備中猿懸城

  猿懸城《真備町史 p210より》

Ⅰ】山城、

真備町の山城と称せられるものは呉妹に三つ、薗に三つ、川辺に一つ。
これを通覧するに山陽道に面するものは呉妹のもののみで矢田、有井、川辺の通り筋には山がないので城もない。 呉妹の二つは猿掛の出城的存在、川辺の南山は高梁西川があった時には三方に川を控えた要害地、その上小田川と高梁側の接点としての存在であった。
薗の地の奥まったところになぜ三つもあるのか。昔は交通の便とか平地とかのみを制するのではなくて、山をたよりにしていたためであろう。
しかして豊臣秀吉が天下統一をするに至り、これらはほとんど姿を消し、わずかに残ったものも、関が原の後は一国一城の大号令で,真備町のものは全くなくなった。
しかしその城たるや、現在の都市に残っている美しい天守閣を有するようなものがあったのではなく、城と称しても、わずかに砦を構えて、要塞の地により板囲などをしていた程度のものが大部分であった。
有名な清音の福山の合戦のあった城と称するものも福山寺という寺を少し改造して垣をしていた程度であったのを、足利直義が三万の大軍で攻めたのであった。

 真備町の諸城址

1  南山城    川辺南山
2  諏訪山城   大字妹
3  鳥ヶ獄城   大字尾崎
4  猿懸城    大字妹
5  桜 城    大字市場
6  喜村山城   大字市場
7  馬入堂山城  大字市場

上記のうち猿懸城は例外の堂々たるもので次に記すとおりである。南山城は古墳などの規模や城のあったあとを見るとかなりのものであったようである。 この城はこの町内での山城として所謂城らしきものの代表的なものだった。この猿懸け城は小田郡屋矢掛町と当町大字妹との境にあり菩提寺は矢掛城横谷の洞松寺なので矢掛町の名跡としても扱われる、かつてここに三五〇〇人の将兵を収容していた。 天正十年(一五八二)毛利に攻められて惨敗となり其の後関が原の戦いの後廃城となる。 この城は福山城を中心とした一連の砦であり、福山城より申の方角にあたり、猿掛と呼ばれるという。

Ⅱ】 猿懸城

猿懸とも書く。岡田には殿様が居たが城はなかった。真備町内で一国一城の主らしかったものはこの猿掛城主が一時的ではあるがただ一つ。岡田の殿様は城の争奪のない時この地に一万三〇〇石で封ぜられただけなので 備中の他地方にわたって一度も君臨したことはない。
この猿掛城主、庄氏第三十六代為資は備中松山(高梁)を陥れて庄備中守となり松山城に君臨し、備中の至る所に一族を配置し、庄氏全盛時代を誇った。
   さてこの城はこの町内での山城として所謂城らしいものの代表的なものだった。鳥が嶽、諏訪山城などの類はこの地及び北部の新本などの境にかけて多くあったが、 城とは名のみであったらしく、臨時の些といった類であったと思われる。
   この猿掛山は小田郡矢掛町と当町大字妹との境にあり菩提寺は矢掛城松谷の洞松寺なので矢掛町の名蹟としても扱われる。 猿掛山の写真は山城の部に載せてあるが、次にこの城の規模などについて記す。
    猿掛橋を渡って標高二三三メートルの猿掛城趾。山にかかる手前に周囲約二・四メートルの山桜あり、これは年代大きさ小田郡三桜の一つだという。  二〇メートル上ったところに古書に残る前者寺趾あり、急坂を上ること三十分、「大夫元」跡につく。これは当侍曹の一つであった。戦侍中炭焼がまを作ったため各所に凸凹ができている。
    更に上ること十五分、小火跡に到着。二段になり、一段は馬場、二段は小火といわれる。あまり広くない。今から五、六〇〇年前の築城。戦国の世に戦い続けて、 約二〇〇年間存続し、三五〇年前に廃城となった。小火より約十分で頂上に至る。頂上が本丸から六の元馬場になっていた。南側は弥高山に続いているため、当時これより攻め来ることを恐れてこの間を切開いて谷を作ったという。

