南北朝時代
(南北朝時代  1333~1392 60年間)

小田郡誌(上巻) P 86

吉野時代

足利尊氏の叛  北朝と三成郷  足利直冬  龍山の戦  僧頼宥と直冬黨 山名氏 

足利尊氏の叛

建武中興の大業は、未だその緒につかざりしに、建武二年(一三三五)七月の北条時行の鎌倉攻を動機として、早くも足利尊氏の叛を見るに至れり。 中興の大業の如き變革を喜ばすして、陰に不平を抱くもの諸國に蜂起し、尊氏に應ずる者多し。備前の佐々木三郎左衛門尉信胤、 同田井新左衛門尉信高等は、讃岐にて叛旗を飜せる細川卿律師定禪と通じて、十一月二十六日備中に入り、都窪郡福山城に楯籠る。 備中國の目代等手勢を以て合戦するも、國中の豪族其催促に應ずるもの少くて敗戦しければ、其翌日小坂、河村、荘、眞壁、陶山、成合、那須、 市川以下悉く朝敵に加はり、其啓三千餘騎に及ぶ。備前の官軍等、吉備津官に集りて、朝敵を待つ所に、偶ま浅山條就備後國守護職を命ぜられて下向し來りしかば、 勢を合せて福山城に押し寄せしが、兒島高徳等の勇戰も効なく、敗軍して備前三石城に退きたり。時に備前守護松田十郎盛朝下向し來りしかば、 之と力を合せ和気驛騨に戦ひしが、松田十郎敵に應ぜしにより、官軍打ち破れて熊山故に入りぬ。然るに内藤彌二郎敵に内通して、竊(ひそか)に敵兵を引き入れしかば、 官軍大敗し、高徳等の一族は僅に身を以て山林に隠れたり。此の如くして本郡の豪族等は何れも足利氏の勢力に歸す。   尊氏は鎌倉にて叛旗をあげ、破竹の勢を以て京都に上りしが、延元元年(一三三六)正月京都の戰に零敗し、急遽九州に奔れり。 共途次尊氏は後月郡西江原町那須修理亮政高の中堀城に入り、大雨の爲七日間滞在し。其母興福院を、井原町横手山城主畠山頼重に托して出發せりといふ。 蓋し興福院は頼重の女なるを以てなり。(備中府志)(福山合戰)

而して、官軍の追撃は遲々(ちち)として進まず。山陰は仁木頼章に、山陽は播磨の赤松則村に(くびき)せられて、陰陽両道閉塞し、 海路は足利氏の羽翼(うよく)たる周防の大内、長門の厚東等に塞がれ、細川定禅は讃岐に在りて、播磨の赤松と呼應せり、かくて我が岡山県は実に八方塞の体となりたる為、 備中の庄、真壁、陶山、成合等は、本郡三谷村の東端勢山を切り塞ぎて鳥も通はぬように構へ、庄常陸介道資は福山城を守る。
然る處に児島高徳は密使を新田義貞に送りて相圖を定め、一族を率いて熊山城に入る。三石、船坂の賦軍大いに驚きて熊山を攻めしに、 勝敗決せず徒らに時日を経過せしが、義貞の先鋒江田兵部大輔行義、大井田式部大輔氏経等船坂を破りて、江田兵部大輔は美作に向ひ、 大井田氏経は長驅して備中に入り、四月十九日庄常陸介を遂ひて福山城に據る。

先に九州にはしりたる足利尊氏は、多々良濱の一戦に大勝して、再び勢力を得、弟直義等と大擧東上の途に就きたり。 五月五日備後鞆津に着し、直義の軍は此の地に上陸、同十日同地を出發して陸路を、尊氏は海路を東進し、同十五日直義の先鋒は高梁河に、後衛は本郡三谷村に到着し、 總勢三十萬所々に篝火(かがりび)を焼く。大井田氏經は僅に千五百騎を以て死守の決心をなし、十六日より三日間矢石を飛ばして、大に賊軍(ぞくぐん)を悩ませしが、 衆寡敵すべくもあらず。生き殘りたる將士を率ゐ、前後二十六度の反撃に依りて、巧妙なる退却をなし、即日三石に引き上げたり。此戰は賓に湊川役の前哨戦にして、 湊川役の勝敗はこれによりて決定せりといふべし。此役直義の首實儉せしもの、一千三百五十三級なりしと云へば、一千五百餘騎の官軍は、事實上全滅したるなり。 庄、陶山等を始め備中の諸豪族は、直義の麾下(きか)りしことは勿論なるみたらす、足利軍に従ひて東上し、六月比叡山の戰にも參加せり。庄氏は先に都窪郡高山城に移りしが、之等の功によりて、 再び三谷村猿掛城に歸り、舊萄領を復したるが如し。

