武蔵国時代年表
参考資料
1)真備町史 編纂 真備町史編纂委員会 2)北房町史通史編上(平成四年十月二十八日発行)
3)吉備郡史(中巻) 昭和十二年 4)小田郡史 上巻 昭和十六年刊
5)矢掛町史 史料編 本編 6)高梁市史 郷土資料
7)新見市史 通史編 8)清音村誌
9)岡山県古文書 第Ⅰ輯 莊家文書 10)岡山県古文書 第Ⅰ輯 洞松寺文書
11)本庄市史 通史編 Ⅰ(昭和61年3月30日発行) 12)児玉党 笹川臨風 著
13)児玉党出自考 田島三郎著(平成15年9月) 14)武蔵武士 渡辺世祐 八代国治 著(大正2年)
15)軍記 武蔵7党上巻 川又辰次編 1985年(昭和60年) 16)武蔵武士(郷土の英雄) 上 成迫政則著(まつやま書房 2002年7月)
17)中世備中の歴史(莊氏と植木氏・三村氏) 植木成行著 18)
時代区分
飛鳥時代 500~710年
白鳳時代・天平文化 大化のの改新(645年)から平城遷都まで
奈良時代 710~772年都が平城京にあった時代
平安時代 794~1185延歴十三年(794)に平安遷都して以後、源頼朝が挙兵し、平家が滅亡する文治(1185)まで
源平合戦時代 十三年間
鎌倉時代 1192~1333年 150年間
南北朝時代 1333~1392年 60年間
室町時代 1392~1467年 75年間
戦国時代 1467~1567年 100年間
安土桃山時代 1573~1600年 27年間
江戸時代 1600~1867年 267年間
明治時代 1868年~1911 年  43年間
大正時代 1912~1926年 14年間
西暦 和  暦 人 名 出   来   事
370 船瀬足尼 国造本記 久自国造、志賀高穴朝御代、物部連(もののべむらじ)伊香色雄命(いかがしこおのみこと)三世、 船瀬足尼(ふなせすくね)定賜国造(さだめたまいきくにみやつこ)と記載されている。
781 天応元年年年 小牧稲守 小牧万呂の子丈部稲守はアタルイの乱により、軍輸軍糧として陸奥へ行き外正六位上に叙せられる。
830 天長十年 氏道 家令外従五位下丈部氏道は「有道」の姓を賜る。
933 承平 二 秩父郡石田牧と児玉郡阿久原牧が勅旨牧となる。
935 承平 五 平将門 平将門が伯父平国香を常陸国で殺害する。『倭名類聚抄』ができる。
939 天応 二 平将門 平将門が下野国衙、上野国衙を襲う。下野押領使藤原秀衡が平将門を征討する際五十子に要塞を儲ける。
940 天応 三 藤原秀衡 藤原秀衡が平将門追討を東五十子若雷神社に祈願し、西五十子地内に柵を築き陣を設け、諏訪神社を勧請する。 藤原秀郷、平貞盛が平将門を下総にて撃破し射殺する。
973 天延元年 維材 氏道の曾孫有道維材は権針博士に任ぜられている。この前後に医師が六代続く。「有道系図」、「医道系図」
993 正暦 四 維広 維材の子維広卒、正六位上刑部丞、中関白藤原道隆家司
996 長徳 二 維能 内大臣藤原伊周家令従六位上有道維能解職、武蔵権介となり下向。
1000 長保 二 維行 はじめに」に記載したように児玉党の祖であり、有貫主と称せられた。児玉黨の祖、有氏惟行が祀られている。 有氏神社、写真 1 写真 2がある。埼玉県児玉郡神泉村大字下阿久原三十四番地。 武蔵・上野国にかけて随一の豪族で、阿久原の牧の経営によるもの。系図から見た維行の所領は、 児玉郡・入西郡と上野国の群馬郡・多野郡・甘楽郡に跨がる地域と推測される。
1010 伊周 内大臣藤原伊周が没する。
