上記写真 「上合字寺正面」上記写真 左から二番目、「莊為資の宝篋印石塔」
備中国時代年表
参考資料
1)真備町史 編纂 真備町史編纂委員会 2)北房町史通史編上(平成四年十月二十八日発行)
3)吉備郡史(中巻) 昭和十二年 4)小田郡史 上巻 昭和十六年刊
5)矢掛町史 史料編 本編 6)高梁市史 郷土資料
7)新見市史 通史編 8)清音村誌
9)岡山県古文書 第Ⅰ輯 莊家文書 10)岡山県古文書 第Ⅰ輯 洞松寺文書
11)本庄市史 通史編 Ⅰ(昭和61年3月30日発行) 12)児玉党 笹川臨風 著
13)児玉党出自考 田島三郎著(平成15年9月) 14)武蔵武士 渡辺世祐 八代国治 著(大正2年)
15)軍記 武蔵7党上巻 川又辰次編 1985年(昭和60年) <> 16)武蔵武士(郷土の英雄) 上 成迫政則著(まつやま書房 2002年7月)
17)中世備中の歴史(莊氏と植木氏・三村氏) 植木成行著 18)
時代区分
飛鳥時代 500~710年
白鳳時代・天平文化 大化のの改新(645年)から平城遷都まで
奈良時代 710~772年都が平城京にあった時代
平安時代 794~1185延歴十三年(794)に平安遷都して以後、源頼朝が挙兵し、平家が滅亡する文治(1185)まで
源平合戦時代 十三年間
鎌倉時代 1192~1333年 150年間
南北朝時代 1333~1392年 60年間
室町時代 1392~1467年 75年間
戦国時代 1467~1567年 100年間
安土桃山時代 1573~1600年 27年間
江戸時代 1600~1867年 267年間
明治時代 1868~1912年 45年間
大正時代 1912~1926年 14年間
小牧万呂 家行 家長 朝次
西 暦 和 暦 人 名 出 来 事
1237 嘉禎三 莊藤四郎行信 小坂莊地頭
1266 文永三 莊四郎入道信願 十月二十八日幕府は六波羅探題に、庄四郎入道信願の訴えにより、 刃傷狼藉を致す芥川景信、信継の成敗を命じている。芥川は摂津の豪族であり、信願は在京していたと思われる。(鎌倉遺文) 
1273 文永十 莊余一頼資 十二月十七日幕府は庄余一頼資の重訴状による、美作国広野庄のことによる対決に、 今に不参の庄四郎太郎入道に、明年三月十日までに出頭させるよう、六波羅探題に命じている。(鎌倉遺文)
1275 文永十二 莊四郎太郎入道 四月二十三日幕府は庄四郎太郎入道に対し、庄余一代政景の申す広野庄(津山市) 地頭職のことにつき、六月二十日までに参上するよう命じている。(鎌倉遺文) 広野庄地頭職をめぐるあらそいがあったが、 庄四郎太郎入道は勝訴の見込みがなかったのか出廷しなかった。広野庄の庄氏はこれ以後史料 にまったく出てこないので、南北朝の戦乱の中で消滅したようである。
1283 弘安六 莊藤四郎行信 弘安六年(1283)「三聖寺文書」、弘安八年四月十一日にも、同じ両人に同じことを命じている。 四十六年前から争われている。
1285 弘安八 莊藤四郎行信 三聖寺文書
1297 永仁五 莊四郎左衛門尉 十二月十四日、六波羅探題は、東寺領大和国平野殿庄雑掌の訴えにつき、 庄四郎左衛門尉資兼を使者として遣わしている。『児玉町史』百合文書 資兼は、「在京人」として、六波羅に勤仕していた。
1305 嘉元三 莊松王丸 『熊谷家文書』六波羅下知状 庄松王丸代国秀与伯父又太郎親資相論ス亡父敬願遺領ノ件