本 丸東西    三〇間
南北    一五間(一間は約一・八メートル)
二 丸東西    一〇間
南北     一〇間
三 丸東西      四〇間
南北      三〇間
四 丸     五間     一〇間 五 丸     一六間    一三間 六 丸     一五間    一六間
馬 場     一〇間    二町

三ノ丸より馬場に至り大手門があったようである。馬場の周囲に弓矢に使われた矢竹が生い茂っている。 馬洗いの井戸というのは最近まで頻っていた穴が、今は雑草に覆われて不明である。 かつてここに三五〇〇人の将兵を収容していた。元正十年(一五八二)毛利に攻められて惨敗となりその後関ケ原の戦の後廃城となる。 この城は福山城を中心とした一連の砦であり、福山城より申(さる)の方角に当り、猿掛と呼ばれるという。動物の猿と似ているとかの関係はない。


    次に構造などの概略を記すと、

1 城 門き ど

大手おおて真備町猿掛上りに七曲りの嶮阪あり

搦手からめて小田川矢掛平林、登り約三十分、降り約十五

2 要 害

敵に害となり、味方は要(かなめ)となる所。
古川古松軒の「吉備の下道」に

コノ関(せき)ケ鼻ノ地ハ、近ク万治年中(一六五八―一六六〇)マデ、浅口郡道口村二潮ミチ来リ、南方ニハ往来ノ道ナク、北方ハ山続キノ嶮道バカリ、此ノ地ハ山ト山トノ間僅カ二一町余リニシテ、中ニ小田川ノ流レアリ、ココヲ切り防グ時ハ西国街道ノ通路ハ絶ユルナリ」  とあり、ここ関が鼻を守るのが、西国街道の南沿い、小田川に接し侍立する猿掛山城である。要するに山も良好であるが、下の小田川は妹山が北から南に突き出て極めて狭くなっているのが要害なのであった。

3 築 城

正確な文献の徴するものはないが、今日より五七〇年前に(一四一三)庄氏(駿河守頼資)が細川氏に頼り、旧領に復帰し、その子伊豆守之資と力を合わせ、後、約一七〇年を経て、天正十年(一五八二) 備中高松城合戦の後、織田、毛利が和睦し、毛利(或は穂井田)之清高か矢掛東入口の茶臼山に城を築き、翌年移ってより、猿掛城はすたれたといわれる。

4、猿掛城主の盛んな時

備中府志」に「備中ノ庄氏ハ小田郡草壁ノ庄ノ豪族ニシテ猿掛城ニョリ(武蔵)児玉党ノ族ニテ庄太郎藤原家長ノ後トイフ。一谷合戦ニ家長、平重衡を生捕リタル功ニョリ備中草壁ノ庄を賜ハリ、武蔵ノ国ョリ移ル。 草壁ハ今ノ(矢掛)横谷ノ地ニ当ル。猿掛山ノ根ハ小田・吉備・浅口ノ三郡ニ跨(またが)ル。頂上ノ東北ハ 穂井田、妹山ヘモ続ク、故ニ穂井田ノ猿掛トモ、妹山ノ猿掛トモイフ。 元弘ノ乱二庄四郎資房、六波羅二馳馳参ジ恋死ヲ遂グ。ソノ裔孫為資ハ天文ノ初メ松山城ヲ枚メ取り備中二雄視シ、後三村二枚亡ボサル。 コノ庄氏ハ太平記巻八、巻九、巻三十二名見工又延元三年(一三三八)妹山城ニアルトアリ。ソノ他応永三十二年(一四二七)十二月二十九日付、吉備俳言棟札ニ、永享以来御番帳、妙善寺合戦、又府志)一天文頃、 備中守為資が一万貫ノ地ヲ領セシコト等諸書二栄エシ文字アリ」とあり。

猿懸城址見取略図 猿懸城要図(矢懸町史)

5、城の規模

真備町側が大手。大夫火、小火を前方に置き、一の城戸、二の城戸を後方に置き、南に山上に掘切を造ったところに苦心のあとが見え、馬場を東方に縦長くとっている。標高二三三メートル、本丸以下六の丸まで六段階の山城。 東北の馬場は狭い。更に寺大、大夫大小火を加えると上下ス‥)壇となる。外に土塁、掲切、城井戸あり、有事の際は三、五〇〇人を収容し得るとう。

