駅家莊・小林莊・三成莊
安楽壽院駅家うまや(矢懸町史 P 215)

西川面字宮に、延喜式の神明帳に載せてある鵜江神社(矢掛町史・民族編五二七ページ参照)がある。この鵜江神社は、星田・黒木・宇内・水砂・川面・本堀・浅海・江良など産土(うぶすな)神である(『備中誌』)。 したがって鵜江神社の氏子は、美星町の星田・水砂・黒木まで及んでいたと見られる。駅里郷(うまやごう)(一名「鵜郷(うのごう)」)の範囲は、この神社の氏子である西川面・宇内・本掘・江良・浅海と、 さらに美星町大字星田・大倉を、それぞれ源流として発している星田川と大倉川の両流域に挟まれている美星町大字東水砂・西水砂は、 もちろん、東水砂の東隣りの大字大倉も、この範囲である。この荘も庄氏の支配圏に入ったものとみられ。
  律令時代の通信・交通の重要なる役割を果たすのに駅家を設けた。小田郡に設けられた駅家の址は、 この駅里郷すなわち今の浅海の毎戸(まいど)の可能性が強い。駅里郷は康治二年(一一四三)安楽壽院領駅里荘となり、 仁平四年(一一五四)には 立券となる。この年が安楽寿院領備中国駅里荘の成立であろう(「安楽寿院文書」)。
 備中駅里荘の安楽壽院への年貢米は一〇〇石である。この米は院での月五八石ずつの食糧にあてられていたのであろう。 すなわち二月に長泉荘五〇石、駅里荘一七石九斗に、彼岸米として一〇石を加え、三月は駅里荘五八石で、四月には駅里荘二四石一斗と田門荘三三石九斗でまかなわれている(同上)。
 仁平二年(一一五二)に鳥羽法皇五〇歳の御賀が鳥羽南殿離宮で、盛大に行われた。この嘉儀には官倉の米七〇〇石が諸国三〇か国から集められ、 この中には、備中五〇石が納められている。安楽寿院は京都の伏見にある新義真言宗で、保延三年(一一三七)に鳥羽上皇は洛南の風光を愛せられ藤原家成に命じて、 鳥羽の辺りに離宮を建立した。その東隣に安楽寿院を建造した。その寺院の境内に「法皇万歳の後久遠の棲家とす。」目的で一本御塔を造立した。この本御塔に次いで、 鳥羽上皇の皇后にして近衛天皇の母で、藤原長実の娘美福門院は久安三年(一一四七)に、その南方に新御塔を建てた。
  永治元年(一一四一)三月十一日に、鳥羽上皇は、出家して法皇となるとともに、所領の荘園は、妃の美福門院に九か所、 第三皇女八条院障子内親王に一二か所と他の所領一二○か所を譲与した。また仁平三年(一一五三)には、 山城国鳥羽の芹河(せりか)真幡木(まはたき)上三栖(かみみす)の三荘を安楽寿院に志納した。保元の乱の起きた保元元年(一一五六)に 鳥羽法皇・永暦元年(一一六〇)には美福門院が崩御(ほうぎょ)した。その後、尼となった八条院障子内親王には、法皇と美福門院のご遺領、 他に歓喜光院領など合せて、およそ二三〇か所の広大なる所領を受領した。これらの荘園は八条女院領と呼ばれた。
 八条女院は、鳥羽法皇・美福門院の崩御の後、月忌を行う大檀越(だんおつ)(檀家の筆頭の意)となって、多くの荘園を安楽寿院に寄進して、寺用に充てた。
 備中国駅里荘は、平治の乱の起きた平治元年(一一五九)の太政宮下文にも記されている(同上)。嘉元四年(一三〇六)六月十二日に亀山院皇女昭慶門院が、 ご領を処分したときの目録に、安楽寿院領が記載されている中に「備中国駅里荘」があるから鎌倉末期ごろまで荘園として存続したものと考えられる。八条院障子内親王が、 建暦元年(一二一一)死去された後、その所領は後鳥羽上皇の皇女春華門院昇子に伝えられたが、春華門院は、その年の十一月に十七歳で病死され、その遺領は、 順徳天皇・後鳥羽天皇・後高倉院、安嘉門邦子を経て亀山天皇に伝領され、のち大覚寺統の重要な皇領となった。後醍醐天皇は、この皇領を受け継がれて、 天皇親政の理想を実現するために、鎌倉幕府を倒し、天皇親政の大事業を成し遂げられた。これを建武中興といい、ときに建武元年(一三三四)であった。
