高ぶりを心せよ

高ぶりを心せよ
エズラ・タフト・ベンソン大管長
(1989年4月総大会 聖徒の道1989年7月号)

愛する兄弟姉妹の皆さん、教会の栄えある総大会で再び
お会いすることができ、うれしく思います。全世界の献
身的な教会員の愛と祈り、奉仕に心から感謝しています。

モルモン書で地と自分自身の生活を洪水のごとく満たす
ために努力している、忠実な聖徒の皆さんをほめたたえ
たいと思います。わたしたちは画期的な方法を講じて、
より多くのモルモン書を世に広めなければなりません。
しかし、求められているのは、それだけではありません。
わたしたちは意を決して、この大いなるメッセージを自
分自身の生活に、ひいては地の隅々に浸透させなければ
なりません。

この神聖な書物は現代のわたしたちのために書かれまし
た。その聖文は自分たちに当てはめるべきものです。

高慢の罪

教義と聖約には、モルモン書について、「ある堕落した
民の記録」と記されています。彼らはなぜ堕落したので
しょうか。これはモルモン書の重要なメッセージの一つ
です。モルモンはモルモン書の終わりの方の章にその答
えを記しています。「見よ、この国民、すなわちニーフ
ァイ人の民は、悔い改めなければ高慢のために滅びてし
まう。」主はさらに、わたしたちがモルモン書の堕落し
た民から伝えられたこの重要なメッセージを見落とさな
いように、教義と聖約の中で次のように警告されました。
「あなたがたは昔のニーファイ人のようにならないよう、
高慢に気をつけなさい。」

わたしは今からモルモン書のこのメッセージ、すなわち
高慢の罪とは何かについて明らかにしたいと思います。
皆さんの信仰と祈りによる助けを心からお願いします。
このメッセージがここしばらくの間、わたしの心に重く
のしかかっていました。主が今わたしにこのメッセージ
を伝えるように望んでおられることが分かります。

「高慢に気をつけなさい」

前世の会議で、「暁の子」ルシフェルが投げ落とされた
のは、その高慢さのゆえでした。神がこの世の終わりに
火で地を清めるとき、誇り高ぶる者はわらのように焼か
れますが、柔和な人は地を受け継ぎます。

主は教義と聖約の中で3度、この「高慢に気をつけなさ
い」という言葉を使っておられます。その中には、教会
の第二の長老であるオリバー・カウドリと、預言者の妻
であるエマ・スミスに対する警告もあります。

神が定義する高慢

高慢は、はなはだしく誤った解釈をされている罪であり、
多くの人が無意識のうちにこの罪を犯しています。聖典
の中には、義にかなった高慢というようなことを教えて
いる箇所は一つもありません。高慢は常に罪と見なされ
ています。ですから、世の中でこの言葉がどのように使
われているかは問題ではありません。わたしたちが理解
しなければならないのは、神がこの言葉をどのように使
われているかです。そうすれば聖典の言葉を理解して、
その恩恵にあずかることができるのです。

ほとんどの人は、高慢というと「自己中心」、「うぬぼ
れ」、「自慢」、「尊大」、「傲慢」、などの言葉を思
い浮かべます。これらは皆、高慢の罪の中に数えること
ができますが、核心となるものが抜けています。

高慢の中心をなすのは「敵対心」、すなわち神と同胞に
対する敵対心です。敵対心は「憎悪、敵意、反感」など
を意味します。サタンは、この力によってわたしたちを
支配しようとします。

神に対する敵対心

高慢は本質的に闘争的な性質を持っています。わたした
ちは、自分の思いを押し通して、神の御心に刃向かうこ
とがあります。自分の高慢な心を神に向けるのは、「御
心ではなく自分の思いが成るように」と言っているのも
同じことです。パウロはそのような人についてこう言い
ました。「自分のことを求めるだけで、キリスト・イエ
スのことは求めていない。」