以下は清音村誌 P7より記載

文永・弘安の役(一二七四年と一二八一年に起こった元の襲来)後、一時その支配力を強化した鎌倉幕府も、やがて相次ぐ有力武士の離反によって衰え、 一三三三年(元弘三年)に足利尊氏。新田義貞等に攻められて滅ぶと、かわって後醍醐天皇による親政が開始された。しかし、其の親政も長く続かず、 一三三六年(建武三年)には足利尊氏が反旗を翻すに至った。同年正月、天皇方の新田義貞と京都に戦って敗れた尊氏は、長駆九州筑紫へ敗走、途中備前三石城に重臣石橋和義を置いて味方についた備前・備中・美作の武士の総指揮をとらせ、 新田勢の追撃に備えた。このため尊氏を追って備前・美作に討ち入った新田勢は苦戦を強いられ、三石城も落とせぬままこれを包囲したうえ、先鋒大江田氏経の率いる二千の軍勢がようやく備中福山城に進出、足利勢の東上に備えた。 この福山城は勿論当村の東にそびえる福山にあった城であり、東の三石城、西の猿掛城とともに山陽道を抑えるには絶好の場所であった。城の規模や構造は明らかでないが、福山には当時福山寺と呼ばれる寺があったといわれるから、 おそらくその寺を取り込み城郭に構えたものであろう。筑紫で体制を立て直した足利尊氏は同年四月下旬東上を開始、尊氏は海路を進み五月上旬吹上(現倉敷市下津井吹上)に入港した。 弟直義の率いる軍勢は山陽道を東上、同じ頃備中草壁庄(現矢掛町横谷)に集結したが、途中馳せ参じた武士が多く、 『太平記』によるとその総勢三十万騎にものぼったという。そのなかには、庄氏・真壁氏・陶山氏・成合氏・新見氏・多地部氏等、備中の武士もいた。 五月十五日の宵(よい)から行動を起こした足利勢は、その大軍をもって福山の山麓を包囲、まず備前・備中の三千余騎が浅原峠から城に攻め登った。 これに対して大江田氏経は一千余騎を率いて北の尾根から打って出て、直義を討たんとその陣にめがけて多勢の中に破(わ)って入り散々に戦ったが、 ついに五百余騎を討たれ、しかも城が敵勢の手に落ちたのをみて、やむなく残る兵をまとめ、備前三石城を包囲する脇屋義助と合流すべく、三石をめざして落ちていった。 この時、氏経は板倉川(現在の足守川か)から唐皮宿(現岡山市辛川市場)までの間で十余度も敵と戦い、脱出したという。直義は翌日唐皮宿に一日(ついたち)逗留(とうりゅう)して生捕り・討死の頸実検をしたが、 その数は一千三百五十三にものぼったという。この福山合戦で勝利を得た足利勢は摂津湊側(現神戸市)に背水の陣を敷いた新田勢を敗り、かくして入京した尊氏は同年八月光明天皇を擁立、後醍醐天皇は吉野に移って南北両朝の対立が始まったのである。 福山合戦は当村を舞台に起こった史上唯一の合戦といってよいが、この合戦は足利方ノ一歩的な勝利に終わったとはいえ、それは尊氏と義貞のその後の運命を分け、南北両朝の対立を生む契機となった戦いであった。

