わたしはほかにはあり得ないほど麗しく、また快い喜びを味わった

神権会のレッスン

わたしはほかにはあり得ないほど麗しく、また快い喜びを味わった

クレーグ・C・クリステンセン長老
七十人

2023年4月総大会 土曜午後の部会
リアホナ2023年5月号 45ページ


【導入】 日々悔い改めてイエス・キリストのみもとに来ることこそが、想像を超えるほどの喜びを 受ける方法だ。
【お話のまとめ】 ・救い主が示したこと   ・苦しんでいる人々や道をそれてしまった人々に対して深い憐れみを示した。   ・迷い出た人々が戻ったときに感じる喜びを強調した。3つのたとえ話し *1   ・罪人がひとりでも悔い改めるなら、大きいよろこびが、天にある。 ・喜びと悔い改めの結びつきを強化する。   ・悔い改めるときに喜びがもたらされる。   ・キリストの贖いの犠牲を生活に受け入れるよう人々を招くときに喜びを味わう。 ・わたしたちが存在するのは喜びを得るためである。   ・聖文の言う喜びは、神のもとに戻って住むときに見いだされる。    この世のどんな喜びや慰めよりも深遠で、崇高で、永続する、人生をも変える。   ・わたしたちは喜びを享受するよう創造された。    神の計画は、喜びを得るためにある。贖いが喜びを可能にする。   ・福音は、この世で平安と喜びを、次の世で満ちみちる喜びを受ける手段である。*2   ・真の敬虔な喜びの価値をほんとうに理解していれば、この世の所有物を犠牲にする    ことや、その喜びを受けるために必要な生活を変えることをいとわないものである。   ・悔い改めは喜びへの道だ。 ・喜びは心からの悔い改めを通してもたらされる。   ・悔い改めは、時につらく、困難なもの。時に不快感を伴う変化も必要だ。    喜びと心地よさは同じではない。罪は喜びを制限する。   ・罪を悔い改めるとき、その後に続く大きな喜びに目を向けるべき。    贖罪が罪と苦しみから解放してくれる際に、平安と喜びを感じる。 ・ほかにあり得ないほど麗しく、また快い喜び   ・悔い改めを通してキリストのもとに来ると、このような喜びが与えられる。   ・悔い改めは、聖霊の影響を受けられるように心を備える。   ・聖霊に満たされることは、喜びに満たされること。 ・人々が悔い改めるのを助ける喜び   ・悔い改めによる喜びを感じた後に、その喜びをほかの人と分かち合いたいと思う。    そうするときに、喜びは増し加わる。   ・人の悔い改めを助けることは、救い主に対する感謝の気持ちを表す行為。    大きな喜びの源である。 ・人が悔い改めるとき、主の喜びはいかに大きいことか。   ・人が贖いの犠牲による祝福を受ける度に、救い主は喜びを感じている。    主は、自分の前におかれている喜びのゆえに、十字架の苦しみを耐え忍んだ。*3    ゲツセマネとカルバリでの苦痛の中で、主は大きな喜びを感じていた。    主の苦痛は、わたしたちが神のもとに戻る喜びを味わえるようにするためだった。 ・キリストのもとに来て、キリストの喜びを受ける。   ・日々悔い改めてキリストのみもとに来ることこそが、想像を超えるほどの喜び*4    を受ける方法である。
【補足情報】 悔い改め   聖句ガイド     神と自分自身また生活全般に対して新たな姿勢をもたらす思いと心の変化。     悔い改めとは、神の戒めと望みに従い、罪を捨てて、邪悪なことから遠ざかり、     自分の心と思いを神に向けるという意味を含んでいる。     真の悔い改めは、神への愛と、神の戒めに従いたいという心からの望みの結果として生じる。     自分の行いに責任の取れる人はだれでも罪を犯す。     したがって、救いに向かって成長していくには悔い改めなければならない。     悔い改めはイエス・キリストの贖罪によってのみ有効なものとなり、神に受け入れられる。   福音の原則より、まとめ ・すべての人は悔い改めなければならない ・すべての人は必ず罪を犯す。 ・罪とは刑法の定める犯罪だけでなく、道徳的な罪も含む。 ・また、なすべき善を知りながら行わなければ、それは罪となる。 ・天父は悔い改めの原則を備えてくださった。 ・悔い改めとは、人に罪からの自由と赦しを得させるために備えられ た方法である。 ・罪はわたしたちの霊的成長を妨げる。悔い改めはその障害を取り去る。 ・悔い改めはキリストの贖いを通して可能となる。 ・悔い改めの方法 1.罪を認める ・自分が罪を犯したことを認める。 2.罪を悲しむ ・罪が不快で忌まわしく感じ、それを捨て去りたいと思う。 3.罪を捨てる ・二度とその罪を行わない。 4.罪を告白する ・小さな罪は主に告白する。 ・大きな罪(姦淫、窃盗、傷害等)は神権指導者(監督)に告白 する。 ・被害者がいるときは被害者に告白して謝罪する。 5.