1331 元弘元年 資房 庄左衛門四郎資房 母木屋村福山城主真壁小郎是久の女 元弘の乱、元弘の乱(1331~1333)に際し、 六波羅の触状に接した資房は備中松山の高橋氏・笠岡の陶山氏・井原高谷城の小見山氏・真壁郷の真壁氏らと共に兵を率いて京都に馳せ上がり、所々で官軍と戦って幕府方に忠勤を励んだ。北条越後仲時は資房を手足のように頼りとした。 (北房町史 通史編上 P446) 六波羅探題は陥落し、北条氏譜代の侍までも脱落し、仲時も京を落ち東国に帰って再起を企てようと近江国番場までおちのびた。そのとき、落ち武者を狙う野伏どもが、武具を剥ぎ取ろうとして道路を塞ぎ、雨霰のように箭 を射かけてきた。資房は十方へ駆け回り野伏を追い払ったが糧食・矢丸ともに尽き家来も離散したので資房は仲時ともに自害した。
1333 元弘三 俊光 荘左衛門四郎俊光、塩谷右馬允、同弥三郎など児玉党武士が多数切腹する(太平記)
1333 元弘三 莊三郎為久 小手指原・分倍河原の合戦で鎌倉方に阿保左衛門入道道漂、新田方に庄三郎為久がしたがい、 武蔵武士は敵味方で戦う。道漂は討死し新田軍が勝利する。庄三郎為久、横山重真が北条軍の長崎次郎高重主従八騎と戦い討死する。
1333 元弘三 資氏 矢掛 P237 資房の子 庄七郎 高山城主・・・資氏宮方で奉仕 母小見山十郎太郎行奴女・・・ 元弘年中(1331~1334年)六波羅よりの触状をまわして集めた仲間の一人の小見山十郎太郎の一族。後醍醐天皇の召に依て船上へ御迎に参り京都へ還幸の供奉に従い奉り此れより足利に仕へたり。 太平記巻七 船上合戦事條云、隠岐國より還幸成て船上へ御ザ有ルト聞しかは國々の兵馳参スル「引もキラズ云々備中ニ新見、成合、那須、三村、小坂、河村、庄、眞壁云々。資政から猿掛城主となり以後引き継ぐことになった。 資房は幕府方であったが番場で死ぬと資氏は宮方で奉仕、資政につがれた。資昭の時明徳三年(1392年)になって南北朝和解がなっている。また、氏敬の母石川源左衛門尉久忠女とあることは資昭の母小見山治郎行忠女で小見山一族との 婚姻関係の最後になっていることは考える意味があろう。庄氏は国侍の小見山一族とはなれ、守護代として同じ地位にある石川氏一族との関係を深めたということになる。窪屋郡片山村高山(幸山)城主、庄七郎という。元弘三年(1333年)、 後醍醐天皇が、隠岐島から伯耆の船上山に戻り、京都奪回を志した時資氏も宣旨を受けて迎え馳せつけ天皇還幸のともに加わった。以後天皇方に属して奮戦した。北房町史 通史編上 P446
1333 元弘三 資政 猿掛城主、庄左衛門、實資氏ノ弟文和二年南朝奉仕、北畠准后、權大納言顯能ニ従、 足利尊氏執事高卯武蔵守師直ト屢合戦、軍功有テ感状ヲ賜フ、猿掛城主で、庄左衛門資氏の弟でその養子となった。正平八年(1353)南朝に加担し、畠親房の三男北畠顕(あき)能(よし)尊氏の執事(しつじ>)高師直(こうのもろなお) とたびたび戦って軍功をたてた。<
1334 建武元年 莊左衛門尉藤原長家 雑所決断所二番東海道に勤める。
1335 建武二 莊四郎入道 二月名和長年は朝令により、庄四郎入道に一族あげて備中国の朝敵人の討伐を命じている。 俊充は北条方となったので、惣領は親資の系統に変わったようである。以後草壁荘東方は庄惣領家が領知している。
1335 建武二 莊常陸介道資 福山合戦で福山城を守る
1336 建武三 莊四郎左衛門尉 武者所結番四番 藤原宗家 尊氏 福山合戦 四月二十四日 尊氏は、三浦高継に書状おくり、 備中、美作の軍勢を催し、美作国の凶徒を退治すること。五月直義は陸路で庄氏の本拠草壁庄に着き、尊氏は陸路で小島吹上に着く。五月十七日福山城合戦、備中、備前三千余騎が先鋒を務めている。五月二十五日湊川合戦、楠正成討ち死に。 征夷大将軍に任ぜられて幕府を開いた。
