南北朝時代
(南北朝時代  1333~1392 60年間)

資氏

矢掛P237

資房の子 庄七郎 高山城主・・・資氏
母小見山十郎太郎行奴女・・・元弘年中(1331~1334年)六波羅よりの触状をまわして集めた仲間の一人の小見山十郎太郎の一族資房の子資氏は同系譜の注としては、
元弘年中後醍醐天皇船上へ臨幸ノ時、宣旨ヲ蒙テ御迎ニ参上、御乗(じょう)輿(よ)ノ節、奉扈従(ごじゅう)上洛ス、又後醍醐天皇御綸旨(りんじ)、 其外兵部卿親王、足利尊氏御教書、次二高越後守書翰(しょかん)等、数通家蔵スト有リ、

とあり特に取り立てる点はない。母が小見山十郎太郎行奴女となっていることは元弘年中六波羅よりの触上状をまわして集めた仲間の一人の小見山十郎太郎 の一族を妻として資房がむかえているということである。また、高山城主は『備中府志』は窪屋郡地頭片山村にあり、当城開基元弘年中庄太郎藤原家長七代後胤 左衛門四郎資房功江洲番場ニテ忠死。となっている。

資政から猿掛城主となり以後引き継ぐことになった。資房は幕府方であったが番場で死ぬと資氏は宮方で奉仕、資政につがれた。資昭の時明徳三年(1392年) になって南北朝和解がなっている。また、氏敬の母石川源左衛門尉久忠女とあることは資昭の母小見山治郎行忠女で小見山一族との婚姻関係の最後になっていることは考える意味があろう。 庄氏は国侍の小見山一族とはなれ、守護代として同じ地位にある石川氏一族との関係を深めたということになる。

北房町史 通史編上 P446

窪屋郡片山村高山(幸山)城主、庄七郎という。元弘三年(1333年)、後醍醐天皇が、隠岐島から伯耆の船上山に戻り、京都奪回を志した時資氏も宣旨を受けて迎え 馳せつけ天皇還幸のともに加わった。以後天皇方に属して奮戦した。

(北房町史 通史編上 P446)

矢掛P227

矢掛内の庄,郷のうち,地頭に関する史料がみえるのは草壁荘についてである。草壁荘は『和名抄』 の草壁郷の荘園化したものであるが、その経緯については明らかでない。詳しくは「草壁莊」を参照してください。

資昭の時代

猿懸城主、小太郎と称した。当時南朝側にあった山名時氏の攻撃の前に美作・備前・備中の北朝側の武将が敗れ、南朝の勢力が伸びてきたので、 細川頼之は、中国探題となって、時氏らを追討し、安芸国までの四カ国を制圧した。北朝貞治二年(一三六三)時氏も幕府に帰順し、備作地方の武将も北朝幕府側につき庄氏も北朝方に従った。 北朝永和三年(一三七七)朝鮮国史が日本を訪れた時、足利義満の執事細川右京太夫頼之の命令で御馳走役をつとめた。
南朝年号の元中九年(一三九二)北朝年号で明徳三年、南北が合一したが、南朝の後亀山天皇の入洛の時義満の命を承け供奉をつとめた。 応永二十三年(一四一六)十月、上杉氏憲が乱をおこしたとき、細川満元に従い軍功があった。

(北房町史 通史編上 P446)

資昭の時明徳三年(1392年)になって南北朝和解がなっている。また、氏敬の母石川源左衛門尉久忠女とあることは資昭の母小見山治郎行忠女で小見山一族との婚姻関係の最後になっていることは考える意味があろう。 庄氏は国侍の小見山一族とはなれ、守護代として同じ地位にある石川氏一族との関係を深めたということになる。