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愛の構造(精神構造論仮説)


人はみな心の底に愛を持っている、というのが精神構造論仮説です。

このページは自閉症には触れていません。
しかし、人はみな心の底に愛を持っているという理論は、自閉症の新しい理論が生まれる基礎になっています。
目を通していただければ幸いです。

目次
前書き
1章 他者愛
     他者愛
     大きな緊張
2章 自己愛
3章 愛の働き
     他者愛の機能
     自己愛の機能
4章 精神の原則
     安定の原則
     発展の原則


前書き

精神は他者への信頼(他者愛)と自己への信頼(自己愛)というふたつの信頼(愛)によって支えられているという仮説を提出しました。

そして、精神は支えられているふたつの信頼(愛)を全力をあげて守っています。
鳥居が2本の柱で支えられているのに似ています。
あるいは、お城が内堀と外堀で守られているのに似ています。

例えば、ある人が湖で船に乗っていたとします。
ところが風が強くなってきて波が出てきました。
船に乗っている人は不安になってきます。
このときの不安の度合いは状況によっても左右されますが、人によっても異なります。

まず、乗っている船がどれほどの波に耐えられるのかという船の性能が問題です。
遊覧船ほどの大きな船であれば、不安を感じる人はほとんどいないでしょう。
しかし、手で漕ぐ小さなボートであれば多くの人が不安を感じるはずです。
そういった、船の大きさで船への信頼度が決まります。

次に、乗っている人がどれほど泳げるかといった個人の能力が問題です。
泳ぎが得意である人とまったく泳げない人とでは、おなじ状況でも不安の度合いが異なります。
こういったその人の能力と、自分をどれほど信頼しているかといったその人の性格によって、自己への信頼度が決まります。

そうやって、船への信頼度と自己への信頼度というふたつの信頼度によって、個々の人の安心の度合い、不安の度合いが決まります。

これとおなじように日常の生活においても、自己をとりまく世界(他者)への信頼の度合いと、自己への信頼の度合いというふたつの信頼の度合いが、安心の度合いや不安の度合いといった、精神の安定度を決めます。


1章 他者愛 精神の下部構造(第一の仮説)

赤ちゃんは出産後早期に母親を刷り込みます。
はじめは、母親を刷り込むというよりは、母親の大まかな特徴である人という種が刷り込まれます。
その後、人という種の中から母親という個が特定されていきます。

母親を刷り込むことによって、母親のそばにいると安らぎが生まれるようになります。
また、人という種のそばにいても安らぎが生まれるようになります。
母親のそばにいると安らぎが生まれるというのは、母親への信頼が形成されたと言い換えることができます。
母親を刷り込むことによって母親への信頼が生まれます。
また、人間への信頼が生まれます。

生後6ヶ月以前の赤ちゃんにはほとんど恐怖感は観察されません。
恐怖感は生後6ヶ月以降に現われてきます。
生後6ヶ月ごろからはじまる人見知りという現象は、恐怖感が生まれたことを示しています。

ほとんどの幼い動物は、見慣れぬ大きなものの接近、見慣れぬ大きなものの視線、聞き慣れない大きな音などに恐怖を感じます。
そのうちの、見慣れぬ大きなものの接近と、見慣れぬ大きなものの視線に対する恐怖が、人見知りとなって現われます。

しかし、恐怖を感じても、母親の後ろに隠れたり、母親に抱かれているだけで安らぎが生まれます。
この現象をどのように解釈すれば良いのでしょうか?