1336 建武三 莊 又六 四月五日山内首藤三郎時通は軍忠状を出している。三月二十五日の中先代合戦で、 鎌倉浜面で敵一人を討ち取り、下人弥次郎が討ち死にしたというもので、証人に庄又六を立てている。(山内家文書)
1338 建武五 莊 十郎 建武五年七月十日田代豊前守顕綱は、堺浦医石津での畠山顕家との合戦について軍忠状を出し、 証人に荘十郎を立てている。(大日本史料 六の四)(保元物語)(本城史歴史年表)
1351 正平六 莊四郎左衛門 庄四郎左衛門急を頼宥に報じて來援を求む。頼宥は正平六年十月長井貞頼に後事を託して備中に出陣せり。
正平六年十月二十二日                 僧頼宥     花押
謹上 長井出羽(貞頼)     (萩藩閥閲録)
頼宥の備中に來るや、庄四郎左衛門を初め 尊氏黨の豪族と力を併せて、高越山城を圍み十二月に至。其間十一月十五日、本郡北川村浄瑠璃山の戦いの如きは、最も猛烈なりしものの如し。と記載されている。
正平六年十二月十九日、頼宥の三吉少納言御房宛て
正平六年十二月二十六日、頼宥の長井出羽前司殿宛て
等、而してこの戰の結果を知るべき資料を得る能はざるは、遺憾なれども、猿掛城主の地方の豪族たりし事は、上の文書よりて知り得べし。(小田郡誌 p94)南北朝時代
1352 正平七 莊駿河権守 備中国河邊郷内壹分地頭職(小山孫三郎跡)事任去月二十二日御下文之旨土師尾張権守相共可被沙汰  付雅樂太郎左衛尉
以秀之依仰執達如件
和元年十月七日          沙彌
庄 駿 河 権 守殿         小田郡誌P95より(大日本史料)
文和元年は正平七年(1352年)なり、前記の四郎左衛門と駿河権守とは、恐らく同一人なるべし。
1354 正平九 莊兵衛四郎 『金剛地文書』この文章の中の庄兵衛四郎は備中庄氏一族の一人であるが、 系図の中に特定することができない。しかし、庄氏が草壁庄の地頭として補任され、定着するのは鎌倉初期であると考えてよいであろう。
庄関連古文書【Ⅰ】を参照
備中国草壁庄西方地頭職(庄兵衛四郎并に一族跡)を、毎年御影供舞楽料所として、金剛寺に寄進している。(南北 2689)   (矢掛町史 p228)
1363 正平十八年 莊駿河権守 猿掛城を遂はれる。この駿河権守と兵衛四郎とは同一人。
庄関連古文書【Ⅰ】を参照
1363 正平十八年 資昭 猿懸城主、小太郎と称した。当時南朝側にあった山名時氏の攻撃の前に 美作・備前・備中の北朝側の武将が敗れ、南朝の勢力が伸びてきたので、細川頼之は、中国探題となって、時氏らを追討し、安芸国までの四カ国を制圧した。北朝貞治二年(一三六三)時氏も幕府に帰順し、 備作地方の武将も北朝幕府側につき庄氏も北朝方に従った。北朝永和三年(一三七七)朝鮮国史が日本を訪れた時、足利義満の執事細川右京太夫頼之の命令で御馳走役をつとめた。
1364 貞治三 莊四郎 貞治三年(一三六四年)に、備中守護宮兼信あてに出された波斯(はしば) 義高の施行状によると「石清水八幡宮領備中 国水内北荘の雑掌家継が、弘石大和守資政が水内北荘で濫妨(らんぼう)をはたらくので困っていると、訴え出ている。早く鎮(しず)めよ。」(「石清水文書」) と命令している。この事件は長引き翌貞治四年に再び「弘石大和守資政の妨げを止めよ」との波斯(はしば)義高の施行状が出されている。 応安六年(一三七三年)に、吉見氏頼より備中守渋川義行あてに 「石清水八幡宮雑掌が、このたび、弘石大和入道は、森戸次郎左衛門入道と共に、濫妨(らんぼう)するので困っていると訴えているから早急に鎮定させよ。」の施行状が出ている。この事件を備中守護渋川義行 では止めることができないから、応安七年(一三七四年)に、松田左近将監入道(備前金川城主)と庄四郎(備中猿掛城主)とに施行状が出ている。