罪を償う ・自分の罪によって引き起こした被害を償う。 6.罪を赦す ・自分に対して罪を犯した人も赦さなければならない。そうしな ければ、神様も自分の罪を赦されないだろう。 7.神の戒めを守る ・悔い改めは、自分の生活を変えるものである。 ・悔い改めの結果 ・罪が赦され、喜び感じる。 ・アルマの悔い改めの例(アルマ36:10−28参照) ・わたしたちは毎日悔い改める必要がある。 ・夜寝る前に一日の行動を思い出して悔い改め、主に祈る。 *1 ルカ15:4-32 【いなくなった羊】(知らないうちに迷ってしまった人々) あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、 九十九匹を残しておいて、野原に行って、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かな いであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や 隣り人を呼び集め、「わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたか ら」と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改める なら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天 にあるであろう。 解説 羊は草のある所に行く。このたとえの中の羊が自分からそうしようと思って迷ったのでな いことは明らかである。ただ草がたくさんある場所を探し求めているうちに迷ってしまっ たのである。 「わたしは今晩、あの羊がどのようにして迷ってしまったのか尋ねたいと思う。あの羊は 決して反抗心からそうしたのではなかった。彼はごく普通の状態でえさを探していた。そ して愚かさからか無意識にかは分からないが、良い草がありそうな野原に引きつけられて、 ついに群れを離れ、迷ってしまったのである。この教会にもまったく道理にかなったと思 われる形で群れから離れている若い男女がいる。彼らは成功を求めている。ビジネスや職 業のうえでの成功を。そして程なく彼らは教会に対する興味を失い、ついには群れから完 全に離れてしまう。彼らはまことの成功とは何かということを忘れ、愚かにも、あるいは 無意識のうちに、はたまた承知のうえで道からそれているのである。彼らには何がまこと の成功なのかが見えないのである。」(デビッド・O・マッケイ『大会報告』1945年4月) 教会に来なくなった友人はいないだろうか。あなたの影響力と証があなたと交わる人に及 ぶように何か特別なことをしているだろうか。 【なくした銀貨】(管理者の不注意や無関心によって失われた人々) ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけ て家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。そして、見つけたな ら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、「わたしと一緒に喜んでください。なくした 銀貨が見つかりましたから」と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人 がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう。 解説 「この場合、なくなったものは銀貨で、銀貨は自分で歩けない。銀貨を託された人が不注 意によってどこかに置き忘れたか落としたかしたのである。ここに違いがある。そして今 日のわたしたちの3分の1にこのことが当てはまると思う。わたしたちに託されているのは 銀貨だけではない。子供、青年、成人の生ける魂を託されているのである。確かに彼らは わたしたちに託されている。ある人は、ミューチャルでの同年代の少女の不注意な言葉に よって迷っているかもしれない(わたしは今、実例から話している)。そして、ミューチ ャルの会長が次の火曜日の夜に彼女のフォローアップをしなかったために、彼女の足が遠 のいているかもしれない。またある人は、熱心さの足りない日曜学校の教師のために、あ るいは出席している15人の生徒にだけ気を配って出席していないほかの15人の生徒を無視 している教師が原因で道を失っているかもしれない。」(同上) 兄弟姉妹に対するこの世での責任は何だろうか。教会の中であなたからの思いやりを必要 としている人はいないだろうか。あなたが特別に心にかけることによって益することので きる人はいないだろうか。あなたは教会での責任に対し、またあなたが管理し指導すべき 人に対して特別に時間を割いているだろうか。