この現象を、母親への信頼が不安や恐怖といった緊張を抑えるという構造が精神内部に形成された、と解釈しました。
そしてこれを、精神の下部構造と名付けました。
この構造が形成されることによって、母親を見失った幼い子どもは、それだけで恐怖を感じ、すぐに激しく泣き始めるようになります。

母親への信頼によって抑えられている恐怖感には浮かび上がろうとする浮力があります。
母親からの分離はそれだけで恐怖を意味し、分離の予感は不安を意味します。

分離の恐怖と、分離の不安が生まれると、母親への後追い行動が生まれます。
これがボウルビイの、生後6ヶ月から9ヶ月ごろにはじまる愛着の形成期として解釈されてきました。

  母親への信頼
  ↑↑↑↑↑↑ (浮力)
 恐怖 不安 緊張


1.他者愛

刷り込みによって形成された母親への信頼のイメージを核として、成長とともにその信頼のイメージが広がっていきます。
母親への信頼を核として、その周りに身近な人への信頼が形成され、その周りに一般他者への信頼が形成され、さらに、動物も植物も自然も、自己をとりまくすべてへと信頼が広がります。

こうして、自己をとりまくすべてへの信頼といった、一つの大きな他者への信頼のイメージ群が形成されます。
母親への信頼を刷り込みによって形成することが、他者を信頼することに広がり、人類を信頼することに広がり、世界を信頼することに広がります。

他者への信頼は個々のばらばらな集まりではなく、イメージ群といったネットワークを形成しています。
ひとりの人に裏切られると、すべての人が信頼できなくなったり、世界を信頼できなくなったりします。

逆に、ひとりの人を信頼できるようになると、すべての人が信頼できるようになり、世界を信頼できるようになることもあります。
他者への信頼はつながりあったひとつのイメージ群を形成しています。

他者への信頼は、ひとつのイメージ群といっても、均質ではありません。
身体が様々な臓器と骨格と筋肉などでできているように、傷ついた時に致命的な部分と、傷ついてもかすり傷ぐらいですむ部分があります。
中核部分から周辺部分へといった、重要度に応じた階層があります。

信頼している母親が病気になれば、子どもは心配します。
母親の病気が治り、母親が元気になることを願います。
母親が子どもを守ろうとするように、子どもも母親を守ろうとします。
支えられているときは信頼という表現が適切ですが、それを守ろうとするときは愛という表現が適切です。

母親への信頼は母親への愛でもあります。
他者への信頼は他者への愛でもあります。
したがって、精神内部に形成された一群の他者への信頼のイメージ群を、他者愛と名付けました。
他者愛とは他者への信頼のイメージ群を守ろうとする働きのことです。

フロイトは、親が示した規範を内面化したものがスーパーエゴとなって良心を形成すると解釈しました。
したがって、親が子どもに善悪を教える必要があると解釈されています。
しかしこれは誤解です。

信頼しているものは守ろうとします。
「自分が乗っている船に穴を開けてはいけません。」と、親が教える必要はありません。
穴を開けたら大変なことになるということは、おのずとわかるようになります。
ですから親が、「そんなことをすると穴が開くよ」と、子どもに注意する必要はありません。

善悪は、他者への信頼と愛によってうまれます。
他者への信頼を強固にするのは善であり、他者への信頼を損なうものは悪なのです。
したがって、他者への信頼と愛を育てることが、善悪を教えることになります。


2.大きな緊張

生後6ヶ月ごろから、赤ちゃんは恐怖を感じるようになります。
そして、生後8ヶ月ぐらいの赤ちゃんは、母親から離されると激しく泣くようになります。

この悲しみは、空腹や不快や肉体的な痛みから生じる悲しみとは異なります。
精神的なもので、とても激しい悲しみです。
母親からの分離によって現われるこの激しい悲しみを、母親への信頼によって抑えられていた大きな緊張の放出と解釈しました。

母親への信頼が、悲しみや不安や恐怖といった大きな緊張を抑えています。
母親への信頼が大きな緊張を抑えているので、母親がそばにいるだけで赤ちゃんの精神の表層に安らぎが生まれます。
母親が存在する意味がここにあります。

(エリクソンは、肉体的な緊張を伴なわない不安はない、と書いています。私は、同じように、精神的な緊張を伴なわない不安はないと推測します。不安は精神の緊張で、悲しみは緊張の放出だと考えます。また、不安の実体は放出されず精神内に留まっている緊張であると考えます。したがって、悲しみも不安も実体は緊張です。同じように、恐怖とは放出されなかった大きな緊張であり、大きな悲しみは大きな緊張の放出であると考えます。)

