安治川トンネル・川底を行く。
(大阪府此花区西九条、西区安治川 2002年6月)
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正直、街で見かけても何の印象も残らないただの小ビルなのだが、じつはこの建物と同じものが別の場所、西区安治川にも建っている(写真右)。全く同じというわけではなく、見てのとおり、左右対照になっている。 |
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ビルの背面。手前の川は安治川。両方のビルはこの安治川の川岸に建っている。写真がなくてマヌケだが、此花区と西区のふたつのビルは両区境界の安治川を挟んで背中合わせになっている。 何をかくそう、この安治川の川底を、トンネルが貫いている。安治川トンネルである。ふたつのビルはこのトンネルの地上への出入り口である。全国でも例を見ないこの「川底にかかる橋」が、戦時中の1944(昭和19)年に造られたものと聞き、さらに驚く。 |
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銘板は当時からのもの。見にくいが、「道隧川治安」の下に「昭和十九年九月十五日竣功」とある。 |
大阪はかつて「水の都」と呼ばれたように、今でも公営の渡し船が8航路もあり、安治川トンネルのある場所はかつて「源兵衛渡し」と呼ばれた渡船場があった。安治川トンネルは1935(昭和10)年着工。当時、激増する周辺の工場に勤める工員を渡船ではさばききれなくなりはじめており、とはいえ中途半端な橋を架けても大型船の航行の妨げになった。そこでこの「川底トンネル」の建設となった。潜函工法という、当時の最先端の技術を用いたが、戦争が始まったのと相俟って完成までに10年の歳月を要した。 |
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かつては自動車もエレベーターで川底を渡ることができたが、車両の大型化と交通量の増大により1977年に廃止された。そりゃま今では無理な話だ。でもどんな様子だったんだか知りたい。 |
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エレベーターで地下へ到着。天井を見るとわかるが、断面はけっしてカマボコ型、つまり半円というわけではない。これはこのトンネルが上の写真の自動車用トンネルと一体の、筒状の鉄管を川底に埋め込んででできているからである。 | ||
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川底だけあってひんやりと冷たい空気が流れている。自転車もここでは降りて通行。粛々と通行者の列が続く。8つの渡船が今も利用され続けているように、この安治川トンネルもまた、地域住民にとって「川を渡る」重要な交通手段として機能しているのである。 宮本輝の「泥の河」の舞台でもある大阪の臨港地帯は、どこか旧態依然とした「下町」のイメージが強かったが、近年再開発が進み、その極めつけとして昨年、桜島に「ユニバーサルシティ」がオープンした。当時から通天閣などで知られるように、何でも新らしもの好きの大阪にこうした当時最先端の技術を駆使した建造物が残っていることは、大阪人以外にはあまり知られていない(この項終わり)。 [ page 1]
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(2002年6月3日 新規掲載) |