教会の集会をはじめ、いろいろな場所で人 々と親しくなろうとしているだろうか。 【放蕩息子】(不従順や利己心で意識的に戒めに背く人々) ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、「父よ、あなたの財 産のうちでわたしがいただく分をください」。そこで、父はその身代をふたりに分けてや った。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、 そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。何もかも浪費してしまったのち、その 地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方 のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなか った。そこで彼は本心に立ちかえって言った、「父のところには食物のあり余っている雇 人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰 って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてく ださい」。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみ とめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、「父よ、 わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼 ばれる資格はありません」。しかし父は僕たちに言いつけた、「さあ、早く、最上の着物 を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥え た子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいた のに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから喜び祝うのはあたりまえである」。 解説 「3番目のたとえは放蕩息子の話である。この息子は『弟』となっており、判断力は未熟 である。家庭の中のいろいろな束縛に飽き飽きした彼は、父親の知恵に満ちた指導の目を 不快に思うようになった。明らかに彼は、俗に言う自由を求めて羽ばたこうと思ったので ある。彼は言った。『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください。そう したらわたしは旅に出ます。』父はその子に財産を渡し、言うとおりにしてやった。ここ にこの息子の意志がある。選択、それもよくよく考えたうえでの選択がある。また、ある 点において権威への反抗がある。彼はどうなったであろうか。彼は放蕩に憂き身をやつし て、財産を使い果たしてしまった。自分の欲望や情欲に身を任せる若人は、太陽が東から 昇ると同様確実に背教への道を落ちて行く。わたしはこれを若人だけの問題だと言うつも りはない。男であれ、女であれ、放縦と堕落の生活を始める人は、夜に日が次ぐよう確か に、群れから離れて行くのである。『わたしの霊はながく人の中にとどまらない』(創世 6:3)と主は言われた。また『わたしの霊は汚れた体には宿らない』とも言われた。陰ひ なたのある生活を送ろうとする人、また自分が交わした聖約を破ることによってそのよう な生活に浸っている人は、ある作家の言葉を借りれば、『ならず者か愚か者のどちらか』 である。いや、時によっては両方である。自分の選択の自由を使って情欲を満足させ、放 蕩ざんまいを続けて財産をなくし、神の宮で交わした聖約を破っているからである。そう なってしまうと、わたしたちにできることはほとんどない。裏切り者である彼らがあの放 蕩息子のように自らの過ちに気づくまで、警告と執り成しをするだけである。」(同上) 罪の世に染まった生活をしている人を早く見いだし、救出するにはどうしたらよいだろう か。また、彼らが戻って来たときにどう迎えたらよいであろうか。このような人々につい てうわさ話をすることは簡単である。そうではなく、心からの愛を感じることができるだ ろうか。 現代のイエスの弟子たちは「失われた」兄弟姉妹たちのことを心にかけるべきである。 「何年か前のこと、わたしたちの雑誌の一つに、母親のひざから抜け出した小さな男の子 が迷子になった話が出ていた。ダコタのバドランズでの話である。やがて日は暮れ、取り 乱した母親の近所の人々もその男の子の安否を気づかい始めた。翌朝、その町の保安官が 町中の人を町の広場に集めた。