御嶽山の頂上から見て、手前の山脈が 木曽駒ヶ岳連峰、その向こうの山脈が 北岳連峰、そのずっと向こう側に見えるのが富士山。

武 蔵 武 士
(『(久米良作氏より依頼された)武蔵武士 笹川臨風著』 より転記)

第 六  史乗に現はれたる兒玉黨の人々

長家及宗家は七黨系圖に依ると、次の如である。

家行・→家弘兒玉庄大夫・・→↓→弘高庄権守・・→家長庄太郎 ・→↓→頼家(小太郎)
・→家次(本庄二郎左衛門尉) ・→家次(新左衛門尉)
・→定經
・→時家(本庄二郎左衛門尉)
・→時長(四郎左衛門尉)
・→忠家庄三郎河内・→弘長四方田庄三郎
・→高家庄四郎従五位下刑部丞・→↓→定重蛭河太郎(兒玉系圖ニハ家重)
・→家行三郎(兒玉系圖ニハ行宗)
・→家國四郎左衛門尉左衛門尉武州來口河チ領)(兒玉系圖ニハ來口四郎・→ 時國と太郎左衛門尉久米太郎右衛門尉)(兒玉系圖ニハ・→經家四郎左衛門尉 久米四郎左衛門尉)(兒玉系圖ニハ・・→長家肥前守左衛門尉従五下左衛門、任肥前守)(兒玉系圖ニハ久米四郎
・・→ 宗家(兒玉系圖ニハ久米四郎左衛門尉)

莊氏が官軍に屬して、新田貞義の嫡子義顯、楠木正成等と同列に武者所に勤務してゐたのを見えても、 其羽振りの善かったことが思ひやられる。しかし建武延元の際すらも児玉黨の族人で足利氏方であったのも決して無かったのではない。 九州の児玉黨なる小代氏が足利方に與して宮方を攻撃してゐたことは前に屢々小代光信申狀を引いたが猶延元年八月十八日には肥後唐河に戰ひ、

小代光信申狀

八月十八日、當國唐河合戰之時、屬于合河蔵人大夫殿御手合戰、抽軍忠畢、

小代光信申狀

八月三十日、於筑後國福原六段河原、屬于合志太郎手、捨身命、致散々合戰 自身令生取一人分捕一人畢。

關東にては四方田氏の如きも足利方であったことは、延元元年(一三三六年)九月五日、尊氏より感狀を得たものにても知られる。

古證文

今年正月晦日、桂川合戰事、父太郎左衛門殿先懸討死候間、軍忠之到所感思也、於恩賞者、追可其沙汰之狀如件、
 建武三年九月五日
四方田太郎左衛門殿

延元二年(一三三七年一九九七年)八月、北畠顯家は西上の途、鎌倉を攻めて足利基氏を走らし、翌年正月八日、鎌倉を發して西に向ひ、關東の諸將之を追うたが、 武藏七黨の或もののその中にゐたことは、前章に引いた太平記中の文章に依りても知られる。顯家は美濃の青野原に戰ひて利あらず、轉じて伊勢路より吉野に入らんとし、大和河内に戰ひて五月二十二日 遂に和泉の石津に戰死した。顯家を打止めたるは武藏國の住人越生四郎左衛門尉と云ふ児玉黨の族人であった。同年閏七月二日、新田義貞も越前の足羽に陣歿して南風復競はずあった。延元四年八月十六日には、 後醍醐天皇吉野の行宮に崩じ給ひ、後村上天皇位に卽きて、鋭意恢復を圖り給ひ、諸國の宮方は大に振った。北國は義貞の死後殆んど足利勢の席巻する處となったてが、義貞の部下にさるものありと 知られたる畑六郎左衛門時能は鷹巣城に據りて、北陸道七箇國の敵勢を悩ましてゐた。

太平記に

「卅餘箇所の向城の兵七千人、取物も取敢ず、岩根に傳ひ、木の根に取付て、差も嶮き鷹巣城の阪、十八町を一息に責上り、切岸の下にぞ着たりける、されば城には鳴を靜て、事の様を見よ 迚閑り却て有けるが、己に鹿垣程近く成けるとき、畑六郎・所太夫坊快舜・惡八郎・鶴澤源蔵人・長尾新左衛門・兒玉五郎左衛門、五人の者共、想々の物具に太刀長刀の鋒を揃へ、聲々に名乘て喚で切てぞ出たりける」

とあるが、

この兒玉五郎左衛門は言ふ迄もなく児玉黨りひとであった。宮方と足利勢との間にはお互い勝敗があったが、 正平三年(一三四八年ニ〇〇八年)正月、 四條なわての戰に楠木正行戰死して足利勢が大に振ひ、南帝は吉野を出でて、賀名生に入り給ひ、吉野は足利勢が焼く所となった。 しかるに南朝の君臣が千難萬苦の間に一致共同して、社稷しゃしょくの恢復に力めたりしと事かはりて、 北朝には、内訌が多かった。尊氏直義兄弟の間に不和が起こり、正平六年十一月、尊氏は偽りて南朝に降り、兵を率ゐて直義を討たうとした。 直義は是を駿河の薩埵山に逆へ撃ちて、大いに敗れた。児玉黨が直義に與して薩埵山に戰ったことは 六八頁に詳にしてある。此戰に大類弾正・富田以下児玉黨十七人の宗徒が戰死したとあるが、弾正は児玉經行の後なる大類五郎左衛門尉行義の曾孫行光のことであり、 富田は鎌倉將軍の面前にて鹿角を折りて、其力量を現した富田三郎家親の子、太郎近重、近重の子、小太郎近行、近行の子又太郎親氏のことである。
翌正平七年の春、新田義貞の二子義興・三子義宗・義貞の弟脇屋義助の嫡子義治等が兵を上野に擧げた時に、児玉黨が躍然として是に參加して、小手指原に奮戰した事は、是れ亦前章に述べて置いた。(七十一頁)
  後村上天皇は、或は山城の八幡に風輦ほうれん(輦=天子の乘る手引き車)を進め給ひ、或は河内の観心寺・金剛寺等に幸し、 或は攝津の住吉にさきばらい(天子が行幸するときに、その道の通行 人をおさえて封じこめる。また、そのこと)とどめ給ひて、宮方を鼓舞なされたが、天日廻り來らずして一時京都を恢復されたるも是を占有する事が出來なかった。 南北朝分立してから五十七年にして、南朝の後龜山天皇は元中元年(一三九二年ニ〇五二年)閏十月、神器を北朝の後小松天皇に譲り給ひて、南北兩朝は合一した。
  足利尊氏は規模遠大にして度量廣く、又重祿厚賞を與えてく士心を得た。是が爲に天下を其掌中に握る事を得たが、 領土の濫與は下尅上の風を開き、遂に尾大掉びだいふるはざるの勢を成した。鎌倉の管領は尊氏の次子基氏を以て是に任じたが、 將軍と管領との間には絶えざる紛爭を生じ、管領と執事との間にも不和を起した。南北朝分立の際に児玉黨の大部分は新田氏に屬して居り、 又足利勢に味方した者も尠からずあったが、将軍家と管領家との爭いが起こってからは時によりて其向背は定まらなかった。 應永二十三年(一四一五年)上杉禪秀の亂に児玉黨の一部分が禪秀に應じたる事も前章に見えてゐ。(七八頁)