母親のそばは安心の世界です。
その外側は不安の世界です。
そして、その外側は恐怖の世界です。
恐怖の世界は母親を完全に見失った世界、迷子の世界です。

母=安心の世界⇒不安の世界⇒恐怖の世界

安心の世界にいる幼い子どもは未知の世界、不安の世界への探索をおこないます。
探索や探検や冒険を求めます。
それにたいして、不安の世界にいる幼い子どもは安心を求めます。
したがって、旺盛な探究心には精神の安らぎが不可欠です。
子どもの成長とともに、探索と学習によって安心の世界が拡大していきます。

安心の世界が拡大するということは、信頼の世界が拡大するということです。
信頼の世界が拡大するということは、守ろうとする世界が大きくなることで、愛が大きくなるということです。


2章 自己愛 精神の上部構造(第二の仮説)

2歳から4歳ぐらいの第一反抗期にあたる幼児は、ゲームに負けると激しく泣いたり怒ったりします。
この現象を、自己への信頼のイメージが不安や、緊張や、悲しみを抑えている、という構造として解釈しました。
これが精神の上部構造です。

子どもの成長とともに自己への信頼のイメージは拡大し、自己への信頼のイメージ群が形成されます。
自己への信頼のイメージ群によって不安や緊張や悲しみが抑えられているという構造が形成されることにより、自己への信頼のイメージ群を支え守ろうという働きが生じます。
この自己への信頼のイメージ群を支え守ろうとする働きを、自己愛と名付けました。

  自己への信頼
  ↑↑↑↑↑↑ (浮力)
不安 緊張 悲しみ 


1.自己愛

他者への信頼は刷り込みによって生まれると考えました。
では、自己への信頼がどのようにして生まれるのかという問題があります。

幼児は、はじめ、自己をひとりの他者として語りはじめるそうです。
したがって、他者への信頼が広がっていく過程で、精神における内的他者として自己を認知し、ひとりの他者として自己への信頼が生まれるのではないかと推測しています。

エリクソンは、基本的信頼を世界と自己への信頼だとしています。
しかし、自己の認識は生後18ヶ月頃までは成立していません。

寝たふりをするといった、自分のふり遊びは生後18ヶ月過ぎから生まれます。
また、鏡を見せたとき、汚れがつけられている自分の顔のその部分をさわるようになるという実験でも、自己の認識は18ヶ月過ぎからうまれると考えられています。

したがって、早期に形成される信頼には自己への信頼を含めることはできません。
自己への信頼の形成は、他者への信頼の形成の後であり、独立したものとして考える必要があります。

自己への信頼が不安や緊張や悲しみを抑えるという、上部構造の成立は少なくとも生後18ヶ月以降になります。
2歳頃の反抗期の始まりが上部構造の成立期だと推測しています。

幼い子どもにとって、周りの人には簡単に出来ることのほとんどが自分にはできません。
もしも、そういう環境に大人が置かれたらどうなるでしょうか。
精神的に強いはずの大人でさえ、意欲を失ってしまうのではないでしょうか。

しかし、強固な自己への信頼を築き、その自己への信頼さえ守れば意欲を保つことができます。
幼い子どもの成長の意欲は自己への信頼を守ることによって支えられていると考えます。

自己への信頼を形成することにより、精神は他者への信頼と自己への信頼という二重の信頼で支えられるようになります。

しかし、自己への信頼は始めは小さくて弱くて非常に傷つきやすいです。
ゲームに負けただけでも大きく傷つき、抑えられていた緊張が浮上し、泣いたり怒ったりします。
2歳から4歳ぐらいまでの第一反抗期は、自己への信頼を守るための戦いの時期です。