観応の擾乱(じょうらん) 南北朝時代、室町幕府開創期の足利尊氏とその弟直義が対立して、各々にくみする武将が各地に転戦して、尊氏方が勝利して終結した政争。

建武中興後、武士の中にはその恩賞にあずからなかったことで不満をもっていたものは足利尊氏が挙兵するとこれに共鳴するものが多かった。 六波羅を陥落させながら恩賞にあずんらなかったため居城播磨の白旗城にこもって新田義貞を悩まし、尊氏の弟とともに楠木正成を秦川に破った 赤松則村もその一人であった。彼らに党する中四国の武士は足利氏と京に上がったが宮方に破られ、足利尊氏は九州へ下って態勢をととのえることを 余儀なくされた。途中播の室津(『梅松論』の場合、『太平記』の場合は児島)で評議し追い打ちをかけられないよう三石、小田川の妺山(草壁)の関を 固めさせた。これは平家が壇ノ浦までの敗走の歴史から学んだ知恵であると戦記物の撰者は考えたようである。妺山を固めるためには莊、陶山、成合、 新見、多治部などの武士が加勢した。やがて筑前で態勢をととのえた尊氏は東上をはじめ鞆から二手に分かれ、陸路は草壁莊を通ることになった。

船路ノ勢已ニ備前ノ吹上ニ著ケバ、歩路の勢ハ、備中の草壁ノ莊ニゾ著ニケル、

はこの時の有名な『太平記』の一説である。

京攻めは成功したものの足利尊氏は弟直義との分裂もあって動乱の時代を迎えねばならなかった。以前から勢力があった伯耆の山名氏が南朝、 直冬と結んだために備作は笠岡を除いて、その傘下に置かれたが、明徳三年(一三九二年)の南北朝の和解が成り立つと備中守護職は不安定になってきた。 しかし程なく幕府の最高機関である管領につくことができる資格を持った名門三家の一つ細川氏の庶流の満之が守護となると以後世襲する所となった。

《追記》矢掛P200

中世になると建武三年に後醍醐天皇の親政は不満な足利尊氏らが崩した。尊氏は持明院統の光明天皇を立て、延元三年(一三三八)征夷大将軍となり京都に幕府を開き、 大覚寺統の後醍醐天皇は吉野に遷幸したので京都の朝廷を北朝、吉野の朝廷を南朝といい、一三三六年~一三九二年の間対立が続いた。この間を南北朝時代という。 正平四年・貞和五年(一三四九年)ころ将軍尊氏及び執事高師直と、足利直義・直冬との間に内紛が続き、正平七年・文和元年南朝に帰順した足利直冬と伯耆の守護山名時氏は手を結んで美作一帯と 備前・備中の大半は南朝方となり、小田郡では笠岡の陶山や草壁郷の庄氏らが北朝として奮戦した。 庄駿河守は、直冬方のために猿掛城を追われたとみえて正平十八年(一三六三年)に吉河山城守父子が、そのあとを領した(「吉河家文書」)。備中の大部分が南朝方となったので、 足利幕府は挽回策として細川頼之を山陽道の鎮撫として備中に遣わしたが、細川清氏は南朝方となり、四国の讃岐に渡って、その勢いが盛んであったので、頼之は讃岐に至り、 清氏を攻め正平十七年・貞治元年(一三六三年)七月二十四日に清氏は敗死した。かくて頼之は四国を平定したので、備中に帰り南朝方を順次制圧した。 正平二十四年・応安二年に足利幕臣床上小松秀清は小田郷地頭職に任ぜられて入部し小田・新山・北川を領した。庄氏は細川頼之の力により猿掛城に復帰し、また笠岡の陶山氏はもとのごとくとなって、久しぶりに小田郡の安定を見るに至った。