6、合  戦

文明年中(一四六九―一四八六)に庄城主は備後の宮氏を討ち、東方備前福岡に出陣。それ以来覇を近辺に唱えて合戦相つぐ。天文二年(一五三三)為資は松山城を陥れ、三村氏を破る。 これにて庄備中守の名は世にとどろく。天文十五年(一五四六)軍勢を整えて西進し、井原市山野上に至り三村軍を迎え撃つ。   

天文二十二年三村氏大挙して一,五〇〇人の手兵で雪辱戦とて猿掛を襲わんとし、矢掛に出陣する。 横車吉川元春は兵一,五〇〇を指揮し茶臼山に陣す。為資はその一族実近と力を合わせ善戦して三村軍を成羽へ追う。 これで吉川の軍は井原の出部(いずえ)に引く。この時矢掛は灰(かい)燼(じん)となる。 永禄十二年(一五六九)毛利輝元は出部に出陣し三村、小見山、伊勢、小田の部下を従え、猿掛に向かって攻める。 元亀、天正の頃は毛利、浮田、尼子の諸車来襲し、庄氏しばしば苦戦。
天正二年(一五七四)庄は遂に毛利に降る。 翌年、之清は穂井田氏を冒し猿掛城主として備中五万貫を領する。
     以上真備町史より
      吉備郡史P1197
猿懸城 呉妹村大字妹に在りて小田郡三谷村横谷に接す。

和  暦 城  主 摘     要
初代城主 庄太郎 家長
建久三年(1192年) 備中国山方荘・二万荘・穂田荘・草壁荘地頭職補任。山方荘幸山城居城
元久二年(1205年)草壁莊猿懸に支城を築く。
  城代莊 四郎高家
二代城主莊 小太郎頼家
三代城主本莊三郎右衛門家次
 城代莊四郎兵衛家定
四代城主本莊右衛門朝次
 城代莊八郎右衛門信家
五代城主本荘太郎時次
 城代莊右衛門太郎家重
嘉元元年(1303年)草壁莊に陣屋を開く(莊氏館址)
六代城主本荘太郎有次
 城代莊蔵人家津根
七代城主本荘右衛門資房 備中守護代(莊家重から守護代説もある)
 城代莊三郎家房
元弘三年(1333年)元弘の変起こる。資房、京都六波羅に味方して敗れ、北条仲時に従い近江国番場で討死する。当地蓮華寺の過去帳には、北條俊光以下十四名の名がある。
八代城主莊七郎資氏、後醍醐天皇の召に応じ船上山に赴き、建武の中興に翼賛する
九代城主莊左衛門尉資政
貞治五年猿懸城、城郭拡張工事。幸山城を支城とし石川氏に守らせる。
十代城主莊小太郎資昭
明徳三年(1394年)莊資昭、南北朝和睦足利義光の命により、後亀山天皇の吉野より京都へ還幸の供奉を勤める。
十一代城主莊掃部介氏貞
応永十九(1412年)洞松寺再興される。莊駿河守は猿懸城を居城として莊氏の本拠地と定め、応永十九年(1412年)に喜山性讚の創開 洞松寺を莊氏の菩提樹として厚く帰依した。
十二代城主莊駿河守氏敬
十三代城主莊伊豆守元資
文明五年(1473年)備前福岡合戰、元資出陣。一族の右衛門四郎討死 
延徳三年(1491年)守護細川勝久し合戰
延徳四年細川勝久と再び合戰
十四代城主莊治部大輔爲資
天文二年(1533年)備中松山城主爲資尼子の援けを借り、備中松山城上野伊豆守を滅ぼし、松山に入り、備中判国を支配、備中守を受領し
従三位に叙せられる。
天文三年 城代莊備後守実近
天文二十二年(1553年)松山城主莊備中守高資
天文二十三年松山城主莊兵部少輔勝資
永禄三年(1560年)松山城陥落