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<vol.2> 東京球場
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まさにField of Dreams。斜陽の一途を辿る映画産業、会社が経営困難の中、この社長のどこにそんなカネがあるものか。しかし彼は夢を捨てなかった。セ・リーグに、いや、巨人に負けたくない、その思いが「夢の球場」を東京の下町・南千住に生み出した。その名も「東京スタジアム」。下町の球場とは思えない洒落た球場で、ナイトゲームが南千住の夜空を明るく照らしだした。日本シリーズ、オールスターゲームも開催された。しかし、観客の減少に歯止めがかからず、72年を最後にプロの球場として使用されなくなり、その5年後に解体された。実働年数わずかに11年、そして現在、球場の存在は跡形もない。だからこそ、その記憶はファンの胸を熱く去来してゆく。 |
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●沿革 1962年、当時大毎オリオンズのオーナーで大映映画社長、永田雅一の発案により28億円の巨費を投じて建設。その年から大毎オリオンズ(64年から東京オリオンズ)のホーム球場となる。サンフランシスコのキャンドルスティックパークを手本にしており、内野スタンドは2階建て。1階と2階の間にはゴンドラ席が設けられた。下町の洒落たスタジアムとしてファンに愛されたが、観客収入の減少により72年を最後にプロのホーム球場としては使用できなくなり、1977年解体された。 |
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74年撮影。もうすでにロッテ・オリオンズのフランチャイズ球場としては使用されていないが、芝は手入れがされているようにも見える。この球場はメジャーのスタジアムを手本にしているだけあってルックスはじつにいい。内野に芝が張ってある球場は当時はここと後楽園球場だけだった。しかしプレイする側にとっては大きな欠点がこの球場にはあった。写真をご覧の通り、外野の右中間、左中間の膨らみがまったくなく、まるで「エポック社の野球盤」のようなかたちをしている。すなわちホームランが出やすく、セパ合計841試合(11年間)で1,914本のホームランが飛び出した。 |
| 国土画像情報 CKT-74-15 昭和49年 「東京」 C24B-10 1/8,000 より引用。 | |
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79年撮影。すでに解体から1年、跡形もない。右下の都営アパートは基礎部の工事がすでに始まっている。 1972年、東京球場はすでに十数億円もの負債を抱えており、経営権は国際興業の小佐野賢治に移譲されていた。「貸し球場」として採算は取れないため、ロッテ球団に売却を打診したが決裂。球場は73年シーズンから使用されなくなった。結果、ロッテはホーム球場を持たない「ジプシー球団」となり、準フランチャイズとして仙台宮城球場、後楽園、川崎球場などを転戦した。夢を追い、採算などもとより考えのない永田雅一のつくった球場である。「貸し球場で商売になるのか」と、ソロバンを弾かれたらひとたまりもない。そもそも球団経営自体、しかもパ・リーグのチームの経営に商売勘定を持ち出したらどうなるのか。結果は昨年(2004年)の球団合併・1リーグ騒動が如実に物語っている。 |
| 国土画像情報 CKT-79-4 昭和54年 「東京」 C7A-35 1/10,000 より引用。 | |
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1989年撮影。現在の状態とほぼ変わらない。球場は77年に東京都に売却され、無念にも解体されてしまった。2面のグランドは南千住野球場、緑の大きい屋根は荒川総合スポーツセンター、その横の白いビルは南千住署と警察の寮である。 |
| 国土画像情報 CKT-89-3 平成元年 「東京南部」 C2-33 1/10,000 より引用。 | |
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■東京球場跡地・現在の様子。 |
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■東京球場のルーツをたどる。もとは官営千住製絨所。
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国土地理院空中写真閲覧サービス・地区;東京首都、コースM377、番号128、撮影機関:米軍, 撮影日:1947/7/24, 縮尺:1/9,890 より引用。 |
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| 国土画像情報 CKT-74-15 昭和49年 「東京」 C23-44 1/8,000 より引用。
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■製絨所の遺構と、功労者・井上省三の碑が残る。 |
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倉庫会社裏に残る千住製絨所の煉瓦塀の遺構。 |
井上省三(いのうえ・せいぞう)。官営千住製絨所初代所長。ドイツに毛織技術習得のため留学、日本の羊毛工業の発展に貢献したが42歳の若さで世を去った。 |
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<参考文献>
ベースボールマガジン1997年夏季号 「1冊まるごと大特集・野球場」(ベースボールマガジン社)
荒川区広報課「ラブ・コール東京スタジアム」(VTR)