矢掛P262

足利直冬は尊氏の子であるが、直義が養って猶子とし長門探題として鞆津で中国の成敗をつかどった。尊氏の執事高師直は直義とすきがあってそれを喜ばず、近待の地頭に命じて直冬を討たせたので直冬は九州に走った。 高師泰は石見国三隅城の攻略に従っていたが、摂津播磨間で合戦ありとの急使が来て上洛した。直義党の上杉朝定はその跡を追って鞆津に上陸し正平六年(一三五一)正月十三日龍山(田鶴山)で追いつき、 師泰後陣陶山氏の百余騎と上杉方の先鋒五百余騎との龍山合戦が起こっている。足利直冬も九州で兵を挙げ備中でもこれに応じる豪族が多かったので、尊氏は岩松禅師こと僧頼宥を派遣して鎮撫を命じ、 備中・備後の直冬党を討たしている。頼宥は正平六年(一三五一)十月五後月郡荏原村(現井原市)高越山城の豪族を囲み、庄四郎左衛門のほか尊氏党の援助を受けている。 利直冬は正平七年(一三五二年)南朝に降り、同一六年七月その将山名時氏は伯耆国から美作の八城を陥れ、翌年十一月備前・備中の北党を攻めた。秋庭三郎は山名氏に通じてその将多冶目備中守を松山城に入れ、 年)幕臣床上小松秀清が小田郷地頭職に命じられ、さきに直冬方に追われた庄氏も猿掛城に復帰できたのである。そして応安七年(一三七四年)水内北庄で弘石・森戸両氏の乱暴停止などは守護渋川義行から庄四郎と松田左近将監(金川城主)の両名に依頼されている。

北朝と三成郷

興國元年(北朝暦應三年)(一三四〇)六月二十五日、光厳上皇は特に恩澤(おんたく)(人々をうるおす先人の徳)を賜(たまわ)ひて、南部寺領備中三成郷の官租を免じ給ふ。

(虎關(こせき) 紀 年 録)
 夏六月二十五日上皇特賜恩詔(けん)(のぞく)備中州三成郷之官租
                           (大日本史料第六編)

本郡三成郷が何れの時代に南禪寺となりしか、之を詳にする史料の發見せられざるは遺憾なり。尋(つい)で同五年(北朝康永三年 一三四三年)八月十九日、北朝は南禪寺妙受の請に依り、三成郷を改めて荘となすことを許せり。
     (徴  古  維  抄)

内給藤 銘カキ中納言       左大史右少弁給小槻掲宿禰匡遠二十一 同八月日依請

南禪寺住持沙門妙受誠惶誠恐謹言
特蒙鴻慈(とくもうこうじ)(大きな恵み大いに受け)、(よって)准先例(よって先例により)、

以寺領備中國三成郷、被成下庄號官符(庄號をくだし、官符となす)、(もつぱら)備後代(き)(キ キュウ かめ)(きよう)(たから、有位有官者の佩物(はいぶつ) もっぱらのちのよのたからものとして備え)、 永斷他方狼唳(ろうれい)、全寺用、
彌(いよいよ)奉天長地久(てんちょう)(物事がいつまでも続くことたてまつり)、御願狀
    副 進 一 通              御寄附院宣案
右當寺者、以龜山仙院之皇居.草鵝壬紺殿之佛閣、被(降か)五山最頂之綸言(りんげん)(天子の仰せのごとく)、焉四海康寧之洪基之條、
言上事舊訖(きゅうきつ)、囚茲去歴應三年六月廿五日、添當御代、叉被下重御寄附勅裁之間、寺家彌仰徳政之貫、遥奉祈安全久之處也、然而於當所者、
被載哉郷之名字之間、後代吏務猶可致國衙之強望歟、且割國衙領、被寄附寺社之時、改郷之字被庄號者、古今之通規也、
然早停止院使國使等入部、造内裏造營米以下、大小國役、吉備津宮等役、一圓不輸爲庄園、被成下三成庄號者、
彌保護朝廷於萬歳、誓祈天下於豊稔、仍不耐懇款之至、誠惶誠恐謹言     康永三年(一三四四)七月
  南禪寺領以郷被改庄事
宣旨藤中納言
南禪寺住持沙門妙受中、請特蒙鴻慈、囚准先例、以寺領備中國三成□(郷か)、被成下庄號官符、専備後代龜鏡、永斷他方狼唳、全寺用、彌奉祈長地久 御願事、副解状  仰 依請  右宣旨、早可被下知之状如件
  康永三年八月十九日                 

