武 蔵 武 士
(『(久米良作氏より依頼された)武蔵武士 笹川臨風著』 より転記)


児 玉 黨《以下笹川臨風氏著》

第 七  史乗に現はれたる兒玉黨の人々(下)

元弘元年(一三三一年一九九一年)後醍醐天皇囘天かいてん(時勢を一変すること。 衰えた勢いを盛り返すこと。)の壯擧を企てて、笠置に據り給ふや、鎌倉方の寄手の中に武藏七黨の二三があったことは、既に前章で述べてゐるが、 太平記にあるが如く、單に横山・猪俣黨ばかりではあるまい、児玉黨も亦恐らくは其遣軍けんぐん中にあったろうと思はれる。 陶山・小見山等が間道よりの夜襲は功を奏して、さしも天險の地と聞えた笠岡も落城し、頼む木陰に雨漏りて、 帝は楚因そしゅう(〈故事〉とらわれた楚ソの人。 楚の鍾儀ショウギが晋シンにとらわれてもなお母国の冠をつけて母国を忘れなかった故事。)御身となり、承久の故智にこう(ならう )ひたる北條氏の爲に、 迢々ちょうちよう(はるかに遠いさま。うらみなどがいつまでも絶えないさま。)一路遙に、 山を越え水を渡らさせ給ひて、隠岐の孤島に、新島守のはかなきやるせなき御境遇に沈ませられた。 しかし天日(太陽。天子のこと)は永く□淵に落ちずして、元弘三年閏二月、帝は玉體を一葉の扁舟((薄っぺらで小さい。「一葉扁舟イチヨウノヘンシュウ」)に託して、隱岐をのがれ、 伯耆に上陸して、其地の豪族名和長年に寄せ、給ひ、長年は船上山に奉じて義兵を擧げた。是より先、楠木正成は河内の赤坂に城いて笠置と呼應して 勤王の義旗ぎぎ(正義のための戦争にあげる旗。)ひるがへし、 笠置おりたるおちいりたるも、更に金剛山の千早城に據りて、 雲霞うんかと集う東國勢を物ともせず、吉野に御座ある議長親王と相應じて 狂瀾きょうらん既倒きとう(すでに倒れたこと。)に囘らさんことを力めた。 赤坂・吉野陥りて、東兵は盡く千早に蟻集したが、正成の奇計は善く之を防いで、 屢々しばしばたん(きも。ずっしりとした勇気や決断力。きもったま。)を寒からしめた。 是に於て諸方に勤王の師を擧ぐる者多く伊豫には土居・得能氏あり、播磨には護良親王の令旨を得て、赤松氏の義故を糾合するあり、 帝の船上山に據りふに及び、處に親王に呼號するものが多かった。是歳三月、帝、千種忠顯に命じて京都を囘復せしめんとし給ひ、 四月四日忠顯は六波羅勢と戰って大に敗れた。此時六波羅勢の中に児玉黨人がゐたのである。

