莊太郎家長
  
(本庄市史 通史編 T P741)
家長は弘高の嫡男で、通称は庄太郎である。これは系図によるが、あるいは弘高の兄で、家廣の子である可能性を秘めている。いわゆる源合戦で児玉党の旗頭として活躍し、 一の谷合戦の時、東木戸にあたる生田の森の戦闘で、平家の公達本三位中将平重衡が須磨ノ浦の海岸際に逃げていくのを追いかけて生け捕りにする武功をあげた。
「備中 庄家文書」(『岡山県古文書集 第一輯』)に所収されている庄氏系譜の中には家長の註記として次のように書いてある。
 武蔵国住人児玉党ノ旗頭、治承五年辛丑二月七日摂州一谷源平両家合戦、始大手ノ大将軍蒲ノ冠者源範頼ニ相従、平武蔵守朝昌ヲ討捕ル。亦一谷平家大手ノ大将軍三位中将重衡、軍破テ須磨ノ浦伝二落行給ヲ追懸テ生擒ル、頼朝公無類ニ御感アリ、 当座二奥州室地庄ヲ賜ル。是平家ヲ追討恩賞ノ始ナリ、其後平家没落、備中闕国トナリ、家長ニ賜ル。猿懸城ヲ築キテ居ル。建久元年 庚 戌十一月十日 二品御入洛 先陣随兵三騎 一騎別二張替持 一騎甲腹巻行騰 又小舎人童上髪負征箭行騰、各々有前 、 其外ノ不具郎従廿八番、庄太郎列之、
建久五年甲寅三月十日将軍頼朝公東大寺供養著御南都東南院、随将庄太郎
家長が、一般に言われているように、「保元の乱」に出陣したかという点については弘高の項で述べたが、系譜に記載されていない。系譜に記載されているのは「一ノの谷合戦」からである。 家長の註記の最初は「一ノの谷合戦」で、平武蔵守朝昌と平重衡を討取ったことであり、『吾妻鏡』の元暦元年(一一八四)二月五日の条にも記録されている。系譜にある治承五年辛丑二月七日の年号は誤記である。
五日甲子酉の剋、源氏の両将、摂津の国に到る。七日卯の時を以って、箭合やあわせの期と定む。大手の大将軍は蒲ノ冠者範頼也。相従うの輩 ・・・・・
とあり、このあとに小山小四郎朝政以下、計三二名が連記され、この中に家長をはじめ、庄司三郎忠家、同五郎広方など十五日の条にも関連記事がある。範頼・義経が一の谷の合戦の記録を鎌倉 に伝えたもので、本三位中将を生け捕ったことや、義経が、敦盛・知章・業盛・盛俊を討取ったことである。

十五日 申 戌 辰ノ刻に蒲ノ冠者範頼、九郎義経等の飛脚、摂津の国より鎌倉に参著して合戦の記録を献ず。其の趣「七日に一の谷において合戦す。平家多く以って命をおとす。  前の内府己下は海上に浮かんで四国の方に赴く。本三位の中将をば生虜る。又通盛卿・忠度朝臣・経俊以上三人は蒲ノ冠者者之を討取る。経正・師盛・教経己三人は遠江ノ守義定之を打取る。
敦盛・知章・業盛・盛俊以上四人は義経之を討取る。この 外梟首そときょうしゅする者一千余人。凡そ武蔵・相模・下野等の軍士各大功をつくす所也。追って注記言上す可し」と。云云
義経が討取ったとあるのは、義経の部下が討取ったことである。『源平盛衰記』には、家長が重衡を生けどったと記述されている。之に対し、『平家物語』の「重衡生捕(巻き第9)家長ではなく四郎高家としているが、 やはり記録にあるように家長としたほうが妥当である。建久元年(一一九〇)源頼朝が上洛した時に、家長はこの行列に加わっている。この上洛は、文治五年(一一八九)の奥州藤原氏征伐、そして、藤原氏遺臣大河兼任の反乱の鎮圧により、内乱に終止符をうった頼朝が、 王朝国家との政治的決着の交渉を行うためであった。行列の先陣には、畠山重忠以下が三列にならび、その後に頼朝が黒馬に乗ってゆき、水干の輩が続く。さらに、その後ろに後陣が続く。その廿八番に、鹿嶋三郎・広沢余三と庄太郎の列がある。行列は十月三日 に鎌倉を立ち、十一月七日に入京した。『愚管抄』には、そのときの様子が次のように記されている。