 右 少   辨 判   
大  夫  史 殿      (大日本史料第六編)
之に依るも郷と庄との區別、殊に荘園が全く法外法權を有したりし事を知るに足るべし。

     足 利 直 冬

足利直冬は尊氏の子なれども、故ありて尊氏之を子視せず、 依りて直義養ひて猶子となし、尊氏に請ひて漸(ようや)く父子の號を許され右兵衛佐に任ぜらる。正平四年(北朝貞和(じょうわ)五年)(一三四九)直義の計らひにより、 長門探題を命ぜられ、備後鞆津に来り中國の成敗を司りしが、賞罰明かにして偏頗(へんぱ)(かたよった不公平)なかりければ、近隣悦服し勢大に張る。 然るに尊氏の執事高師直、事によりて直義と隙あり、之を聞きて喜ばす。近國の地頭等に命じ直冬を討たしむ。命を受けて杉原叉二郎等二百餘騎にて、 急に鞆津に押し寄せければ、直冬寡兵能く防きしも及ばす。舟に乗じて四國に逃れ次で九州に奔る。少貳頼尚之を奉じ漸く勢を得たれば、西國は宮方、武家方、兵衛佐方に分れて相攻爭するに至れり。
石見國の住人三隅兼絹入道信性も直冬の命に従ひ、荘園を掠領し逆威を恣にするとの聞えありければ、正平五年(北朝觀應元年)(一三五〇)六月、 高師直の弟師泰に命じ、諸國の軍勢を従へて石見に行き、三隅征伐に従事せしむ、師泰力をつくして諸城を攻略したるも、 三隅入道のみは能く防ぎて降らず。かくて中國は大略静謐(せいひつ)に帰したれども、九州に於ける直冬の勢力は益々盛にして、心を迦する豪族大半に及びければ、 尊氏人に驚き、師直の勧めにより親ら之を征せんとて、大軍を率ゐて兵庫より播磨を經、十一月十八日備前三石に入り邑久郡行幸村福岡に達したり。
當時、本郡笠岡にも直冬に通する豪族ありしが、佐藤中務亟討ちて之を平ぐ。其氏名及び陶山氏の動静につきて、徴すべき史料の發見せられざるは遺憾の至りといふべし。

備中國笠岡凶徒退治事被聞召訖尤以神妙也向後彌可致忠節之状如件
  觀應元年(一三五〇、正平五年)十二月十八日                        花     押 (緯氏)
     佐 藤 中 務 巫殿                          (相州文書、大日本史料)

是より先、足利直義は尊氏の執事高師直師泰兄弟を殺さんとして成らす。却て師直等に攻められければ、直義は政界より隠退し、 其執事上 杉重能、畠山直宗を遠流するを條件として、事僅に終りたるが、上杉、畠山は遠流の途次、師直の爲に殺されたり。直義は密に大和に逃れ、 舊好の人々を集めて稍勢を得、遂に吉野朝に降りて官軍と合し、尊氏西下の留守を窺ひて京都に攻め上らんとす。京都警固の任に當れる尊氏の子義詮は、 急使を以て備前に滞留せる尊氏に報ぜしかば、尊氏大に驚き、石見に在る高師泰に三隅を引きあげて、急ぎ京都に上るべしと通じ、 十二月二十九日福岡を發し京都に向ふ。直義之を聞き、先づ義詮を攻むべしとて、正平六年(一三五一)正月八幡に至る。時に直義の黨桃井直當も越中より来りて坂本に着きたりければ、 義詮は京都を逃れて西国に落ちしが、途にて父尊氏、高師直等と二萬餘騎を率ゐて上洛するに出會ひ、伴ひて京都に帰り、桃井直當と戦ひて之を敗る。 然るに尊氏の将士の直義に降るもの績出せしかば、尊氏父子、師直等は逃れて西走せり。

