3−1 十二使徒の召し
池での癒し[奇跡]
紀元31年 エルサレム
ヨハネ5:1-16
こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。
エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。
その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。
それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕
さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。
イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか 」と言われた。
この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。
イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。
そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った、「きょうは安息日だ。床を取りあげるのは、よろしくない」。
彼は答えた、「わたしをなおして下さったかたが、床を取りあげて歩けと、わたしに言われました」。
彼らは尋ねた、「取りあげて歩けと言った人は、だれか」。
しかし、このいやされた人は、それがだれであるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと出て行かれたからである。
そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから 」。
彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた。
そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。
【動画】地上でお父さまのわざを行われる
【動画】安息日に足なえの男を癒すイエス
イエス、御自身のことを教えられる
紀元31年 エルサレム
ヨハネ5:17-47(ジョセフ・スミス訳)
そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである 」。
このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。
さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。
なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである。
すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう。
父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。
それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。
よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。
よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。
それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。
そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。
このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、
善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。
わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。
したがって、もし、わたしが自分自身について証をしても、わたしの証は本当である。
それは、わたしが一人ではなく、わたしについて証をする方は他にあり、その方がする証が本当であることを、わたしは知っているからである。
あなたがたはヨハネのもとへ人をつかわしたが、そのとき彼も真理について証をした。
そして彼が受けたのは人の証ではなく、神の証であり、あなたがた自身、彼が預言者であると言う。それゆえ、あなたがたは彼の証を受け入れるべきである。このことを言うのは、あなたがたが救われるためである。
ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。
しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。
また、わたしをつかわされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。わたしは心から証する。あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない。それはあなたがたが、神の御言葉をあなたがたのうちにとどめず、また、神がつわされた者を信じないからである。
また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。
聖典を調べなさい。あなたがたは、聖典の中に永遠の命があると思って調べているが、聖典は、わたしについて証するものである。
しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。
わたしは人からの誉を受けることはしない。
しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。
わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。
互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。
わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。
もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。
しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。
安息日についての説教
片手のなえた人の癒し[奇跡]
紀元31年 ガリラヤ
マタイ12:1-14,マルコ2:23-28,3:1-6(ジョセフ・スミス訳),ルカ6:1-11
ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、空腹であったので、歩きながら穂を摘んで食べはじめた。
すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。
そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、また読んだことがないのか。
すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか。
また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。
あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
それゆえ、安息日は休息の日として人に与えられた。また、人が神をたたえる日でもある。しかし、食べてはならない日ではない。
人の子が安息日を定めたのだから、人の子は、安息日にもまた主なのである 」。
イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいって教えておられたところ、
そこに右手のなえた人がいた。
律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。
イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。
人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。
イエスは片手のなえたその人に、「起きて、まん中に立ちなさい」と言われると、起き上がって立った。
イエスは人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか 」と言われた。彼らは黙っていた。
イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい 」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。
パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。
イエス、海辺の方に去られる
紀元31年 ガリラヤ
マタイ12:15-21(ジョセフ・スミス訳),マルコ3:7-12
しかし、イエスは彼らが相談したのを知っておられた。
それから、イエスは弟子たちと共に海べに退かれたが、ガリラヤからきたおびただしい群衆がついて行った。またユダヤから、
エルサレムから、イドマヤから、更にヨルダンの向こうから、ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた。
イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。
それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。
また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。
イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。
これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、
「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。
彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。
彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。
異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。
十二使徒が召される
紀元31年 ガリラヤ
マルコ3:13-21,ルカ6:12-16
このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。
夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。
彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、
また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
そしてシモンにペテロという名をつけ、
またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
つぎにペテロの兄弟アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ(ヤコブの子ユダ)、熱心党のシモン、
それからイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。イエスが家にはいられると、
群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。
身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。
キリストの生涯と教え
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