矢掛 P209
庄氏は備中国の有力国人で、室町時代には守護代を代々勤めている。庄氏は広石氏の住む草壁荘の地頭でもあり、その本拠地は広石のある南山田地区のすぐ東隣の横谷地区である。とするな らば広石氏は庄氏と深いつながりを持っていたと見るべきであろう。(石清水文書)水内北荘・三成荘・草壁荘に何度も侵入して、濫妨(らんぼう)狼藉(ろうぜき)の働きをする「広石」氏一族(平石四朗入道・ 弘石大和守資政・広石次郎)は、この地域でかなり勢力をふるっている。参考資料・・・中野栄夫研究「備中国身三成荘をめぐって」
1366 正平二十一 莊駿河入道 庄関連古文書【Ⅰ】   を参照。
足利直冬は、備後国河立庄、備中国庄駿河入道の跡、石見国内田肥前守跡等を、 勲功の賞として吉川讃岐守に宛て行っている。(吉川文書 1098)しかしこの宛手形であった。貞治二年 (一三六三年)には、直冬方であった山名も大内も幕府に降参し、直冬は中国地方での勢力はまったく失っていたため 。細川頼之は延文元年(1356)から貞治二年(1363)まで中国管領であった。 庄氏は備前、備中、美作が直冬にせいあつされたなかで、中国管領の助けを借りて孤軍奮闘していたので、 この間に頼之との強い関係が生まれたと思われる。
同上 同上 莊帯刀左衛門尉 この年南朝方河野通直は、北朝の伊予守仁木義伊と戦う。河野方に庄帯刀左衛門尉、 同大輔房がある。
(『予章記』)これは建武年間に造田庄にいた庄十郎四郎資方の一族であろう。
1368 正平二十三 莊 十郎 正平二十三年四月山城国金蓮院雑掌定勝は、同寺伊勢国茂永小泉御厨(みくりや)を、 貞治四年(1365)八月以東守護被官と号して押領する莊十郎(実名不知)を訴えている。 (『大日本史料』6-29)この時伊勢守護は細川頼之であった。庄十郎は頼之の被官となっている。
1370 応安三 莊孫三郎 応安三年正月二十三日、弓始選手に庄孫三郎がある。(『御的日記』)建徳元年 (北朝応安三年)正月室町幕府御弓矢始に選手として召しだされる。
1371 応安 四 莊駿河入道 応安四年六月六日、管領細川頼之は庄駿河入道に命じて、竹鼻入道覚知の山城国円城寺敷地、 山林等を押領するを停止させ、下地を仁和寺に交付させている。(『大日本史料』6-34、『児玉町史』)
1373 文中二 莊近江入道 文中二年九月八日、南朝は、伊勢国飯高郡深田御園地頭職志村方半分知行分 (庄近江入道知行分)を兵粮として、古和一族に知行させている。(『大日本史料』6-38、児玉町史)。
庄近江守は前記の庄十郎であろうか。庄氏惣領駿河入道は細川頼之の内衆として管領職を補佐し、 庄近江守等一族の頼之の被官となっている。
1374 応安七 莊 四郎 庄氏先に細川頼之の好意によりて、猿懸城に復歸仕たるが、爾(その)後(ご) 備中豪族として活動せり。而して世にえられる庄氏の系譜數種を見るに、首肯するに足るものなしと、 下記の石清水文書を列挙している。矢掛町史のP95に記載されている。
應安七年(一三七四年)十二月十四日、 幕府引付頭人吉見氏頼は、石清水八幡宮領備中国水内庄雑掌の訴により、 弘石大和入道と守護家人森戸次郎左衛門尉の押妨を止め、雑掌に沙汰付するよう、庄四郎と松田左近将監に命じている。
(『南北』 4110 4111)四郎は駿河入道の子。石川氏との関係
1375 応安八 莊 四郎 庄関連古文書【Ⅰ】を参照。
小田郡誌(P102)にも上記と全く同じ事が記載されている。 次の事が記載されている。
