きょう、選びなさい

神権会のレッスン

2018年10月の総大会
「きょう、選びなさい」(レンランド長老)より


【お話のまとめ】 今回のテーマは「選択の自由」です。 そして、私達、教会員にとっての「幸福」について考えます。 ・幸福とは   ・一般の人々が求める幸福     良い学校を出て、大きな会社に就職し、     理想の人と結婚し、立派な家に住み、     豊かな財産に恵まれ、誉れ高き勲章を得るなどです。     そのために、幸運を求めて神仏的なものに心を向ける人もいます。     神社やお寺に参ったり、おみくじ、お守りをもらったり、     占い、風水、姓名判断、パワースポット、パワーアイテムなどに     頼ったりしてますが、得たいと思っている幸福は、     恋愛、結婚、お金、仕事、健康、安全など、世俗的なものです。   ・末日聖徒が求める幸福とは、これとは違っています。     この世においては平安を、来るべき世においては永遠の命を得る事です。     神様は人に不死不滅と永遠の命を与えたいと望んでおられます。 ・神様の望み   ・神様のようになるのが真の幸福     ・神様が、かつては人であって、昇栄して、神になられたように、      私たちも、やがては昇栄して、神になり、霊の子供たちを設け、      今、神様がしてることと同じようなことをすることになります。     ・そのために必要な資質を私たちが得ることが、神様の願いです。     ・善悪の選択を試されることによって、その資質を得ることが出来ます。   ・天上の大会議     ・前世で行われた霊の子供たちを集めた会議で争点になったのが選択の自由です。     ・ルシフェルは天父と意見を異にしました。      ルシフェルは人から選択の自由を奪い、強制的に良い事をさせる提案をしました。      全員が天父のもとに帰って来れますが、      人はロボットのようになり、神様のようには成長はできない。     ・天父は人に選択する自由を与え、善と悪を選択させるようにするようにしました。      こうすることによって、人は神様のようには成長ができます。      道をはずれてしまったとき、戻れるように、キリストと贖いを備えられました。     ・罪を犯させないことよりも、選択する自由を与えることの方が大事なのです。     ・天父はルシフェルの提案を退けたので、ルシフェルと彼に従った霊たちは、      天父に逆らって、戦いを挑みましたが、負けて、霊のまま、地上に追放されました。      それ以来、私たちを誘惑する者になりました。 ・キリストとルシフェルの対比   キリスト                   ルシフェル   御父に対する弁護者              訴える者、追い詰める者。   わたしたちの成功を応援し、認めている     わたしたちを責め、引きずり落とそうとする   キリストを信じ、悔い改め、バプテスマを受け、 わたしたちに無窮の苦悩を味わわせたい    最後まで堪え忍ぶ人々を、           おまえはふさわしくない    救い主は赦し、癒し、弁護する。        あまりいい人間ではない                           過ちから立ち直るすべはない   御父との和解のために証言し、保証する     わたしたちがうなだれているときに                           蹴飛ばしてくる、極め付きの乱暴者   子供に歩くことを教えると、          子供に歩くことを教えても、    その子がつまずいたら起き上がれるよう助け、  その子がつまずくと怒鳴り散らして罰し、    歩み続けるよう励まされる           歩こうとするのをやめるように告げる   最終的にそして常に、             最終的にそして常に、    喜びと希望をもたらす             落胆と絶望をもたらす   助け主、慰め主、執り成す御方         偽りの究極の喧伝者                           ずる賢く働きかけて人々を惑わし、悩ませる、                           人が自分のように惨めになることを求めている。 ・戒め   ・戒め=わたしたちに対する指示   ・従順になる訓練をするだけのために定められた    おし付けがましい規則の気まぐれな集合体でも、    いいかげんな寄せ集めでもない。   ・神のような属性を伸ばし、わたしたちの天の御父のもとに戻り、    永続する喜びを得ることに結びついている。   ・神の戒めに従うことは、盲従ではない。   ・神と、神のもとに帰る道を、意識的に選ぶ。   ・神は、わたしたちが聖約の道を歩むよう望んでいるが、    わたしたちに尊い選択の自由を与えた。 ・選択の自由   ・一人一人が自分で選ぶ。   ・強制されない。   ・わたしたちは道を進むことも、進まないことも選べる。    道を外れることもできれば、外れないこともできる。    従うことを強制されないと同様、背くことも強制されない。   ・選択の自由を侵害されている人々と混同するべきではない。    彼らは道を外れているのではない。    犠牲者であり、神の理解と愛、哀れみを受ける。 ・罪と罰   ・罪=道を外れること   ・罰=その結果として幸福でなくなり、祝福を失うこと   ・罰は神が与えるのではなく、わたしたち自身の選択の結果。 ・悔い改め   ・自分が道を外れていることが分かった場合、    イエス・キリストの贖罪があるので、    引き返して道に戻るという選択をすることもできる。   ・悔い改め=方向を転じて道に戻る決心をする過程   ・悔い改めないということは、神が与えたいと望んでおられる祝福を    得る資格を失う選択を、自分でしている。 ・赦し   ・変わろうと決心した瞬間に、神はわたしたちが戻れるよう助けてくれる。   ・心から悔い改め、キリストを確固として信じ、力強く進んで道に戻るなら、    神の目には、まったく道を外れたことがなかったかのようになる。   ・救い主は罪の代価を払ってくださり、幸福と祝福が失われつつある状    態からわたしたちを解き放ってくれる。   ・これらが「赦し」   ・バプテスマの後、皆、失敗や過ちを犯す。    イエス・キリストを信じる信仰を働かせ、悔い改め、    主の助けを受け、赦しを得るのは、一度ではない。    生涯にわたるプロセスであって、何度も繰り返される。    これが、「最後まで堪え忍ぶ」こと。 ・神様の望む幸福   ・永遠の世でどれほど幸福になるかは、生ける神を選び、    神とともに御業に携わるかどうかにかかっている。   ・御父の計画に従うことを選ぶのは、御父の王国の相続人になれる唯一の方法。   ・常に褒めたりしかったりしなければならない赤ん坊であってはならない。    成熟した大人になり、自分自身を治める。   ・すべてを知っている子供ほど教えにくい生徒はいない。    進んで主と主の僕たちから、主の方法によって教えを受ける必要がある。   ・自分が天の両親から愛されている子供であり、面倒をかける価値のある者。    「自分で」とは「単独で」ということではない。
【補足情報】 ・気になった、気に入った箇所   ・神様を受け入れない     ・天の御父はわたしたちに助けと祝福を与えたいと思っておられますが、      わたしたちは必ずしもそれを受け入れるわけではない。     ・すでにすべてを知っているかのように振る舞うことさえある。     →     ・「面倒をかける価値のあるよい子」      「すべてを知ってるかのようにふるまう子」      後者の方が優等生に感じるが、神様が望まれるのは前者。   ・人を教育するのは、動物の調教とは違う     ・天の御父の子育ての目標は、子供たちに正しいことを行うように      させることではない。     ・正しいことを行って最終的に御父のようになることを選ぶように      させること。     ・従順であってほしいだけであれば、御父は、すぐに報奨や罰を与えて、      わたしたちの行動に影響を与えられたことでしょう。     ・神は、御自分の子供たちを、よくしつけられた従順なだけの「ペット」に      したいと思ってはおられません。     ・御自分の子供たちが霊的に成長して、      一緒に御業に携わるようになることを望んでおられる。     →     ・強制や褒美でよい事をさせるのは未熟。動物の調教と同じ。      天国に行きたいなら、とか、地獄にいきたくないならと      行って説得するのは、これと同じ。   ・忘却の幕     ・信仰を働かせて選択の自由を適切に行使できるようになるため     ・幕がなければ、わたしたちが進歩して神の望まれるような信頼できる      相続人になることは不可能     →     ・忘却の幕の必要性      天での記憶やサタンに対する恐怖の影響を受けずに選択ができるようにするため   ・選択の自由を侵害されている人々と混同するべきではない。     →     ・戦争で人を殺さざるを得ない場合     ・強姦された場合 ・選択の内容   ・一般的なキリスト教では     天国に行くか、地獄に行くか、です。       良い事をするかで行く末が分かれます。       強制的にでもよいことをさせ、天国に行かせる発想が生まれます。       単に形式的に義務的に戒めに従い、       なるべく罪を犯さないように消極的に生きるようになります。       この世に来ず、前世のままにとどまってもよいのでは、と思います。   ・当教会では     神様のようになるか、ならないか、です。       神様の持つ資質を身に着けるようになるという考えです。       強制しては成長が望めません。       神様のような資質を身に着けるために、積極的に生きるようになります。       戒めはそのための指針とします。 ・贖いのイメージ   ・霊のままでは、これ以上の成長は望めなくなったとき、    私たちに肉体が与えられることになった。    肉体があると、さらに成長の機会に恵まれる。    しかし、肉体の使い方を誤ると、霊を大きく傷つける。    傷ついた霊は、自分では治せない。キリストの贖いによって治せる。   ・これは、生身の移動と自転車の移動に例えられる。    生身の移動では、あまり、長距離移動できないが、    怪我をしても、ころんで、擦り傷を負う程度。   ・自転車の移動は、長距離の移動ができるが、    事故を起こすと、大怪我したり、死んでしまうこともある。    自転車を得ることが、肉体を得ることにあたる。   ・肉体を得ることで、霊のままより、多くの経験ができるようになり    大きく成長できる。    しかし、失敗は誰でもしてしまい、霊が傷つく。    霊が傷つくことを恐れて、何もしなくては、成長できなくなる。    霊が傷つくことを恐れることがなく、いろいろなことにチャレンジできる    ようにするために、神様は贖いを用意された。   ・「失敗しない」ことよりも、「失敗したら改める」ことの方が大切。    自転車に乗れるようになるには、何度の失敗を通して、うまくなる。    成長には、必ず、失敗が付き物である。    失敗することを恐れて、成長する機会を逃してはならない。   ・自転車は行動範囲も大きくなり、経験もたくさんできるようになる。    喜びも大きい。   ・乗れるようになってからも、ルール(戒め)に従わないと、    事故を起こし怪我をする。   ・この世の体は自転車、復活体は自動車。    まずは自転車をうまく扱えるように訓練を受けてから、    高度な自動車が与えられる。 ・罪を犯さない、失敗しないということでなく、  失敗を恐れず、成長し、神様のような資質をはぐくむのが大切 ・次の世の幸せのために、現世では耐え忍ぶというイメージは、  好きなものが後にとっといて、嫌いなものから食べるのに似ている。  この世は辛い事だけなのか。  この世での幸せを感じることはできるのか。  この世で得られる感じられる幸せは、神様や人とのつながり。  神様に愛されていると感じること、神様を愛していると感じること、  家族に愛されていると感じること、家族を愛していると感じること、  教会員同士が愛していると感じること。  これらは、次の世に持っていけるものだ。  実は、幸せは、次の世に行って、初めて得られるものでなく、  この世で得られるたものを、次の世に持っていけるということかもしれない。 ・登山をしたとき、登山列車を使った場合と、歩いて登った場合とで、  頂上から見る景色は同じでも、感じる景色は違う。 ・祝福とは   教会でいう祝福(blessing)は日本で普段使っているものとは違う。   日本では、結婚式や誕生日に「おめでとう」という単なる祝いの言葉。   教会で使われるものは、神様の恵を授けるということ。   神様の力が及ぶ。   ただのお祈りでは、「祝福してください」だが、   神権の儀式では「祝福します」というのは、   神権者が神様の代理人として、恵を授ける権能があるから。

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