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自閉症論 4章

自閉症の症状

目次
1.診断基準
2.テリトリー意識
  様々な縄張り意識
  自閉症の子どもの特徴
3.感覚障害
  感覚遮断
  感覚過敏
4.感情障害
5.集中
6.認知障害
  スモ−ルフォーカス
  感覚統合
  認知記憶システムと単純記憶システム
  言語障害と時間感覚
7.その他
  睡眠障害
  自傷
  他害(new)
  偏食


前書き

定型の赤ちゃんは、動けるようになると母親の後を追うようになります。
カルガモのヒナが親の後を追うのとおなじです。
カルガモのヒナが親の後を追うのは、親を刷り込んでいるからです。

後を追うのは、親のそばにいると安心がうまれるという脳の機能がうまれているからです。
自閉症の子どもは、この脳の機能がうまれていないので母親の後を追いません。

通常、恐怖感は生後6ヶ月から9ヶ月ごろにかけてうまれてきます。
定型の赤ちゃんは、恐怖感がうまれてくると、見知らぬ人の接近や視線を恐がるようになり、人見知りがはじまります。
また、母子分離にも恐怖や不安を感じるようになり激しく抵抗するようになります。

恐怖感がうまれてきても、母親のそばにいれば安心がうまれます。
母親は安全基地として機能します。
なにか恐いことがあっても、安全基地に逃げ込めば安心です。

しかし、自閉症の赤ちゃんは、母親のそばにいても安心がうまれません。
なにか恐いことがあっても逃げ込む安全基地がありません。

自閉症の赤ちゃんは抑えることのできないまま恐怖感をかかえて生きていかなくてはなりません。

それは、お化け屋敷のなかで、たったひとりで生活しているようなものです。
24時間、恐怖にさらされています。

しかし、24時間、恐怖にさらされていたのではたまりません。
そこで、見えない、聞こえないといった、自己を守るための症状があらわれます。

自閉症の症状は、刷り込みの障害という脳の機能障害からくる特徴と、恐怖感からうまれる症状とのふたつに分けることができます。

したがってこれから、自閉症の症状を
脳の機能障害からくる特徴と
恐怖感からうまれる症状として分析します。

まだ解らないことが多く、不十分なところも多いですが、みな様の考察の参考にしていただければ幸いです。
また、ご意見をいただけると嬉しいです。

(特徴というのは治すといった治療の対象ではなく、治せないという意味で使っています。脳の機能障害は、治すといった問題ではなく、他の学習でおぎなうものです。それにたいして、症状というのは治療の対象で治せるという意味で使っています。自閉症には治せない特徴と、治せる症状とがあります。)


1.診断基準

自閉症の診断基準は
次にあげる、(1)、(2)、(3)、の12の診断項目の中から
合計6つ、(またはそれ以上)
少なくとも(1)から2つ、(2)と(3)から1つずつ、 の項目を含む
ということになっています。

(1) 対人的相互反応における質的な障害  
 (A) 目と目で見つめ合う、顔の表情、体の姿勢、身振りなど、非言語性行動の使用の著明な障害。
 (B) 発達の水準に相応した仲間関係をつくることの失敗。
 (C) 楽しみ、興味、成し遂げたものを他人と共有することを自発的に求めることの欠如。
 (D) 情緒的相互性の欠如。

(2) 意志伝達の質的な障害
 (E) 話し言葉の遅れまたは欠如。
 (F) 十分会話のある者では、他人と会話を開始し継続する能力の著明な障害。
 (G) 常同的で反復的な言葉の使用または独特な言語。
 (H) 発達水準に相応した、ごっこ遊びや社会性を持った物まね遊びの欠如。

(3) 行動、興味および活動の限定され、反復的で常同的な様式
 (I ) 強度または対象において異常なほど、常同的で限定された型の、1つまたはいくつかの興味だけに熱中すること。
 (J) 習慣や儀式にかたくなにこだわる。
 (K) 常同的で反復的な衒奇的運動。(例えば、手や指をぱたぱたさせたりねじ曲げる、または複雑な全身の動き)
 (L) 物体の一部に持続的に熱中する。

最初に、(A)から(L)までの12の診断項目を分析します。


(A) 目と目で見つめ合う、顔の表情、体の姿勢、身振りなど、非言語性行動の使用の著明な障害

生まれたばかりの赤ちゃんは、もしも部屋が薄暗ければ、1時間ほど母親の顔や目を一心に見つめます。
しかし、早期発症タイプの自閉症の赤ちゃんは母親の目を見つめません。
おそらく、新生児期にも、母親の目を見つめたことがないのだと思います。

母親の刷り込みが妨げられると、母親には母親という特別な意味がうまれません。
母親はただの人になっています。

さらに、人の刷り込みが妨げられているので
ヒトという種も自分の仲間という特別な意味がうまれていません。
したがって、母親もヒトという種も、未知の生物です。

自閉症の子どもの世界は、はじめは、母親もいない、仲間もいない
未知の生物に取り囲まれた、たったひとりの世界です。

母のいる地球という星に生まれてきたのではなく
未知の生物がいる未知の星に生まれてきたようなものです。

ときどき自分を抱いて、おっぱいを飲ませる未知の生物が
危険な生物なのか、危険でない生物なのか、はじめは、それさえも解りません。

危険な生物ではないということが解るまでは、母親でさえも安心できません。
母親も警戒すべき未知の生物です。
しかし、生物という概念も生まれていないでしょう。
未知の何かという感じではないでしょうか。

そうやってしばらくたつと
母親は危険ではないということが解ってきて、安全だということが解ってきます。

そうするとはじめは、母親は警戒すべき生物から
机や椅子といった物とおなじような無害な存在になるのだと思います。

その次には、母親は自分の欲求をかなえてくれる便利な道具になります。

その次に、母親との意思の疎通が生まれると、信頼がうまれ愛着がうまれ
後追い行動もうまれてくるようになります。

しかし、自閉症の子どもに後から生まれてくる母親への信頼には
安心がうまれるという働きが弱いです。
母親がそばにいれば何も怖くないといった絶対的な安心感はうまれません。

定型児の場合は、この安心感は基本的信頼と呼ばれていますが
そういった基本的信頼ではなく、普通の信頼になっています。

幼い子どもにとって、母親もいないし仲間もいないという世界は、孤独の世界です。
幼い子どもにとって、孤独の世界は恐怖の世界です。

それとおなじように
母親の刷り込みが妨げられた自閉症の子どもにとって、世界は恐怖の世界です。

恐いものだらけのお化け屋敷のなかに生まれてきたようなものです。
母親も恐いし、ほとんどすべての物が恐いのです。

自閉症の幼い子どもは、母親の目を見ないだけでなく、ほとんどすべての物を見ません。
母親だけでなく世界のすべての物事から回避しています。

自閉症の子どものなかに、靴を履くときに足元を見ない子どもがいます。
また、作業をするときに手元を見ない子どももいます。
視界のはじで、ちらっと盗み見ているといった感じです。
まともに正視することができません。

また、右目と左目の焦点が合っていない子どももいます。
人だけでなくほとんどすべての物を見ないように避けているので、焦点が合わないのです。
ですから、母親と目を合わせないというのも
すべての物事を無視して回避しているなかのひとつにすぎません。

ここまでは、刷り込みが妨げられたことから生じる、自閉症の子どもの母子関係の特徴です。
このあとは、恐怖症から生じる自閉症の子どもの母子関係の症状です。

折れ線型といわれる後期発症タイプの自閉症の子どもは、それまで母親と目が合っていたのに、自閉症を発症すると目を合わせなくなります。

母親と目が合っていたというのは、母親の刷り込みができていたということを示しています。
ではなぜ、目を合わせなくなるのでしょうか?

それは、恐怖症を発症したからです。
幼い子どもが恐怖症を発症すると、短期間に全面的な恐怖症へと広がってしまいます。
全面的恐怖症を発症すると、すべての物事が恐くなり、母親でさえ恐くなってしまいます。

たとえば、犬に噛まれると犬が恐くなりますが
噛んだ犬を恐がるようになるだけでなく、犬全部を恐がるようになります。
また、噛まれた場所に行けなくなったり、近くに行くこともできなくなったりします。
鳴き声も恐がるようになり、外出もできなくなったりします。

外出できなくなると、外出させようとする母親からも逃げるようになります。
このように、恐怖症での恐怖感は、実際の恐怖感よりも強く、広がる性質を持っています。

幼児が恐怖症を発症すると、恐怖症の広がりに歯止めがききません。
全面的恐怖症を発症してしまうと、自分を取り巻く世界のすべてが恐くなります。

世界のすべてが恐くなると
世界のすべての物事から回避するようになり
世界のすべてを無視するようになります。

したがって、刷り込みを妨げられた早期発症タイプも
全面的な恐怖症を発症した後期発症タイプも
症状がほとんど同じになります。

恐くないのは、恐怖症を克服した物事だけです。
恐怖症を克服していないことは、みんな恐いのです。
もちろん、お母さんも恐いのです。

子どもがお母さんを恐がっているなんて、考えられないかもしれません。
しかし、お母さんが恐くなくて、そばにいて安心がうまれるのであれば、恐怖症は部分的な恐怖症ですみます。
全面的な恐怖症にはならず、自閉症は発症していないはずです。

後期発症タイプの自閉症の発症は、生後30ヶ月ぐらいまでとされています。
これは、恐怖症の発症が母親も含めた全面的な恐怖症へと広がるのが
生後30ヶ月ぐらいまでだからだと考えています。

それ以後になると、恐怖症が広がっても母親への信頼は残ると考えられ
全面的な恐怖症といった自閉症にはならないと考えます。

全面的な恐怖症を発症して母親と目が合わなくなった自閉症の子どもも
通常の母子接触が行われていれば
数年で、母親への恐怖症が克服されていき、母親とまた目が合うようになっていきます。
しかし、恐怖症の治療をすれば、もっと短期間で母親と目を合わせられるようになります。

後期発症タイプは、刷り込みの障害というよりは、恐怖症の症状がほとんどなので
すみやかに恐怖症の治療をすれば
自閉症が劇的に改善する可能性があります。


(B) 発達の水準に相応した仲間関係をつくることの失敗

刷り込みは個にかかわるだけでなく、種にかかわります。
母親の刷り込みが妨げられると、ヒトという種も自分の仲間になりません。

通常であれば、仲間になり友達になるはずの、同年齢の子どもたちも仲間とはみなされません。
それどころか、すべてを恐れているので、同年齢の子どもたちも恐いのです。
恐いので回避し無視します。

同年齢の子どもたちを仲間としてみなさないというのは、ヒトの刷り込みが妨げられたことからうまれる特徴です。

それにたいして、恐いから回避し無視するというのは、恐怖感からうまれる症状です。
したがって、刷り込みができていたとしても
全面的な恐怖症を発症すると、同年齢の子どもを回避し無視するという症状は同じになります。

そうやって同年齢の子どもを避けていた自閉症の子どもも
恐くないということが解ってくると、遊べるようになっていきます。

しかし、その遊び方は通常とは異なります。
小さな子どもが、ハトを追いかけて遊ぶようなものです。
ハトが逃げていても、喜んで追いかけます。

相手の感情を無視するというか、相手に感情があることに気がつきません。
本人は遊んでいるつもりでも、相手には嫌がられていることがあります。

自閉症の子どもは仲間の感情を読むのが苦手なので
共感という感情のやりとりがない異種間の遊びになっています。
共感という感情のやりとりがある同種の仲間の遊びになっていないのです。