知識が広がり、技術が磨かれ、能力が増大することにより、自己への信頼が広がり強固になっていきます。
成長とともに他者への信頼が広がり、自己への信頼が広がります。
そうやって、子どもは母親に頼らなくても自己に頼ることができるようになり、1人で世界に長時間出て行くことができるようになり、自立へと踏み出していきます。

自立は他者への信頼と自己への信頼の拡大によって生まれます。
しかし自立することによって、わたしたちは母親の存在の意味の大きさを忘れてしまいました。


3章 愛の働き

他者愛も自己愛も、ともに大きなイメージ群なので、あらゆる事象と直接あるいは間接につながっています。
したがって、他者愛も自己愛も非常に傷つきやすいです。
北極海でアザラシの子どもが死んだニュースを見ても悲しいし、テストの点が少し下がっても悲しいのです。

精神が傷つきやすいのは、身体が傷つきやすいのと同じです。
というより、身体は小さくて有限ですが、精神は大きくて無限です。
そういう意味で、身体よりも精神のほうが傷つきやすいです。

身体は不安と恐怖と痛みによって大怪我から守られています。
不安と恐怖と痛みがなければ何度も大怪我をし、私たちはほとんど生き残れなかったでしょう。

同じように、他者愛と自己愛も不安と恐怖と悲しみによって守られています。
しかし、守られてはいても怪我はつきものです。

身体の傷は、下から新しい皮膚が生まれ、古い皮膚が脱落していくことによって治ります。
小さな傷は自然に治ります。
しかし、大きな傷は治療が必要です。

皮膚は下から新しい皮膚が生まれてきますが、精神は新しい経験が上から積み重なって行きます。
悲しいことがあっても小さな傷であれば、新しい経験によって自然に癒やされます。
身体の傷と同じように、精神の傷も小さな傷は自然に癒されます。

しかし、癒されなかった大きな傷は秘められて残ります。
身体の傷とおなじように精神の大きな傷も治療が必要です。


1.他者愛の機能

愛する人の死などによって他者愛が傷つくと、秘められていた大きな緊張が浮上します。
そして、悲嘆といった大きな悲しみや恐怖感が現われます。
愛する人の死は、大きな悲しみだけでなく、恐怖感もともないます。

精神は精神の表層、意識の層に大きな悲しみが浮上することをさけようとします。
あまりにも大きな悲しみであり、あまりにも大きな緊張であり、恐怖だからです。

したがって、どのようなことがあっても侵されてはならない、守らなければならないものとして、精神は精神内部に築かれた他者愛を全力をあげて守ります。
精神が全力をあげて守るので、他者愛は精神内部で神聖不可侵性を帯びて君臨することになります。

他者愛は、中世のヨーロッパにおけるキリスト教の法王のような存在として、神聖不可侵性を帯びて、精神の世界に君臨しています。
何人たりとも、その神聖を犯すことはできません。

刷り込みに失敗したり、刷り込みが不十分な場合を除き、はじめに刷り込みによって形成される母親への信頼には、個人差はないと考えます。
したがって、初めに形成される他者愛にも個人差はないと考えます。
また、他者愛は精神によって全力をあげて守られています。

したがって、他者愛は他者愛として成長します。
杉の木はどこで生えても杉の木として育つように。
松の木はどこで生えても松の木として育つように。

しかし、おなじ松の木でも、環境によって育ち方に違いが生まれます。
風雨にさらされた岩場にはえた松と、庭園に植えられた松では姿形が異なります。
それとおなじように、育った環境によって他者愛の育ち方にも個人差が生まれます。
しかし、他者愛は他者愛として育ちます。

(他者愛の核は成長とともにその対象が母親から移行します。青年期には恋人が他者愛の核になり、親になると子どもが他者愛の核になります。親になると、子どもの死のほうが母親の死よりも悲しみが大きく受け入れがたいです。)