     龍 山 の 戰

高師泰は石見に在りて、三隅城の攻略に従ひしが、急使来りて、攝津播磨の間に合戦事已に急なり。早く其國の合戦を措きて馳せ上るべし。 若し中國の者共かかる時に乗じて、道を塞ぐ事のあらんと思ひ、武藏五郎師夏(師直の子)を備後に遣わし、中國の蜂起を鎮めて待ち申すべしと報ぜしかば、師泰大に驚きて石見を出發す。師夏は相圖を違へじとて、備後國芦品郡中島村の石崎に至る。
  将軍は八幡、比叡山の敵に襲はれて、播磨の書寫坂本に落ち下り、師泰は三隅城を攻め兼て引退くと聞えしかば、上杉弾正少弼朝定は、八幡より舟路を經て備後鞆津に上陸す。之を聞きて備後、備中、安藝、周防の兵、 我劣らじと馳せ集り雲霞の如き大軍となりたり。然るに師泰師夏相合して直ちに上洛せりと聞えしかば、上杉朝定取る物も取り敢ず、跡を追て打留めよとて、其勢二千餘騎正月十三日(一三五一年)に打ち立ちて追ひ寄せける。 師泰は夢にも之を知らす、片時も急ぐ道なれば、匹馬に鞭を進めて勢山を打ち越え吉備郡に入りしが、小旗一揆、河津左衛門氏明、高橋中務英光、陶山兄弟等は遥に後陣に殿れて、小田町龍山の此方に在り、 先陣後陣相隔てて勢の多少も見分かねば、逐ひ来りたる上杉の先鋒五百餘騎、陶山の百餘騎に目を懸け、楯を敲(たた)きて閧(かちどき)を作る。龍山の合戦此に於て始まる。
其詳細を記せる太平記に曰く
陶山元来軍の陣に臨む時、假にも人に後を見せぬ者共なれば、閧(かちどき)の聲を合せて、矢一筋射違へる程こそあれ、大勢の中へ懸入って攻めけれども、魚(ぎょ)鱗(りん)鶴(かく)翼(よく)の陣、 旌旗(せいき)電戟(でんげき)の光須臾(しゅゆ)(ほんのしばらくの間、あっという間)に變化して、萬方に相當れば、野草紅に染みて、汗馬の蹄血を蹴立て河水派せかれて、士卒の屍忽(たちま)ち流れを絶つ。 斯(かか)りけれども、前陣は隔つて知らず、後陣にはつづく御方もなし。唯今を限りと戦ひける程に、陶山叉次郎高直、脇の下、内冑(うちかぶと)、吹返しの迦れ、三所突かれて討たれにけり。弟の叉五郎是を見て、 哀れよからんする敵に組んで、刺言へばやと思ふ處に、火縅の鎧に、紅の母衣懸けたる武者一騎、相近に寄ひたり。誰ぞと問へば土屋平三と名乗る。陶山莞爾と笑ひて、敵をば嫌ふまじ、よれ組まんと云ふままに、 引組んで二疋が中へぞどうと落つる。落附く處にて陶山上になりければ、土屋を取って押へて、頸をかかんとするを見て、道口二郎落合って、陶山が上に乗懸る。陶山下なる土屋をば、左の手にて押へ、 上なる道口をかい掴んで、ねぢ頸にせんと振返って見ける處を、道口が郎黨落重って、陶山がひっしきの板を疊上げ、あげさまに三刀刺したりければ、道口土屋は助って、陶山は命を止めたり。陶山が一族郎黨是を見て、 何の為に命を惜むべきとて、長谷與一、原八郎左衛門、小池新兵衛以下の一族若黨共、大勢の中へ破って入り、破っては入り、一足も引かす、皆切死にこそ死にけれ。上杉若干の手者を打せながら、後陣の軍には勝ちにけり。 宮下野守兼信は、始め七十騎にて中の手に有りけるが、後陣の軍に御方打負けぬと聞いて、何の間に落失せけん、唯六騎に成りにけり。兼信四方を屹と見て、よしよし有るにかひなき大臆病の奴原は、足纒(まつわ)ひに成るに、 落失せたるこそ逸物なれ。敵未だ人馬の息を休めぬ先に、いざや懸らんと云ふ儘(まま)に、六騎馬の鼻を雙(なら)べて懸入る。是を見て小旗一揆に、河津高橋五百餘騎、喚(わめ)いて懸りける程に、上杉が大勢後より引立って、 一度も遂に返さず、混引きに引きける間、上杉深手かで負ぶのみにあらす、打たる兵三百餘騎、創を蒙るもの數を知らす。其の道三里が間には、鎧腹巻小手髄富弓矢太刀刀を拾てたる事、足の踏所も無かりけり。云々