相手の感情を読むのが苦手というのは自閉症の特徴です。
したがって、治療して治るという症状ではありません。
治療の対象ではなく、相手の感情の読み方を教えるという教育の対象になります。


(C) 楽しみ、興味、成し遂げたものを他人と共有することを自発的に求めることの欠如

幼い子どもは、飛行機が飛んでいるのを見つけたり
ネコが寝ているのを見つけると、指をさして母親の注意を向けます。

赤ちゃんが、空を飛んでいる飛行機を指さして、「あー!」と言うと
お母さんも空を見上げて、「飛行機が飛んでるねー」と答えます。
大人も他者の共感を求めますが、幼い子どもも他者の共感を求めます。

母親が口を開けると新生児も口を開けるという動作共鳴は
生まれて20分の赤ちゃんでも報告されています。

また、生後2日目の赤ちゃんが
母親が笑うと赤ちゃんも笑顔になり、顔をしかめると顔をしかめ、驚く顔をすると驚く顔をしたそうです。
これはまだ動作共鳴ですが、この動作共鳴が感情共鳴の原点だと推測しています。

感情共鳴がうまれると、母親が喜ぶと赤ちゃんも喜ぶようになります。
母親が悲しむと、赤ちゃんも悲しむようになります。
そうすると、赤ちゃんは母親の喜びを求めるようになります。
そして、自分の喜びを母親にも伝えようとするようになります。

ところが、早期発症タイプの自閉症の子どもは
新生児期に、人と動作共鳴も感情共鳴もしていないはずです。

したがって、私たちが、椅子に感情があるとは思っていないように
早期発症タイプの自閉症の子どもは、人に感情があるとは思っていないのです。

アスペルガーのニキ・リンコさんは
「人には感情があるとか、私が気づくようになったのは大人になってからですけどね。それがわからないから、色々誤解していた。」、と書いています。
(『自閉っ子、深読みしなけりゃうまくいく』、p181)
感情共鳴ができず、人に感情があることにも気がついていなければ、当然、他人に共感を求めません。

自閉症の子どもも成長すると、人には感情があるということに気がつくようになります。
しかし、自然に気がつくようになる前に
うれしい顔、怒った顔、悲しい顔、といったイラストで
人には感情があるということを教えるという方法があります。

これは非常に有効です。
そうやって、刷り込みによる初期学習の欠如を、後期学習でおぎなっていくことができます。


(D) 情緒的相互性の欠如

『アスペルガー的人生』の著者、アスペルガーのリアンさんには3人の娘さんがいて
そのうちのひとりがアスペルガーです。

リアンさんは、ほかの人がしかめっ面をしていても、悲しいのか、怒っているのか、寂しいのか、区別がつきません。
ほかの人の感情を読むのが苦手です。
ほかの人の感情が読めなければ、情緒的相互性は生まれようがありません。

ところが、リアンさんは「アスペの娘さんのことは良く解る」と書いています。
そして、その娘さんも母親のことが良く解るそうです。
それにたいして、定型のふたりの娘さんと夫のことは良く解らないと書いています。
これはどういうことでしょうか?

定型な人とは情緒的な相互性がありませんが
アスペの娘さんとは情緒的相互性があります。

したがって、自閉症の人には情緒的相互性が欠如していると言われていますが、これは正確ではありません。

『ぼくとクマと自閉症の仲間たち』の、著者である自閉症のトーマス君は
「ぼくの考えでは、自閉症の人の感情で主流をしめるのは恐怖なんだと思う。」と、書いています。

ということは、自閉症の人は、怒りや、寂しさは、ほとんど感じないのではないでしょうか?
自閉症の人は、かんしゃくを起こすので、怒りは感じているようにはたからは見えますが、そうでもありません。

『ずっと「普通」になりたかった。』の著者、アスペルガーのグニラ・ガーランドさんは
『母は「怒って暴れている」と言っていたが、私に言わせれば、あれは怒りとは無関係で、むしろ、激しい狼狽に近い。』と、書いています。

狼狽というのはパニックに近いです。
パニックというのは激しい恐怖を感じたときの反応です。
はたからは、怒りのように見えるのも、実際は恐怖感から生まれる狼狽のようです。

『地球生まれの異星人』の著者、アスペルガーの泉流星さんは
「私は人の表情や言外の意図を読むことができず、場の雰囲気を感じることもできない。」
と書いています。
なぜ場の雰囲気を感じることができないのでしょうか?

『私にとって「世の中」のすべては「不安や恐怖をもたらすもの」と「辛うじて不安を感じさせないもの」の2種類しかないように感じられ、心は常にその間で不安定に揺れ動いている。』
ということです。

不安や恐怖か、辛うじて不安でないか、の2種類でしか自分が感じないのであれば
場の雰囲気もその2種類でしか感じることができないはずです。

これでは、定型の人の、楽しい、悲しい、嬉しい、寂しい、といった喜怒哀楽といった感情に共感することはできません。
まして、複数の定型の人で構成されている場の雰囲気を読むことはできません。

安心の世界に生きている定型の人の感性と
恐怖の世界に生きている自閉症の人の感性とは、基本的に異なります。
住んでいる世界があまりにも違うからです。

遊園地で家族みんなでお昼ご飯を食べている子どもと
お化け屋敷の中でお昼ご飯を食べている子どもとでは、感じる感情が違うはずです。

遊園地で家族みんなでお昼ご飯を食べている子どもは
子犬が近づいてくれば、かわいいと感じて、何か食べ物をあげようとするでしょう。
それにたいして、お化け屋敷の中でお昼ご飯を食べている子どもは
子犬が近づいてきたら、怖くて叫び声をあげるかもしれません。

また、普通の人と飢え死にしそうな人も、感情が違ってきます。
普通の人が恐いと感じるヘビも、飢え死にしそうな人にはおいしそうなご馳走に見えるかもしれません。

この逆が、自閉症の人です。
普通の人は、普段は食べていないような豪華な食事をご馳走だと感じますが
自閉症の人は普段食べていない豪華な食事を恐いと感じてしまいます。

藤家寛子さんは
「食べたことのないものは怖いです。」と、書いています。(『自閉っ子、こういう風にできてます!』、p84)
自閉症の人は、はじめて食べるフランス料理のフルコースも、ご馳走だとは感じないで、恐いと感じるのです。

自閉症の子どもは、家族でお昼ご飯を食べているときも
フランス料理のレストランにいるときも
学校の教室にいるときも
お化け屋敷のなかにいるようなものです。

あるいは、たったひとりで敵陣に取り残された兵士のようなものです。
恐いか、辛うじて不安でないかという感情しか感じられないような世界に住んでいます。

自閉症の人は、定型の人と情緒的相互性がありません。
これは定型の人にも言えることです。
定型の人は、自閉症の人と情緒的相互性がないのです。

自閉症の人の偏食は恐いからなのですが、ほとんどの定型の人は、嫌いだからだと誤解しています。
定型の人も、自閉症の人の感情が読めないのです。


(E) 話し言葉の遅れまたは欠如
(F) 十分会話のある者では、他人と会話を開始し継続する能力の著明な障害
(G) 常同的で反復的な言葉の使用または独特な言語

(E)(F)(G)の3つは、ともに言葉の問題です。
言葉の問題は大変大きな問題です。

言語学者のチョムスキーは、言葉は本能だと書いています。
言葉の問題を突き詰めていくと、そういった言語学の世界まで踏み込まざるを得なくなります。

しかし、それは私の能力を超えています。
それで、手短に論じますが、それでもかなりの量になるので、次の5章で別に論じることにします。


(H) 発達水準に相応した、ごっこ遊びや社会性を持った物まね遊びの欠如

母親を刷り込んだ赤ちゃんは、新生児のときから動作共鳴をします。
母親が口を開けると、赤ちゃんも口を開けます。
母親が舌を出すと、赤ちゃんも舌を出します。
これは意図的ではなく、刷り込みによってうまれる脳の機能です。

赤ちゃんはまねずにはいられません。
顔の表情もまねるし、動作もまねるし、言葉もまねるようになります。
まねる能力もありますが、脳が反応してまねずにはいられないのです。

ところが、自閉症の赤ちゃんには、はじめは、まねるスキルもまねる意欲もありません。
したがって、見て学ぶという模倣による学習が生まれません。
模倣ができず、模倣の意欲もなければ、ごっこ遊びも、物まね遊びも生まれません。

したがって、自閉症の子どもはなるべく早く、模倣のスキルを学んで見につける必要があります。
行動療法では、早期に模倣のスキルを身につける訓練をします。

定型児がおのずと身に付けている模倣のスキルを、自閉症児は訓練によって身に付ける必要があります。

これは1種のリハビリですが、ノルウエーではハビリテーションと呼ばれているそうです。
機能の回復訓練という意味のReがつかないので
ハビリテーションという、機能の習得訓練ということになります。

訓練というと、なにか非人道的なニュアンスを感じる方がいるかもしれません。
しかし、そんなことはありません。

まったく罰を使わず、バケツの魚だけでイルカを訓練したカレン・プライアは
「強化を使って訓練をすると必然的に起こる、不思議だが重要な結果は、訓練する側とされる側の間に愛情が芽生えることである。」
と、書いています。(『うまくやるための強化の原理』、p184)

プールでイルカを自由に泳がせてただ見ているだけでは
イルカのやる気もうまれないし
出来た喜びもうまれないし
イルカと人との交流もうまれません。

しかし、訓練によって、褒美がもらえるのでやる気がうまれ
出来た喜びがうまれ、そのうちに人の意図が理解できるようになります。
出来た喜びはイルカだけでなく人にもうまれます。
お互いの感情の交流がうまれ、お互いに愛情がうまれてくるのです。


(I) 強度または対象において異常なほど、常同的で限定された型の、1つまたはいくつかの興味だけに熱中すること

定型の子どもは、恐くなったり、不安になったり、悲しくなったりすると
母親のところにきて、母親に癒してもらいます。

母親のそばにいれば安心が生まれるからです。
そうやって、母親のもとで安心が得られると、好奇心に導かれてまた世界へと探索に出かけていきます。

定型の子どもにとって
食欲や睡眠欲といった身体的な欲求以外の精神的な欲求は
不安なときに母親を求めるか
不安がないときに未知の世界への探索を求めるか、どちらかです。

積木を積むのも、絵本を見るのも未知への探索です。
定型の子どもは、不安になれば母親を求め、安心が得られれば探索を求めます。

ところが、自閉症の子どもは、安心を生み出してくれる母親がいない恐怖の世界に住んでいます。
恐怖の世界にいたら、やることはひとつ、安心を求めることしかありません。

幼い子どもが迷子になると、必死になって母親を探すように
自閉症の子どもは安心できるものを必死になって探し求めています。
そして安心できるものを見つけると、それに熱中します。

熱中するのも無理はありません。
恐怖の世界でやっと見つけた、安心できる母親の代わりなのです。

はじめに見つける安心できるものは、空中を舞う小さなほこりや、床に落ちている小さなごみなどです。
小さいものは恐ろしくないからです。

次に見つける安心できるものは、くるくる回るコマや、ピカピカ光る物や、流れる水や、整然と並んだ物などです。
単調に繰り返すものは、いったん安全が確かめられたことの繰り返しなので、安心できます。

その次には、おなじものがあちこちにあるロゴマークや
いつもおなじテレビのコマーシャルなどに引きつけられます。

次には、規則性のあるカレンダーや、電話帳に引きつけられます。
さらに高度になると、法則や規則性のある数学や科学などに引きつけられます。


(J) 習慣や儀式にかたくなにこだわる

空腹で飢え死にしそうな人は、お金よりも、宝石よりも、食べ物を求めます。
砂漠で喉が渇いている人は、水を求めます。
置かれている状況が異なれば、求めるものが異なります。