即ち庄四郎は、備前の松田左近将監及び小河兵庫助などと共に、弘石大和守入道、 森戸次郎左衛門等が、石清水八幡宮領たる水内北庄押妨するを、禁止せしむる事を命ぜられたるなり。 以って当時相当勢力を有する豪族なりしを知るべし。因に云う応安七年は元中三年なり。
1379 康歴元年 莊十郎三郎 閏四月十四日、波斯(はしば)、土岐、京極等を中心とした反頼之派は数万騎の軍勢を集め、 花の御所を包囲し、細川頼之の管領解任を義満にせまった。頼之は京都を退出した。
康暦元年八月八日山名伊予守時義書状写、
河野宛によれば、
「(前略)兼ねて又庄四郎□要害則退治せしめ候由、公私につき悦び存じ候(中略)児島発向の事時分是より申さしむ可く候、程近く候へば細々申し可く候(下略)」とある。
細川頼之方として庄四郎駿河権守はうたれた。要害(猿掛城であろう)は落城し、庄氏は一旦滅亡したと思われる。 頼之は赦免され、弟の頼元が上洛する。かくして細川氏は完全に復活し、以前よりも増して大勢力となった。庄氏も復活し、備中在地の最大勢力となった。
1384 至徳元年 莊十郎三郎 至徳元年十二月十五日摂津守護細川頼元は、守護代奈良又四郎、庄十郎三郎に命じて、 高野山安養院雑掌の訴える同国崑陽寺(こんやでら)庄西方内笠地平次郎名を、御教書の旨に任せて沙汰させる。(児玉町史)。
1385 至徳二 莊十郎三郎 至徳二年二月十三日細川頼元は再び尊行状を出し、崑陽寺(こんやでら)庄西方内笠地平次郎名を、 田能村大和入道蔵周の押妨を退け沙汰させるよう、奈良又四郎、庄十郎三郎に命じている。
1392 明徳三 莊駿河四郎次郎頼資 庄駿河四郎次郎頼資、元中九年(明徳三年)(一三九二年)八月二十八日管領細川頼之が、 相國時養に参列したる時、郎従二十三騎の一人として、黒栗毛に跨りて随行せり。(相國寺供養記)。
明徳三年八月二十八日、相国寺供養、管領細川頼元の郎党二十三人(皆騎馬直垂)騎馬の内に庄駿河四郎次郎頼資がある。
(『相国寺供養記』)
以上の記述は「中世備中の歴史」より抜粋。著者 植木成行
1392 明徳三 資昭 南北朝和解がなっている。また、氏敬の母石川源左衛門尉久忠女とあることは資昭の母小見山治郎行忠女で 小見山一族との婚姻関係の最後になっていることは考える意味があろう。庄氏は国侍の小見山一族と、はなれ、 守護代として同じ地位にある石川氏一族との関係を深めたということになる。
南朝年号の元中九年(一三九二)北朝年号で明徳三年、南北が合一したが、 南朝の後亀山天皇の入洛の時義満の命を承け供奉をつとめた。応永二十三年(一四一六)十月、上杉氏憲が乱をおこしたとき、細川満元に従い軍功があった。 (北房町史 通史編上 P446、小田郡誌P102) 小林荘
1399 応永六 莊六郎左衛門 庄六郎左衛門尉への下知状(矢掛町史 史料 P83、小田郡誌P102)庄関連古文書【Ⅰ】を参照、
「長福寺文書」に、
応永六年(1399)七月二十三日付で、備中守護(満之)が山城長福寺領の備中國薗東荘(現吉備郡真備町)の下地を、 寺家荘主に打渡すべことを庄六郎左衛門尉および石川某に宛てて令している奉行薬師寺永可の奉書 があり、その端裏書に「応永六年守護代方へ遣わされる状なり」とあって、

当時守護細川満之のもとで、庄、石川の両氏が守護代として備中國に在地していたことがうかがえる。
1404 応永十一 同上 応永十一年(一四〇四年)に南禅寺の雑掌から
「三成荘は諸役が免ぜられているのに、田え一率に課税する段銭を請求して困る。」と訴えが幕府へ出された。
将軍足利義持は管令畠山基国に命じて備中守護満之に、
「守護に課する段銭は事実あってはならぬ責任を持ってやめよ。」と通知した。
この守護段銭を請求しているのは守護代庄氏であると考えられる。