寄手の大將は誰と問ふに、先帝第六の若宮、副將軍頭中將千種忠顯の朝臣と聞えければ、扨は軍の成敗心憎からず、 源は同じ流れなりと雖ども、江南の橘は江北に移されてからたちとなる習なり、弓馬の道を守る武家の輩と、 風月の才を事とする朝廷の臣と戰を決せんに、武家勝たずと云ふことあるべからずと、各々勇み進んで、七千餘騎大宮面に打寄せて、 寄手遅しとぞ待ちかけたる。さるほどに忠顯朝臣、神祇官の前に控へて、勢いを分けて、上は大舎人より、下は七條まで、小路毎に、 千餘騎づつ差し向けて、責めさせらる。武士は、要害をこしらへて、射手を面に立て、馬武者を後に置きたれば、 敵のいいたむ所を見て、懸出かけだし々追立ける。官軍は二重三重に新手をたてたれば、 一陣引けば、ニ陣入替り、ニ陣打ち負くれば、三陣入替って、人馬に息をつがせ、煙塵天を掠めて責戰ふ。官軍も武士も緒共に、義に山って命を輕じ、 名を惜しみて爭ひしかば、御方を助けて進むあれども、敵に遇うて退くなかりけり、 斯くてはいつ勝負あるべしとも、見えざりける所に、但馬・丹波の勢共の中より、かねて京中より忍んで人を入れ置きたりける間、 ここかしこに火をかけたる、折節辻風おりふしつむじかぜ烈しく吹いて、猛煙後に立覆ひければ 、一陣に支えたる武士共、大宮面を引退いて、直京中に控へたり。六波羅是を聞いて、弱からん方へ向けんと手て、 用意に殘し留めたる佐々木判官時信・隅田・高橋・南部・下山・河野・陶山・富樫・小早川等に五千騎を差そへて、 一條二條の口へ向けられる。此新手に懸け合わせて、但馬の守護太田三郎左衛門尉討れにけり。丹波國の住人、 薬師寺の八郎・中吉十郎・丹兒玉が勢共七百餘騎支えて戰ひけるが、二條の手破られぬとみへければ、萩野足立の緒共に、御方の負けしと引廻す。 金持三郎は七百餘騎をに七條東洞院迄責入れたりけるが、深手を負うて引兼ねけるを、播磨の國住人肥塚が一族三百餘騎が中に取籠めて、 出し抜いて生捕てけり。丹波國神池の衆徒は、八十餘騎にて五條西洞院迄責入、御方引くをも知らで戰ひけるを、 備中国の住人、莊の三郎・真壁四郎三百餘騎にて取籠め、一人も餘さず打ってけり.(太平記)

此備中国の住人莊の三郎なるものは、児玉黨の族人である。

六波羅の急使は櫛の歯を引くが如く、鎌倉に到着したので、北條高時は、名越尾張守高家及足利尊氏に命じて船上山に向かって進發せしめたが、 四月二十七日、久我繩手の合戰に名越高家は敗死し、尊氏は桂川のほとりに傍観して、終日置酒高會し、 丹波路を西へ篠村に向ひ、五月七日、篠村八幡祠前に義旗を擧げ、緒手の官軍と倶に六波羅を攻めた。六波羅勢は敗北し、 南方の北條時益は路に流矢に中りて死し、北方の北條仲時以下は五月九日江州番場の宿に自殺した。當時之に殉じたる 四百三十二人の討死若しくは自殺した者の中に鹽谷彌次郎・莊左衛門尉四郎の名が見えてゐる。但し、近江國馬場宿蓮華寺過去帳には、

「敬白陸六波羅南北過去帳事、元弘三稔(癸酉)五月七日、依京都合戰破、當君南院關東御下向之間、 同九日於近江國馬場宿米山龍一向堂前、合戰討死自害交名、荒々注文事」とありて、

仲時以下の連名及享年を記してゐるが、その中に鹽谷三郎家弘(四十二歳)・莊左衛門四郎俊充とある。但し七黨系圖及兒玉系圖には此等の人の名が見えぬ。
 新田義貞も亦義兵を上野に擧げ、五月十五日、武藏の分陪河原に鎌倉勢と戰ひて大いに之を破った。武藏の七黨が多く義貞に従ひて此役に戰ったことは、 前章に記しある。義貞勝に乘じて鎌倉に逼り、同月十八日稲村ヶ先を經て在々所々に火を放つ。鎌倉中の騒ぎは手足を置く 所なく、ひとえにかなえの沸くが如くであった。(【鼎沸】テイフツ かなえの湯が沸騰する。群衆などが騒ぎたつことのたとえ。また、天下の乱れることのたとえ。)、 二十二日、高時以下自殺鎌倉は滅亡したが長崎次郎高重は最後の勇者として此を先途と目覺しい働きをした。其の日、高重は相模入道高時に今生の名残と暇乞して葛西ヶ谷の東勝寺を打立った。