三騎々々ナベテ 武士ウタセテ 我ヨリ先ニタシカニ七百余騎アリケリ 後ニ三百余騎ハウチコミテアリケリ コムアヲ二ノウチ水干ニ 夏毛ノムカバキ マコトニトヲ白クテ黒キ馬ニゾノリタリケル

建久六年(一一九五)に源頼朝は再び上洛した。二月十二日に鎌倉を立ち、三月九日に入洛した。そのとき、頼朝の隋兵として、庄太郎の名が見えている。こうしたことを考え合わせると、家長が勲功の賞として、備中 (岡山県)草壁荘地頭職を与えられたというのも当然であり、とすれば庄氏が本補地頭として補任されたことになる。
家長には、頼家(依家)・家次・時家・時長の子がある。そして、その子は「本庄」を名乗っている。庄家の本宗ということであろう。居館は市内栗崎地内の「堀の内」と推定できる。


             本 庄 氏
本宗を継いだのは嫡男の庄小太郎頼家であった。しかし、宥勝寺の由緒によると、頼家は一ノ谷合戦で戦死してしまった。備中庄氏系譜(『岡山県古文書集 第一輯』)に依ると、 弟の三郎右衛門家次を養子に迎え本宗家を継がせた。
家次についての記録は見られないが、『吾妻鏡』の建長二年(一に五〇)三月一日の条に、閑院殿の内裏造営の雑掌分担目録の記載があり、河堰の東鰭六丈分を本庄三郎左衛門入道が分担している。この三郎左衛門については不明であるが 家次のこととも考えられる。
家次の子は朝次で、『吾妻鏡』の暦仁ニ年(一二三九)二月、藤原頼径が入洛したとき、随兵の先陣二十五番に本庄新左衛門尉の名が見えている。さらに、頼経が春日社に参詣の時にも隋兵として加わっている。
その後、 時次(本庄太郎)・・・有次(本庄太郎)・・・ 資房と続き、備中の庄氏となる。
庄氏系譜の庄左衛門四郎資房の註記には次のようにある。

資房(庄左衛門四郎 片山村幸山城ヲ領ス、母木屋村福山城主真壁小六是久女) 資房身上衰へ困窮ノ折カラヽ元弘年中六波羅ョリ触状来リ、 桧山二高橋、笠岡ニ陶山、庄、小見山、眞壁ナト国中ノ勢ヲ催シ、京都ヘ馳登、所々ノ敵ヲ防キ二心ヲ抱カス、越後守仲時モ左右ノ手足ト頼レタリ、此時諸方ノ味方モ心替シテ、鎌倉譜代ノ侍散々ニ落行、終二伸時モ京ヲ落チ、 東国へ帰テ重テ人数ヲ集、賊徒ヲ追伐セントテ近江国番場マテ落給処ニ、野伏トモ物具ヲ剥トラントテ道路ヲ塞キ、箭ノ降ル事雨露ノ如シ、此時左衛門四郎資房十方へ馳廻り野伏ヲ追払、既二糧モツキ箭種モナク、 下部雑人原一人モ無ナリケレハ、不及カニ、六波羅殿姶メ一門ノ人々、備中衆不残自害、資房モ忠死ス、

(庄氏系譜の庄左衛門四郎資房の註記については、備中時代「庄家の人物履歴―4」を参照の事。)
家長の後、本宗家が本庄の地にいつ頃まで居住していたかについては明らかでない。