを、彼らが逃すはずがない。人を驚かすことが大好きなティーン・エイジャーたちである。宅地造成地で餌食になった運転手さんに続き、こんどは、会場一杯のお客さんが対象である。やり甲斐もあろうというものだ。誰1人として、その反則行為を止める者もなく、迷うことなく全員一致で、奇襲作戦は敢行されたのである(笑)
「素知らぬ顔をして、できるだけ自然な振る舞いで」
それぞれ自分に言い聞かせながら、その計画を実行した。ドラムの中間君が、たまたまステージの上から録音技師の姿を見ていたのだが、演奏が始まった途端、弾けるような動作でヘッドフォンを外したらしい。当然、録音は失敗したことだろう。
 バッキングに回っている間は、フット・ボリュームをある程度絞っておいたが、ソロを聞かせる場面が来たら、それを踏み切って、鍵盤の端から端への大仰なグリッサンドで「ギュワ〜〜!」と飛び出し、指を目一杯の高速で動かしまくって、目立ちまくることに全身全霊を注いだ。そして、そのオルガンに付いていたリボン・コントローラーも使い捲くり。それに触れるのは初めてだったが、できるだけのことはしたかったのだ。もう無我夢中である(笑)
 そしてノ、めでたく演奏が終了したら、再び素知らぬ顔で、アンプのボリュームを元の位置に戻しておいた。

 この日の審査は、異常に長引いた。どのくらいの時間待ったのか具体的な数字は覚えていないが、とにかく普通じゃなかった。1時間以上、いや、もっと遅れたのではなかったかノ。
 散々待たされ、そして審査結果は発表された。優勝バンド名が発表される前に、「湖のように無限の可能性を秘めた」という前置きがあったのを、今でも覚えている。ぼくらのバンド名は、メThe Lakeモだった。
 ステージ上で、バンド名が発表された途端、メンバー全員大声をあげながら、ステージに向かって走り出していた。

 チロル会音楽部結成から僅か3年弱、映画音楽の『駅馬車』などを演奏していたことを思えば、よくぞそこまで成長したものである。

 コンテストからほどなく、鹿児島のラジオ局南日本放送のラジオ番組で、特集が組まれることになった。聴取者参加の30分番組を、コンテスト優勝バンド The Lake の演奏のみで埋めるという企画が浮上し、ぼくらはスタジオに呼ばれ、5曲を演奏した。
ローリング・ストーンズの『ジャンピン‘・ジャック・フラッシュ』、グランド・ファンク・レイルロードの『ハート・ブレイカー』、テン・イヤーズ・アフターの『バッド・シーン』、ザ・ナイスの『夢を追って』、そして、コンテスト・参加曲『ワイルドで行こう』。

 そして、さらにその後、コンテスト当日の演奏が、ある番組で公開された。ところが、ぼくらの演奏だけは、コンテスト当日のものではなかった。今ここに書いたばかりの、特集番組のために録音されていたものに差し替えられていたのである。
 この一連の流れを振り返ると、コンテスト終了後の、異常に長い審査の協議内容は、一体何だったのか、大体察しは付く。
審査の中で、反則行為により録音が失敗したことも、当然話題に上っただろう。ザ・レイクの音を録り直すための事後策までが、その時に決定されていた可能性が高い。
 今思えば、ほのぼのとした時代だったと思う。現在ならば、アンプのボリュームをいじった時点で、即失格である。

      (つづく)



まさに、このコンテストの日の写真。ステージ上で、バンド名が発表された途端、メンバー全員大声をあげながら、ステージに向かって走り出していた。」このシーンは何度読んでも目頭が熱くなります。器楽合奏から始まった集まりが、ここまで来たと言う感動は忘れる事は出来ません!!  SUE       次は最終回。 


「チロル会音楽部 〜ロック青春記」  最終回

       [ザ・レイク解散とその後]

高校1年の子供たちがライト・ミュージック・コンテストで地区優勝したことは、一部の人に妬みの感情も植えつけたようで、1度こんなことがあった。
 日高君と2人で、学校帰りに天文館アーケード街を歩いていたら、後ろから追いついてきた男性に声をかけられた。