(南禅寺文書)
「守護段銭は幕府が朝廷や幕府の重要なる国家的行事のさい、その費用として臨時に守護を通じて国ごとに徴収していたが、 後に守護が権限を利用して、みずからの必要で私的に徴収するようになった。」
1404 応永十一 同上 応永十一年(一四〇四年)に南禅寺の雑掌から
「三成荘は諸役が免ぜられているのに、田え一率に課税する段銭を請求して困る。」と訴えが幕府へ出された。
将軍足利義持は管令畠山基国に命じて備中守護満之に、
「守護に課する段銭は事実あってはならぬ責任を持ってやめよ。」と通知した。
この守護段銭を請求しているのは守護代庄氏であると考えられる。 (南禅寺文書)
「守護段銭は幕府が朝廷や幕府の重要なる国家的行事のさい、その費用として臨時に守護を通じて国ごとに徴収していたが、 後に守護が権限を利用して、みずからの必要で私 的に徴収するようになった。」
1410 応永十七 応永十七年(一四一〇年)に三成荘では外宮・役夫・工米を催促されたが、幕府から備中守護細川頼重に通知して、停止させている。
1412 応永十九 莊駿河守 洞松寺の再興。庄駿河守が外護者。矢掛P211
1414 応永二十一 応永二十一年(一四一四年)に管領細川満元は備中守護細川頼重に「三成荘の諸公事・段銭・人夫などの臨時課税は免除されているので守護使は 干渉してはならない。」との施行状が出ている。これによると守護使という名義のもとで庄氏らが荘園に入り、思うままに臨時課役など課しても挑発していたようである。
1419 応永二十六 莊甲斐入道 応永二十六年(一四一九年)に備中守護細川治部少輔は守護代庄甲斐入道・高橋駿河入道「三成荘の公文・田所両職ならびに休耕寺等三成荘の収益 になるものは全部寺家雑掌に与えよ。」と命じている。
1423 応永三十 莊永充・莊沙彌 岡山県古文書 第Ⅱ輯  吉備津神社文書 ページ160
莊 永充 石河満経連署請文応永卅年四月八日
吉備津宮代官 備中守護 請文 両守護代請文応永卅年四月二十八日
請申 御家御領備中國吉備津宮御年貢
石河左衛門尉満充
庄 沙彌永充
吉備津宮正殿御上葦棟礼寫
社務代 庄 沙彌永充
石河左衛門尉満充
1425 応永三十二 莊甲斐入道道充 「吉備津神社文書」の中に1425年(応永三十二年)12月29日に行われた吉備津宮の正殿御遷宮の次第を記した記録があり、これは現在の吉備津宮本殿が    竣工した時の遷宮の記録である。
社務細川冶部少輔兼守護 守護頼重
社務代庄甲斐入道道充(庄甲斐守藤原道充)、石川豊前入道道寿両代官兼守護代。
1439 永享十一 氏貞 猿掛城主、小冶郎、庄掃部介、母三村源太左衛門尉親氏女猿掛彼城主、庄小治郎掃部介と称した。永享十一年(一四三九)関東合戦、足利左馬頭、 関東管領足利持氏が幕府に叛いた永享の乱の時、氏貞は持氏に従い持氏が誅せられたとき氏貞も討死した。 守護代は庄出雲守と石川備前守 1448年 知行目録
1458 長禄二 氏敬
北房町史 通史編 上 P447
庄氏系譜によると、庄駿河守ともよばれている。元資の父である。
慧稠(元資) 猿掛城主、庄小治郎左馬允と称した。宝徳元年(一四四九)足利義政が左大臣に任ぜられ参内する時、 これに供奉した。長禄二年(一四五八年)所持した三種の神器のうち、勾玉が、朝廷に納められた時、勝元の命によってこれを供奉したが、その恩賞さして、
吉光の刀一振り』を賜った。駿河守とも呼ばれている。