A.他者愛が誰かに傷つけられた時

愛する人(他者愛の核の対象)に危険が近づいたら、命をかけても愛する人を守ろうとします。
愛する人を守る為なら、みずからの命さえも惜しみません。

愛する人が誰かに殺されたら、他者愛が傷つき、他者愛によって抑えられていた大きな緊張が浮上します。
愛する人の死は、耐えがたい大きな悲しみとなって現われます。
その大きな悲しみが殺人者に向けられたときは敵意となります。
そして殺人者は命をかけても戦う敵とみなされます。

ボスニアの紛争は、復讐による民族間の戦争になってしまいました。
かつては、アマゾンの奥地でも、代々続く部族間の復讐によって殺される人が多かったそうです。
今はイラクで宗派間の復習の連鎖がはじまってしまいました。

人類最古の法典と言われるハムラビ法典は、目には目を歯には歯を、という銘文で有名です。
これは、一般的には厳しい法律と解釈されていますが、実際はそうではなく、過剰な報復を禁止した法律だそうです。

他者愛が傷つけられたときの敵意は非常にはげしいので、報復は過剰になりやすいです。
その過剰の連鎖がはじまると、戦争になってしまい誰も止められなくなってしまいます。


B.他者愛が愛する人に傷つけられた時

他者愛は愛する人によってこそ、もっとも手ひどく傷つけられます。
したがって、愛する人のささいな言動でも傷つけられてしまいます。
恋人に裏切られたときのダメージは計り知れません。
恋人は敵とみなされます。
他者愛を守るために恋人を殺してしまうことさえ起こります。

他者愛は精神内部に築かれています。
愛する人は他者愛の外的対象です。
そして、精神内部に築かれている他者愛の方が愛する人よりも優先されます。
したがって、他者愛を守るために、ささいなことで愛する人が敵とみなされることがあります。

夫婦間の家庭内暴力では、他者愛を守るために愛する人に暴力を振るい、暴力を振るわれた人は他者愛を守るために暴力を振るう愛する人にすがります。

幼い頃に他者愛がうけた傷が癒されていないと、他者愛は傷つきやすくなります。
そして、他者愛を守る防衛反応が過剰になります。
したがって、他者愛が幼い頃に傷をうけていて、癒されていないということが、他者愛を守る防衛反応が過剰になる原因になります。


C.他者愛を自己が傷つけた時

交通事故などの過失や、不注意やはずみによって他者を傷つけてしまったときは、自己が敵とみなされます。
己の精神が自己を敵とみなし、自己を責めます。
罪悪感です。

良心とは他者愛を自己が傷つけたときに自己を責める働きです。
あるいは他者愛を傷つけないように自己を律する働きです。
超自我(スーパーエゴ)と考えられていたものは、親が示した規範を内面化したものではなく、他者愛の働きです。

私たちは、他者を精神的、肉体的に傷つけないように、細心の注意をはらっています。
他者を傷つけることは、自己の内なる他者愛を傷つけることを意味するからです。
通常は、他者を傷つけることは自己を傷つける以上のダメージとなります。
したがって通常は、復讐や防衛や過失以外で、他者を傷つけることはありません。

しかし、多くの子どもたちが、肉親の死や肉親の不幸を、自らの罪であると解釈してしまいます。
他者愛を自らが傷つけた時は、敵意として放出できないので、大きな緊張が残ってしまいます。
大きな緊張は恐怖感として残ります。

罪悪感には恐怖感がともないます。
したがって、罪悪感は抑圧されて秘められるので、なかなか癒されません。

正当化できない殺人は罪悪感と恐怖感を伴ないます。
通常であれば、罪悪感は被害者への謝罪と、被害者からの許しによって解消されます。
しかし、殺人という罪は、被害者からの許しを得られません。
したがって、殺人による罪悪感と恐怖感は癒されにくいです。


D.他者愛が母親によって傷つけられた時(不在、無視、叱責、暴力など)

母親のちょっとした言動で、幼い子どもの母親への愛は傷つけられてしまいます。
また、子どものちょっとした言動で、母親の子どもへの愛が傷つけられてしまいます。
母親は愛が傷つけられた敵意を子どもへ向けても、教育やしつけという名で、正当化することができます。
しかし、正当化できないときは、罪悪感を免れません。