恐怖の世界に住んでいる自閉症の子どもは、なによりも安心を求めます。
昨日通って安全が確認された道があったら、今日もおなじ道を通ろうとします。

違う道だと、何がおきるかわかりません。
上から看板が落ちてくるかもしれないし、道に穴が開いているかもしれません。
大きな犬が飛び出てこないともかぎりません。

部屋の家具の配置も、安全だった昨日と同じであることを求めます。
変化を恐れ、あたらしいものを恐れ、日常のパターンにこだわります。
これは同一性への固執です。

ある状況でいったん安全が確認されると、その状況が変化しただけで恐怖を感じてしまいます。
幼い子どもが母親を求めるように、同じであることを求めます。
そして、少しでも違うと、母親を見失って迷子になったかのように、パニックになってしまいます。

カナー博士は、孤独への固執と同一性への固執のふたつを自閉症の診断基準としました。
また、追跡調査のときも、どれほど目が合うようになっているかということと
同一性保持の強さがどれぐらいかということを検査して
自閉症の度合いが軽減されているかどうかの判断基準としています。

同一性への固執は、自閉症の度合いを測れるというぐらい重要な項目です。
言葉の障害と一緒に次の5章でくわしく分析します。


(K) 常同的で反復的な衒奇的運動(例えば、手や指をぱたぱたさせたりねじ曲げる、または複雑な全身の動き)

手をぱたぱたさせるのは、そちらへ意識を集中させることによって
内面の恐怖感を和らげる働きをし、また、ストレスとなる周りの世界からの刺激を無視する働きをします。
したがって、世界からの自閉を意味しています。

定型の人がおこなう貧乏ゆすりも、緊張を放出して安心を生み出すという働きをします。
しかし、定型の人は貧乏ゆすりには集中していません。
貧乏ゆすりをしていても、世界に集中しています。
ストレスを発散することによって、ストレスになる世界に耐えて、世界に集中し向き合うために貧乏ゆすりをします。
したがって、貧乏ゆすりは世界への集中を妨げません。

それに対して、自閉症の子どもの常同行動は世界への集中を妨げます。
したがって、なるべく意味のある行動へと導く必要があります。

また、運動も効果があるということです。
運動は、副作用のない精神安定剤といわれています。


(L) 物体の一部に持続的に熱中する

ドアの取っ手や自転車の泥除けとか、色合い、肌触りで安心を生んでくれるものがあるようです。
好き嫌いという好みというよりも
恐怖に取り囲まれた世界の中で生きている自閉症の子どもが見つけた
数少ない安心が生まれる物への集中なので、真剣です。
真剣なので、熱中します。

定型の幼い子どもが、安心が生まれる母親に執着するのと同じです。
あるいは、母親が幼い我が子から目をはなさず、幼い我が子に集中するのと同じです。

物体の一部から、より高度な物事へと、熱中する対象が発展していけば理想的です。
したがって、この熱中は伸ばしてあげるべき長所だとも考えることができます。

この熱中は、こだわりと呼ばれることがありますが、同一性保持のこだわりとは異なります。
同一性保持のこだわりは恐怖症として早期治療が必要ですが、この熱中は治療すべき恐怖症ではありません。

以上で、12の自閉症の診断基準を分析しましたが
自閉症にはこれ以外にもまだ、様々な特徴があります。


2.テリトリー意識(縄張り意識)

自閉症の診断になれた医師なら
子どもが診察室に入って来て椅子に座る前に
自閉症という診断ができるそうです。

ということは、自閉症を診断するには
12の診断項目に照らし合わせたり
家族から聞き取り調査をする必要はないということを示しています。

どうしてそれほど早く、自閉症の子どもを診断できるのでしょうか?


様々な縄張り意識

場所の縄張り

私は自閉症の子どもを診断している医師ではないので推測になりますが
それは、縄張り意識がないということではないかと考えています。

どういうことかと言うと、私たちは自分の家と他人の家とを、はっきりと区別しています。
我が家というのは落ち着けてくつろげて、遠慮がいりません。

しかし、他人の家では遠慮が必要です。
他人の家では、その家の主(あるじ)を尊重します。
これは、動物の世界の縄張り意識(テリトリー感覚)と同じです。

小さな赤ちゃんのときは、安心できるのはお母さんのそばだけです。
それが成長するにしたがって、自分の家のなかは安心できるというように、安心の世界が広がっていきます。
そうやって、徐々に安心の世界が広がっていき、家の近くも安心の世界になります。

そうやって安心の世界がうまれてくると
その安心の世界を失う恐れがうまれ
安心の世界を守ろうとする意識がうまれてきます。

守ろうとする安心の世界とは、縄張りということになります。
そして、自分の村、自分の町、自分が生まれ育った県、自分が住んでいる地方、自分の国へと、守ろうとする縄張り意識が広がっていきます。


仲間意識

縄張りは土地の広がりですが、そのテリトリー内の仲間にたいして仲間意識がうまれます。
まず、兄弟、家族といった仲間意識がうまれます。

学童期に入ると、自分のクラス、自分の学校といったテリトリー感覚がうまれ
仲間意識がうまれ、お互いを守るようになります。

高校野球の甲子園がはじまると、出身地の高校や、住んでいる県の高校を応援します。
オリンピックやワールドカップでは、自分の国の選手やチームを応援します。

中学生ぐらいになると
仲間が万引きをしても校則違反のようなことをしても
けっして大人や先生に告げ口をしたりしません。

仲間を守ることは、社会の規範を守ることよりも優先します。
もしも仲間のことを先生などに告げ口したりすると、仲間から仲間と見なされなくなります。

この仲間意識は、それ以外の人を敵対視することと表裏になっています。
特に小さい頃は不安が強いので、敵対視がうまれやすいです。

小学校1年生ぐらいでは
同じサッカークラブの子どもを2チームに分けて練習試合をしただけで
相手の子どもを敵対視することがあります。

成長して高校生ぐらいになってくると、仲間以外の人を敵対視しなくなります。
高校野球では、敵のチームの選手とも友情がうまれます。

小さい子どもでも、母親の存在に恵まれた不安の少ない子どもは
人見知りをして警戒しても、見知らぬ人を敵対視することは少ないです。


物の所有権

物も、自分の物、他人の物という区別がうまれてきます。
また、自分たちの物、隣の家の物、隣のクラスの物、という区別もうまれてきます。
物にもテリトリーが適用されます。

子ネコの場合、所有権の主張は、自分が咥えている物や自分が食べている物といった直接的な物に限られます。
自分から離れている物は、それまでは自分の物であっても、他の子ネコが食べはじめると、もうその子ネコのものになります。
いったん離すと、自分の物ではなくなります。

人の場合は、自分から離れた物でも自分の物です。
落ちている物は所有者がいないので拾いますが、置いてある物は所有者がいるので拾いません。
落ちている物か置いてある物か、素早く判断します。

置いてある物を拾って自分の物にすることは、他者の縄張りを侵すことになり、泥棒ということになり、社会の規範に反します。
この判断は、小さい子どもではできませんが、成長して認知力があがると判断できるようになります。


自閉症の子どもの特徴

ここまで書いてきてお解りいただけると思います。
自閉症の幼い子どもには、こういったテリトリー意識がありません。

母親のそばにいても安心がうまれないので、自分の家も安心の世界になっていません。
安心できる自分の家というテリトリー感覚がないので、安心できない他人の家という区別がありません。

それで、他人の家に入ることをためらうという感覚がうまれません。
自分の仲間という感覚がないので、他者という感覚もありません。
物も自分の物、他人の物という感覚がありません。

(ただし、場所見知りや人見知りが激しかったという自閉症の子どもがいます。こういった自閉症の子どもは、母親の刷り込みがまったくできなかったというのではなく、多少は母親の刷り込みができていると考えます。)

こういった自閉症の子どもの行動は、ときには困った行動ということで、障害と見なされがちです。
しかし、マナーとして、知識として、ソーシャルスキルとして、教えていくという問題です。
したがって、治療の対象ではないので、症状ではなく自閉症の特徴ということになります。

定型の子どもの場合は、初めて診察室に入ったら
まず最初に、そこに誰かいないか、誰がいるか確認します。
他人の縄張りに入るという意識があり、警戒しているからです。

そこに誰か人がいれば その人を主(あるじ)とみなして尊重します。
そして、その人が自分に友好的か敵対的か観察します。
それによって、自分がどのように振舞うべきかが決まります。

定型の子どもの場合は
診察室に入ると、すぐに目に付いた物で遊びはじめる、ということはありません。

私たちは、街を歩くときにネコの縄張りを意識しません。
また、野原を歩くときに、野ネズミの縄張りを意識しません。
ネコならネコの縄張りを意識し、野ネズミなら野ネズミの縄張りを意識するはずです。

また、オスネコは縄張りの印をつけるし、それを他のネコは縄張りの印だと読み取ります。
野ネズミも野ネズミなら読み取れる印をつけているはずです。

ところが、人にはネコや野ネズミの印を読み解くことができません。
印があるということにも気がつきません。

自閉症の子どもも、ちょうどそんな感じだと思います。
人の刷り込みを妨げられた自閉症の子どもには、人という種の感覚が生まれていません。

それで、人という種の間で尊重すべきこととされている
テリトリーという意識を持っていないし
テリトリーの印を読み解けないのです。

フェンスがあっても、それが他人の家のテリトリーの印だとは解釈しません。
玄関があっても、そこから内には黙って入ってはいけないということにも気がつきません。
私たちが、ネコやネズミのテリトリーに気がつかないのと同じです。


縄張り意識の分析

定型の人の場合、母親を刷り込むことによって
母親のそばにいると安心がうまれるというだけでなく
人という種のそばにいると安心がうまれるという脳の機能がうまれます。
他者の存在が安心を意味するので、もっとも恐ろしいのは、誰も人がそばにいないという孤独です。

社会で罪を犯せば刑務所に入れられ、社会から遮断されます。
刑務所で罪を犯せば、独房に入れられ、人から遮断されます。
独房に入れられることが、最も重い罰になります。

人のそばにいれば安心がうまれるといっても、そこには階層があります。
そばにいて一番安心がうまれるという人が、母親にあたります。
(それが、父親であるという子どももいますが、このホームページでは、一番安心がうまれる人を母親と呼んでいます)。
そうすると、1番、2番、3番と親しい人にも順位がついていきます。

そうやって、そばにいると安心がうまれるという人にも、格差がうまれます。
格差がうまれると、争いになったときにどちらの味方をするかといった選択がうまれ
より大切な人と、より大切でない人に分かれ、ときには味方と敵に別れます。
その味方というのが仲間ということになります。

しかし、仲間といっても、家族といった小さな単位から
学校の同じクラスといった単位の仲間もあれば
学校といった大きな単位の仲間もあります。

また、クラブ活動の仲間といったように、物事によっては仲間が入れ替わったりもします。
そうやって、私たちは多くの仲間集団に重層的に所属しています。
そして、そのことによって安心感を得ています。

通常は、不安な人ほど小さくて強固な縄張り意識を持ち易いです。
やくざなど、自分たちの仲間といった縄張り意識が優先するので、社会の法律さえ無視します。
会社人間も、会社の利益を優先して社会のルールを破ります。

しかし、自閉症の人にはこのような、他者存在によって得られる安心感がほとんどありません。
そういう意味では、縄張り意識を持たない自閉症の人は
小さいときは、社会の縄張り意識に反してしまいますが
大人になると、小さな縄張り意識を持たないといった立派な社会人になることが可能です。


3.感覚障害

自閉症の幼い子どもには、母親に呼ばれても振り向かないなど、言葉にほとんど反応しない子どもがいます。
言葉も出てこないし、聴覚に障害があるのではないかと、家族は疑います。
しかし、テレビのコマーシャルなどに反応するので、音は聴こえているようなのです。

それでも、念のために病院へ行って検査をしてもらいます。
その結果、聴力には問題がないということが解ります。

自閉症の子どもには、こういった感覚の鈍さが現われる一方で
両手で耳をふさぐといった、感覚過敏と呼ばれる現象も現われます。
これはどういうことなのでしょうか?