 後醍醐天皇のこの大事業樹立の裏には、この皇領は最も重要な資源であったと思われる。この中興も建武三年に失敗に終わって、天皇の吉野遷幸により、 八条院領並びに、大覚寺統の皇領は、実質上ほとんど管理権を失ったようである。ただその中にあって安楽寿院領の山城国芹河・三栖・真幡木の三荘及び播州石作荘は院領として残ったものと見える。 山城国芹河・三栖・真幡木の三荘は領家にあたる高倉氏が南北朝時代に、吉野朝方になっていたが吉野朝の末年に、同族にして永康(高倉家)の弟永経を祖とする冷泉家に渡され、 永季(冷泉家)の子永行に、至徳三年(一三八五)将軍足利義満・応永六年(一三九九)同十七年義持・寛正二年(一四六一)義政らにより「安楽寿院領芹川・三栖・真幡木の三ケ庄は知行せよ。」 (同上)と将軍家より安堵の御教書を与えている。これは冷泉永季一族が北朝方の足利将軍に仕えていたからである。前述のように平安末期以来、皇室御領最大なものとして伝領された安楽寿院領も、 皇室の管理権の弱体となった情勢からみて、備中駅里荘も草壁荘・三成郷と同様に守護代庄氏の支配圈に入ったものと見られる。

りっけん‐しょうごう【立券荘号】‥シヤウガウ
荘園を立てる手続。太政官符・民部省符による立荘が正規のもので、これによって成立した荘園を官省符荘という。
小林莊 (矢懸町史 P 215)

小林郷の郷域は、美山川流域の東川面・小林・内田・宇角・下高末・上高末・と美星町大字宇戸・鳥頭・宇戸谷・三山あたりまでと推察する。 天保九年(一八三八年)「御巡見村御案内手監写」に「小林村の西方相見之申候。川面小林村(今の東川面)の氏宮」とある。宇土と小林莊との関係について

宇土の土居山城址の南側に昔、尼寺があったというキツネ山がある。このキツネ山には、応永二十四年(一四一七年)及び同二十九年の銘のある宝篋印塔がある。 この造られた時期は莊氏の場合、莊小太郎資昭の世代で、応永二十三年十月に上杉秀禅が鎌倉で亂を起こすと、畠山尾張守光氏に従って参戦した次第で、 いずれにしてもこの頃の莊氏は安泰のころであり、また、小林の馬場左衛門尉が応永二十四年吉備津宮神子長代となつていた。土居山城の主はこれらの武将の一族か、 家臣が、この支城に住んでいた者であろう。この土居山城主はこの間(一三九四~一四二八)、これだけの石塔を安置するだけの豪族として繁栄を誇っていたのではなかろうか。 なお、キツネ山には花崗岩質の五輪塔と宝篋印塔の各一基があることに注目しなければならない。おびただしい石灰岩質の石塔は主として備中奥地から運ばれたものであるが、 加工の難しいこの花崗岩の石塔が運び込まれたのは、南部からと考えられる。花崗岩の五輪塔や宝篋印塔は備前や備中南部にも点在することが知られており、 山陽道を通じて輸送が行われたものである。それは宇土が、小林莊の内にあつた係わりでわないかと言うことの再確認となるであろう。(「美星町史」)

と述べている。

宇戸の土居山城主が繁栄を誇っていたと推察される応永年間のころは、草壁郷を本拠としていた守護代庄氏は、当時駿河四朗次郎頼資が元中九年・明徳三年(一三九二年) 八月二八日に管領細川頼之が相国寺供養に参列したとき、郎従二十三騎の一人として黒栗毛にまたがって隋行した。(相国寺供養記)