いっぽう、子どもは母親からどんな仕打ちをうけても、どんなに虐待されても、母親を敵とみなすことは出来ません。
母親を敵とみなすことは母親を失うことを意味し、恐怖を意味するからです。
母親を失わないように、子どもは母親の行為を正当化し、自分に責任があると解釈します。
そして、母親にすがります。

しかし、他者愛が母親に傷つけられると、子どもは母親から距離をとるようになります。
他者愛がそれ以上傷つけられないように、母親への愛を守るために、母親への愛と現実の母親とを切りはなします。
母親から距離をとり、その分だけ母親を他人にします。

母親の言動ではなく他人の言動とみなせば、他者愛は傷つかずにすみます。
母親への愛を守るために母親から距離をとると、脱愛着と呼ばれる現象になります。

母親に対して敵意を感じると、母親への愛を自己が傷つけてしまう危険があります。
母親に対する敵意は抑圧されます。
そして、母親への敵意は、自分より弱い者に向けられて、放出されます。
いじめです。

しかし、敵意を母親にぶつけることができ、その敵意が母親によって癒されれば問題は生じないでしょう。
他者愛の傷も、はげしい敵意も、母親の謝罪、「ごめんね」の一言があれば、許しが成立し癒されます。
あるいは、謝罪がなくとも許しが成立すれば癒されるでしょう。
しかし、癒しには、秘められた悲しみの放出が必要なのかもしれません。

敵意は、相手からの謝罪とみずからの許しによって解消します。
あるいは、みずからの許しだけでも解消するかもしれません。
その逆に、罪悪感はみずからの謝罪と相手からの許しで解消します。
あるいは、相手からの許しだけでも解消するかもしれません。

したがって、どのように過酷な現実であっても、謝罪と許しが成立すれば精神に安らぎが生まれます。
あるいは、許しが成立するだけでも精神に安らぎが生まれます。


2.自己愛の機能

精神は他者愛を全力をあげて守っています。
同じように、精神は自己愛を全力をあげて守っています。
しかし、自己愛は自己による自己への信頼と、他者による自己への信頼という二面性を持っています。
それだけ他者愛より複雑で解らないことが多いです。

自己への信頼を解りやすい言葉に置きかえると、自分は頼りになる、自分には能力がある、自分は優れている、自分には頼れるだけの何物かがある、といった感覚になります。
また、自分には人に愛される何物かがあり、人に信頼される何物かがあるという感覚でもあります。

他者愛は、中世のキリスト教の法王のように精神の世界に君臨しています。
それに対して、自己愛は中世のキリスト教世界の国王のように、精神の世界で君臨しています。

国王は法王にはさからうことはできません。
人民は国王にさからうことはできません。


A.自己愛が他者によって傷つけられた時

他者によって自分が信頼されなかったり、尊重されなかった時は、自己愛の反発が自尊心の反発として現われます。

相手が弱いときは怒りが現われます。
しかし、相手が強いときは怒りは抑えられ、自尊心の反発を現わしません。
自己愛を守るために戦うか、自己愛を守るために戦わないで自己愛を隠すか、の二通りの戦法があります。

自己愛が傷つけられたときに現われる怒りは、他者愛が傷つけられたときに現われる敵意に比べれば、はるかに弱いです。
愛する人のためなら命をかけて戦いますが、自分のために自分の命をかけて戦うことはしません。
怒りと敵意の違いです。

自己愛が強固であれば、ささいなことでは傷つきません。
したがって、自己愛の反発は現われにくくなります。
謙虚な人です。

それにたいして、自己愛が弱い人も、自己愛を隠すので自己愛の反発は現われにくいです。
卑屈な人です。
謙虚な人と卑屈な人では、似ている面もありますが、内容的にはまったく逆です。