感覚遮断

『鮮やかな影とコウモリ』、という本を書いたアクセル君は
2歳の頃に自閉症を発症した後期発症タイプの青年です。

自閉症が発症した頃のことを
「彼らの顔を霧が覆い隠した。彼らの声は消えてしまった。」
「そもそもなにも知覚することができないのに、どうやって人間を知覚すればよいのだろう?」
と書いています。

自閉症が発症すると、それまで機能していた視覚や聴覚の機能がいちじるしく低下してしまいました。
また、祖父母が住んでいるれんが作りの古い街並は気持ちが良くてはっきり見えますが
自分が住んでいるコンクリート製の新しい団地ははっきり見えません。

アクセル君は自閉症が発症すると
人の顔が見えなくなり
人の声も聞こえなくなりました。

自閉症の小さな子どもでは、母親が呼んでも振り向かない子どもがいます。
おそらく母親の声が聞こえていないのではないでしょうか。

また、母親の顔が解っていないのではないかという子どもがいます。
おそらく母親の顔が見えていないのではないでしょうか。
自閉症の人には、人の顔が良く解らないという人は多いです。

ではなぜ、視覚や聴覚の機能が低下してしまったのでしょうか?

陽焼けした赤ん坊(エリー)が、金髪をキラキラ光らせながら砂地にそって歩いている。可愛いので、たくさんの人が彼女をみるが、彼女は知らん顔。歩いているうちに、家族連れのグループの中に入りこみ、ピクニック用のバスケットや、砂でつくった城や、バケツのそばを通り抜け、あと1センチほどで人に触れそうになる。彼女は遠くの一点にじっと目をすえて、この人たちをみていないようだった。が、実はちゃんと見ていたのだ。この人たちに、すれすれに近づきながらも、ぶつからなかったからだ。(クララ・パーク著、『ひとりぼっちのエリー』、p8)
ある日のこと、エリーは車道に背を向けて芝生に坐っていたが、そのとき、どんな小さな子供でも気づかずにはいないような驚くべきことが起こったのであった。近所に煙突の火事があって、本ものの赤い消防自動車が、けたたましい音をたてて静かな道を登ってきたのだ。それなのに、エリーはそっちを見ようとさえしなかった。身に直接害を及ぼしそうなことには、あれほど用心深いのに、もっとも危険な車のエンジンの音にはここ何年間もまったく無関心だった。消防自動車のサイレンは、彼女の世界の外のことで、彼女の身には直接関係がなかったので、その音をきこえないかのように無視したのだ。(同、p103)

エリーは消防自動車のエンジンの音も、サイレンの音も、「きこえないかのように無視した」、と母親のクララ・パークは書いています。
無視していただけで、聞こえていたという解釈です。
エリーは遠くの一点にじっと目をすえて、「人を見ていないようだった」けど、ちゃんと見えていました。
ぶつからなかったからです。

無視するためには、ちゃんと把握している必要があります。
把握していなければ、無視することはできません。
無視して見ないようにするためには、見て知っている必要があります。
母親は、エリーが見えていないのではなく、「実はちゃんと見ていた」、と書いています。
こういった母親の解釈も正しそうです。

自閉症の当事者であるアクセル君は、見えなかったし聞こえなかったと書いています。
しかし、自閉症児の母親は見えていたし聞こえていたと解釈しています。

この食い違いはどういうことでしょうか?
当事者が書いていることは簡単には否定できません。
さりとて、母親の解釈もまちがっているとは思えません。

オリバー・サックスの、『火星の人類学者』という本のなかに
まったく何も見えないと言っている人が障害物をよけて歩いている、という症例が載っています。

意識では見えていないのですが、身体は適切に反応してよけているのです。
視覚の情報が意識の手前、無意識までは伝わっているのですが、意識までは伝わっていません。
これは盲視と呼ばれています。

それと同じように、エリーの場合も、意識では見えていなかったし、聞こえていなかったと考えられます。
意識では見えていなかったのですが、無意識で見えていたのではないでしょうか。

そして、アクセル君の場合も無意識では見えていたし、聞こえていたはずです。
なぜなら、アクセル君は、自分が住んでいるコンクリートでできた団地の壁は、はっきり見えなかったと書いていますが、あちこちのコンクリートの壁にぶつかっていたということはなかったからです。

では、アクセル君の視覚や聴覚の機能が、自閉症の発症によって低下したのは、どうしてでしょうか?
アクセル君は、人の顔には霧がかかり見えなくなりましたが
四角い敷石が整然と並んでいるのは良く見えています。
また、祖父母が住んでいるれんが作りの古い街並ははっきり見えます。
視覚は良く見えるものと、良く見えないものに分かれています。

敷石やれんがなどの「四角い石は、僕を安心させてくれる。」のです。
安心させてくれるものは、良く見えています。
お菓子をくれる祖母の家では、「僕はものすごく集中していたので、どんな言葉も僕の世界に届いた。」のです。
祖母の家では、母親の声もはっきり聞こえます。

聴覚や視覚が失われたのは、脳の障害というよりは
安心できるか安心できないか、集中できるか集中できないかという、心因的な要素が働いています。

安心できる情報や集中した情報だけが意識までとどき
安心できない情報や集中しなかった情報は無意識までしかとどかないで、意識にはとどいていないのです。
これはどういうことでしょうか?

生活全般を通して、人は自分に届く情報の大部分を排除し、閉め出すことに従事している。――情報が自分に関連するものかどうかを評価して初めて、排除し閉め出す。――この選択的な排除の過程は、通常その人には何がおきているか気づかないところでおこなわれている。
(ボウルビィ著、『安全基地』、p143)

一部の情報だけを意識して、他の大部分の情報は意識しないというのは、私たちも常におこなっています。
それどころか、私たちが従事しているほとんどが、入ってくる情報の評価と排除であるというのです。

意識するというのは、川の砂から砂金を探し出しているようなものです。
膨大な必要のない砂(情報)のなかから、必要な砂金(情報)だけを選択しています。

それ以外のものは、一瞬にして必要ないと評価して排除しています。
膨大な役に立たない情報を排除しなければ、情報が一度に殺到し、ほとんどなにも処理できなくなってしまいます。
私たちも、必要だと思える情報だけを選択し、意識しています。

満員の電車に乗っていても
騒音や景色や触覚や匂いなどさまざまな必要のない情報を排除しているので、隣の知人と会話ができます。
また、満員の電車の中でも、集中して本を読むことができます。
情報の排除は、自分では気づかないところで、まったく意識しないで、ごく自然に、毎日毎日、せっせせっせとおこなっています。

クモ恐怖症の人は、クモがいると飛び上がって逃げます。
クモ恐怖症の人は、クモを見てしまいます。

ところが、自閉症の人はクモの映像を意識から排除し無視するという戦略をとります。
クモが恐いからクモを無視します。
というよりは、安心できるもの以外はすべて無視しています。
安心できるものしか見えません。
だから、クモがいても恐くありません。

エリーは人が恐かったのです。
消防自動車が恐かったのです。
恐かったので、見ないようにし、聴かないようにし、無視したのです。

見ないようにし、聴かないようにし、無視したといっても、これはエリーの意志の働きではありません。
恐怖の対象から回避するという生理的な無意識の反応です。
ですから、本人は無視しているということを知らないはずです。

クモ恐怖症の人と、自閉症の人との違いがここにあります。
自閉症の人は情報を排除し無視するという戦略で恐怖を避けています。
無視すれば怖くないからです。

恐怖に対する適応度が高いとも言えます。
自閉症は幼い頃の発症なので、適応する能力が高かったのだと推測します。

ただし、情報を排除し無視するという戦略を採用して恐怖に適応したことによって、さまざまな発達障害がうまれる原因のひとつになってしまったのです。

私は、自閉症の人の知的障害は生得的なものではなく、恐怖症からうまれた二次障害だと解釈しています。

また、恐怖症自体が、刷り込みが妨げられたことからうまれた二次障害なので、知的障害は三次障害ということになります。
したがって、二次障害である恐怖症の治療を早期におこなえば、知的障害を防ぐことが出来ます。

刷り込みが妨げられたことによって生じる認知障害などの脳の機能障害もありますが、脳には可塑性があります。
視覚や聴覚に障害がある人でも、知的障害にはなりません。
他の機能がおぎなうからです。

同じように、認知障害も、脳の他の機能がおぎなうことができます。
現に、テンプルさんのように、大学で教鞭をとっている人もいるし、アクセル君のように立派な本を書いている方もいます。


感覚過敏

怖いものを、見ないようにし、聴かないようにして無視するという戦略も、すべてを完全に無視することはできません。
全面的に意識から情報を排除して無視するということはできないようです。

たとえ限られてはいても、目覚めていれば、意識は常に情報をひとつ受信しています。
(完全に無視する必要がある場合は、眠ってしまうようです。東田直樹君は、ストレスが嵩じると眠ってしまいます。)

風船の破裂音は死ぬほど怖かった。それは鼓膜を破らんばかりに響いたからである。普通の人が無視できるような低いノイズでも、たやすく気が散った。・・・もちろん、その反応は人それぞれによって違う。私にとって苦痛な音が、ほかの自閉症児には快感をもたらすこともある。ある自閉症児が好む掃除機の音は、ほかの自閉症児には恐怖であるかもしれない。
(テンプル・グランディン著、『自閉症の才能開発』、p82)
自閉症者によってはあまりにも鋭敏な聴覚を持っているために、日常の騒音にさえ耐えられない。雨音が銃声のように響いて、とても我慢できない。また、自分の血流のサーッという音や、学校全体の音が耳につく者もいる。こうした人々は音の阿鼻きゅう喚の中にいるのだ。(同、p87)

テンプルさんは、あまりにも鋭敏な聴覚を持っているので日常の騒音でさえ耐えられない、と書いています。

しかし、盲目の人は、視覚の障害をおぎなうために、聴覚や触覚などの感覚が鋭敏になります。
視覚以外の感覚が鋭敏になることは、日常の生活を送ることに役立ちます。

盲目の人の聴覚の鋭敏さは、日常の生活を送るのに役立ちこそすれ
それが不安の原因になったり、生活の障害になるということはありません。

また、犬は嗅覚が鋭いですが、それによって耐えられない匂いが多いということはありません。
したがって、聴覚が鋭敏だから、耐えられない音があるという解釈は正確ではありません。

自閉症の子どもの場合は、全面的恐怖症なので
安心であることが確認できて克服した音は恐くないのですが、まだ克服できていない音は恐いのです。

日常の騒音でさえ恐かったり、雨音でさえ恐かったり、学校全体の音でさえ恐かったりします。
恐いから、、耳を両手でふさぐ子どももいます。
聴覚が鋭敏だから耐えられないというのではなく、恐い音がいろいろあって、その恐い音が耐えられないのです。

ただし、自閉症の子どもは恐いという感情を意識できないので、苦痛、耐えられない、我慢できない、といった表現になるようです。
恐いという感情を意識できるようになれば
自閉症がかなり改善して、アスペルガー症候群へと移行していると考えることができます。

