最も大いなる資産

神権会のレッスン

最も大いなる資産

ジェフリー・R・ホランド
十二使徒

2021年10月 土曜午前の部会
リアホナ2021年11月号  8ページ

【導入】 ・神を愛し、神に完全に従う。 ・わたしたちは、主の福音への妥協のない献身を伴って、キリストのもとに来るべきだ。
【お話のまとめ】 ・ある金持ちの若い役人がイエスに尋ねた。  「永遠の命を受けるために、何をしたらよいでしょうか。」  イエスは彼に、持ち物をすべて売り払って貧しい人々に施し、  御自分に従うようにと言った。  彼は、多くの資産を持っていたので、悲しみながら立ち去った。 ・これは神聖な責任に対して、心から、躊躇なく、自分を捧げる事について教えている。  キリストのもとに来るすべての人は、福音に対する妥協のない決意が求められる。 ・救い主のもとに来てほしい。完全に、真心から来てほしい。  どれほど重くとも、自分の十字架を負って主に従ってほしい。  神の王国では、中途半端や、途中棄権や、後戻りなどはない。  困難なことや、自分の望みとは反対のことを求められたとき、  キリストの大義に対する忠誠が、人生で最も尊い献身である。  すべてを差し出す覚悟が必要だ。 ・御業に全身全霊をささげるのを妨げる習慣や欠点や過去があっても、  行いを変えようと思うときは、神の助けが与えられる。 ・現在、互いに対する過剰な敵意がはびこっている。  モルモン書の中の平和な時代を思い起こすことだ。  この状態に到達した鍵は、民の心の中に宿っていた神の愛だった。 ・個人の生活、一人一人との関係、果ては全人類に対する思いに至るまで、  神の愛がその中心となるなら、昔ながらの差別や、人の可能性を狭めるレッテル、  人工的に作られた分断はなくなっていき、平安が広まる。 ・躊躇もせず、妥協もせず、心と勢力と思いと力を尽くして、  神を愛することが、宇宙における第一の戒めだ。  躊躇もせず、妥協もせず、心と勢力と思いと力を尽くして、  神がわたしたちを愛していることが、宇宙における第一の真理だ。 ・神の心の壮大な力と人の心の力が何の妨げもなく交わるとき、  霊的で道徳的な力がまさに爆発的に増加する。 ・その時に私達は、ほんとうの意味で、第二の大切な戒めを効果的に守ることができる。  神に対して完全に忠実であろうと努力することによって神を愛するならば、  神は人に、自分自身と隣人を愛する強さ、能力、意志、方法を与えてくれる。 ・主に従うと誓うときに、様々な形で、困難をともなう。  最も大いなる資産である永遠の命の賜物を受ける祝福に比べれば、  主に従う道にとどまるように求められるのは、些細なことだ。
【補足情報】 ・最も大いなる資産   The Greatest Possession ・「つくす」がキーワード ・今回の話は対比的なレトリックが用いられている。  「金持ちの役人の多くの資産」と「永遠の命という大いなる資産」。  「神様を愛すること」と「神様が愛すること」。  このことによって、話しに強い印象を与えることができる。 ・神は完全で何でもできるので、人に助けてもらう必要がない。  神は愛してもらう必要がないのではないか。 ・人は神に直接会えないし会話をすることもできない。  具体的にどのように、神を愛するのか。 ・神を愛することに負担を感じたり、疲れてしまっている場合どうすればよいか。 ・前世から現世に来るとき、私たちは、前世で蓄えた資産を手放した。  (前世で得た知識など、神様との記憶までも)  また、現世から来世に行くときに、私たちは、現世で蓄えた資産を手放す。  今ある資産に執着していては、次に進むことはできない。  覚悟を決める必要がある。前世から現世に来る決意をしたときも、  いろいろ辛く苦しいことがあることが分かっていたが、決断したはず。 ・第一と第二のいましめ   第一のいましめはこれである。   イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。   心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、   主なるあなたの神を愛せよ。   第二はこれである。   自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。   これより大事ないましめは、ほかにない 。   (マルコ12:29-31) ・社会的、霊的、知的、身体的   心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、   主なるあなたの神を愛せよ(マルコ12:30)     社会的 : 心をつくし  heart     霊的  : 精神をつくし soul     知的  : 思いをつくし mind     身体的 : 力をつくし  strength   イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、神と人から愛された(ルカ2:52)     知的  : 知恵が加わり     身体的 : 背たけも伸び     霊的  : 神から愛され     社会的 : 人から愛され ・C・S・ルイスの散文   ささげてほしいのは、時間やお金や労働ではなく、あなた自身なのだ。   この木をあなたは刈り込んでいるとすると、   ここの枝を1本、そこの枝を1本刈り込むのではなく、全部切り落としたい。   そして歯にたとえるなら、穴を開けたり、かぶせたり、詰めたりしたいのではない。   抜いてしまいたいのだ。   つまり、あなたのありのままを、全部そのまま差し出してほしい。   そうすれば、代わりに、新しいあなたをあげよう。   それどころか、わたし自身をあなたにあげよう。   わたしの望みがあなたの望みとなるように。
