神ノ池海軍航空隊
(茨城県鹿嶋市光、鹿島郡神栖町ほか)
神ノ池海軍航空隊は1944(昭和19)年4月開隊。10月には721海軍航空隊と改称し、「神雷部隊」と名乗り特攻兵器「桜花」の搭乗員の訓練を行った。年が明けると部隊は鹿屋など南九州の航空基地へ進出、3月の15機をはじめ、沖縄沖の米機動部隊に特攻攻撃を加えたが、ほとんど戦果もなく、ただ400名以上もの若者の生命が空しく散華した。 |
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■跡地は製鉄所。 航空隊敷地は現在、住友金属鹿島製鉄所となっており、県道239号線沿いにフェンスで囲まれている。 敷地内は工場施設が建ち並び、当時の雰囲気はまったく感じられない。 |
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盆休みだからだろうか、車の往来はなく、人の姿さえ見えない(左)/休日の製鉄所は静まりかえっていた(右)。 |
■砂浜に現れた滑走路。 当時の航空隊の様子。神ノ池周辺は平坦な砂地で、1935(昭和10)年にはグライダーの飛行大会が開かれた場所だったが、のち海軍が買収、練習航空隊として1944(昭和19)年に開隊した。写真中央右に見える水たまりが名称の由来となった「神ノ池」。現在は埋め立てられコンビナート港になっている。 |
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今でも、東京から近距離のわりには交通の便も悪く、「遠隔地」のイメージがある鹿島灘。当時もそれは同じで、「秘密兵器」の訓練基地にはうってつけだった。 |
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■30年前、拡張建設中の製鉄所。 航空隊当時は周辺に10基近く作られた有蓋の掩体壕も、この頃になると開発により次々に消滅していった。辛うじて最後に残った一基が航空写真で確認できる(円内)。 1993(平成5)年、この残った掩体壕の場所を製鉄所が開放、郷土の歴史を残し、平和を祈念する公園として整備した。
国土地理院空中写真 整理番号CKT-74-12「水戸」1974年より。 |
■旧航空隊敷地の一角に設けられた「桜花公園」。 |
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公園内の敷地はさほど広くない。金網越しにはただ一基残った掩体壕が保存されており、その沿革を記した案内板が脇に立つ(写真上)。公園内に建立された「桜花・錬成之地」碑(写真下)。山岡荘八氏による碑文が刻まれている。 |
■保存された有蓋掩体壕 掩体壕は高さ約4.4m、幅は15m、奥行きが13m。かつては有蓋無蓋あわせて数十ヶ所に掩体が設けられていたが、周辺の開発にともない次々に消滅、この1基のみ残された。長い年月を経て、掩体の上部には草が生い茂る。 |
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■人間爆弾「桜花」のレプリカを展示。 空技廠 特別攻撃機「桜花」(MXY8)。加速用ロケットつきの爆弾を人間が操縦して敵艦に突入するいわば「人間爆弾」。1944(昭和19)年8月に設計を開始、性能試験を経たのち翌45年1月には量産に入り、各型合わせ250機が生産された。母機の一式陸攻に懸吊、切り離された後は滑空とロケット推進で機をコントロールし、敵艦に体当たりする。しかし搭載量800kgの一式陸攻に2トン以上の桜花を搭載しての飛行では速度低下は免れない。敵戦闘機のいいカモとなり、攻撃隊のほとんどが母機もろとも撃墜された。戦果はほとんどないに等しい。米軍のコードネームは「BAKA」。 |
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保存された掩体壕の内部には、「桜花」のレプリカが設置されている。721空では零戦を桜花に見立て訓練を行い、最後に1回だけ、桜花の練習機で降下訓練を行った。練習機には橇(そり)がついており、機首には1,200kgの爆薬の替わりに水を含ませた。滑空後に橇で鹿島灘の砂地へ着陸するのは容易ではなかった。特攻機で出撃、というと若い未熟なパイロットが、という印象があるが、桜花の操縦には高い技量が要求された。721空はそのための専門の訓練部隊だった。 |
■戦没者偲ぶ「みたま祭り」。 春のお花見の時期には「さくら祭り」、そしてお盆のこの時期は戦没者を偲ぶ「みたま祭り」が催される。提灯で電飾され、航空隊の歴史や桜花の構造などの説明板が掲げられる。また敷地内には戦友会から寄贈された桜の献木も見られる。このあと強い夕立があったが、これらの装飾は無事だったろうか。 |
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線香のかわりに手向けられる煙草。神雷部隊の戦死者は400名以上。桜花搭乗員約50名に対し、母機の陸攻搭乗員はその7倍以上にのぼる。これは特攻が統帥の外道と誹られる以前に、制空権を握られている当時の状況では、作戦的にも無謀だったことを物語っている。 2003年3月、鹿嶋町に隣接した神栖町(旧航空隊敷地の約半分)で遺棄化学兵器が原因と見られる土壌汚染、健康被害が見られたが、航空隊との関連は薄いと見られている(この項終わり)。 探訪日;2002年8月12日 |
参考文献;丸エキストラ 戦史と旅31「空白の戦場」
潮書房
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(2004/05/23 新規掲載)