「レイクの方ですよね?」
 自らを、近くに開店したブティックの「企画部長の○○」であると名乗り、店内でコンサートを開きたいので、後日打ち合わせのために来店してほしいと言う。喜び勇んで、指定された日に行ってみたら、○○という従業員は存在せず、そもそも「企画部」という部署も存在していなかった。
 今振り返ってみると、大したことではないが、当時はおちょくられたことが大層腹立たしかった。実際、声をかけられたときは、自分たちの顔が知られていることが嬉しかったし、話を聞いているときなど、たぶん無邪気に嬉しさを丸出しにしていたはずだ。たぶん、その男は、その様子を、ニヤニヤ笑いながら、面白おかしく話していたに違いない。
しかし、まぁ、そんなことは全くどうでも良い些細なことで、更に更に悔しい体験が、待ち受けていたのである

中学3年のとき、ビルの屋上で催された慰労会に、1人だけ参加できなかったことがあったが、またしても、それと同じように、1人だけ参加できないという事態が発生したのである。しかも、今度は悔しさにおいて、その比ではなかった。県大会で優勝したライト・ミュージック・コンテストの九州大会に参加できなかったのである。
中学のときは、父からストップがかかったのだが、今度はそうではなかった。高校の生活指導の教師が、首を縦に振らなかったのである。
親が教員をしているというのは、実に窮屈なものである。九州大会に出場するためには、学校を欠席しなければならないので、届けを出すようにと言われ、学級担任の先生にそれを告げたところ、生活指導の先生に届けるようにと言われた。そして職員室を訪ねたときの、その小柄な教師の傲慢な態度が、今でも忘れられない。
ふんぞり返って腕組みをしたまま、首を横に振って、こう言った。

「文部省主催じゃないから駄目だ」

返ってきたのは、その一言だけだった。後は取り付く島も無し。言葉を発することもなく首を横に振り続けたのである。
文部省主催でないから、それが理由で参加してはいけないというのなら、ほとんどのコンクールは参加できないことになる。新聞社主催の音楽コンクールや、夏の甲子園なども、同じではないか。
バンドの仲間たちも、それを聞いて大いに立腹した。そんなバカな理由で、なんで参加を断念しなきゃならないのだノ。元々、気持ちが高校生活に向かっていなかったところに、そんなことがあって、益々高校という場に不審感が募った。真っ黒の制服と制帽を無理に着用させられ、髪型も規制される(2年になるまでは髪型規制があった)、高校生という型に嵌められるだけでなく、やりたいことまで潰される。個性を潰されることに対する嫌悪感は強くなる一方だった。

それから2年後、高校3年のときに、第2回ポピュラー・ソング・コンテストの県予選を通過したことがあったのだが(2年のときは、ライト・ミュージック・コンテストが開催されるだろうと予想して、EL&Pの『タルカス』を練習していたのだが、その年から、《ポプコン》が始まり、オリジナル曲を準備していなかったので、参加を断念した)、その時は、担任の先生が、その場で許可してくれ、さらにホーム・ルームの時、九州大会に参加することをクラス・メイト全員に告知したのである。

それじゃあ、あの1年のときの、最後のライト・ミュージック・コンテストでの悔しい思いは、一体何だったのか…。あの小柄な教師の傲慢な拒否は、単に保身のための責任回避だったに過ぎない。「文部省主催でないから」という、いかにも不自然な理由は、単にそこに取って付けただけだったのだ。
繰り返し集まって練習し、目一杯の熱い気持ちをぶつけて演奏し、そして「湖のように無限の可能性を秘めた」という評価と共に勝ち得た県大会優勝の火を、老いぼれ教師1人の臆病風によって、簡単に吹き消されてしまったのだ。そう考えると、2年前のことで、またまた腹が立ってしょうがなかった。

ライト・ミュージック・コンテスト鹿児島県大会優勝後、南日本放送のラジオ番組で特集を組んでもらったが、同様の企画が、もう1度だけ組まれたことがあった。1年の終わりごろ、春休みだったかも知れない。そのとき、バンド内で、はっきり解散する意志が固まっていたかどうか、よく思い出せないのだが、担当ディレクターとの事前の打ち合わせの中で、解散するという姿勢をしっかりと固められたような格好になった。番組のナレーションとインタビューを担当した、当時MBC専属のアナウンサー中野ひろみさんにより、「解散するヤングのバンド、レイク」と紹介され、これによって、県内全域に向けて、はっきりと解散告知をされてしまった。そして、この直後、2年の春に鮫島君が大阪に転校し、それをもってザ・レイク正式解散ということになった。