臨済宗万年山相国時は、足利義満が開創して、開山は夢窓疎石で、京都五山の第二列に列している。同年(一三九二年)庄小太郎資昭は、 南北朝合一の際、足利義満の命により、後亀山天皇が京都へ還御(かんぎょう)の際に供奉(ぐぶ)の将となった。などにより中央に庄氏の権勢が及んでいたといえる。
また在地では、応永六年(一三九九年)に庄六郎左衛門尉は吉備津在地領主石川氏らとともに「山城国長福寺(梅津寺)領備中国薗東荘(そのひがしそう)を占拠しているので、 寺へ返還せよ。」(大日本史料)と要求されている。薗(その)東荘(ひがしそう)は吉備郡真備町薗あたり、興国六年(一三四五年)に長福寺領となっているとみられる。 応永三二年(一四二五年)十二月二九日附で、吉備津神社の正宮御上葺棟札に社務代庄甲斐守藤原道充とあるように、吉備津宮にも要職の地位を確保して、 庄氏の権勢は、東は薗(その)東荘(ひがしそう)から水内北荘へ及び、西は南禅寺領三成荘あたりまでと広い地域に及んでいたといえる。
南部の地域の内より山陽道を通じて、高末(こうずえ)から宇戸へ花崗岩の石塔が輸送されたとみられることは、庄氏の権勢が小林郷に及んでいたと考えられる。 したがって宇戸あたりまで、小林郷であったというのが妥当であると思う。応永二十四年(一四一七)に妹山(吉備郡真備町妹)より西の小田・浅ロ・後月三郡の吉備津宮氏子総代に小林の 馬場左衛門尉が任ぜられている。怠りなく公事を納めるようにとの下知状がある(「吉備津宮文書」)。これによると小林郷も吉備津宮公事を納めていたようである。 馬場左衛門尉の人物についてはわからない。近世まで鳥頭村に馬場の姓の者がいた(『美星町史』)。  中西完治は、小田の禅源寺を檀那寺とす小田で近世目代職を勤めていた馬場家と馬場左衛門尉との関係について調査・研究の結果は不明である。
文安四年(一四四七年)の暮れに、吉備津耳宮氏子の小林莊の美山・宇土・宇土谷・上津江の(高末)四ヵ村が、この年に公事納入を怠っているので督促されている。これわ妨げているのは庄氏であろう。 又これより二年後の文安六年には、莊駿河守は生存中に子鶴若丸(元資の幼名)の名で位牌免を寄進した(「洞松寺文書」)。このとき洞松寺ぇ米二石を寄進している。 かように生前に戒名をつけ位牌免を寄進することを逆修と称して当時行われた冥福を修める一方法であった。このように四ヵ村が吉備津宮への公事を滞納したことや庄駿河守が洞松寺へ位牌免を寄進に、 小林から米を納めさせたことなどから、守護代莊氏の動きが推察されるのは、莊氏の権威が三成莊に及び、さらに小林郷へ、その余勢が伸びていたことである。 つまり莊氏の支配権域内になっていたということが言えるだろう。したがって小林莊から駅家莊に莊氏の権勢が広がっていたと言える。康正二年(一四五六年)に父駿河守が死亡したので、 鶴若丸は、相続して猿懸城主となり、伊豆守元資と名乗った。父駿河守の逝去の年に、元資は、前の文安六年(一四四九年)の寄進状を書き改めた。それには小林莊と記してあるので、 文安六年から康正二年の間に、小林莊は荘園として成立し、莊氏の支配下になったものと考えられる。                    

三成莊 (南禅寺寺領) (矢懸町史 P 205)

三成郷は、矢掛・東三成あたりを中心とした地域であるといえる。
  南禅寺は京都市在京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派本山で、山号瑞竜寺。1264年 文永元年(一二六四年)亀山天皇が建てた離宮で、正応四年(一二九一年)に寺として、無関普門を請じて禅林寺とし、 翌五年二世規庵祖丹が住持となり寺を整備し、正安年間(一二九九~一三〇二)に南禅寺と改称した。