  かくて師泰は無事備前に入り、杉坂を切塞ぎし美作勢をも打ち破りて、二月一日播羽の書寫坂本に至りて、尊氏師直等合せり。
直義は石堂頼房をして、尊氏を書寫山に攻めしめ、連に戦ひて之を敗りぬ。直義は叉畠山國清、上杉義依をして頼房を援けしめ、尊氏と御影濱に戦ひて大に之を敗る。尊氏狼狽して松岡城に入り将に自殺せんとす。 會々饗庭(あえば)氏直、國清の營に至りて密に和を議し、師直兄弟を隠退せしむる條件にて、和議成立しかりければ、尊氏は京師に還れり。師直師泰は薙髪(ていはつ)し、僧衣を纏ひて隨ひ行きしが、途中武庫川の附近にて上杉顯能の爲に殺されたり。 かくして直義も往きて尊氏に會し、兄弟の合體いよいよ成りたれども、門閥内患は益々甚だしく、黨與分裂して亦収む可らざるに至れり。

     僧 頼 宥 と 直 冬 黨

足利直冬兵を九州に上ぐるや、備後宮盛重、據畠山丹波守、上杉山田三郎等、心通ずる者多く、 備中にも之に応ずる豪族すくなからざりき。先に佐藤中務丞に討たれし、笠岡の豪族などは其れ一人なり。 ここに於いて足利尊氏は、岩松禅師事僧頼宥を下して備後の鎮無を命ぜり。頼宥来りて深安郡賀茂村勝戸城に居り頻りに直冬を討つ。
時に、後月郡荏原村高越城に據れる豪族あり(氏名不詳)、直冬に黨し四近を攻略し、勢盛なり。庄四郎左衛門急を頼宥に報じて救援を求む。 頼宥は正平六年十月長井貞頼に後事を托して備中に出陣せり。

去十八日進状候定参着候覧相存候、畠山丹波守今日二十一日迄は不寄来候、
就其備中国難儀の由、庄四郎左衛門以下同心申給候間明日可罷越候、
相構当城信敷庄御こらへ候て、可有御待帰国候、細々自備中可申候恐々謹言

正平六年(1351)十月二十二日          僧 頼 宥  花押
 

謹上 長井出羽 守殿(貞頼) 

(萩藩閥閲録)

頼宥の備中に來るや、庄四郎左衛門を初め尊氏黨の豪族と力を併せて、高越山城を圍み十二月に至。 其間十一月十五日、本郡北川村浄瑠璃山の戦いの如きは、最も猛烈なりしものの如し。
きょうきょう‐きんげん【恐恐謹言】 手紙の本文の結びに記して敬意を表わす言葉。おそれながらつつしんで申し上げるの意。 まかり【罷】1 官に任ぜられたりし  て、その地に赴くこと。また、その折の暇乞いの挨拶。→罷り申し・罷り申す。 まかりこす【罷り越す】〔自サ四〕「行く」の謙譲語。まいる。参上する  あいかまえて(あひかまへて)【相構えて】〔副〕(「かまえて」の改まった言い方)1 用心して。心を配って。*宇治拾遺‐五「相構てつとめよ」2 必ず。きっと。*平家‐一「相かまへて念仏おこたり給ふなと」  こまごま【細細】〔副〕1 微細なさま。こなごなであるさま。こまかに。*宇治拾遺‐三・五「湯舟に藁を細細ときりて、一はた入て」2 くわしいさま。ことこまかに。詳細

於備中國荏原高越城自去十月二十九日迄に同十二月二日度々合戦同十五日延福寺山合戦の時致軍忠之條尤神妙殊可従申(注進?)京都之状如件、
正午六年十二月十九日                       僧 頼 宥  花押
三吉少納言御房                           (福山志料)


十二月二日以後、一時休戦状態に入りしが、同二十一日より、再び激戦となり、頼宥援を長井貞頼に求む。

荏原城事既去二十一日取廻萬方合戦最中候處、上杉五郎官平太郎以下為後詰寄来之由風聞候歟(か,や)、
早々御出對候者可宜候哉、但路次難儀之由共聞候之間、無心本候近日布野孫三郎等罷出候間御同道候哉恐々謹言
   正平六年(1351)十二月二十六日               僧 頼 宥  花押
 謹上 長井出羽前                     (萩藩閥閲録)