その時の演奏曲は、ローリング・ストーンズの『ギミー・シェルター』、レッド・ツェッペリンの『胸いっぱいの愛を』、エマーソン、レイク&パーマーの『ビッチズ・クリスタル』、そして、サンタナの『ソウル・サクリファイス』だった。
その後、プログレ系のキーボード・トリオ、トライトンと、ツイン・リードのハード・ロック・バンド、ブートレッグという2つのバンドに分裂して活動することになるが、ブートレッグの第1回のコンサートが、十字屋ホールの5階ホールで行なわれることが、インタビューの中で告知される。
トライトンというのは、元ザ・レイクのメンバーの中から、キーボードの僕とドラムの中間君とで結成したバンドで、ベースは、日高康弘君に頼んでいた。NHK・FMの公開番組と、夕方のテレビ番組に出演した2回だけが、対外的な活動だったと思う。あとは自分たちで集まって練習したり、ジャズやロックのレコードを聴いて音楽談議をしたり、離島へキャンプに行き、マリンブルーの海や、こぼれるような星空に感激したりと、高校生活をエンジョイしていた。

日高君とは何度か書いたとおり、所属高校が同じだったので、2年、3年のときの文化祭も思い出に残っている。2年の時が、学校創立以来初のロック演奏で、演奏曲は、サンタナの『ソウル・サクリファイス』。日高君のギター、ぼくのキーボードの他は、3年生で、ベースがY田さん、ドラムがツインで、M塚さんとT崎さんだった。
その年、学校の備品のエレクトーンを借りて、キース・エマーソンを真似た楽器虐待パフォーマンスを行い(さすがにナイフは無しだったが)、楽器を貸し出した音楽の若い臨時採用の先生が責任を問われて、可哀想に半泣きになってしまった。この体験に懲りて、若い美人先生は、教師続行を断念し、1年で辞めてしまったのだが、これには、今思い出しても心が痛む。
3年のときは、日高君と僕で、下級生2人を従えて、ピンク・フロイドの『エコーズ』を演奏した。中間部は、レコード通りの音作りは当然無理で、ギターの特殊奏法や、FMラジオに手を加えた発信器、ピアノの内部奏法などを使って、独自の展開にした。

ブートレッグは、ザ・レイクを発展させた形と言って良い。末原君と日高君のツイン・リードを前面に押し出し、ヴォーカルは南君。ベースが、日高君や僕と同じ高校のY田さん。キーボードには某エリート私立高校のT曲君。ドラムが、金子正樹君で、スタートした。こちらはライヴ活動を重視し、現在、鹿児島市平之町でバナナ・スタジオを経営している宮脇淳一さんなどは、当時、このバンドの大ファンだったようだ。ブートレッグの活動については、僕などより、この宮脇さんあたりが、今後、熱く語ってくれるのではないかと思う。
高校卒業後は、クラシック・ピアノと古典和声の勉強を始め、20世紀音楽に目移りし、2年の浪人生活の後、国立音大作曲科に進学する。以後、ロック・バンドとは、ほぼ無縁の人生が続いている。
ロックに熱中した中・高校生時代は、自分にとって、何か永遠に続く夏のように煌めいていたイメージがある。その時代が音楽的原点であることに変わりはなく、キース・エマーソンという名前は、今でも何か心の奥をくすぐられる、ちょっと不思議なキーワードとなっている。
末原君と鮫島君のその後の活躍は、よく知られるところであるが、日高君も、その後ベースに転向してプロのミュージシャンとして活動を続けている。金子君と、南君とは、今年になって、約30年ぶりに再会。きっかけは、この話の冒頭に登場した飲み会だった。2人とは、これから、ゆっくりと、いろんなことを語ってみようと思っている。

今年4月に、末原&鮫島両君が、故郷鹿児島で初めて行なうジョイント・ライヴに向けて、参加メンバー、スタッフらによって、着々と準備が進められている。鹿児島から、世界に向けて、ロックを発信したい。それが末原康志と鮫島秀樹の夢でもある。

(完)


ついに終わってしまいました・・・。ザ・レイクが何故、解散しなければ行けなかったのか記憶がないのですが、ここから「BOOTLEG」の歴史が始まる訳です。その後の3年間は更に本格的な活動に入り、僕にとってはギタリストとしての土台を作る大事な年月となるのですが、それにも増してレイクに至るまでのこの時間の貴重さを感じる事が出来た小説でした。前田君、そしてたくさんの友人達へ「ありがとう!」 明日から鹿児島です。 2006/4/25  SUE