  乾元元年(一三〇二)亀山法皇の院宣に「南禅寺領筑前国宗像社を替えて加賀国得橋郷ならびに笠間東保・備中国三成郷を寺領とす。」(南禅寺文書)。 すなわち正安四年(乾元元年)に鎌倉幕府の申しいれで、宗像社のかわりに亀山法皇領となった得橋郷・笠間東保・三高郷を、宗像社と引きかえに、法皇が南禅寺に寄進されることとなった。
  文保元年(一三一七)に後宇多法皇の院宣案に「備中国三成郷を亀山法皇の御影堂並びに一山一寧の大雲庵の料所として、院主は一山門徒の中から選び法皇・生母藤原姑子の菩提とす。」(同上)とある。 一山一寧は鎌倉後期の禅宗僧で宋の人である。元軍が弘安四年(一二八一)に我が国へ来襲してから一八年後の正安元年に元の国書を持って来日した。幕府は、彼を疑って伊豆の修善寺に禁固した。 執権北条貞時は、その徳識の高いのを聞き建長寺に迎え、のち円覚寺・南禅寺の住持とした。博学にして書に巧みであった。
  三成郷では嘉暦元年(一三二六)から嘉暦三年の間に、土民が検注を妨害したので、後醍醐天皇の勅命で妨害をしてはいけないと厳重に戒しめられた(同上)。 検住とは、荘園割における土地調査のことで、江戸時代の検地に当たり、年貢徴収の基礎となるものであった。これを行う人を検田使といった。 検田使が三成郷の名主をはじめ土民に妨害されたのである。その結果は不明であるが、たぶん検住ができなかったものと考えられる。
   建武二年(一三三五)に南禅寺住持夢窓疎石(むそうそせき)の請により、全国の南禅寺領を不輸不入の地とした(同上)。夢窓疎石(一二七五~一三五一)は伊勢の人で、 鎌倉末期から南北朝時代の禅僧で天台・真言を修学し、のち禅宗に帰し建長寺の一山一寧に就学して、臨済宗の黄金斯を築いた。甲斐の恵林寺、京都の天竜寺などを建立し、南禅寺住職を二回勤めた。 北条氏・後醍醐天皇・北朝諸院・足利氏らの篤信を受け、天皇から国師号を賜られた名僧である。不輸不入の権は荘園に対する国家権力の発動を排除する特権で、 平安時代の中期ごろから有力寺社・貴族などの荘園領主は、これらの権利を得ることに努めた。不輸の権は徴税権を国家より委譲された権利である。 検田使による四至(四方の境界)坪付の調査報告に基づき太政官符・民部省符が下されることによって不輸の権が承認された。このような手続きを立券荘号という。 この特権は官省符が発せられたとき、開発されていた田に限られ、その後の開墾田については、国司が検田使を遺して調査をし輸租・不輸租を決定した。 そこで国司と領主との間に、しばしば紛争が起こったので、検田使や収納使の立ち入りを拒否できる権利を政府に申請して承認を得た。 さらに警察権を行使する検非違使の立ち入るのを拒む権利も得た。これを不入の権という。
   建武二年に三成郷は不輸不入の権を得たので荘園としての形を整えた。本所南禅寺へ納入する年貢米は三〇〇石である(同上)。 かく不輸不入の権を得た荘園領主は、国家権力より独立した領主権をもって、荘民を支配した。在地の有力な豪族や名主は国司などの干渉や圧迫から私有地を守るために、 有力な貴族や寺社へ名目上の寄進をし不輸不入の権を獲得した。その代償として一定の物資や労力を提供し、その保護を受けた。平安時代中期ごろより、 この風潮は全国に広がった。このような形の荘園を寄進地系荘園という。三成荘・駅里荘などは、この形の荘園といえる。 当時藤原氏のごときは寄進による荘園が全国の半分を占めて、それらの収入によって豪華な生活が営まれたのである。