神の御心に対する敵意は、欲望や欲求、激情の歯止めを
失わせてしまいます。

高慢な人は、自分の生活を律する神の権能を認めること
ができません。自分なりに真理を解釈して、神の偉大な
真理に挑むのです。また、自分の能力をもって神権の力
に対抗したり、自分の功業を挙げて偉大な神の御業に対
抗したりするのです。

神への敵意は、反抗、かたくなな心、強情さ、罪を悔い
改めない、誇り高ぶる、すぐに怒る、しるしを求める、
など実に様々です。高慢な人は、神が自分の考えに同意
するよう求めます。神の御心に合わせて、自分の考えを
変えるなどということは念頭にありません。

同胞に対する敵対心

どこにでも見受けられるこの高慢という罪悪には、もう
一つ重大な要素があります。それは同胞に対する敵対心
です。わたしたちは、人よりも上に立ち、ほかの人をお
としめようとする誘惑に毎日直面しています。

高慢な人は、自分の知性、意見、仕事、財産、才能など、
この世的な尺度をもって張り合い、すべての人を敵にま
わします。C・ S・ルイスはこう書いています。「高慢
な者は何かを所有しただけでは喜ばない。人より多く持
って初めて喜ぶのである。人を高慢にするのは比較であ
る。すなわち、自分は他よりも優れているという優越感
である。競争心という要素がなくなれば、高慢もその姿
を消すのである。」

ルシフェルは前世の大会議で、イエス・キリストが擁護
する御父の計画に反抗して、自分の考えを押し立てまし
た。彼の願いは、すべての人に勝る誉れを得ることでし
た。要するに、ルシフェルは高慢にも神をその位から退
けようとしたのです。

高慢の結果

聖典には、この高慢の罪が個々の人間、あるいは民、町、
国家に悲惨な結果を及ぼした実例が数多く記されていま
す。高ぶりは滅びにさきだつのです。ニーファイ人の国
やソドムの町を滅ぼしたのも、この高慢の罪です。

キリストを十字架につけたのも、この高慢でした。パリ
サイ人は、御自身を神の子と主張するイエスの言葉に激
怒しました。彼らによってイエスのその言葉は、自分た
ちの地位を危うくする大きな脅威でした。それで彼らは、
イエスの殺害を謀ったのです。

サウルがダビデの敵になったのも、高慢のゆえでした。
イスラエルの女たちが次のように歌うのを聞いて嫉妬し
たのです。「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち
殺した。」

高慢な人は、神の裁きよりも、人にどう思われるかを恐
れます。彼らにとっては、「神にどう思われるか」より
も、「人にどう思われるか」の方が重要なことなのです。

ノア王は預言者アビナダイを放免しようとしましたが、
邪悪な祭司たちに高慢な心をかきたてられて、アビナダ
イを火刑場に送りました。ヘロデもバプテスマのヨハネ
の首を切るように妻から求められたときに、当惑しまし
たが、結局は「列座の人たちの手前」よく見られたいと
いう高慢な思いから、ヨハネを殺してしまいました。

人にどう思われるかを恐れる人は、人の称賛を求めて争
うようになります。高慢な人は神のほまれよりも、人の
ほまれを好むのです。どのような動機で行動するかによ
って、罪かどうかが決まってくるのです。イエスは、わ
たしは、いつも神のみこころにかなうことをしていると
言われました。わたしたちは、人に勝ることや勝つこと
ではなく、神の御心にかなうことをしたいという動機で、
行動すべきではないでしょうか。

高慢な人の中には、自分の収入が生活の必要を満たして
いるかどうかよりも、ほかの人よりも多いかどうかとい
うことに気をとられている人がいます。このような人が
望む報酬は、人より上に立つことです。これが高慢な思
いのもたらす闘争心です。

高慢な思いに捕らわれると、この世的なものに縛られ、
人にどう思われるかを恐れて自由を失ってしまうように
なります。世の声は御霊のささやきよりもはるかに大き
いものです。そして、人の理論は神の啓示を押しのけ、
高慢な人は鉄の棒から離れていくのです。

