御嶽山の頂上から見て、手前の山脈が 木曽駒ヶ岳連峰、その向こうの山脈が 北岳連峰、そのずっと向こう側に見えるのが富士山。

武 蔵 武 士(『(久米良作氏より依頼された)武蔵武士 笹川臨風著』 より転記)

児 玉 黨《以下笹川臨風氏著》

第 六  史乗に現はれたる兒玉黨の人々

備前國住人兒嶋三郎高徳が許より早馬を立て告申けるは、去月二十六日、當國住人佐々木左三郎衛門尉信胤・同田井新左衛門信高等、 細川卿律師定禪が語らいを得て備中国に打越、福山の城に楯籠る間、彼國の目代先手勢計を以て合戰を致すといへども國中の勢催促に従はず、 無勢なるに依て引退く刻、敵勝に乘りし間、目代が勢数人討死し畢、其翌日に小坂・河村・莊・眞壁・陶山・成合・那須・市川以下、 悉く朝敵に馳加はる間、程なく其勢三千餘騎に及べり。(太平記)。

建武二年二月五日、義貞の軍は手越河原に足利勢を破りて伊豆の國府に着し、 進んで箱根に逼った。同十日の夜、竹の下道夜をこめて、天の明るを待つほどに、辰の一天に一宮・新田・脇屋を大將として、 戀せばや契らじと詠ぜし足柄の明神の南なる野にひかえてゐた(梅松論)。十二日竹の下 に戰つて、義貞大に破れ、 つづいて佐野山・伊豆の國府に敗れ、京軍這々の體にて京都を指して引返した。尊氏勝に乘じ、追て西上し、建武三年正月十日 天皇、三種の神器を奉じて比叡に幸し、尊氏は京都に入る。此月八日、九州の児玉黨は足利氏に黨して宮方の菊池武敏を攻めて、其居城を陥落せしめた。

小代光信申狀

正月八日、屬于宰府討手堀三郎入道殿、押寄菊池山城大手、令落武敏以下凶徒畢、仍一見分明也。

奥州の北畠顯家は長驅して正月十三日、江州の東坂本に着し、義貞とともに尊氏を攻め、尊氏破て九州に奔竄ほんざんし、 天皇、叡山より還幸ありしも、それも久しからず、尊氏九州を席巻して、 西海の風雲は唯ならずあった。児玉黨の小代は尊氏の爲に肥後八代黒島城、鳥栖原等に奮戰した。

小代光信申狀

三月二十五日屬于大將軍一色殿御手、可向同國八代黒島城一地之由、預御教書之間、
同二十五日向彼城落凶徒等事。

四月十七日、同國鳥栖原合戰之時、捨身命散々合戰之間、親類彦次郎宗成被疵(右胸板のはづれ射疵)、
同若黨左近次郎被疵(左膝口射疵)、仍勘文分明之上、同時合戰之仁絶間三郎幷當國築地七郎入道等令 見知畢、有御尋其隠

尊氏は四月三日を以て大宰府を發し、五月五日備後の鞆に着し、同十日尊氏は海路より、弟直義は陸路より兵庫に向った。義貞時に播磨の白旗城に赤松圓心を圍でゐたが、 報を得て退いて兵庫を保ち、楠木正成とともに之を禦ぐ。同二十五日兵庫に合戰あり、正成陣歿して、義貞は京都に退く。天皇復叡山に幸し、足利勢は洛中に充滿する。 六月五日より足利勢は屢々叡山 を攻めて利あらず。京中無勢なりと聞いて、叡山の官軍は大擧して押寄せる。新田義貞名和長年は二手に分れて、足利勢の據れる東寺に向った。しかも官軍利を失ひて、長年は戰死し、又山門に退去するの已むなきに至った。 當時武藏の児玉黨は官軍に屬して奮闘したのであった。