農夫、教師、事務員、あらゆる階級の人がいた。保安官は 組織的に捜索を始めたのである。保安官は言った。『ロランド坊やはバドランズのどこか に必ずいます。やぶや溝、池をしらみつぶしに調べてください。見つかるまではここに戻 らないでください。そして手遅れにならないように神に祈りましょう。』人々が捜索を始 めたのは水曜日だった。そして次の日の午後3時、大きな叫び声が上がった。ロランド坊や が見つかったのである。」(マッケイ、『福音の理想』) この話のようにその姿が見えなくなった者は全力を挙げて捜そうとするのに、霊的に迷子 になった人の救いに同じだけの力が注がれることがめったにないのはなぜであろうか。 悔い改めた人には喜びがある。 悔い改めを助けた人にも喜びがある。 3つのたとえでの喜びは、悔い改めを助けた人の喜び。 *2 教義と聖約59:23     義の業を行こなう者はその報いを受うける、すなわち、この世において平和を、     また来たるべき世において永遠の命を受ける。   平和(平安):聖霊の賜物のこと。この世で受ける神様から祝福。     聖霊を常に伴侶にできる権利。     試練や苦難が多いこの世で、聖霊を通じて、神から直接、慰め、癒し、     平安、導き、助け、力を受けることができる。     自分に起こる、あらゆることに、神の御業と愛を感じることができる     ようになり、試練や苦難を成長のかてとすることができる。   永遠の命:日の栄えに行く。神とともに住む。次の世で受ける神様から祝福。   永遠の命の喜びは、長い旅の後で家族と再会する喜びに似ているかも。   聖霊の賜物の喜びは、長い旅の最中の家族と電話することの喜びに似ているかも。   聖霊の賜物とは、神様と会話できる携帯電話がもらえること。   神様に電話して、助言や慰めをもらえるのは大きな特権。   いつでも、どこでも電話できる。   単身赴任で沖縄にいるので、1、2か月に一回家族に会えるとうれしい。   頻繁に家族と電話できるのもうれしい。似たような経験をしている。   伝道に出た経験のある人も家族に再会したときの喜びがあったはず。   空港とかに家族が出迎えてくれた人もいると思う。   私が死んで霊界に行ったとき、既に亡くなった親や祖父母、まだ見たことのない先祖が   出迎えてくれるかもしれないと思うと楽しみ。   家族の身代わり儀式を神殿で行なった者の特権。   罪が罰をもたらすのでなく、神様の祝福を阻害する。神様の祝福を望む信仰が薄れる。 *3 イザヤ53:11     彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。     義なるわがしもべはその知識によって、     多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。   モーサヤ14:11では次のようになっている。     彼は自分自身の苦しみを知り、それに満足する。     彼の知識により、わたしの義にかなった僕は多くの者を義とするが、     それは、彼が彼らの罪悪を身に負うからである。   イエス様が苦しみの最中でも喜びを感じていたということを聞いて、思い浮かんだのは、   先祖の記録を神殿に提出する作業だった。先祖の記録を作る作業は大変な作業なのだが、   提出するたびに、その人が喜ぶ姿を想像して、私もうれしくなる。今まで何百人もの記録   を提出することを続けられてきたのも、これがあったから。次のようなことを想像する。   記録を提出すると、霊界では、その人にお知らせが行く。今、あなたの記録が提出されま   したと、その人は待ちに待ったその時が来たことをとても喜ぶ。まわりにいる人も良かっ   たねと、言葉を掛ける。 *4 想像を超えるほどの喜びとは     自分はこのようなことを経験したことがない。まだ悔い改めが足りないのかも。     しかし、普通に喜びに満たされた経験ならある。     私は16歳でこの教会に出会ったが、親の反対があったので20歳になってやっと、     バプテスマを受けることができた。バプテスマを受けた日の夜に祈っていると、     喜びに満たされて、全身が火に包まれたかのような感じになったことがあった。   苦しみの大きさに比例して、喜びが大きくなるのだろうか。   イメージ     罪:穴 人が穴に落ちているが自力では上がれない     贖い:梯子     悔い改め:梯子を上る 苦労がいる 山を登った頂上で感じる喜び     上に出る:喜び   教会とかかわるきっかけとして、   苦しみから解放されたかったからという人は少ないと思う。   人の悔い改めを助けるといっても、   罪の自覚を持っていて、それに苦しんでいる人は少ない。   