B.自己愛が自己によって傷つけられた時

精神内部に築かれている自己への信頼、自己愛を現実の自己が傷つけると、自己が責められます。
自己が責められるといっても、罪悪感ではなく、恥という感覚です。

現実の自己と自己愛とは別のものです。
自己愛は精神の内部に築かれています。
身体的に傷ついたときは、現実の自己が傷つきます。
しかし、精神的に自己が傷つくときは、精神内部の自己愛が傷ついています。
したがって、精神的には、自己とは自己愛のことを指しています。

そして、精神的には自己愛が現実の自己よりも優先されます。

反社会的行為が発覚しそうになると、自殺することもあります。
自己愛を守るために現実の自己が犠牲にされます。
しかし発覚しなければ、他者による自己への信頼を傷つけたことにはならず、自己は責められないかもしれません。


C.自己愛が母親によって傷つけられた時

通常は、非難されると自尊心が傷つき反発が生まれます。
しかし、母親に非難されたときは単純ではありません。
母親に非難された時、子どもが採れる反応としては、母親の非難に適応して自己愛を守るか、非難に適応できないときは母親と戦うか、自己愛をかくすか、という三つの防衛パターンが考えられます。

適応するというのは、母親に非難されない良い子になろうと努力するパターンです。
戦うというのは、母親の非難に反発して強情になるパターンです。
傲慢になり我がままを押し通します。
自己愛をかくすというのは、母親の非難を受け入れ卑屈になるパターンです。
卑屈になって自尊心をかくせば、自尊心はそれ以上傷つかないですみます。

自己愛が母親によって傷つけられた時、母親に対して怒りを放出することができ、母親がその怒りを癒すことが出来れば、精神に問題は生じないでしょう。
しかし母親への怒りを抑圧したら、怒りは精神内部にとどまります。

(恋人に裏切られると他者愛も傷つきますが自己愛も傷つきます。人間関係ではほとんど、他者愛と自己愛との両方が関係しています。)

大勢の人の前で話をするときは「失敗したらどうしょう」と、不安にかられることがあります。
恥をかくことを恐れます。
自己への信頼を自分が傷つけることを恐れます。

自分の得意分野で自分より優れた人が身近にいると妬みを感じます。
あるいはライバルとして負けないように競います。
同窓会へ行って、誰かが自分より出世していたりすると、自分がみじめに感じられてしまいます。
みな、自己愛の上部構造から生じる反応です。


3.他者愛の問題

愛国心が傷つけられると、国民の間に主戦論が生まれます。
抑圧された母親への敵意と怒りも、正当な対象を見出し、主戦論の先頭に立ちます。

主戦論は、国のため、同胞のため、家族のためという他者愛と正義(他者愛の理念)を旗印に掲げます。
反戦を唱えれば他者愛を傷つける者として、裏切り者や敵とみなされて粛清されてしまいます。

人を殺すと、通常は、良心にとがめられ罪悪感が生じます。
しかし、他者愛を守るための戦争では、敵の兵士を殺してもほとんどの兵士は罪悪感を感じません。
他者愛を傷つける敵を殺しても、通常は、罪悪感はうまれません。
他者愛こそ殺人を正当化し、戦争を生み出します。

他者愛が弱くて傷つきやすいと、他者愛を守るために、不安や恐怖や悲しみを憎しみや敵意に転化しやすくなります。
それにたいして、大きくて強固な他者愛は、愛が傷つけられた時に、その悲しみを憎しみや敵意に転化しにくいです。

戦争のない平和な世界が生まれるためには、家族や同胞や民族や国家などへの愛よりも、人類愛、ヒューマニズムといったもっと大きな他者愛が必要です。
したがって、子どもの他者への信頼と愛を育てることが育児と教育の要になります。


4章 精神の原則(第三の仮説)


安定の原則

精神は生まれたのちに、下部構造と上部構造を形成します。
しかしそれ以前の問題として、精神には安定を求めるという原則が存在すると考えました。
精神における安定を求めるという原則が、緊張や恐怖や不安や悲しみを抑圧するという現象を生み出すと考えました。