1069 弘行 維行が没する。維行の嫡男で、児玉郡と入西郡を譲り受け、 有大夫と称され、別当となり牧の管理者であった。児玉郡に所領を譲られた維行の子孫たちは、その土地の名を名字とした。また、児玉郡に居住した維行の子孫たちは、金鑽神社【栗崎・千代田】、 【栗崎・下児玉・下浅見・下真下】、【ニの宮】居住地に勧請したようである。
1083 永保 三 弘行 永保三年(一〇八三)九月に起こった奥州後三年の役に、 源八幡太郎義家の副将軍として、清原家衡・武衡軍と戦ったと伝えられる。
家行 武蔵権守・河内権守としょうせられ、十一世紀末期から十二世紀前半頃の人と推測される。 真下は現在の児玉町上真下、下真下地内と神川村八日市地内九郷用水堀北部にかけての地域と推定される。この地域をのぞいた児玉郡は嫡流の家行が相続した。
家弘 家行の嫡男で、家弘は家行から家遠・親家・弘方らが相続した地域をのぞいた所領を相続した。   本宗の名字「児玉」から「庄」になったのは、この代からと考えられ、家弘の子は「庄」を名乗っている。
家長 家弘の嫡男で、家長は家弘から他の兄弟らが相続した地域をのぞいた所領を相続した。
1156 保元元年 保元の乱 十二月十一日源義朝の挙兵に際し庄太郎、岡部六弥太等武蔵士多数が加わる。(保元物語)(本城史歴史年表)
1159 平治元年 平治の乱
1175 安元元年 十一月十四日上野国高山御厨の一部を児玉党が押領したとして訴えられる。  (玉葉)本城史歴史年表
1180 治承 四 家長 四月九日源頼政が以仁王を奉じて平氏追討令旨を諸国の源氏に伝える。 庄太郎家長等児玉党の大勢は源氏方について戦う。一月二十日源範頼、義経の木曽義仲討伐のための上洛に際、宇治川合戦における佐々木四郎高綱と梶原源太景季の先陣争いに続き、庄三郎忠家、庄五郎広賢、 猪俣平六,岡部六弥等が渡河し、範頼に従い義仲軍と戦う。盛衰記、平家物語一月二十六日庄三郎忠家、庄太郎家長は源範頼・義経軍に従い、庄四郎高家は木曽義仲に従い兄弟で敵味方に分かれて戦う。 高家は兄忠家に捕らえられ、後に範頼軍に従う。平家物語塩谷五郎惟広、勅使河原五三郎が六条河原の合戦で義仲軍と戦って勝利する。二月五日に大手の大将範頼の軍として庄太郎家長、庄三郎忠家、 同四郎高家、同五郎広方、久下次郎重光、塩谷五郎之博、安保次郎實光などがしたがい、からめ手の大将義経の軍として猪俣平禄の李綱、熊谷次郎直美等が従う。吾妻鏡・平家物語二月七日庄四郎高家『盛衰記』 では家長が梶原源太景季とともに平重衡を生け捕る。平家物語庄小太郎頼家が一の谷合戦で戦死する。猪俣平六則綱が越中前司盛俊を討つ。平家物語平知盛の子武蔵守智章が児玉党によって討たれる。
1185 文治元年 十月二十四日 源頼朝は勝長寿院落慶供養に臨み、隋兵として四方田三郎弘長、 安保五郎、猪俣平六則綱、甘糟野次、勅使河原三郎等が従う。十一月二日源義経の旧家臣莊四郎、義経が海路西国逃亡への途次、虚言をもって義経に近付いたところ、悟られて誅殺される。
1187 文治 三 四月二十九日伊勢国地頭御家人等の公卿勅使駅雑事対捍目録に「丹生山公田、四方田五郎」の記載が見られる。
1189 文治 五 忠家 源頼朝が奥州征伐に鎌倉より出発する。庄三郎忠家、四方田三郎弘長、 浅見太郎実高、勅使河原三郎有直、塩谷太郎家光、阿保次郎実光、浅羽五郎行長、小代八郎行平等がこれに従う。(吾妻鏡) (東鑑)
