由 緒

洞 松 寺(舟木山)
宗派静岡県森町大洞院   本山  永平寺・総持寺
所在地矢掛町横谷三 七九六番地横谷の南方、遥照山から東方に延びる尾根の北麗にある。
本尊    釈迦牟尼仏(釈迦如来像)
由   緒

 当時はこの地が神功皇后三韓征討の時に、船材を献じて、舟木山の地名を賜ったこに由来し、皇后の留まり給うた仙洞御郷に松一本を植樹し洞松の司と言う地名も賜ったといわれている。
 孝徳天皇の筑紫に行幸のときに洞松の松の近くに八幡宮を祭り給うたといわれている。
 天智天皇行幸のときに洞松の松は天覧を給わり、そのとき、南都の興福寺の光照菩薩を請来し仏閣を建立し、法相宗船木山洞松司院と称したのが草創で、のち和気氏により七堂伽藍が整えられ三六坊を有したといわれる。
 また寿永三年(一一八四)安徳天皇臨幸のときに、船のことごとく破却し寄進を命ぜられ、船材を数百本献じ、また、船木山号を賜り、洞松寺司院を洞松寺と称することになった。
 以後寺運衰退していたが、喜山性讃禅師きたりて応永十九年(一四一二)再興した。喜山禅師はこのとき、本師恕仲天誾禅師を勧請開山とし、自らは第二世となった。布教数年にして修行僧四方より集まり浮揚著しく、高弟に茂林禅師、 霊獄禅師があった。三世茂林禅師は後鳥羽院の帰崇を被り、種々の下賜物があった。四世霊岳禅師、五世性岱禅師ともに諸国に教化し、門派すこぶる発展し、直末は延享二年(一七四五)(大本山総持寺本末帳)には四二家事に達した (享保十六年(一七三一)六六か寺家事の記録ありー洞松寺末帳)以後発展し喜山派の派頭となり、門末寺院一、二八七か寺までになった。その寺院の分布は、岡山始め広島・島根・長野。愛知・静岡の諸県、及び四国・九州にもわたっている。
 五世性岱禅師の明応年間(一四九二~一五〇一)より喜山派末山の住職が交代する輪番制となった。明暦年間(一六五五)まで八十世に及んだ。再び争議して天叟和尚を特住第六世として独住制となった。この間、各僧あいついで住職となり、 四人の住職が禅師号を勅賜されている。
○ 仏通活性禅師(輪住第九世大空玄虎和尚  伊勢広泰寺・浄眼寺・越前龍寺開山)
○ 正覚大鑑禅師(輪住第十世禅菴繁興和尚  備中長松寺・威徳時・上合寺・瑞雲寺開山)
○ 慈光禅師(輪住第五十七世亭月全長和尚  因幡大龍院開山)
○ 仏心円明禅師(輪住第六十世龍室秀呑和尚  大阪天満天徳寺開 山)

当山の外護者は猿掛城主の庄氏であり、位牌に「当寺開基洞松寺殿駿州刺史桂室常久大禅定門  裏面  康正二丙子八月廿二日 藤原元資父」とあり庄駿河守といわれている 庄氏は鎌倉時代に草壁荘の領主となり猿掛城を造営し城主となった。
宝篋印石塔ほうきょういんせきとうがある。
戦国期の元亀二年(一五七一年)には、猿掛城主となった毛利元清が外護者となりその墓と伝えられる宝篋印石塔ほうきょういんせきとうがある。