心、精神、思い 「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。 自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。」(マルコ12章30−31節) 「心」「精神」「思い」と似た言葉が続いている。 これは、単に強調するためのレトリックなのか、 それとも、それぞれに別々の意味があるのか。 心、精神、思いの違いは何か。 これは、知・情・意を指しているのではないか。 https://www.motivation-up.com/whats/chijoui.html 知・情・意について上のサイトでは次のように説明している。 人間には「知情意(ちじょうい)」という3つの働きがあり、 私たちはそのバランスによって動いているといいます。 「知情意」とは、「知性」と「感情」と「意志」の3つのこと。 「知性」とは、知識や思考といったものを活用すること。頭を使うということです。 「感情」とは、喜びや悲しみや怒りなどのこと。心で感じるということです。 「意志」とは、意欲や精神力のこと。決断するということです。 「心」は、英語聖書では、heart。「感情」に当たる。 「精神」は、英語聖書では、soul。共同訳聖書では、「魂」。「意志」に当たる。 「思い」は、英語聖書では、mind。「知性」に当たる。
リアホナ2019年5月号 P88 「わたしに従ってきなさい」 わたしの愛するある友人は、神との交わりがほとんどありませんでした。それでも、亡く なった妻のところに行きたいと切に願い、助けてほしいと言いました。そこで、宣教師に 会ってキリストの教義を理解し、福音の聖約と儀式と祝福について学ぶよう勧めました。 彼はそうしました。しかし、宣教師から教えられた生き方をするには、生活の中で変える べきことがあまりに多いと感じて、こう言いました。「戒めと聖約は自分には難しすぎま す。什分の一を納めるなどまず無理ですし、教会で奉仕する時間もありません。」そして、 わたしにこう言いました。「わたしが死んだら妻とわたしに必要な神殿儀式を行ってくだ さい。そうすれば妻とまた一緒にいられるわけですから。」 幸いなことに、わたしはこの人を裁く立場にはありません。しかし、この世でバプテスマ を受ける機会や神権への聖任、神殿の祝福を受ける機会がありながら、自分の意思でその 機会を拒む決断をした人にとって、身代わりの神殿の業は有効なのかと、わたしは疑問に 思います。 教会から遠ざかっている方に、また救い主の教会が回復されていることを知ろうとまだ心 から努めていない方に申し上げます。自分自身で知るために霊的な努力をしてください。 今行ってください。もう時間がありません。 心を神に注ぎ出し、これらのことが真実か、神に尋ねてください。 時間を取って御言葉を研究してください。真剣に研究してください! ほんとうに家族を愛しているならば、そして永遠に一緒に昇栄したければ、 今、代価を払い、真剣な研究と熱烈な祈りによって、これらの永遠の真理を理解し、 それに従って生活してください。 神を信じているのかどうかも分からないのであれば、そこから始めてください。 神と交わった経験がなければ、神の存在を疑ってしまうものだということを理解し、 神と交わる経験ができるような状況に自らを置いてください。 謙虚になってください。 自分の人生と周りの世界に及んでいる神の御手を見る目が持てるように祈ってください。 神は確かに実在されるのか、あなたのことを御存じなのか、 告げてくださるよう神に尋ねてください。 あなたについてどう感じておられるか神に尋ね、耳を傾けてください。
神殿の儀式に幻滅した人   インターネットで神殿について検索していたら次のような発言に遭遇した。   「神殿参入して儀式を受ければハッキリ言われるし誓約を宣言させられるから   馬鹿でも解かるけどモルモン教の奥義ってのは結局「教団と指導者への服従」なワケよ。   どんなキリスト教よりモルモン教素晴らしい唯一真の教えだと教え込まれてたのに   その奥義がヤクザの盃もどき絶対服従の誓約なんだもんな。」   この人は神殿の儀式に幻滅したようである。   従順の律法、犠牲の律法、奉献の律法について、いやな思いをしたのだろう。   もう、教会に来ていない人かもしれない。   神殿に入るには、まだ早かったようだ。   この人は奥義というものを勘違いしている。   神殿の中での聖約だと思っているようだが、   実際は、神殿の中で聖霊と通して得られる真理である。   神殿の中の言葉やしるしが奥義でなく、そこから得られる霊感の方である。   だから、この人は奥義を知ってはいない。   私の場合は、神殿に初めて入ったとき、神様の愛を感じることができた。   何を感じるかは、受け取る側のレベルの差で変わるのだろう。   支配されていると捉えるか、神の愛と捉えるか。   これを親子の関係に例えてみよう。   まだ未熟な子供は、親が自分の言うことを聞きなさいと言うと、   支配されていると感じて不満を持つ。   あれをしてはだめとか、家の手伝いや勉強をしなさいとか。   親に愛されているはずだが、感謝の気持ちを抱くことはない。   しかし、親になった今、それは、子供を危険から守るためだとか、   子供の成長を思ってのことだと、実感できる。   また、親はどんなにか子供のために骨身を削っているかわかる。   今では、親の愛を十分理解できる。   つまり、この人は聖約の中の義務にだけ気を取られ、   それに伴う神様からの祝福にまったく気づくことができなかった。   つまり、霊的に未熟な状態だったのだ。   気付かないかもしれないが、私たちは知らず知らずのうちに、   神様から多くのことを受けている。   常に、神様の愛が私たちに降り注いでいる。   霊的に成熟した人はそれを感じることができる。   霊的に未熟な人は、神様の助けを感じる感受性が足りないから、   神様から受けていることへの感謝が足りない。   