高慢の現れ

人の高慢はよく目につきますが、自分自身の高慢の罪を
認めるのは非常に難しいことです。多くの人は、高慢の
罪を犯すのは金持ちや学者のように社会的地位や権力が
あって、ほかの人を見下す人だと考えています。しかし、
それ以上にわたしたちの間に広がっている病があります。
それは人を見下すのとは逆に、自分より多くのものを持
つ人を、ねたみ心を持って見上げる高慢さです。これは、
あら探し、うわさ話、中傷、不平、収入以上の生活、そ
ねみ、うらやみ、また、人を高める感謝の念や称賛の言
葉の欠如、人の過ちを赦さない不寛容さ、嫉妬など様々
な形で現れます。

不従順も本質的には、自分より上の立場にある人に反抗
するという、高慢のなせる業です。不従順な人は、両親
や神権指導者、教師、そしてついには神にまで挑んでい
きます。彼らは、自分の上にだれかが立つことを嫌いま
す。それによって自分の立場が低くされると考えるので
す。

利己心は、高慢がさらに一般的な形をとって現れたもの
です。うぬぼれ、自己憐憫、この世的な願望の実現、自
己満足、利己主義などの根底にあるのは、「それは自分
の得になるのか、損になるのか」という考え方です。

高慢の行き着く結果として、権力と「利益と世の誉れ」
を求めて作られた秘密結社を挙げることができます。高
慢の罪の実である秘密結社は、ヤレド人とニーファイ人
の文明を崩壊させました。そしてほかにも多くの国の堕
落の原因となり、それは今後も続いていくことでしょう。

高慢はもう一つ、争いという形でも現れます。論争、け
んか、不正な支配、世代の断絶、離婚、伴侶の虐待、暴
動、騒乱、これらはすべて高慢の範ちゅうに加えられる
べきものです。

家庭内の争いは主の御霊を遠ざけます。また、家族の多
くを遠ざける結果にもります。争いの範囲は、憎しみの
言葉から、果ては世界的な紛争にまで及びます。聖典に
は「高ぶりはただ争いを生じる」とあります。

聖典は、高慢な人は容易に怒り、恨みを抱くことを証し
ています。そして、相手に責任を負わせたまま赦しを与
えず、自分の傷ついた気持ちだけを正当化しようとしま
す。

高慢な人は、勧告や矯正を容易に受け入れません。彼ら
は自分の弱点や失敗を正当化し、合理化するため自己弁
護に終始します。

高慢な人は、自分に価値があるかどうかの判断を世の人
々に求めます。彼らの自尊心は、世の人から自分がどれ
ほど成功していると思われているかということによって
左右されます。また、業績や才能、美しさ、知性などに
おいて、自分より劣る人が多いほど、その自分の価値が
高いと感じるのです。高慢は醜いものです。高慢な思い
に捕らわれている人はこう言います。「あなたの成功は
私の失敗です。」

もし神を愛し、御心を行い、人の裁きより神の裁きを恐
れるなら、わたしたちは自尊心を持つことができるよう
になります。

「破滅的な罪」

高慢は、確かに破滅をもたらす罪です。人の成長を制限
し、止めてしまいます。高慢な人は、なかなか教えを聞
こうとしません。心を入れ換えて真理を受け入れようと
しません。そうすることは自分の間違いを意味するから
です。

高慢はあらゆる人間関係に悪影響を及ぼします。その影
響は、神とその僕、夫と妻、親と子、雇用者と従業員、
教師と生徒、そしてすべての人間関係に及びます。高慢
の度合は、神や兄弟姉妹に対してどのような態度を取る
かによって量られます。キリストは御自身のおられると
ころまでわたしたちを高めたいと望んでおられます。わ
たしたちも人々に対して同じ気持ちを持っているでしょ
うか。

高慢は、自分が神の子供であり、すべての人と兄弟姉妹
であるという意識を薄れさせます。また、富と学問の機
会の多少に応じて階級に区別します。高慢な人に一致は
不可能です。わたしたちは一つとならなければ主のもの
ではありません。