  康永三年(一三四四)に南禅寺住職妙受は光厳上皇に「暦応三年(一三四〇)六月二十五日をもって光明院から、寺領として引き続き備中国三成郷が寄進されたが、 荘名でなく郷名のままである。一般に国衙領をさいて、寺社に寄進するときは荘号にされるのが古今の通説である。郷名のままでは今後国衙の役人から干渉され易い。 そこで院使・国使の入部を止め、造内裏・造宮米以下・大小国役・吉備津宮役等全部不輸として、三成荘という荘号を下付されたい。」(「大日本史料」)と願いでている。 これで三成郷は三成荘という荘園になった。吉備津宮役と呼ばれる維持費が社領のほか広く備中国国衙に課せられていたのである。応永十年(一四〇三)に管領畠山基国の裏封に「三成荘」(南禅寺文書)と記載されている。
    三成郷が三成荘という荘園になったのは、次で述べる平石四郎入道が、三成郷が三成荘となる前年の康永二年(一三四三)に、三成郷へ侵入して濫妨をするので困った事件と無関係ではないと思う。 この事件が、きっかけとなって、この荘号の下賜の願いを、康永三年七月に提出する動機となったであろう。そして、その翌八月に、この申請は、受け入れられ荘号を与えられたのである。 すなわち三成荘の成立である。この地が南禅寺に寄進せられてから四二年目のことであった。要するに、郷を名のる限り、公領とみなされて不都合の起きるおそれがあるので、荘を名のろうとしたのであった。 それまでは、事実上荘園でありながら郷を名のっていたわけで、ここに郷といい、荘といい、その実態はさほど変わらないという。中世の土地制度の難しさの一端が見られる(中野栄夫研究「備中國三成荘をめぐって」)。
   康永二年(一三四三)には南宗継へ南禅寺領三成郷雑掌良玄が「平石四郎入道が荘園に乱暴(らんぼう)狼(ろう)籍(せき)をして困る。」(同上)と訴え出た。雑掌は荘園の管理に当たり、 在地で年貢・公事の徴収などに当たった。三成荘雑掌の政所の所在は不明である。公事は荘園制における雑税のことである。悪党平石らの土民が侵略や掠奪(りゃくだつ)を繰り返していたのである。 悪党というのは普通名詞として使われる悪党は背徳者を指すが、ここでの悪党は鎌倉時代より南北朝時代にかけて、荘園の本所や幕府の支配に反抗する地頭や名主をいい、中には一族郎党や近隣の武士同志が連合して、 国衙領や荘園に乱入して政所を襲い、城を構えるものもあった。それがやがて室町時代の国人(こくじん)層へ発展した。国人は守護直属の家臣に対して、古くからの在地武士をいう。 彼らは国衆(くにしゅう)または国人と称して、守護の支配に対して、武力をもって反抗した。貞治(じょうじ)三年(一三六四)に、備中守護宮兼言あてに出された斯波(はしば)義高の施行状によると 「石清水八幡宮領備中国水内北荘の雑掌家継が、弘石大和守資政が水内北荘で濫妨をはたらくので困っていると、訴へ出ている。早く鎮めよ。」(「石活水文書」)と命令している。 この事件は長引き翌貞治四年に再び「弘石大和守資政の妨げを止めよ」との斯波義高の施行状が出されている(同上)。
弘石氏の水内北荘に対する濫妨は、さらに続き、応安六年(一三七三)に、吉見氏頼より備中守護渋川義行あてに「石清水八幡宮雑掌が。 このたび、弘石大和入道は森戸次郎左衛門入道と共に、濫妨をするので困っていると訴へているから、早急に鎮定させよ。」(同上)の施行状が出ている。 この施行状にみえる弘石大和入道は、さきにみた弘石大和守資政と同一人物に違いない。とすれば、彼は応安六年に至っても、 水内北荘で濫妨を働いているわけである(中野栄夫研究『備中国三成荘をめぐって』より引用)。