自閉症の子どもは恐怖を訴えないし
恐怖感が観察されないこともあるので
恐怖症と解釈されないで、聴覚過敏と解釈されてきたのです。

カナー博士が報告した最初の11人の自閉症の子どものなかにも
掃除機が恐くて、しまってある押入れに近づこうとさえしなかった子どもがいました。
掃除機を使いはじめると、耳をおおってガレージにかけこんでいました。(『幼児自閉症の研究』、p41)
耳をおおっているので、聴覚過敏と解釈されそうですが、実体は掃除機にたいしての恐怖症です。

『ボクノコト、ワカッテホシイナ、』という本に、掃除機への恐怖症を克服した治療例が載っています。
はじめ、カズ君は、掃除機のスイッチを入れただけで、教室から逃げ出していました。

カズ君が逃げられないように後ろからかかえこむようにして、ふたりで掃除機を持ち、スイッチを入れました。・・・数日後には、カズ君はひとりでそうじをやってくれるようになりました。(p59)。

この例では、聴覚の過敏さにたいしての治療はおこなわれていません。
掃除機にたいしての恐怖症の治療がおこなわれたのです。
掃除機が恐くなくなったので、掃除機の音も恐くなくなって、逃げなくなったのです。

聴覚過敏の治療をして、過敏性がなくなれば平気になるというのではありません。
掃除機にたいしての恐怖症の治療がおこなわれれば、掃除機の音への恐怖感はなくなります。

おなじように、犬の鳴き声を恐がる子どもは、聴覚過敏ではなく、犬恐怖症です。
聴覚過敏を治そうとしても難しいですが、犬恐怖症を治療するのは難しくはありません。
そして、犬恐怖症を治療すれば、犬の鳴き声も恐くなくなります。

自閉症の人の触覚や嗅覚や味覚の過敏さも指摘されていますが
過敏だから耐えられないのではなく
恐怖症なので恐くて耐えられない物がいろいろあるのです。
しかし、自閉症の人には恐怖感がほとんどあらわれないので、感覚過敏として解釈されてきたのです。

アスペの人は、触覚過敏を恐怖として意識しています。
ウェンディ・ローソンさんは、触られるのが恐かった、と書いています。(『私の障害、私の個性』)

ドナさんは
「触られると、たとえどんな触られ方であれ、痛いと感じた。痛いし、とてつもなく怖かった。」
と、書いています。(『自閉症だったわたしへ』)

それにたいして、自閉症の人は、触覚過敏を恐怖としては感じていません。
テンプルさんは
子どものころ、抱擁を飢えるように求めていたけど我慢できなかった、と書いています。(『自閉症の才能開発』)

子どものころは、恐かったという意識はなく、我慢できなかったとしか意識できなかったのです。
なぜ我慢できなかったのかは、解らないでいます。
テンプルさんが、恐怖を感じることができるようになるのは、思春期に入ってからです。

注意を奪うような風景や音から保護されればされるほど、彼らの未熟な神経組織は、話し言葉を正確に認識できるようになる。彼らの聞き取りを助けるために、教師は過度の視覚刺激から、彼らを遠ざけてやらなければならない。この子供たちは蛍光灯や鮮やかすぎる色の壁を避けて、静かな、少し明かりを落とした部屋でなら、もっとよく聞き取りができるようだ。ときには教師がささやいたり、低く歌ったりするほうが、彼らの聴覚を高めることもある。(テンプル・グランディン著、『自閉症の才能開発』、p64)

自閉症の子どもにとって、刺激の多い環境は、恐いことに取り囲まれた環境です。
通常の、私たちの、刺激が多いので気が散るというレベルをはるかに超えています。
刺激が多すぎたり、大きな音だと恐いので、聴覚の情報は排除され無視され、聞き取りができなくなってしまいます。

逆に、刺激がすくない環境で、ささやくようなかすかな音なら
恐くないので聴覚の情報は排除されず無視されず、良く聞こえます。
恐くなければ無視する必要がないので、聴覚が正常に働きます。

恐いから、感覚からの情報が排除され無視され、さまざまな感覚の鈍さが現われます。
おなじように、恐いから耳をふさいだり逃げたりといった感覚の過敏さが現われます。
感覚の鈍さも感覚過敏も、恐怖症の現われです。

したがって、自閉症の子どもの感覚を正常に働かせるためには
家庭環境をなるべく刺激が少ないように整える必要があります。
リンセラピーというセラピーでは、セラピーをはじめる前に、部屋の掃除と不要品を捨てることからはじめます。

また、「叱るよりも1枚のカーテン」、という言葉があります。
あと、蛍光灯はやめた方が良いです。
点滅しているので刺激が強いです。
また、音もしているそうです。
選べる子どもであれば、自分で灯りを選ばせると良いです。

また、環境を整えるだけでなく
なるべく早いうちに、掃除機や犬やそのほか様々な恐怖症の治療をおこなう必要があります。
早期に恐怖症の治療をおこなえば、感覚の鈍さも感覚の過敏さも解消されていきます。


4.感情障害

アスペルガー症候群のひとたちは、彼らの経験、内面的な感情とその状態を話すことができるが、古典的な自閉症の場合にはできない。
(オリバー・サックス著、『火星の人類学者』、p336)
精神医学用語で『アレキシチミア』(失感情表失言語症)といえば、感情をいいあらわしたり、自分で認知できない状態、『思考が伴わず、身体的感覚によって、あるいは行動によってしか感情をとらえることができない』状態をいう。こうした人々は残念ながら感情が何であるか、理解することはできない。
(『象がすすり泣くとき』、p35)

定型の幼い子どもは、恐くなるとお母さんのところに逃げます。
お母さんが安全基地になっているからです。
お母さんに抱かれるだけで、安心が生まれ、恐怖感は癒されます。

しかし、自閉症の子どもには、逃げ込む安全基地がありません。
恐くても逃げていくところがありません。

恐怖を感じても、安心が生まれるところ、逃げるところがないので、恐怖を感じるわけにはいかないのです。
恐怖を感じないように、恐怖感を排除し無視し遮断します。
自閉症の子どものなかには、高い所も恐がらないといった
本能として感じるはずの恐怖でさえ排除し無視している子どもがいます。

ロヴァースは
「多くの場合、このような子供たちの問題点は全く恐怖心がないことなのだ。」と、語っています。(『わが子ノア』、p236)

自閉症の子どもは
恐怖を感じないように無視しているので
世の中には、なにも怖いものはないといった、すずしい顔をしています。

自閉症の子どもは、怖いものはなにも無かった頃の赤ちゃんが、そのまま大きくなったような無垢な顔をしています。
あるいは、悲しみも苦しみもほとんど経験したことがない、なに不自由なく恵まれて育った子どものような顔をしています。
恐怖を感じないようにして、すずしい顔をしているというのは、恐怖の世界を生きのびるための戦略です。

テンプル・グランディンさんは、思春期まで恐怖感はなかったと書いています。(『自閉症の才能開発』、p112)
しかし通常は、幼い頃のほうが怖いことが多く、成長するにしたがって、怖いことが減っていきます。
したがって、思春期まで恐怖感がなかったのではなく、恐怖感はあったけれど意識していなかったのです。

思春期に入ると恐怖を感じるようになったというのは
それまで意識することが出来なかった恐怖感を
認知能力が上がることによって、意識することができるようになったのです。

オリバー・サックスの解釈を採用すれば
それまで自閉症で感情を語れなかったテンプルさんが
感情を語れるようになってアスペルガー症候群へと移行したということになります。

アスペルガーのドナさんは
『自閉症だったわたしへ』という自伝を書いています。
283ページの本文のなかに
恐怖や怖れといった単語が196回出てきます。
3ページに2回は出てくるという頻度です。

このことは、ドナさんが恐怖の世界の中で生きていたということをあらわしています。
そして、ドナさんはその恐怖感を意識しています。

私たちが自伝を書いたとして、何回ほど恐いといった単語を使うでしょうか?
おそらくほとんど使わないのではないでしょうか?

私達の通常の生活では、喜怒哀楽という感情が主です。
幼い頃は暗い部屋が恐かったり、オオカミが恐かったり、恐いものが多いですが、そういった恐い状況を避けていれば恐怖は感じません。

また、一瞬、「恐い」と感じたとしても、すぐに逃げればそれで終わりです。
犬に追いかけられて恐い思いをしたとしても、それは数秒の経験です。

恐怖感は非常に強い好ましくない感情ですが、ほとんどの場合、避けることができる経験です。
私たちにとって、恐怖感は非日常の世界のもので、日常の世界のものではありません。

また、幼い頃の恐怖は、成長とともにほとんど乗り越えられていきます。
幼い子どもは、夜、ひとりではトイレへ行けなくても、大きくなれば、みんなひとりでトイレへ行けるようになります。

私たちの通常の人生にとって、恐怖感は重要な意味を持っていません。
誰でもみんな恐怖を感じたことがあるはずですが、自伝に書くほどの経験をした人は少ないはずです。
ところが、ドナさんの自伝には、恐怖という単語が3ページに2回といった頻度で出てきます。

では、ドナさんは恐怖感にどのように対処したのでしょうか?
ドナさんは、嫌な音が聞こえてきたら頭の中で繰り返し好きな曲を歌えば良いとか
人の目を見るときは、その向こう側を透視するように見れば怖くない、と書いています。

恐怖感を意識していますが、無視する方法を編み出しています。
これは、恐怖感そのものを無視していて、意識のレベルでは感じていないという、自閉症の子どもたちの戦略とは異なっています。

アスペルガー博士は
彼らの言葉も行動もすべてが知的で不自然だと指摘しています。(自閉症とアスペルガー症候群』)
歩くのでさえ、右足を出して、それから左足を出して、と考えないと歩けなかったという人もいます。(藤家寛子著、『他の誰かになりたかった』)

意識して歩くと、歩くことも不自然になってしまいます。
私たちは無意識で歩くので自然に歩けますが、アスペの人は意識して歩くので不自然になってしまいます。
アスペの人は、無意識レベルより意識レベルが優位です。

ドナさんの生まれて数ヶ月のときの写真があるのですが
左目は前を見ていますが、右目は下を見ています。(『自閉症だったわたしへ』)
すでにこのときから、右目と左目がばらばらです。
「後にわたしはこのやり方で、『世の中』に対する焦点をぼかし、自分の心から『世の中』をシャットアウトするようになった―この写真ではそこまでしているかどうかは不明」、と書いています。

焦点をぼかしてシャットアウトしたと書いていますが
身体の右側が言語にかかわる意識領域とつながり、左側が無意識領域とつながると考えられるので
右目の意識では見ていないのですが、左目の無意識ではしっかり見ているということになります。
成長すると両目とも前を見るようになりますが、左右の目の焦点は合っていないようです。
それが、焦点をぼかしていたということになるようです。

このことと関係があると思うのですが、ドナさんには不思議な現象があります。
小学校の最後の期末テストでは、ドナさんは欠席も多くてまったく解りませんでした。
答案が返却されるときも、どんなに悪い点か心配しています。

ところが、結果は94点で、女子では学校中で1番でした。
意識は勉強していないのですが、無意識はちゃんと勉強していたのです。

前を見ている左目と、前を見ていない右目と、意識と無意識がはっきりと分離しています。
そして、どちらが優位とも言えないようです。
小学校へ入ると、うんていの上をサーカスの綱渡りのように歩いたり
地上10メートルの木の枝にぶらさがったり、運動能力も高いです。
したがって、ドナさんはアスペルガーの要素と自閉症の要素と両方を持っていると考えることができます。

