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塾版総合的学習の研究報告
 
 久谷地区には、室町時代には、伊予国守護の河野氏の有力な武将がいたところです。土佐の勢力が久万町の方から進出してくるのを防ぐため、いくつかの城が作られました。しかし、500年後の現在では分からなくなっています。次のレポートは、そのお城あとを、田畑の中から探した塾版総合的学習の研究報告です。
 この調査に参加して、一緒に研究をしたのは、中学1年生2人、小学6年生2人の合計4人で、夏休みの7月28日に実施しました。
 小学6年生が、下のような研究をして、夏休みの自由研究として提出しました。社会科に関するものはこれ1点だけで、クラスの全ての子どもは理科の自由研究をしたそうです。
「東池」は何だろう?      池横の土段は?         まっすぐな道と水路は? 

 
研究報告   「室町時代の消えた城探検」
                               小学6年
1 研究の動機
 通っている塾の先生が考古学者で、室町時代のお城を見つけました。ちょうど学校で歴史をやっていたので、タメになると思って行ってみて、おもしろかったので自由研究にしました。お城のあった場所は、松山市恵原町で、豊臣秀吉に滅ぼされたそうです。
2 研究したこと
(1)歩数を数える
 まず、城あとを敵が入ってこないようにつくってある「土るい」という土かべを一つづつ歩いて、歩数を数えます。たては、幅11歩、長さ104歩で、横は幅7歩、長さ103歩でした。
 次に、周りを囲っている「堀」という池のようなものを計りました。堀は両側とも21歩でした。
 最後に、そこの兵士たちが戦うときに使っていた道を計りました。これはとちゅうで終わっていたけど、360歩ありました。
 次はこれを元に、大きさを割り出しました。
(2)大きさを割り出す
 まず、大またで1歩歩いて、その長さを測りました。60cmでした。次にその数にそれぞれの歩数をかけます。そうすると、土るいのたては、幅660cmで、長さ6240cmになり、横の幅は420cm、長さは6180cmになりました。道は25680cmになり、道横の堀は147cmでした。これを元に面積を計算すると、6240×6180という計算になり、面積は、3856.32平方メートルという大きさになりました。
3 結果
 図を書いた。
      
4 考えたこと
 行ってすぐは、どこにお城があるか分からなかったけど、みんなで歩いているうちに、すこしずつ形が分かってきました。もしも豊臣秀吉に負けなかったら、もっとしっかり残っていたかもしれなかったというのが残念でした。
5 研究の反省まとめ
 この研究で分かったことは、東側のほりがどんどんうめたてられていることと、かなり大きい城だったということが分かりました。分からなかったことは、どれくらい人がいたのかという事でした。今度行くことがあったら、その事を調べたいです。

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