1190 建久 元年 家長 十一月七日源頼朝入洛の際、先陣畠山重忠随兵の十三番として庄太郎三郎、 四方田三郎、浅羽小三郎等の児玉党が騎馬で雨中を並進す。後陣隋兵の二十八番に庄太郎家長、三十一番ら庄四郎、四十番に滝瀬三郎、四十五番に真下太郎が従う。(吾妻鏡)
1193 建久 四 家長 >二月九日丹党と児玉党の間に確執がおこり、畠山重忠の仲裁により両党に和平が戻る。(吾妻鏡)
1195 建久 六 三月十日源頼朝が東大寺開眼供養のため上洛し東南院に入る。供行列に庄太郎、 四方田太郎、猪俣平六等が騎馬で従う。(吾妻鏡)
1198 建久 九 小代八郎行平 十二月廿六日小代八郎行平注置文がまとめられる。(肥後古記集覧)
1202 建仁 二 頼家 建立する。
1203 建仁 三 小代八郎行平 小代八郎行平が越後国青木地頭職に任ぜられる。
1204 元久 元年 四方田左近将監 二月廿二日四方田左近将監が備後國御調本北條の地頭所務を停止される。(吾妻鏡)
1213 建保 元年 富田三郎 五月三日和田義盛が北条氏打倒の兵を起こし、従った富田三郎親家は 戦いに敗れて生け捕りにされる。七月十一日和田合戦で捕らわれた富田三郎親家が執権北条義時の面前で、 大鹿の角二本を一度に折る大力の芸を披露し、万座の感嘆を得て囚われの身を解かれる。
1220 承久 二 庄 髙家 十月十七日庄高家が出家する。
1221 承久 三 承久の変 後鳥羽上皇が三浦胤義に関東の状況を問い、 胤義の奉答に対して庄四郎家定が反駁する。宇治合戦に於いて、庄四郎、四方田弘季庄五郎が敵方各一名を生け捕り、富田小太郎、児玉刑部四郎が各一人を倒す戦功をあげるが、富田太郎、同五郎、 塩谷小三郎等は負傷、庄三郎忠家、塩谷民部太夫が討死する。
1221 承久 三 庄 三郎 承久三年六月十八日 辛末中太彌三郎為飛脚云々庄三郎助次被追
1221 承久 三 庄 四朗 鎌倉麾下承久三年六月十四日宇治橋合戦討敵條云々、庄四郎一人生捕
1223 貞応 二 今井太郎兵衛行助の父庄三郎行家、長興寺をひらく。
1229 安貞 三 年始の儀に本庄四郎左衛門尉時家の名がみえる。
1238 嘉禎 四  朝次 将軍頼経が入洛し六波羅御所に入る。本庄四郎左衛門尉時家、本庄新左衛門朝次、 四方田三郎左衛門尉景綱、真下右衛門三郎等が隋兵として従う。将軍頼経が参内する。 御車左右の従者として四方田五郎左衛門尉資綱等が帯剣して従う。将軍家藤原頼経が、春日神社に参詣する。本庄新左衛門尉朝次、 四方田五郎左衛門尉資綱等が供奉する。
1241 仁治 二 本庄四朗左衛門時家 本庄四郎左衛門尉時家が小林小次郎時景の家来藤平太の妻の連れた馬二匹を奪い 取った罪により鎌倉に召喚され所領を没収される。
1241 仁治 二 助次 六波羅外下知状断簡に「相模守 地頭庄三郎」とある。(鴨方町史) 備中庄氏として 最初に現れるのは、三聖寺領小坂庄に関するもの
1250 建長 二 閑院内裏造営に本庄四郎左衛門尉時家、四方田五郎弘綱の跡、本庄三郎左衛門入道がたずさわる。  
1250 建長 二 家次 頼家の跡を継ぐ、本庄二郎と名乗る。本庄次郎左衛門尉『吾妻鏡』建長二年三月一日の条に閑院殿 の内裏造営の雑掌分担目録の記載があり、河堰の東鰭六丈分を本庄三郎左衛門入道が分担している。この三郎左衛門については不明であるが、家次のこととも考えられる。
1251 建長 三 赤城山噴火(爆発)する。
時次・・・太郎左衛門尉、有次・・・太郎左衛門尉、助次・・・莊 三郎、重次・・・莊 四郎、 氏次・・・莊 五郎左衛門尉