人に罪を自覚させようとすると、悪口を言っているように聞こえ、   相手を怒らせてしまうので、難しい。   私の場合は、知的好奇心がきっかけ。   人類と超えた英知を持った存在から学びたいと思った。   世の中のいろいろな問題があり、誰も解決できてないが、   神様ならその方法を教えてくれるのではないかと考えた。   世の中の問題の解決方法は聖書やモルモン書から得られる。   例えば、少子化の問題は、良い解決策がない。   政府は、児童手当を出したり、保育所を増やすという対策を考えているが、   これは根本的な解決策にならない。   年収1000万円の家庭でも、200万円の家庭でも、   平均の子供の数は約2人である。   年収1000万円あれば、もっと子供を持てるだろうし、   ベビーシッターも雇える余裕があるだろうがそうならない。   モルモン書からわかるのは、民を衰退させたのは富に対する執着心と   性的不道徳であるとわかる。   少子化の原因も、この富に対する執着心と性的不道徳である。   男性はポルノによって性的満足を得てしまうので、結婚への願望が薄くなる。   女性は社会的なキャリアを積もうとして結婚を遅らせてしまう。   これが根本的な原因であると思う。   私たちが社会に対して悔い改めを訴えていかなければならないと思う。   悔い改めはバプテスマを受けてからも日々行うもの。   機器を定期的にメンテナンスするのに似ている。   メンテナンスされた機器は正常に働く。   悔い改めを日々していると聖霊を通して神様の力をもらえる。   水道管や電線をメンテナンスしてないと水や電気が流れない。   悔い改めを日々していないと御霊がやってこない。 選民:人の悔い改めを助ける人   ヤコブ6:3   主の果樹園で熱心に働いてきた人々は、何と幸いであろうか。また、自分の定められた場   所に投げ込まれる者たちは、何と災いであろう。世界は火で焼かれるであろう。   「選民」というのは、「悪い実」が捨てられれ「果樹園」が火で焼かれるときに、主によ   って保存される「良い実」のことではなく、「主の果樹園で熱心に働いてきた人々」のこ   とだ。   「選民」とは特別に救いを与えられるために選ばれた人々のことではなく、もっと多くの   人々が救われるために、神の御業を手助けをするために選ばれた人々のことをいう。   そして、「選民」が感じる喜びというのは、「自分が救われた」というよりももっと高い   レベル、すなわち、「多くの人々を救うことができた」という、主と同じレベルである。   このことが最も幸いなことだ。   イスラエルは「高められる」ためでなく、人を「高める」ために選ばれた。   イスラエルは選民と言われている。   神はイスラエルを特別扱いしてイスラエルのみに祝福を与えられる   と思われている。   しかし、神は全人類に祝福を与えるために、イスラエルを「もとい」   とされた。   自分の周りにいる人たちを、神の子供たちとして扱い、   相手に自分が価値ある存在、愛されるべき存在であることに気付かせ、   神の子としての属性を引き出させ、神のようになれるよう、   成長を手助けする。こんな人たちが選民だ。   モルモン書のヤコブ書5章66節   「根とこずえの力の釣り合いを取りながら、良い枝が生長するに応   じて悪い枝を取り除き、良い枝が悪い枝を負かすようにしなさい。   それから、悪い枝を切り取って火の中に投げ込み、悪いものが果樹   園の土地をふさがないようにしなさい。このようにして、わたしは   自分の果樹園から悪いものを一掃してしまおう。」   なぜ、悪い枝を一斉に取り除いてはいけないのか。一斉に取り除い   てしまうとどういうことになるのか。NHKスペシャル「63億人   の地図」第3回「富と貧困・引き裂かれる町」(2004年 3月28日)を   紹介する。   バーミンガムでは産業の衰退により町に売春婦があふれていた。夜   になると市の中央の公園では何百人の売春婦が客引きをしていた。   公園は毎朝使用済みコンドームが散乱していた。そこで、住民たち   が立ち上がり、100人規模で公園周辺に張り込み、売春婦を公園   から追い出した。その結果は、売春は公園から市全体に拡散し、住   宅周辺がコンドームだらけになった。住民はそこで、「彼女たちを   追い出しても何の解決にもならない。むしろ彼女たちも貧困による   被害者じゃないのか」という議論を繰り返し、最終的に彼女たちへ   の生活相談や就職斡旋活動を始めた。これが、効果を生み、売春は   なくなり、バーミンガム再生につながった。   この住民たちの行為は、「選民」的な行為だった。

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