由 緒
宥 勝 寺
宗派 真言宗智山派 京都智積院の末寺
所在地 本庄市大字栗崎一五五 浅見山(105メートル)尾根の末端、西約100メートルの頂上に早稲田大学付属本庄高校、真下にJR本庄早稲田駅がある。
本尊 不動明王
由   緒

浅見山丘陵は 児玉党の聖地としておかれていたものと推される。丘陵の東端部、栗崎地内 字東谷に西光山宥勝寺がある。由緒によれば、武蔵七党児玉党の嫡流庄太郎家長の嫡子・小太郎頼家が一の谷合戦で討ち死にした。頼家の妻は、菩提を弔うため、訪印の良運に願って寺院を建立し有荘寺と号した。開山の良運は建仁二年(一二〇二) 七月五日に遷化し、頼家の妻・妙清禅尼は文永二年((一二六五)四月十九日歿したと伝えられる。
また有道惟行は、浅見山に一寺を建立し、阿弥陀如来を安置し西光寺と号したという。この西光寺は児玉党の菩提寺で、浅見山南西部にあたる児玉町下浅見字西光寺にあったが、延元弐年(一三三七)の薊山合戦の時、戦火をこうむり 全焼した伝えらえられている。また、このとき、鉤鐘こうしょうも池の中に沈められたという。『下浅見地誌』には「東山、又浅見山ト云フ」の雑項に次のように記述されている。「此ノ山ニ往古西光寺 ト云寺アリ、児玉党香火院ト云 年月不詳薊山戦ノ節兵火ヲ蒙リ鐘水中ニ沈ムト云フ ソノ地ヨリ湧出スル水物ヲどろマス 大門ハ村ノ八幡ㇸ向ㇸ 今田ノ中ニ門ノ跡ト云処アリ 又西光山 宥勝寺八幡西光寺トモ旧因縁ト云フ」 

この時、仏体は火をまぬがれたので、寺址に仮堂を建てて安置していた。その後、天文六年(一五三七)北条氏と上杉氏ま戦の際、住職が寺を去り 無住になってしまった。天文ニ四年(一五五五)になり、頼暁という僧侶が、霊場がなくなってしまうのを惜しみ、西光寺と有荘寺を合祀し、一寺を建立し、西光山有荘寺無量寿院と号したと伝えられる。
本堂の北西内にあたる墓地内に、荘小太郎頼家の墓と伝えられている 五輪石がある。高さ八ニ㌢で、銘は見られない。大正十四年三月三一日に埼玉県指定文化財となっている。
  なお同列する五輪塔、石龕いしずしは頼家の一族の墳墓である。(考)家長の子に家次、時家、みえれども、頼家はみえず。又宮内少輔実忠も系図に見えざれどもずっと後の事蹟であろう」と推定される。
西光山無量壽院宥勝寺