緊張が生まれると、なんとかその緊張を解消しようとします。
しかし、緊張を解消できないときは、緊張を抑圧します。
緊張や恐怖や不安や悲しみが抑圧されることによって、精神の表層(意識レベル)での安らぎが生まれます。
この意識レベルでの安らぎを求める原則が安定の原則です。

しかし、安定を求めるという原則だけでは精神の成長が生み出されません。
成長を生み出す原則の存在が推測されました。
そうやって見い出したのが発展の原則でした。


発展の原則

巣穴を持つような小動物は、恐怖や不安を感じると巣穴へ逃げ込みます。
恐怖や不安が解消し精神に安定が戻ると巣穴の外へ出てきます。
精神が安定しているか安定していないかで、行動の方向が逆転します。

恐怖や不安を感じたときに、巣穴へと向かわせるベクトルを生み出すものを、安定の原則と名付けました。
そして、恐怖感や不安が解消し、安らぎが生まれたときに、巣穴から世界へと出て行くベクトルを生み出すものを、発展の原則と名付けました。
行動を導くベクトルとして、相反する方向性をもった二つの原則、それが安定の原則と発展の原則です。

遊園地で迷子になった子どもは、安定の原則に導かれ、ひたすら母親を捜し求めます。
メリーゴーランドにも見向きもしなくなります。
迷子になって世界の真っ只中にいる子どもの目は、世界の中にいても世界には向けられません。
見失った母親を捜し求めます。

母親に抱かれた子どもの目は世界を見つめます。
母親と共にいることによって、未知の世界の中にあっても、精神の安らぎを保つことができます。
母親は幼い子どもにとって安らぎを意味し発展の基点を意味します。

安全基地といわれていますが、小動物にたとえるなら巣穴を意味します。
不安になると幼い子供は母親の元へ戻り、不安が解消し安らぎが戻ると、母親の元から世界へと出て行きます。

母親への信頼が強固であればあるほど、緊張は強固に抑圧され、精神は安定し、より発展の原則に導かれます。
逆に、母親への信頼が弱く傷ついていれば、精神は不安を抱え傷つきやすく、それだけ発展の原則に導かれることが阻害されます。

安定した精神は、安定した精神として現われるというよりは、発展を求める精神として、物事への強い興味と集中力となって現われます。

しかし、ひたすら前進する探検家はやがて迷子になってしまいます。
安定をベースとしていない、秩序づけられていない発展は発展としての意味を失います。
発展しては安定を求め、発展しては安定を求め、二十年近い歳月をかけて幼い精神が大人の精神へと成熟していきます。

精神は世界の情報を受け取るとともに、自己の情報をも受け取ります。
外の世界と内なる自己とに開かれています。
そしてその精神は、安定の原則と発展の原則という二つの原則に導かれています。

したがってこの二つの原則は自己だけに適用されるのではなく、世界に対しても適用されます。
精神は自己の安定を求めるだけでなく、世界の安定をも求め、自己の発展を求めるだけでなく、世界の発展をも求めます。

しかし、子どもの精神は不安になりやすくまだ十分には成長していません。
したがって、子どもは自己の安定と自己の発展をより強く求めます。
それに対して、大人の精神は安定と発展をより高いレベルで達成しています。

大人の精神の安定の原則と発展の原則は、自己に適用されるより、より他者に適用されます。
子どもはより自己の為に生き、大人はより他者の為に生きます。
父親はその収入のほとんどを家に入れ、母親はその時間と労力のほとんどを家族の為に使います。

精神は他者愛と自己愛に支えられています。
そして、精神は他者愛と自己愛を守っています。
二つの愛は、必ずしも常に両立するとは限らず葛藤もありますが、私たちは二つの愛の調和を目指しそれなりの調和を保って生きています。
そしてより高いレベルで調和を達成することが理想です。

私たちは他者への信頼と自己への信頼によって支えられ、他者への愛と自己への愛によって支えられています。
他者への信頼と自己への信頼、他者への愛と自己への愛の健全なる成長が、個を支え社会を支えます。

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