高慢がもたらすもの

高慢の罪が自分の生活や家族、教会に、これまで何をも
たらしてきたか、また今何をもたらしているか考えてく
ださい。

また悔い改めがもたらすものを考えてください。高慢な
思いで罪の告白と悪い行いを捨て去るのを拒むようなこ
とをしないかぎり、わたしたちは生活を変え、夫婦のき
ずなを保ち、家庭を強めることができます。

心を傷つけられて教会に来ていない多くの人々について
考えてみてください。彼らは高慢な思いのために、人の
過ちを赦すことができず、主のテーブルに着くことがで
きないでいるのです。

高慢を取り除けば伝道に出られる大勢の若い男性や夫婦
について考えてください。彼らは高慢のために、自分の
思いを神に従わせることができません。

高慢な思いのままに様々なことを追い求めて時間を浪費
するよりも、死者のために働くことの方が大切です。そ
れが理解されれば、神殿活動がどれほど活発になるか考
えてみてください。

至る所に見受けられる罪

高慢は様々なときに、様々な強さで、すべての人に影響
を与えます。さて、これで皆さんは、リーハイが夢で見
た、人々の高慢を表す建物がなぜ大きくて広々としてい
たのか、理解できたのではないでしょうか。またなぜ大
勢の人々がそこへ入っていったのかも、お分かりになっ
たと思います。

高慢は至る所に見受けられる罪であり、大きな悪です。
そうです。高慢は世を覆っている大きな悪なのです。

謙遜:高慢の治療薬

高慢の治療薬は謙遜です。柔和と従順です。打ち砕かれ
た心と悔いる霊です。ルドヤード・キプリングは次のよ
うに書いています。

「喧噪と叫び声がやみ
司令官や王は世を去っても
いにしえの主の犠牲と
へりくだり悔いる心は残る。
万軍の主なる神よ、我らとともにおりたまえ。
我らが主の犠牲と贖いを忘れぬために。」

へりくだる道を選ぶ

神は謙遜な民を求めておられます。わたしたちは自ら進
んでへりくだることもできれば、強制されてへりくだる
こともできます。アルマは言いました。「やむを得ずへ
りくだるのではなく、自らへりくだる人々は幸いである。」

自分からへりくだる道を選びましょう。

わたしたちは、兄弟姉妹に対する憎しみを克服し、彼ら
を自分自身のように尊び、また自分以上に尊重すること
によって、進んでへりくだることができます。

勧告と懲らしめを受け入れる人は、自分の意志で謙遜に
なる道を選べます。

わたしたちは、自分を傷つけた人を赦すことにより、進
んでへりくだる方を選ぶことができます。

また、無私の奉仕を行うことによっても、進んでへりく
だることができます。

伝道に出て、人を謙虚にする神の御言葉を宣べ伝えるな
ら、自分からへりくだる道を選ぶことができます。

もっと頻繁に神殿に参入することにより、自らへりくだ
ることができます。

罪を告白してそれを捨て、神から生まれる人は、自分の
選びによって謙遜になることができます。

そして、神を愛し、自分の思いを神の御心に服従させ、
神を第一にした生活を築きあげることによって、わたし
たちは進んでへりくだることができるのです。

自分からへりくだる道を選びましょう。わたしたちには
それができます。確かにできるのです。

シオンの大きなつまずきの石

愛する兄弟姉妹の皆さん。わたしたちはシオンを贖うた
めに備えなければなりません。預言者ジョセフ・スミス
の時代にシオンの建設を妨げたのは、本質的に高慢の罪
でした。ニーファイ人の中で行われていた奉献制度を終
わらせたのも、高慢の罪でした。

高慢はシオンの大きなつまずきの石です。もう一度言い
ます。高慢はシオンの大きなつまずきの石です。

わたしたちは高慢を克服して器の内側を清めなければな
りません。

聖なる御霊の勧めに従い、主なるキリストの贖罪により、
生まれながらの人を捨てて聖徒となり、子供のように従
順で、柔和で、謙遜になるのです。

皆さんがそれを行い、さらに前進して、神聖な使命を果
たすことができますように、イエス・キリストの御名に
よりお祈りします。アーメン。

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