其れおもいみるに、仏法遙かに非ず心中にしてすなわち近しというと雖も二千有百年の興亡なきにしも非ず、 法然に薩般若を具足すという雖も隨縁の信修なくんばいずくんぞ此身に菩提を証せん ここに当西光山無量壽院中道妨宥勝寺は今を去ること正当八百年前建仁年間に児玉七党盟主たる有荘氏(後に本荘氏と改む) の開基たり すなわち初め有道宿禰武蔵守惟行の孫児玉党旗頭有荘太郎家長の嫡男小太郎頼家寿永三年二月源平合戦のみぎり 一の谷に於いて戦死しかば其の妻女之が菩提を弔わんが為に法印良運を請して 当院を建立し宥勝寺と号す 是れより先有道惟行は宗祖弘法大師巡錫じゅんしゃくの地たる丘陵地薊山あざみやまに一寺を建立し 阿弥陀如来を安置して無量壽院西光寺と号す  後延元二年十二月十六日新田 足利両雄の合戦に際し 兵火に罹り堂塔煙滅し仏躰のみ僅かに免がれしを寺址に仮堂を營み之を安す 降りて天文六年北条・上杉戦乱の祭 寺主退転し爾来十六年間無住たり 天文二十三年頼暁阿闍梨耶この地に至って 霊場の滅盡めつじんせんことを憂い西光宥勝の両てらを合併し 一寺を建立し 西光山宥勝寺無量壽院と号し 当地方有数の巨刹となり 数十箇寺の末寺を有するに至る 宥勝寺第十九世良辨法印の時  即ち慶安元年八月二十四日 徳川幕府より先規に任せ寺領十石の御朱印を附せられ 寛文十三年光祐代に梵鐘を新鋳し寛永三年三月五日良敞代に御室御所仁和寺直末に編入せられたり 当代の宥勝寺の隆盛は日光山輪王寺 足利の そう阿寺に並ぶと伝えられ 教導化育の徳風遠近に著わる しかるに政年間三度び祝融の災に 見舞われ殿堂僧房盡く烏有に帰す しかれとも幸いにして興教大師御作と伝えられし本尊不動明王 伝弘法大師御作 の般若心経一巻 その他二・三の寺宝は災厄を免れ 爾後五十年を経過し嘉永元年二月宥應代に本堂を再建す 現今の建物是れなり しかるに明治の廃仏棄釈 第二次大戦後の農地改放 宗教法人法の改正により 経済的基盤の衰退は如何ともし難く 逼息ひっそくの時多年に亘りたり昭和五十一年上越新幹線の開通に伴い本堂を移築し 庫裡客殿を新築し一山の輪奐の美を一新すれども昭和六十三年四月一日 またもや祝融の災に遭遇し 新築の客殿庫裡を一朝にして焼失す しかれども本尊不動明王をはじめ奉り諸仏諸天檀信の加護は当寺を見捨て給わず幸いなる哉 北関東にも比類なき威容を誇る本堂伽藍は焼亡を免れたりしかのみならず 翌平成元年十一月には書院庫裡完成し再び昔日の輪奐の美を復し 大本山 川崎大師平間寺貫首高橋隆天大僧正猊下の御導師のもとに落慶式を挙行せり しかるに本堂の屋根は百有余年の歳月の経過によつて破損は甚だしく 随所に雨漏りし これが修復を檀信の全幅の寄進に俟たざるを得ざりしに喜ばしい哉 勧募を進めるやたちまちに浄財は予定額を遙かに越えて集まり 永遠の夢たる本堂屋根の改修もその完工を見  平成三年五月十八日真言宗智山派管長藤井龍心大僧正猊下御親修のもと落慶式を挙行することを得たり 夫れ諸佛の正路に二種あり一には定慧門 二には福徳門なり 定慧は正法を開き襌定を修するを以って旨となし  福徳は佛塔を建て佛像を造るを以って要となす 三 世の諸佛十方の薩埵皆斯の福智を營んで佛果を圓満す 是の故に当山檀信徒  の熟誠さらに極まって平成九年四月十二日 山門 ・ 鐘樓(櫻)堂の完工を見 真言宗智山派管長高井隆秀大僧正猊下を大導師とし落慶法要を勤修せり ここに当山開基八百年を迎えるにあたり些いささか延喜を誌して本尊明王  の威光倍増仏恩報謝の万一に擬す 伏して願わくは本尊大聖明王並びに諸大眷属 別しては西方極楽世界妙観察智阿弥陀如来 北向延命地蔵尊 当山鎮守福徳弁財天殊には宗祖弘法大師 中興興教大師 当山開基良運和尚 中興頼暁阿闍梨耶 第四十八世英覺尊霊  歴代先師尊霊 速やかに本誓を巡らして仏法後興隆当山擁護 檀信徒厄難 消除家門繁栄 所願成就二世安楽の利生を垂れ給わんことを
               平成十三年三月吉日 
      西光山宥勝寺 第四十九世 宏晢   撰

    宥勝寺    碑
      權訓導梅野賢宥 てん
武藏國児玉郡栗崎村西光山宥勝寺
疔安置科腹子不動尊者霊驗箸明而
右来世人町長服也去明治十三年秋
虎刻刺病漫延都鄙(ひ ひな)□(雖)
                   □假、僻地蕪落不免
其慘毒皆 消防之術或禱神佛普無
應驗也獨吾村内祈誓不動尊老少減
集唱佛名數日間也鳴呼竒哉無一人
羅此禍者是全不動尊之死守護也因
之相□建石録其靈(霊)驗以表謝徳之
徴表也
         明治十六年夏五月
            巖崎良 士撰文書
上記写真 上段平成17年1月6日の撮影 左側から  宥勝寺前景  入口山門  入口手前の案内塔  次も同じ
中段 左側から 本堂  女堀川の側から撮った栗崎の金鑚神社方面新幹線の向こう側が宥勝寺  女堀川の側から撮ったJR新幹線の本庄早稲田駅の全景    右端の写真は平成23年9月25日の撮影
下段 平成23年9月25日の撮影