自閉症の子どもは無意識レベルで恐怖感を無視しているので、意識には恐怖感は伝わりません。
それにたいして、アスペの子どもは恐怖感が意識に伝わっています。
そして、意識レベルで恐怖感を無視しています。
恐怖感を無視しているという点ではおなじですが
無意識で無視しているか、意識で無視しているかという違いがあります。

折れ線型のアクセル君は
『鮮やかな影とコウモリ』という自伝を書いています。
恐いといった感情を表す単語は、幼い頃のことが書いてある前半にはまったく出てきません。
恐いといった単語は、後半にほんの数回出てくるだけです。

アクセル君も、テンプルさんと同じように、幼い頃は恐怖を感じていません。
彼は、恐怖を感じていないだけでなく、ほかにも悲しみや愛といった感情も感じません。

アクセル君は父親が死んだ時
お母さんとお兄さんと一緒に涙を流して泣いています。

ハハがキョウダイと僕を抱きしめた。二人とも泣き続けている。驚いたことに、二人の涙は僕にもうつってしまった。僕の目がうるんできた。僕はしくしく泣きはじめた。はじめは静かに、しだいに激しく。泣くのは楽しかった。涙は僕の目から頬へとつたっていく。僕にとってははじめての経験だった。
僕の頬を心地よい暖かさが伝う。涙を流すという行為は三ツ星だ。三月のこの日の朝は、完全に僕の心を奪った。僕は心ゆくまで泣くのを楽しんだ。けれどこのすばらしい贈り物を前にしても、僕は自分の義務を忘れたりはしなかった。大切な規則とあまり大切でない規則がある。非常に大切な規則の一つが、発言を求めた。『僕、学校へ行かなくちゃ』〜。もう八時十分前だった。

アクセル君は、涙を流して泣いていますが、悲しみは感じていません。
暖かい涙がほほを伝わるのをいい気持ちだと感じ、泣くのを楽しんでいます。

確かに、心ゆくまで泣くと、悲しみが癒されて、心地よさを感じることがあります。
しかし、心地よさを感じるのは、悲しみを感じて泣いたあとで、悲しみが癒されたあとです。

ところが、アクセル君は、悲しみは感じないで、楽しいとか心地良いといった快感だけを感じています。
恐怖感を感じないように排除し無視するだけではなく、悲しみという感情も排除され無視されています。

悲しみと恐怖感と共通するのは、ともに精神的な緊張だということです。
したがって、緊張をもたらす感情は意識されないようになっているようです。

また、薬をつけるときに、お医者さんに、「しみるかも」と言われても、まったく平気でした。
足の指を骨折しても、痛くありません。
熱いお風呂に入っても平気で、熱さを感じません。
皮膚が赤くなるのが好きです。
冷たい海に長時間入って、唇が青くなっても、冷たさを感じません。

悲しみだけでなく、痛みも、熱さも、冷たさも、感じません。
感情だけではなく、緊張をともなうような身体感覚も感じません。

また、アクセル君は、大学生の時、彼女から愛を告白される直前に、心臓が何度か激しく脈打ちます。(胸が高鳴ります)
しかし、愛を感じませんでした。

胸が高鳴っているのに、愛を感じません。
愛も緊張する感情のひとつです。
緊張をともなう感情であったために、無意識で排除され、意識まで届かなかったのです。

また、アクセル君は、彼女がほかの男性と一緒に歩いていても、嫉妬を感じないことに気がつきました。
このとき
「生まれてはじめて、本来あるべき感情が自分にはないのではないかということに思い当たった。」のです。

アクセル君は、普通の小学校へ入学することさえ危ぶまれた、遅れた子どもでした。
そのあと驚異的な記憶力で、高校を優秀な成績で卒業し、大学へ入りました。

医学部へ入ることもできるような優秀な成績でした。
「僕は人生のどんな課題も成し遂げてきたけれど、たったひとつ失敗したことがある。感情は丸暗記するわけにはいかないのだ。」
と書いています。(p460)

そして、本来備わっているものが欠けている不完全な人間だと感じ、悩むようになります。
しかし、アクセル君には感情がないのではありません。

感情は意識からは遮断されていて、無意識の領域にとどまっているのです。
彼の聴覚や視覚が、意識から排除され無視されていたのとおなじです。
その後、聴覚や視覚といった感覚遮断は改善されました。
しかし、感情遮断は残っていました。

身体的には、泣いて涙が出るとか、心臓が激しく脈打つという反応が現れています。
しかし、そのときに感じているはずの、悲しみや愛といった感情は意識されていません。
感情が身体には現われていても意識に現われないのは、アレキシチミア、失感情表失言語症とおなじです。

(このことが全ての自閉症の人に共通するとは言い切れません。アクセル君は、折れ線型なので刷り込みはある程度は出来ていると考えられるからです。)

自閉症の幼い子どもの場合は、古いれんがの街並みのような安心できる視覚(感覚)は意識に伝わりますが、安心できない感覚は排除されていて意識に伝わりません。
それと同じように、安心できる感情や身体感覚は意識に伝わりますが、緊張する感情や身体感覚は排除されていて、意識に伝わりません。

緊張をもたらすような感覚が排除されて意識に伝わらないだけでなく
緊張をともなうような感情も排除されて意識に伝わりません。

緊張をもたらすような感覚も
緊張をもたらすような感情も
意識から排除されているという二重の排除がおこなわれています。


5.集中

一歳半になって、物に触ったり、物を口に入れたり、指さしたり、探しまわったりする時期になっているはずなのに、こうしたことはなに一つしない。歩きもしないし、階段を這い上がることもしない。物をとろうとにじり寄っていくこともしない。彼女はなに一つほしがらない。ただ、無心に一ヵ所をまわっている。あるいは、長い鎖を手にして坐って、その鎖を蛇のようにくねらせて、鎖がもつれあったり、ほどけたりするのを、二十分でも三十分でもじっとみている。(クララ・パーク著、『ひとりぼっちのエリー』、p5)
「70003が素数だ!」と発見したときの彼女の歓喜は、忘れることができない。(クララ・パーク著、『自閉症の娘との四十年の記録』、p133)
ピタゴラスが定理を発見したときに感じたに違いない喜びは、私たち多くの者にとっては無縁であるが、それでも想像はできる。世界に秩序を見いだすことは喜びであり、神学者も数学者も、この点では意見が一致している。エリーの喜びは、彼らのにくらべればごく単純なものだが、同じ種類のものなのだ。彼女がこのようなものに喜びを見いだすのを、私は嘆いているわけではないが、ただ、もっと人間的な喜びが優先したならばと思うのである。(『ひとりぼっちのエリー』、p337)

排除や無視の対極にあたるのが集中です。
一心不乱に一つのことに集中すれば、まわりの世界を遮断し、無視することができます。
自閉症の子どもは、恐いものを無視するために、安心できるものに集中するのではないかと推測します。

安心できるものに集中することによって、安心を得ることができます。
したがって、自閉症の子どもの物事への集中には
怖いものを無視するという働きと、安心を得るという働きと、ふたつの働きがあると推測します。

通常、私たちの集中は、たとえば視線であれば、視線の焦点を合わせるという集中になっています。
そのとき、周辺も視野に入っています。周辺視野という要素を持った集中です。

しかし、自閉症の子どもの集中には、周辺視野という要素がないか、少ないです。
周辺を見ない、周辺が見えない集中になっています。
周辺を意識しない、周辺を意識できない集中です。
私たちが一心不乱に集中しているときと同じような集中になっています。

(焦点を合わせないで周辺視野だけで見ているといった自閉症の子どもがいます。無視という戦略が優位で、集中という戦略が採用されていません。幼い頃に、安心できる物が見つからなかったのかもしれません。)

ただし、怖いものを無視するためには、把握している必要があります。
無意識ではしっかりと周辺視野が働いているのではないかと推測します。
このあたりが、自閉症の子どもの不思議さです。
解っていないようで、解っています。


二種類の集中

一つは、恐怖の世界からひきこもり、世界を無視するための集中です。
単調で退屈なことをいつまでも飽きることなく繰り返します。

エリーは無心に一ヵ所をまわったり、長い鎖を手にしていつまでもじっと見ていました。
テンプルさんは、貨幣をくるくる回したり、木の木目に見入ったりすると周囲の世界が消えた、と書いています。
(『自閉症の才能開発』)

もう一つは、積極的な集中です。
世界のなかに秩序や法則を見出して、それによって安心を得ようとする集中です。

エリーは数に集中しました。
秩序や法則がある世界だからです。
なかでも素数は割ることのできない確かな数です。
エリーは素数という確かな数の発見に喜びを感じています。

集中という点では同じです。
世界からひきこもり無視するための集中は成長をもたらしませんが
世界への積極的な集中は自閉症の子どもの安心の世界を広げ、才能を開花させます。

このふたつの集中を区別する必要があります。
テンプルさんは、ひきこもる集中は現実の世界に引き戻す必要があると書いています。
それにたいして、特定の物へのこだわりと呼ばれている集中はそのこだわりの幅を広げ、意味のある学習的活動に活用するべきだと書いています。
ボートが好きならボートの本を読ませれば国語の学習になり、スピードの計算をさせれば算数の勉強になります。
(『自閉症の才能開発』)

自閉症の子どもは安心を求め、安心できる物事に集中します。
それにたいして定型の子どもは、不安になると、母親やヒトを求めます。
しかし、母親のそばにいても、良好な母子関係が失われると、精神的には離れてしまい不安や恐怖を感じます。
したがって、定型の子どもは良好な母子関係を求め、良好な人間関係を求めます。

そして、良好な人間関係を築き保てるように、自己を制御しています。
そうやって、周りの人達との良好な人間関係を求め、自己を制御するので、おのずと社会性が身についていきます。
よほどの欲求不満を抱えていたり、よほどの不幸でなければ、社会性を逸脱したり、傍若無人に振舞うということはありません。

静止顔(スティルフェイス)の実験というのがあります。
お母さんが顔の表情をまったく変えないで赤ちゃんと正対するという実験です。
そうすると、お母さんの顔の表情を変えようと、生後3ヶ月の赤ちゃんが微笑んだり手を振ったり、いろいろとやるそうです。

これは、お母さんが赤ちゃんをあやすのとおなじことをやっているのです。
それでも、お母さんが顔の表情を変えないでいると、そのうち、赤ちゃんはあきらめて横を向いてしまいます。

そのときの試行回数に、4回から13回までの幅があったそうです。
13回もがんばった赤ちゃんがいたそうですが、赤ちゃんが生気のないお母さんをあやしているのです。
定型の子どもは赤ちゃんのときから、お母さんの機嫌が良くなるように、こんなにも努力します。

それにたいして、自閉症の子どもには
良好な母子関係や人間関係によって安心がうまれるという機能がほとんどありません。
したがって、良好な人間関係を築き保つという動機が弱いのです。
お母さんや他者を喜ばせよう、困らせないようにしよう、という動機もほとんどありません。
したがって、定型の子どものように、おのずと社会性が身につくというわけにはいかないので、社会性をひとつひとつ教えていく必要があります。

自閉症の子どもは、人間関係のなかに安心を求めるよりは、世界のなかの秩序や法則に安心を求めます。
したがって、数学、音楽、機械、地図など、秩序や法則のあるものに集中し、安心や喜びを得ます。
そういった世界では、学問が恋人のようになるので、定型の子ども以上に成功する可能性を持っています。