一方の寄手の破れけるをも知らず、相圖の刻限よく成りぬとて、追手の大將新田義貞・脇屋義助二萬餘騎を率ゐて、今路西坂本より下りて、手に分かれて押寄する。一手は義貞・義助・江田・大館・ 千葉・宇都宮其勢一萬餘騎、大中黒・月の星・左巴・右巴・丹兒玉の團扇の旗、三十餘流連りて、ただす(地名)を西へ打通り、大宮を下に押寄らる。一手には、伯耆守長年・仁科・高梨・土居・ 得能・春日部以下の國々の勢集って五千餘騎、大將義貞の旗を守りて鶴翼魚麟の陣をなし、猪熊を下に押寄する。一手は二條の大納言と洞院左衛門督兩大將にて五千餘騎、牡丹の旗、扇の旗、只二流差上げて敵に跡を切られじと 四條を東へ引渡して先へはゆうと進れず。兼ねてより阿彌院が峯へ陣を取たりし阿波・淡路の勢千餘騎 は未だ京中へは入らず、泉湧寺の前・今熊野邊迄下り降って、相圖の煙を上げたれば、長坂に陣を取りたる額田が勢八百餘騎、 嵯峨・仁和寺の邊に打散り所々に火を懸けたり。京方は大勢なれ共人疲れ馬疲れ、しかも今朝の軍に矢種は皆射盡したり。寄手は小勢なれ共さしも名將の義貞、先日度々の軍に打負けて、此度會稽かいけいの恥をそそがんと、 牙を咀み、名を恥づと聞きぬれば、御治世兩統の聖運も、新田足利多年のいきどうりも、只今日の軍に定りぬと、気をつめぬ人は無かりけり。(中略)
義貞、今日を限りの運命なりと、思ひ定め給ひけれぱ、二萬餘騎を一手に成して、八條九條に扣へたる敵十萬餘騎、四角八方へ懸け散らし、三條河原へ颯と引いて出でたれば、千葉・宇都宮も、早所々に引別れ、名和伯耆守長年も、 懸け阻てられぬと見へたり。仁科・高梨・春日部・丹・児玉三千餘騎、一手に成りて、一條を東に引きけるが、三百餘騎討たれて、鷺森へかけ抜けたり。長年は二百餘騎にて、大宮にて返し合せ、我と後の關をさして、一人の殘らず死してけり。 其後所々の軍に勝誇ったる敵三十萬騎纔に打殘されたる義貞の勢を、眞中に取籠むる。義貞も思い切ったる體にて、一引も引かんとはし給はず、馬を皆西首に立てて、討死せんと給ひける處に、主上の恩賜の御衣を切って、笠印に附けたる兵共、 所々より馳集り、二千餘騎戰疲れたる大敵を驅立々やわらげうだりけるに、雲霞の如くなる敵共、馬の足を立兼ねて、京中へぱっと引きけるば、義貞・義助・江田・大館萬死を出でて一生にあひ、又坂本へ引返さる。

十月十日、天皇は假りに尊氏の講和を容れ給ひて、京都に還幸あり、義貞は皇太子わ奉じて北國に赴きて恢復を謀り、十二月二十一日、天皇は潜に花山院の御所を出でて、吉野に入り給ひ、南北朝はここに分立することとなった。

是より先、建武元年八月、雑訴決断所の所員を増して八番となし、五畿七道を分掌せしめられた。其第二番東海道の中には莊左衛門尉長家の名がある。(八九頁を參看)
雑訴決断所結播交名
 二番東海道(伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武藏・安房・上總・下總・常陸)
一日、(庭中)、二日、三日、十二日、十六日、廿二日、廿三日。(越訴隔月)  
久我前右大臣長通公  洞院衛門督實世卿  右大辨宰相請忠卿〇坊門  左中辨明朝臣〇中御門 
定親蔵人民部大輔〇藤原   冬直宿禰官長者四位大夫〇小槻  師 利弼大外記奉行〇中原   章   世四條坊門大夫判官  
道 昭是圓坊  時  知常陸前司奉行〇小田  道   勲上杉兵庫入道  信  宗町野加賀前司    
藤原長家莊左衛門尉  道  乘布施彦三郎入道     

延元元年(建武三年)四月、武者所結番が定められたときは、四番に莊四郎左衛門尉宗家の名が見てゐ。(八十九頁を參看)
武者結番事、  
一番子午           
義  顯新田越後守  貞  政新田大藏大輔  昌  能熱田攝津守  貞  泰長井因幡守  時  長南部甲斐守  直  世大友式部大夫 
大江貞匡長井掃部助  藤原秀行長沼判官  藤原政秀小田五郎左衛門尉   橘 政景楠木帶刀   平 長泰三浦朝三郎   
二番丑未           
貞  義新田左馬權頭   泰  藤宇都宮右馬權頭  頼  清小笠原周防權守  盛  宗仁科左近大夫  義  繁高梨左近大夫  親  藤讃岐國守 
平 時續三浦安藝二郎左衛門尉  平 頼平小早川民部丞  平 氏時三浦源兵衛尉       
三番寅申           
行  義新田民部小輔   頼  秀長井前治部小輔  胤  重千葉上總介  貞  長狩野介   義  高伯耆大夫判官  國  行土岐三河權守 
光  顯豊後權守  明  光狩野遠江權守  宗  光瀧瀬下野權守  藤原行持和泉民部丞  三善信榮町野加賀三郎   
四番卯酉     
廣  秀長井大膳大夫   高  廣長井周防右近大夫將監   信  連富部大舎人頭  遠  宣安達安藝前司   信  顯町野式部大夫  貞  佐島津修埋亮  
秀  信小川下総權守  景  直梶原尾張權守  源 重光山田蔵人  藤原高實廣澤安藝弾正左衛門尉   藤原宗家莊四郎左衛門尉   
五番辰戌          
義  治新田式部大夫 政  成河内大夫判官  光  貞隼人正  時  總駿河權守  成  藤三河守  貞  茂中條因幡左近將監 
藤原廣譽沼漬左衛門蔵人  橘 正遠  源 知方高田六郎左衛門尉>   源 光漬布志那二郎  平 貞宗熊谷二郎兵衛尉    
六番巳亥           
信  貞武田大膳大夫  長  年伯耆守  知  行河内左近大夫  貞  祐宇佐美攝津前司  資  時武藏備中權守  家  致大見能登守 
廣  榮金持大和權守  俊  資山田肥後權守  紀 重行春日部瀧口左衛門尉  源 忠秀本間孫四郎左衛門尉      

右番守次第、一夜日無懈怠勤仕之狀如

延元元年四月  日