岡山県古文書集 第1輯 洞松寺文書より記載

洞松寺由緒書は岡山県古文書集 第1輯 P175に全文記載されている。

舟木山洞松寺は岡山県小田郡三谷村大字横谷にある曹洞宗の巨刹である。伯備線清音駅に下車すればバスの便がある。
寺傳に依れば、應永十九年喜山性讃和尚の創立するところであるが、其師の恕中天誾(ぎん)和尚を請うて開山一祖となし、自ら第二世となった。布教数年にして四方の毳侶雲の如く集まり、法門の扶揚著しく、その高弟茂林禅師・霊嶽禅師克く其の後を嗣いで 先師の遺風を堕さなかったので、江戸時代には千二百余の末寺を有したが、現在に於いても千余の末寺を有し、その分布は岡山県を始め、愛知・静岡・長野・東京・三重・広島・島根・山口の諸府懸から四国九州にも亘っている。現に本堂・坐禅堂・開山堂・ 鐘樓・山門・庫裡等完備し、曹洞宗の専門かい堂として活発なる宗教活動の行われている道場である。(かい)、(かい)
  庄氏はもと関東武士であるが、鎌倉時代に既に備中国の草壁庄(現在の小田郡三谷村横谷及び山田村の辺に相当するという)の領主として猿懸城を造ったと伝えられる。室町時代には備中国守護細川氏の下に守護代として雄飛した備中国における豪族武士であったことは 当時の多くの文献によって知ることが出来る。因に洞松寺の境内に庄元資の墓と伝える宝篋印石塔があり、また洞松寺の南に「御土井」と称する字があってそこに「おりどの」の地名があり「庄屋敷」とも称せられている。この三谷村横谷の地が室町時代における庄氏の本居地で あったことは想像に難くなく、洞松寺の創立は庄氏と深き因縁があつたであろう。洞松寺の寺号も庄元資の父なる「洞松寺殿」の法号から名付けられたものかと考えられる。戦国時代にいたって庄氏が衰えるとともに、備中國は安藝の豪族毛利氏の勢力範圍に屬し、天正の頃は 洞松寺は穂井田氏を大旦那と仰いだものの如く、現に穂井田元清の位牌も祀られており、元晴およびその子の宮鶴丸の墓と傳える宝篋印石塔二基もまた境内に存する洞松寺文書は、室町時代における洞松寺の旦那であった庄氏一門やその被官の武士等の寺田寄進状がその大部分 を占めている。したがって本文書は豪族庄氏の歴史と草壁庄の史料として役立つものが多かろうと信ずる。
なお洞松寺には茲に収録したもののほか、舟木山洞松禅寺記・洞松寺由緒・勸化帳・住山記・末寺載帳・當山世代傳記等、江戸期の編纂にかかる旧記が少なくない。又曹洞宗全書(昭和十三年刊)の中に「舟木山洞松寺住山歴祖傳」が収載せられている。

平成十三年八月十六日午前十時、洞松寺へ訪問。

イン道路沿いに案内板があり、その道順に従ってしばらく走ると坂のわき道があり、そのすぐ上に山門があった。その前に車が止められるぐらいの小さなひろっぱがあり、そこから先は細い道路で離合できないため、そこに車を止めて、 家から持ってきたサンドイッチを食べ、小休憩をした。そこから先は歩いた。 右手は小山で、木がうっそうと繁っており、左手は急勾配の草むら、其の下に幅三メートルの道があり、その下三メートルぐらいの所に溜池があった。ちょっと心細くおもった。家内が「カエルが必至になって 飛んで逃げていく後を蛇が追っかけている光景」に出くわした由。なおさら心細くおもった。そこから約百メートル歩いて奥まった所に、洞松寺があった。周りは山に囲まれている。正面に立派な二階建ての櫓門がでんと構えていた。しかし屋根瓦をみると苔らしきものが生えており、何か 寂れている様に感じた。全くその通りであった。中の境内に入ることができない。住職さんの不在、しかし一階の両脇に立派な仁王像が鎮座していた。あまり詳しい事はわからないが、二階建ての仁王坐像門かな、そして、その前に立てられていた案内板に次のようなことが書かれていた。
右側は、伝喜山性讃でんきさんしょうさん坐像ざぞう 広目天王
左側は、伝恕仲天誾でんじょちゅうてんぎん 坐像ざぞう毘沙門天
 舟木山洞松寺 曹洞宗

昔神功皇后が三韓征伐の際造船材を伐り出し、其の功績に対して賜ったものだという。
応永十九年 喜山禪師の創立と伝えられ、開祖は喜禪師の師恕仲禪師を開山第一祖とした。末寺全国二千百三十六寺を有する巨刹寺となった。また禪の修行道場として今日各地から訪れる人が多い。