6.認知障害

スモールフォーカス

赤ちゃんはみな、動くものにきわめて敏感です。じつは、赤ちゃんの周辺視野がいちばん敏感にものの動きをとらえます。中央視野は、ものの形をとらえることに優れています。
(ダニエル・スターン著、『もし赤ちゃんが日記を書いたら』、p43)

自閉症の子どもにはジグソーパズルが得意な子どもが多いです。
しかも、パズルの絵柄を参考にするのではなく、パズルの形だけで完成させていきます。
ものの形の認知に優れています。
中央視野に集中し、周辺視野を排除しているという、恐怖症からくる無視と集中という戦略が、形の認知に優れているといった、自閉症の子どもの能力をうんでいると推測します。

ドナさんは、自分にあった色のサングラスをかけると
それまでばらばらに見えていた人の顔が、まとまって全体として見えるようになったそうです。
それまでは、人の顔だけでなく、ほとんどのものがばらばらに見えていたそうです。(『ドナの結婚』)

無視と集中の、集中が非常に狭い一点に限られていたので、全体が見えなかったのだと思います。
これはスモールフォーカス、あるいはトンネル視野と呼ばれています。

一点に集中することによって他は排除され、一度にごく狭い一点しか視野に入りません。
人の顔やいろいろな物を見るのが怖かったので
全体を見ないで、一点だけを集中して見るようにしてきたからだと解釈します。

例えば、シマヘビが目の前に出てきたとします。
そのとき、一本の縞だけを集中して見るようにすれば、シマヘビという全体が見えなくなります。
一点だけを集中して見るようにすれば、全体としてのヘビが見えなくなるのでヘビが恐くなくなります。
一点だけを見て全体を見ないようにするという戦略を、幼い頃から採用してきたので、そのような情報処理回路が身についてしまったと考えます。

自閉症のアクセル君は、安心できるものだけが見えて
安心できないものは見えないという、情報の排除という戦略を採用しました。
自閉症を発症すると、はじめは、人の顔にはもやがかかって見えなくなりました。
それにたいして、アスペのドナさんは、狭い一点に集中するという戦略を採用しています。
恐い情報を処理する戦略がことなっています。

ただし、アクセル君は徐々に見えるものが増えていきました。
それにたいして、ドナさんの一点への集中は大人まで続いています。

しかし、自閉症の人でも、ドナさんとおなじで、一点が気になると全体が見えなくなるという人がいます。
また、アスペの人にも、発症したばかりのアクセル君とおなじで、人の顔が良く見えないという人がいます。
したがって、自閉症の人もアスペの人も、情報の排除と一点への集中というふたつの戦略が、両方使われていると考えることができます。

ドナさんの場合
サングラスで光のサイクルを変換することによって
変換された情報が正常な回路を通ることができるようになったのではないかと解釈します。
また、正常な回路が失われずに残っていたということは
正常な回路も使われていたということを示しているはずです。
長い間、使われずにいた回路であれば、消えてなくなっているはずだからです。

ということは、正常な回路も使われていたけれど、正常に見えていなかったということなのでしょうか?
不思議です。
自閉症には、解らないことがいっぱいあります。


感覚統合

ドナ・ウィリアムズは彼女自身のことを、単一感覚の生き物なのだと言う。つまり、聞くことと見ることを同時にできないのだ。話に耳を傾けているとき、目には何も入ってこないのである。人の話を聞いているときに猫が飛びついてくるのは見えない。ドナは顔を突き合わせて話をするよりも、視覚を使わないですむ電話の会話のほうが対応しやすいのだ。(テンプル・グランディン著、『自閉症の才能開発』、p94)

見ているときは聞いていないで、聞いているときは見ていない、といった認知の障害が指摘されています。
様々な感覚も一度に一つしか認知できません。
また、「ある一つの状況の二つの異なる解釈を同時に認識することは、彼らには最大の困難なのです。」
とも指摘されています。
(『自閉症とアスペルガー症候群』、p341)

感覚だけでなく、認知チャンネルが全面的に一つに限られているようです。
スモールフォーカスというだけでなく、シングルフォーカスになっています。
これが、どれ位の割合で、どの程度の障害としてあるのかという、はっきりとしたデータはまだないようです。

母親の刷り込みは、触覚、嗅覚、聴覚、視覚などによっておこなわれます。
温かくて柔らかい肌の感覚でも母親と解るし
匂いでも母親だと解るし
声でも母親だと解るし
顔でも母親だと解ります。
すべての感覚が母親という1つの認知につながっています。
触っても、匂いでも、聞いても、見ても、母親なのです。
諸感覚が母親の認知に共同して働き、お互いを強化しながら母親というひとつのものを認知したのです。

自閉症の人は、諸感覚が共同して働いてひとつのものを認知するという働きが弱いです。
母親を諸感覚の総合体として認知できなかったという、刷り込みの障害がその原因だと推測しています。

しかし、私たちも一度に視覚と聴覚という二つの異なる感覚を、同時に認知することができているのでしょうか?
焦点は本来ひとつのはずです。
そのひとつの焦点を視覚から聴覚へ、聴覚から視覚へとすばやく動かすことによって、同時に二つを認知しているという錯覚がうまれているのではないでしょうか?
視覚における焦点と周辺視野のように、諸感覚を横断して焦点と周辺視野が成立しているのだと思います。
そして、諸感覚の中を自由に焦点が移動しているのだと思うのですが、いかがでしょうか?


認知記憶システムと単純記憶システム

私たちは、意味のある文章は記憶しやすいですが、意味のない文章は記憶しづらいです。
ところが、自閉症の人の中には、意味のある文章と意味のない文章と記憶力に差がない人がいるという報告があります。

記憶システムには、認知記憶システムと単純記憶システムという二つの記憶システムがあります。
しかし、自閉症の人は、認知記憶システムが働いていないようです。

逆に、単純記憶システムは大変優れているという特徴があります。
認知記憶システムが働いていないという障害を、優れた単純記憶システムでおぎなっています。
しかし、なぜ認知記憶システムが働いていないのでしょうか。

赤ちゃんが、毛が生えていて4本足で歩く犬を見て、『ワンワン』と覚えたとします。
すると、はじめてネコを見たときも、『ワンワン』と言うはずです。
そのときに、『あれは、ワンワンじゃなくてニャーニャ』、と教えることによって
犬とネコは違うということを理解し、犬とネコが分離します。
犬も、大きな犬や小さな犬、隣の犬やおじいちゃんの家の犬などと分離していきます。
そうやって認知は膨らみ細分化し、成長していくはずです。

ということは、認知の成長も身体の成長と同じなのではないでしょうか?
大きくて複雑な身体も、はじめは、1個の卵子からはじまります。
それが、2個に分裂します。
そして、4個になり、8個になりと分裂を繰り返して、大きな複雑な機能を持った身体になります。
それと同じように、認知も、はじめに母親の認知がうまれ、それが分裂していくことによって、認知の世界地図がうまれていくのではないかと推測します。

赤ちゃんにとって、はじめは、世界は母親だけです。
世界はひとつです。
そのひとつの世界が膨らみ、2つに分かれ、4つに分かれ、8つになり、と膨らみ細分化し、徐々に世界が大きくなっていきます。
最終的には、地球だけでなく宇宙までも含んだ大きな認知の地図が脳の内部に形成されます。

認知の世界地図は、刷り込んだ母親のイメージが核となって
そのまわりを身近な人や物事のイメージが取り囲み
さらにそのまわりをイメージが取り囲むといった構造になっていると考えます。

また、この認知の世界地図は平面の地図ではなく
昨日うまれた認知や今日うまれた認知といった時間軸をも含んだ、
4次元の認知の世界地図になっているはずです。
自閉症の人には、この4次元の認知の世界地図がうまれていないのだと思います。

私が話したことのあるアスペルガーの人は
『自分の知識の世界は宇宙の星のようにちりばめられている』
と、言っていました。

膨大な知識があるのですが、お互いがつながりあっていないのです。
はじめに何かを知り、次に何かを知りといったように、次々と知識を増やしてきたのではないでしょうか?
1個から分裂して増えてきたのと、1個ずつ増えてきたのとの違いです。

自閉症の当事者であるニキ・リンコさんの話です。(『自閉っ子世を渡る』、p261)
あるとき、ペットが飼える住宅情報を検索していたとき、備考欄に「ネコのみ可」と書いてあったそうです。
それを見て、さすがに変だと思ったそうです。
だんなさんにどういうことなのか聞いたそうです。

彼女はネコしか住めないネコ屋敷を想像したのです。
ネコのみ可、という言葉をそのまま受け取れば、ネコ屋敷になってしまいます。

私たちは、人が住む住宅情報を検索しているという認知の地図を持って、その中で言葉を読んでいくので、ネコのみ可と書いてあってもネコ屋敷にはなりません。

早期発症タイプの自閉症の場合は、母親の刷り込みを妨げられたことが認知障害の原因ではないかと推測しました。
刷り込みとは、母親のイメージを心的内象として取り込み、その取り込まれた心的内象が最初の認知になり、その後の認知の核となること、ではないかと考えたからです。

このように考えると、自閉症の人は刷り込みが妨げられたので認知の核が形成されず
その後の認知の分裂が生まれなかったということになります。
しかし、この論理だと、正常な発達をしていたという折れ線型の自閉症の場合は
刷り込みがおこなわれていたと考えられますから、認知障害がうまれたことが説明できません。

その場合、恐怖感が認知障害を生み出しているという可能性が考えられます。
恐怖感にたいして自閉症の人は、感覚遮断や感情遮断で対処しています。
それとおなじ戦略で、認知遮断が行われているという可能性があります。

認知というのは知のネットワークになっています。
みんなどこかでつながっていると言えるぐらい大きなつながりになっています。
したがって、どこかで恐怖感とつながっていると、そのネットワーク全体が恐怖感とつながってしまいます。
したがって、恐怖感とどこかでつながっている認知というネットワークにはアクセスできなくなります。
無視という戦略と、認知という記憶システムは相容れません。

ということは、認知障害が刷り込みが妨げられたことからうまれるケースと、
恐怖症からうまれるケースと、ふたつのケースがあるということになります。

しかしそれでは、理論としてあまりすっきりしません。
どうなのでしょうか?
すっきりしない理論は、間違っているケースが多いのですが。


言語障害と時間感覚

絵で考えるのが私のやり方である。言葉は私にとって第二言語のようなものなので、私は話し言葉や文字を、音声つきのカラー映画に翻訳して、ビデオを見るように、その内容を頭の中で追っていく。だれかに話しかけられると、その言葉は即座に絵に変化する。言語で考える人たちにとって、これは理解しがたい現象であろう。(テンプル・グランディン著、『自閉症の才能開発』、p20)
多くの自閉症者が話し言葉に事欠いている一方で、空間視覚認知にとりわけ優れた能力をもっていることがあげられる。私は幼児から十代にかけて、人は皆、絵で考えるものと思っていた。自分の思考法が他人と違っていたことなど、つゆ知らぬことであった。(同、p20〜1)
視覚組織は、頭の中でイメージを浮かべるためのものと、そのイメージを動かすための二つの下部組織に分化しているものと思われる。イメージを動かす機能は脳の右側頭にあり、イメージを浮かべさせる機能は左側頭にある。自閉症者の場合、視覚組織が話し言葉の能力や連鎖能力欠如を補うほど大きく発達している可能性がある。(同、p44)
『テッドは「どこ?」「なに?」「だれが?」の質問には苦労せず答えることができた。しかし、「いつ?」はむずかしかった。時間の観念がなかったし、物事の順序がわからなかったからだ。(チャールズ・ハート著、『見えない病』、p145)