神殿推薦状を発行してもらうときの面接で問われることは、   いままで、一般に公開されていなかったが、2019年10月の   総大会で公表された。   この人が嫌った、従順の律法、犠牲の律法、奉献の律法に関する   質問事項の部分は以下のものである。   ・末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長を預言者、聖見者、啓示者として、    また、すべての神権の鍵を行使する権限を託された、地上で唯一の人として    支持していますか。    大管長会および十二使徒定員会の会員を預言者、聖見者、啓示者として    支持していますか。    教会のそのほかの中央幹部と地元の指導者を支持していますか。   ・家族やほかの人々と個人的に、また公に接するときに、イエス・キリスト    の教会の教えに従っていますか。   ・末日聖徒イエス・キリスト教会の教えや慣行や教義に反する教え、慣行、    教義を支援したり、奨励したりしていませんか。   ・什分の一を完全に納めていますか。   事前に公表することによって、この人のように、神殿に入ってから、   このことを知って、とまどうことの無いようにしているのだろう。
神を愛する   第一の戒めは「神を愛する」ことで、   第二の戒めは「人を愛する」ことである。     心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。     自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。   これに対して次の疑問があった。     ・神は愛される必要があるのか     ・なぜ、「神を愛する」ことが優先されるのか。     ・どのように、神を愛するのか。   神は愛される必要があるのか     Q)人に対して、愛を行うときは、相手に何か困ったことがあるときだ。       神は完全で何でもできるので、人に助けてもらう必要がない。       つまり、神は愛してもらう必要がないのではないか。     A)神と人の関係は、親子の関係に似ている。       親は子から助けてもらうことを期待していない。       しかし、親は子を助けたいと、いつも思っている。       子が親から離れてしまっては、いい助けはできない。       子が自分につながって、助けを求めてほしいと、親は思っている。       このことから類推すると、       人が自分につながっていることを神は期待している。       神を愛するということは、神とつながるということだ。   なぜ、「神を愛する」ことが優先されるのか。     Q)神を意識しないでも、愛を実践できると言う人がいるだろう。       事実、神を信仰していない人も、人類に貢献している。       なぜ、「神を愛する」ことの方が第一の戒めになっているのか。       「神を愛する」ことと「人を愛する」ことが相いれない場面で、       どうするべきか。       例えば、ニーファイがラバンを殺すよう促されたときなど。     A)神は人よりも広い視点で物事を捉えることのできる御方なので、       人が良いと判断したことが、実は、後に悪いことにつながるかも       しれない。       自分の考えが、神の導きと相反した場合は、神に従うべきだと思う。       もし、ニーファイがラバンを殺さずにいたならば、       ニーファイの家族が野営しているところにラバンたちが攻めて来て、       全滅させられたたかもしれない。       そうなると、現在のモルモン書も無かったし、       末日において福音と神権と教会の回復は無かっただろう。       しかし、神を愛するとこと、人を愛することが相反する事例は       少ないだろう。多くは、人を愛することが、神を愛することに       なる。人を助けるためのより良い導きを神からいただくことが       神を愛することになる。        神と聖約を交した人と、そうでない人の違いは、聖霊から常に       導きを受けることができるかどうかだと思う。この違いは大きい。   どのように、神を愛するのか。     Q)人は神に直接会えないし会話をすることもできない。       具体的にどのように、神を愛するのか。     A)・聖典や預言者の言葉から、神の言葉を学ぶ。       ・すべてのことについて祈る。       ・神と聖約を交わし、儀式を受ける。       ・聖霊を通して、神から導きを受ける。       ・神の戒めを守る。       ・十戒の中でも最初の4つは神に対するものである         ・主を唯一の神とする         ・偶像を作ってはならない         ・神の名をみだりに唱えてはならない         ・安息日を守る       教会で言われていることに義務感をいだいてしまい、疲れをを感じている人や、       教会に入ったばかりで、何から始めたらいいか分からない人へ。       まず、「神の愛を感じる」ことから始めるのがよい。       神からの愛を感じることができなければ、神を愛するという気持ちになれない。       義務感や神の罰に対する恐怖心では、神を愛することはできない。       神の愛に気付くことから始める。       毎日、祈る前に、自分のまわりのことで、神に感謝すべきことを探す。       毎日、同じことを感謝するのでなく、新たに発見したことを1つ以上入れる。       こうすることで、神の愛を感じることができるようになる。       このことは、日記を書くとき行うとよい。       自分で気づかないところで、神の助けがあったことに、後で気づくことがある。

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