即ち、直冬黨たる備後の官平太郎、上杉五郎等高越山城應援に来るとの風聞あるにより長井貞頼の来援を請ひだるなり。 而して此戦の結果を知るべき資料を得る能はざるは、遺憾なれども、猿掛城主が地方の豪族たりし事は、左の文言によりて知り得べし。

備中國河邊郷内壹分地頭職言(小山孫三郎跡)事、任去月二十二日御下文之旨、
土師尾張権守相共可被沙汰付雅樂太郎左衛門尉以秀之状、依仰執達如件、
   文和元年十月七日                      沙  彌 判
  庄 駿 河 権 守殿                            (大日本史料)

文和元年は正平七年(一三五二)なり。前記の四郎左衛門と駿河権守とは、恐らくは同一人たるべし。
 足利直冬は、正平七年十一月遂に吉野朝に降りて鎭西を循へ、勢復張りしも、後敗れて中国に歸り、藝備の間に居りて黨を集め、北黨との功爭相續きしが、 正平十六年七月其將山名時氏は、伯耆より美作に出でゝ八城を陥れ、尋で翌年十一月二軍に分れ、備前、備中に向ひ北黨を攻む。秋庭三郎は山名に通じて、 其將多治目備中守等を松山城に入れしかば、備中守護高師秀防ぐべき様もなく、備前徳良城に退きたり。山名軍勝に乗じて兵を出しゝかば、備中一圓其勢に服す。 唯陶山備前一人は、笠岡に在りて屈せす、将軍方として孤立せり。直冬も石見より備後に入り、府中に於て山名軍と合せしが、宮下野人道道山の為に敗られて備後を遁走し、 山名時氏亦北朝に降参せしかば、備中の南車は頗る不振となりたり。されども本郡北部地方に於ては、可なりの勢力を有したり。庄駿河守は直冬黨の為先に猿掛城を逐はれしと見え、 直冬の命によりて、古河山城守父子相尋で其跡を領せり。

一 備中國草壁郷地頭織庄駿河跡事為勲功之賞所充行也早任先例可致沙汰之状如件
       正平十八年十月十四日               花押(直冬)
     吉 川 山 城 守殿
   二 備後國河立庄備中國庄駿河入道之跡、石見國内田肥前守跡等、地頭職事為勲功之賞所充行也、早任先例可致沙汰之状如件
   正平二十一年十二月八日               花押(直冬)
     吉 河 讃岐 守殿

後年嘉吉の亂のとき、赤松満裕は播磨に帰り、城山城に拠りし時、直冬の子にして、當時禪僧となりて後月郡井原町に居りしを、 還俗せしめ、井原御所氏冬と稱し、迎えて書寫坂本に奉じて主となし、さらに京都に攻め上がらんとせり、以て直冬の勢力の、久しく當地方に殘りたるを知るに足らん。
  是より先、山名氏の侵入によりて、備中の大部吉野朝方となりければ、幕府は挽回策として、細川右馬頭頼之を山陽道鎭撫として備中に下せしが、 正平十六年(1361)十月細川相模守清氏吉野朝に降り、翌年正月讃岐に渡りて威を振ひしかば、頼之は備前備中の兵千余騎を率ゐて讃岐に至り、清氏を攻む、 笠岡の陶山三郎、都窪郡の眞壁孫四郎等之に隨(したが)ひ、七月二十四日奮闘して遂に清氏を殺し其首を取る。かくて頼之は敵軍を掃蕩(そうとう)し、四国鎭定せるを以て、 備中に歸り、鋭意鎭撫に力めしかば、北朝の勢力漸次回復したり、正平二十四年(應安二年 1369年)幕臣床上小松秀清は小田鄕地頭職に命ぜられ、 小田町に來りて小田町、新山村、北川村を領す。先に直冬の為に逐(お)はれたる庄氏は、細川頼之の力によりて猿掛城に復歸し、笠岡の陶山氏は舊の如く、かくして久しぶりに本郡の安定を見るに至れり。