ローマ人への手紙
第3章
05 しかし、もしわたしたちが不義にとどまり、神の義を明らかにするとしたら、わたしたちは、「怒りを下す神は、不義である」と、あえてどのように言うのか (これは神を恐れる人間の言い方である)。
06 断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どう裁かれるだろうか。
07 しかし、もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、(ユダヤ人がそう呼んでいるように)神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人として裁かれ、受け入れられないのか。
08 わたしたちは中傷的に伝えられていて、ある人々はわたしたちが次のように言っていると断言している。(彼らが罰せられるのは当然である。)「善を来たらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」。しかしこれは偽りである。
第4章
02 もしアブラハムが、行いの律法によって義とされたのであれば、彼は自身を誇ることができよう。しかし神を誇るのではない。
03 なぜなら、聖書は何と言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
04 行いの律法によって義とされた人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払として認められる。
05 しかし、行いの律法によって義とされることを求めなくても、不信心な者を義としない方を信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
(信仰と行ない両方があって、しかも恵みを受けなければ、救いは得られない。)
16 このようなわけで、あなたがたは信仰と行いにより、恵みを通して義とされるのである。こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけでなく、わたしたちすべての者の父であるアブラハムの信仰に従う者にも保証されるのである。
第5章
15 (KJ)しかし、それは罪過としてではなく、無料の賜物である。すなわち、もし、一人の罪過によって多くの人が死んだとすれば、神の恵みと、一人の人イエス・キリストによる恵みの賜物は多くの人にもたらされる。
第7章
(キリストには人を変える力がある。)
05 というのは、わたしたちが肉にあったときには、律法によらない罪の欲情が、死に至る実を結ばせようとして、わたしたちの肢体の内に働いた。
06 しかし今は、律法に対して死んだので、わたしたちは自分たちをつないでいた律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。
07 それでは、わたしたちは何と言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。
08 しかるに、罪は戒めによって機会を捕らえ、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起こさせた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。
09 わたしはかつては、律法に背くことなく生きていたが、キリストの戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ。
10 そして、命に導くように定められたキリストの戒めが来たことを信じなかったときに、わたしはそれがわたしを死に至る罪に定めることが分かった。
11 なぜなら、罪は機会を捕らえて戒めを否定し、わたしを欺き、そしてそれによってわたしは殺されたからである。
12 しかしながら、律法は聖なるものであり、戒めも聖なるものであって、正しく、かつ善なるものであることが、わたしには分かった。
13 では、善なるものがわたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、善なるものがわたしの内で死となるために罪となって現れるその罪が、戒めによって、甚だしく悪性なものとなるのである。
14 わたしたちは、戒めは霊にかかわるものであることを知っている。しかし、わたしは律法の下にあったときは、まだ肉につける者であって、罪の下に売られていた。
xx しかし今、わたしは霊的である。行なうように命じられていることを行なっているからである。また、許さないように命じられていることは許さないからである。
15 わたしは、正しくないと知っていることは行なわない。罪であることを、わたしは憎むからである。
16 もし自分が許さないことを行なっていないとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そして、わたしは罪に定められない。
17 そこで、罪を犯しているのは、もはやわたしではない。わたしは、わたしの内に宿っているその罪を従わせようとしているのである。
18 わたしの内には、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。善であることをしようとする意志は自分にあるが、それをなす力はキリストにしかないからである。
19 わたしは律法の下でしようとした善は善ではないと分かっている。だから、わたしはそれをしない。
xx しかし、律法の下でしようとは思わない悪は善であると分かっている。だから、わたしはそれをする。
20 もしわたしが律法の下でしようと思わなかったことを、キリストの助けによってするならば、わたしは律法の下にない。そして、わたしはもはや不正を行なうことではなく、わたしの内に宿っている罪を従わせることを求める。
21 そこで、律法の下では、善をしようと欲していたわたしに悪が入り込んでいたことが分かる。
22 わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるからである。
xx そして今、わたしはキリストの戒めという別の律法を見ている。そして、それはわたしの心に刻み込まれている。
23 しかし、わたしの肢体は、わたしの心の法則に対して戦いを挑み、そして、肢体の内に存在する罪の法則の中にわたしをとりこにしている。
24 もしわたしが自分の内にある罪を従わせることをせず、肉によって罪の法則に仕えるならば、おお、わたしは何という惨めな人間だろうか。だれがこの死の体から、わたしを救ってくれるだろうか。
25 わたしたちの主イエス・キリストを通して、神に感謝する。このように、わたし自身は、心で神の律法に仕えているのである。
第8章
(肉の習わしに従う者は神に喜ばれない。)
08 また、肉に従う者は、神を喜ばせることができない。
29 神はあらかじめ知っておられた方を、更に御自身のかたちに似た者として、あらかじめ定められた。それは、彼(御子)を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
30 そして、あらかじめ定めた方を更に召し、召した方を更に聖別し、聖別した方に、更に栄光を与えてられたのである。
第13章
06 あなたがたが彼らに献身するのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの務に携わっているのである。
07 しかし、まず、あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果しなさい。税については、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納めなさい。あなたの献身は恐るべき者を恐れて、敬うべき者を敬って、行ないなさい。
第14章
10 (KJ)…わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前に立つのである。
第章
xx