自閉症の人によっては、言語によって世界を認知するのではなく
視覚が世界を認知する機能をはたしている場合があります。
テンプルさんの場合は、ビデオのような記憶になっています。
音声つきの動く映像です。

その能力が設計の仕事に役立っています。
コンピューターグラフィックのように自由に映像を思い浮かべて
その映像をあらゆる角度から見ることができるのです。
模型を作らなくても、実物を映像として再現できるのです。

それにたいして、テッド君はイメージを動かす機能が働かずに、写真のような記憶になっているようです。
写真のような記憶になっているので、記憶力が非常に良いのですが、時間の観念がなく物事の順序がわかりません。
こういった、視覚による認知能力が優れているという特徴は
言語による認知能力の障害をおぎなうために生まれているようです。

しかし、優れた視覚認知能力も
動く映像として記憶されていないと、時間の観念がないといった障害がうまれてしまいます。
また、記憶のつながりがないと、視覚認知能力だけでは物事の前後関係を認知できないようです。
記憶が、時間軸のある4次元になっていないで、3次元になっているようです。

先天的な聴覚障害がある子どもにたいして
手話の教育がおこなわれないと、知的能力が伸びず、精神薄弱者のようになってしまうそうです。
手話は視覚言語ですが、通常の聴覚言語に勝るとも劣らない機能があるそうです。

通常の言語と同じように、各国の手話があるそうですが
初対面でもたいていのことは数分以内に理解できるようになるそうです。
そして、3週間もあれば、かなり込み入った問題についても突っ込んだ話ができるようになるそうです。
この点では、聴覚言語よりも優れています。
また、手話の獲得が遅れると、時間の感覚が欠如することがあるそうです。(オリバー・サックス著、『手話の世界へ』)

したがって、自閉症者の時間の感覚の欠如は、言語能力の獲得の遅れとつながっているようです。

自閉症の人にはさまざまな感覚障害や感情障害や認知障害が指摘されています。
しかし、そのすべてが障害ということではなく、優れた特性とみなせるものもあります。
また、障害とされているものも、適切な療育によって解消可能なものもあります。

アクセル君は成長とともに視覚も聴覚も広がり、見えるものが増え聞こえるものが増えています。
安心できるものが増えて、怖いものが減ったからです。
感覚障害や感情障害は治療が可能です。
そして、忘れてならないのは恐怖症の治療が必要だということです。


7.その他

睡眠障害

自閉症の子どもは恐怖の世界を必死に生きています。
恐い物事を無視したり、恐くない物事に集中したりして、全力をあげて恐怖を感じないように回避し、防衛しています。
眠ったら、防衛が出来なくなってしまうので、どうなるか解りません。

恐くて眠れないのです。
しかし、自閉症の子どもは恐怖感を感じていないはずなので、常に緊張していて緊張感が抜けないので眠れないのだと考えます。

逆に、どうやって眠れるのか、それが不思議です。
ドナさんは
「わたしはいつも、眠るのがとても怖かった。だから何年もの間、睡眠をとるにしても、両目を大きく開けたまま眠っていた。」、ということです。

テンプルさんは、快さと圧迫感をもたらしてくれる、きっちりした寝袋がよい、と書いています。
きっちりとした寝袋で、手足の自由が制限されると、恐怖感が抑えられるようです。
重めの布団も効果があるようです。

かってのヨーロッパに、赤ん坊を布できっちりとくるむという育て方があったのですが、それと似ています。
狭い隙間に入ると安心できるということと、身体が束縛されると恐くなくなるという、ふたつの要素があると思います。

子どもに、眠るようにというプレッシャーをかけると、余計に眠れなくなるかもしれません。
また、睡眠障害の子どもに親が巻き込まれて大変な目にあっていると
それも子どもへのプレッシャーになってしまいます。

起きていても良いからおとなしくひとりで遊んでいるように言うとか
眠らなくても良いから横になっているように言うという方法も効果があるようです。

睡眠をうながすホルモンのメラトニンは良く効くそうです。
睡眠障害は体調や気分などにも影響し、日常生活をおびやかし療育の妨げにもなります。
自閉症の子どもに薬物を使用することには基本的には反対なのですが、睡眠障害に薬を使うのは賛成です。

しかし、いっぱいある恐怖症の治療をおこなうのが、もっとも効果的だと考えます。


自傷

恐怖感がつのってパニックになったときに、安心感を得るひとつの手段として自傷がうまれます。
自傷には二つの要因があります。

一つは、自閉症の人には痛覚をあまり感じない人がいるということです。
これは、虐待されている子どもにも現われることがあります。
痛覚失認症と呼ばれています。
自閉症の人は、恐怖を無視しているのと同じように、他の不快な感覚も無視していることがあります。
痛みを感じなかったり、熱さを感じなかったり、冷たさを感じなかったりということがあります。

もう一つは、痛みを軽減するために、脳内の麻薬物質であるエンドルフィンが分泌されるということです。
意識では痛みを感じなくても、身体的には痛みを感じています。
ですから、エンドルフィンが分泌されます。
エンドルフィンが分泌されると、精神安定剤の働きをします。
安心が生まれ、恐怖感が抑えられます。

痛みというマイナスと、麻薬物質で恐怖感を抑えるプラスと
その比較でプラスの方が上回ると、自傷がうまれてしまいます。
自傷で恐怖感をやわらげられるということを学習すると、自傷行為が定着してしまいます。

自傷の解釈にはもうひとつの可能性があります。
痛みを感じれば、恐怖を感じないですむということです。
異質の感情を同時に2つ感じることはできません。
そして、恐怖よりも痛みの方が耐えやすいのです。

では、床におでこをぶつけるなどの自傷行為がはじまったら、どうしたら良いのでしょうか?

現在、「パニックになって自傷行為がはじまったらクッションなどを当ててそっと見守りましょう。」といった対応が一般的です。(『発達障害のある子へのサポート実例集』p136〜7)

私の場合は、後ろから抱き止めました。
いったんはパニックが激しくなりますが、ひるまないで抱きつづけます。
子どもは恐くて大変なのです。
強く抱き止めて、その大変さを子どもと分かち合います。

そして、『大変だね!恐いね!』と共感し、『恐くても大丈夫!』と励まします。
しばらくすると落ち着いてきます。
パニックは長くは続きません。
そしたら、『がんばったね!えらいね!』と褒めます。
これを数回行っていると、いったんは抱き止めたときの暴れ方が激しくなっていきますが、パニックや自傷は軽減していきます。

おそらく、恐怖感が放出されて、抱えている恐怖感そのものが軽減するのだと考えています。
したがって、自傷は、抱き止めて、共感して、励まして、褒める、というのが基本だと考えています。
詳しくは、6章恐怖症の治療を参照ください。


他害

自閉症の子どもの最も大きな問題行動は他害です。
他の問題行動はあきらめて放置している親でも、他害を放置しておくことはできません。
他害のある自閉症の子どもは、叱られてばかりです。
しかし、なんど叱っても他害はなくなりません。

(厳しく叱ったらやらなくなった、という報告もあります。しかしこれは体罰へとつながりかねないので、厳しく叱るというのは安易に導入する手法ではありません。他の方法で効果がないときに、最後の手段として試してみるというものです。)

他害がうまれる原因は
恐怖感が軽減されることであればどんなことでもするし
いったんその効果があると止められなくなる、ということだと考えます。

おぼれる者は藁をも掴みます。
定型の人でも恐怖におそわれると相手のことを考える余裕がなくなるので、誰にでもしがみついてしまいます。

ほとんどの子どもは
叩いたり噛んだりひっかいたり、髪の毛を引っ張ったりするのは、してはいけないことだというのは解っています。
それでもしてしまうのです。
解っているのにやってしまうというのは、依存症の特徴です。
自己制御能力が低いのです。
やめようと思っても、自己の行動を制御できないのです。

叱られると自信を失い、よけいに自己制御能力が低下してしまいます。
それで、叱ることが効果がないどころか、逆効果になってしまうのです。
ですから、他害をやめさせるには、叱ることの逆をやれば良いのです。
褒めるのです。

どうすれば褒めることができるでしょうか?
基本は、自傷のときと同じです。

他害は、やらせないようにして、事前に止めるのが原則です。
直前に手を押さえて、『がまん!』と言い
手を押さえたまま2〜3秒後に、『がまんできたね、えらいね!いい子だね!』と褒めます。
他害をしてからでは褒めることはできませんが、他害をする前に止めることが出来れば、褒めることができます。

また、他害をする子どもも、常に叩いているわけではありません。
叩いていないときに、叩いていないことを褒めます。
かりに、20分おきに叩くのであれば、その前の15分ぐらいで叩かないでいることを褒めます。

叩いてしまったときは、私はたんたんと引き離すだけにしています。
どのような言葉をかけたら効果的なのか解らないので、何も言わないでいるというだけですが。
ただし、叩いた相手には私が不注意で止められなかったことをあやまります。(私は施設でボランティアをしていました。)

他害には、挨拶代わりの他害もあります。
はっきりした反応が返ってくるし、大きな注目を得ることができます。
こういった他害をする子どもには、挨拶の仕方を教えています。
また、叩かないでいることを褒めるだけでなく、普段から課題を与えて褒めるようにします。
指示して→やらせて→褒める、という流れを作るようにしています。

叱られたり、赤ちゃんの泣き声を聞いたりしたときのパニックによる他害もあります。
これは、パニックによる自傷のときと同じです。
パニックを抱き止めていれば、パニックが軽減し、他害も軽減します。

やっかいなのは、仕返しと八つ当たりの他害です。
何かを制限されたとき、そのむしゃくしゃした気持ちを他害で発散するのだと思います。
これはどうすれば良いのか解らず、私も困っています。

基本として言えることは
恐怖症の治療をおこなえば、恐怖感が軽減し情緒が安定するので、他害や自傷行為はなくなるということです。
物事への恐怖症を治療し、同一性保持という恐怖症を治療し、パニックを抱き止めていれば、パニックが軽減し、自傷行為や、他害はなくなるはずです。
詳しくは、6章恐怖症の治療を参照ください。


偏食

食べたことのないものは怖いです。色とか形とか、味以前の部分で、見るだけで気持ち悪かったり怖かったりして食べられないものも多いです。(ニキ・リンコ、藤家寛子著、『自閉っ子、こういう風にできてます!』、p84)
食べたことのない物を味見するなんて怖かった。(ウェンディ・ローソン著、『私の障害、私の個性』、p108)

自閉症の子どもの偏食は、定型の子どもの好き嫌いによる偏食とは異なります。
定型の子どもの偏食は、レストランで注文するメニューがひとつも無いなんていうことはありません。
しかし、自閉症の子どもの偏食は、レストランで注文するメニューがひとつもないということもあります。

自閉症の子どもの偏食は、前回食べて安全が確認された食べ物を、つぎにも食べていれば安心できるという偏食です。
結局いつも同じ物を食べることになります。

同じ道を通れば安心でき変化を怖れる、という同一性のこだわりの1種です。
いつもと違う運動会などの学校行事を恐がるのも同じです。
したがって、偏食は自閉症の診断基準ではありませんが、ほとんどの自閉症の子どもに現われます。

自閉症の子どもは、変化を恐れるので、いつも同じものしか食べられません。
親が協力すると、段々と数が減ってしまい
食べられるものがたったひとつになったり
ストレスが高じると何も食べられなくなるという拒食になり、点滴をしなければならなくなるケースもあります。

偏食は恐怖症として治療をすることができます。
恐怖症は放置していると広がったり重度になる傾向があるので、早期治療が原則です。
6章恐怖症の治療で、偏食の治療を紹介しています。そちらを参照ください。


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