そこを後にし、小田川を渡り国道486号沿いに、左側の吉備の真備公園、右側川向うの山頂猿懸城を横目に、川沿いを下り、走っていると高梁川に出っくわし、真備町図書館が見つからず、すぐ引き返す。   しばらく走ると右側に立派な門があり、その奥に図書館らしき立派な建物があった。駐車場は広いし、建物も立派、中も広く静寂であった。外の周りは非常に環境が良かったが、緑がないのがさびしかった。   図書館の係りの人から非常に懇切丁寧に教えていただき、「真備町史」を借り、ルーツに関係があるところ書き写していましたが、家内が時間がかかるので、コピーしたらどうかということで、係りの人に聞くと、   快くコピーをしていただくことができた。その間外で昼食することにした。帰途成羽の役場により、戸籍謄本をとり、西之坊の先祖のお墓により、帰宅。

平成21年10月15日に洞松寺に訪問

従弟と一緒に、西之坊、下呰部の本宗家のお墓により、帰途洞松寺に訪問。平成13年の時とは全く雰囲気が変わっていた。坂の上の山門が整備され、表札が設けられ、車が通れるように、その脇道も整備され、 右側の鬱蒼としていた林も公園のように整備されていた。左下の道路、ため池も整備され、奥に行くとさらにおどかされた。整備中だけど、広い駐車場が設けられていた。車から降りてまたびっくり、2階建ての山門が きれいになっており、しかも扉が開いていて奥のほうに本堂らしきものが見えた。門をくぐると中庭が広く、すっきりとしていた。右側に食堂かな、そこには新しい住職さんがおられた。別の方に本堂を案してもらった。 そしてわずかばかりの寄付をさせてもらった。後、インターネットで調べると、新しい住職さんはいろいろなことに挑戦し、成果を上げられているようです。
其時頂いた「洞松寺門葉寺院名鑑」の中から抜粋。
  遥照山ようしょうざんのふもと、深い緑に囲まれた船木谷に洞松寺がある。

中世期、寺運衰退していたが、室町時代になり、喜山性讃禅師(大本山総持寺100世)は応永十九年(1412)猿掛城主荘(庄)駿河守の帰依をうけ、洞松寺を中興開創し、師恕仲天誾禅師を勧請開山として、自ら第二世となった。
遥照山蓮厳寺(天台宗)(南山田)は南側に下って鴨方町を中心に天台寺院が分布し、檀信徒も多く一つの信仰圏をつくっている。北へ下って真言宗観蓮寺・観照寺と曹洞宗洞松寺の起源もその流れをくむともいわれている。
 以上のように山上仏教とその山岳寺院は性格を大きく変化させたが法統は続き庶民信仰の中に移っている。
次に曹洞宗寺院の展開についてみょう。平安末期から鎌倉時代にかけては、社会的に大きな転換期であった。社会不安と末法思想の流行とともに、新しい救いの教えを渇望する時代であった。ここに登場したのが鎌倉仏教である。 やがて鎌介仏教も室町時代に入り中国地方に伝播するようになった。あい次ぐ争乱の中で明日しれぬ命と今に打ちこむ禅の厳しい修行にひかれ、武士の間に尊信するものが増大した。同じ禅宗の中でも「臨済将軍曹洞土民」といわれ、 臨済系寺院は都市で上級武士へ、曹洞系寺院は地方武士、農民の中に教勢を拡大していった。
  洞松寺が応永十九年(一四一二)猿掛城主庄氏を外護者として中興開山されている。開山は喜山性讃和尚であるが師の恕仲禅師を勧請開山としている。
  喜山性讃は信濃の人で、年少にして出家し師恕仲の遠江の大洞院に行き、参禅開法し印可を受けた。大洞院では修行僧七〇〇余名中の第一座(首座位)を勤めた人であった。諸国修行のとき、舟木の地により、猿掛城主庄駿河守と語り、意気投合し、 この由緒の地に七堂伽藍を建立することとなった。住山三一年に及び弟子に茂林と霊獄の二人があった。茂林は後鳥羽院の帰崇を受け、大本山総持寺へ輪住、永平寺にも昇住(故ありて歴住位にはない)した。霊獄は将軍義政公 の帰崇により鎮国祈願道場となり、大本山総持寺へ輪住した。この二高弟は四年から一〇年余で交替して住職として山内基盤づりと整備につ務めた。そして門末も大いに発展し延享二 年年(一七四五)大本山総持寺本末帳に四十二か寺を見ることが出来る。

  下段の写真、
上の段 左から 由緒書 入口門   山門  山門の説明図    両脇の坐像の説明
下の段 左から 本堂   歴代和尚の坐像  歴代和尚の位牌  元資の位牌の表  元資の位牌の裏