氏敬の母石川源左衛門尉久忠女とあることは資昭の母小見山治郎行忠女で小見山一族との婚姻関係の最後になっていることは考える意味があろう。 庄氏は国侍の小見山一族とはなれ、守護代として同じ地位にある石川氏一族との関係を深めたということになる。石川一族は応永三十二年(1425年)の備中吉備津宮正殿御上葺棟札に社務代石川豊前守沙彌道充、請申備中国吉備津宮社務代職事の宝徳二年(1450年)に石川掃部助久経、 享祿三年(1530年)八月二十七日一童神社建立棟札に石川備中守源通経進藤宮満丸藤原、正長元年(1428年)備中国惣社宮御造営帳、石川源左衛門尉、同永享元年(1429年)十二月同守護代石川源左衛門尉とあり、更に永禄十年(1567年)明禅寺合戦では石川三郎五郎久智が戦死、その後久式が幸山城を守り、 最後は三村元親の求めにより松山城に入り、天正三年(1575年)五月二十一日城陥落して幸山城下で石川久式は自殺したという。備中の国侍としては最後まで残った一族である。競争関係にある同じような国侍がこのような婚姻関係によって安定した共存関係を続けていく道が開かれたことは注目すべきことである。
洞松寺尼子経久誕生
1464 寛正五 莊右京亮 禅仏寺領のことで、備中細川勝久の奉行元敦から書状が届く。
1470 文明二 元資 応仁の乱 元資は細川黨応援為備後に出陣し、柏村に於いて宮氏と戦う。資長戦死する。
1470 文明二 元資 応仁の乱 元資は細川黨応援為備後に出陣し、柏村に於いて宮氏と戦う。資長戦死する。
1471 文明三 莊藤四朗資長 元資の弟資長は備後国柏村に出陣して討死。
1471 文明三 莊又六> 呰部御年貢の件で山科家と揉(も)める。
1479 文明十一 莊又六 東寺領備中國新見庄のことで名前が見える。
1483 文明十五 莊元資 元資 300騎ばかりで福岡城を攻める。嫡子右衛門四郎 500騎ばかりで打って出る。 この合戦で父元資の忠告にも関わらず打って出て討死。福岡合戦 備中の有力な国衆である備中守護代庄氏一族庄春資らが赤松方の浦上英保(あぼ)氏らの国衆と和して戦線を離れ(「蔭涼軒目録」文明18年2月10日状
1484 文明十六 莊為資 北家の庄右京進則資の孫で、兼資の嫡男である為資が元資の養嗣子(ようしし)となる。
1491 延徳三 莊元資 備中守護細川勝久に反乱して翌年鎮圧される。(元資と細川勝久の合戦)
1500 明応九 植木秀長 庄為資の弟藤資の嫡男下總守秀長が生まれる。藤資は、庄為資の代官として猿掛城から 英賀郡下呰部植木へ移り、其地名をとり植木を氏とした。
1507 永正四 莊為資 「陰徳太平記」巻二、義稙卿御帰洛の際の随従に為資の名が出ている。 尼子経久は大内義興に随遂して上洛。尼子氏の備中侵入 三村氏・毛利氏備中侵入
1517 永正十四 莊元資 西阿智遍照院の禁制を出す。
1519 永正十六 石見・安芸両国で合戦。
1533 天文二 莊為資

 植木秀長
備中松山城 松山城沿革と現在 上合寺 莊氏一族創建の寺院 庄氏一門の配置 庄氏一族の結束城
猿掛城年表
植木城・高釣部城
1553 天文二十二 為資
高資
為資
頂見山合戦(いたみやまかっせん)・猿懸合戦・・・三村氏との合戦
松山城主となる。
二月二十五日歿す。法名を「上合寺殿前備中大守花岩柳江大居士」という。
1558 明善寺合戦
1562 >高資再び松山城城主となった家親の監視の下におかれた。
1566 高資 斎田城、斎田城合戦 斎田合戦の戦場
1570 元亀元年 勝資 1570年 呰部表合戦 丸山城合戦 尼子・庄軍・備南進攻
【1570 年 鴨方城の戦い、1571年 幸山城の戦い 1571年 松山合戦、斎田城春秋の合戦、
1575年 三村氏の没落、 1576年 麦飯山合戦 庄勝資討死】
1598 信資 明国軍の戦いで討死。嗣子がいなかったので弟直清が庄宗家を継ぎ、中井郷の津々で帰農した。