長崎次郎、鎧をば脱ぎ捨て、筋のとばり(室内や寝所・帳台・厨子・高御座(たかみくら)、また、外部との境などに垂らして、 区切りや隔てとしたり、光をさえぎったりなどするための布。壁代(かべしろ)、几帳(きちょう)、のれんなど。)の、 月日推たるに、精好の大口(大口袴裾の口が広い袴をいう。)の上に、赤絲(撚糸)の腹巻を着て、小手をばささず、 兎鶏とけい(うさぎのようにあと足がよくきき、鶏のように先頭にたってすばやく走る様)と云ひける坂東一の名馬に、 金具の鞍置、小總のしりがり(牛や馬の尾にかけて、ぐっと引き締めるかわひも。)懸けてぞ乘ったりける。 是を最後と定めければ、先崇壽寺の長老、南山和尚に參じて、案内申しければ、長老威儀を具して出合給へり。方々のいくさ急にして、甲冑を帯したりければ、 高重は庭に立ながら、左右にゆう(中国古代からある敬礼の一つ。左右の手を胸の前で組み合わせて、これを上下・前後に動かしてする礼。)して問て曰、
如何なるか是勇士恁麼いんも((中国の口語から。助詞「の」を伴って連体詞のように用いることが多い) どのよう。このよう。*太平記‐一〇「如何(いかなる)是勇士恁(インモ)の事(じ)」補注 日本には禅宗とともに渡来。疑問、指示、不定の代名詞のように用いられ、場合によってさまざまの意を表わす)
和尚答えて曰、
吹毛すいもう(わけもないこと。(毛を吹いて隠れた疵を探す意から)無理に欠点をさがすこと。また、他人の弱点をあばいて、かえって自分の欠点をさらけだすこと。)急に用て前には如じ。 高重此一句を聞て問訊もんじん(といたずねる、僧が合掌して口で安否を問いながらする礼) 門前より馬引寄打乘て、百五十騎の兵を前後に相随へ、 笠符かさふかなぐり捨、 閑に馬を歩せて敵陣に紛れ入、其志しひとえに義貞に相近付ば、うって勝負を決せん爲なり。 高重旗をも差ず、打物うちもの(刀剣)の室(さや、鞘)をはづしたる者なければ、源氏の兵、敵兵知らざるけにゃ。をめをめと中を開て通しければ、高重義貞に近付事、僅に半町計なり。すはやと見ける處に、源氏の運や強かりけん。

義貞の真ん前に控えたる山良新左衛門是を見知て、只今旗をも差ず、相近付勢は、長崎次郎と見るぞ、 さる勇士なれば定て思處候てぞ、是迄は來るらん、餘すな漏すなと、大音揚て呼ばはりければ、前陣に控たる、 武藏七党三千餘騎、東西より引かこんで、眞中に是を取籠、われもわれも討んとす。高重は支度相違しぬと思ければ、 百五十騎兵を、ひしひしとし一所へ寄て、同音に時をどっと揚、三千餘騎の者共を 懸拔懸入けんばつけんにゅう交り合、彼に顯れ此に隱れ、火を散らしてぞ戰ける。 聚散離合しゅうさんりごうの有様は、須叟しゅゆ(しばらくの間)に變化して、 前に有かとすれば忽焉こつえん(とつぜん)として後にあり、御方かと思えばきっとして敵なり。 十方に分身して萬卒(多くの兵士)に同じく相當ければ、義貞の兵高重が在所を見定ず、多くは同士打をぞしたりける。長濱六郎此を見て、云甲斐なき人々の同士討哉、皆笠苻を付ずと見へつるぞ、中に紛れば、 それをしるしにして組んで討とて知しければ、甲斐・信濃・武藏・相模の兵共、押並てはむずと組、組で落ては首を取るのあり、取らるるものあり。 茶塵天をかすめ汗血かんけつ地を糢糊もこ (物事の状態がぼんやりしてあいまいなさま。ぼんやりとしてはっきり見えないさま。) す、其在様、
項王が漢の三將をなびかかし、魯陽が日を三舎(中国で古代、軍隊の三日間の行程。一日一舎を行軍するとされ、 一舎は三〇里で、一里を三六〇歩として、三舎は約六〇キロメートルの行程。)に返し戰しも、是には過とぞ見へたりける。
され共長崎次郎は未討れず、主従只八騎に成て戰けるが、猶も義貞に組んと伺て、近付敵を打拂ひ、動ば差違て義貞兄弟を目懸て廻りけるを、 武藏國の住人横山太郎重眞、押隔て、是に組まんと馬を進て相近付、長崎も能敵ならば組まんと懸合て此を見るに、横山太郎重眞なり。 扨(さて)合ぬ敵ぞと思ひければ、重眞を弓手に相受、甲の鉢を菱縫の板迄破付たりければ、重眞二つに成て失にけり。馬も尻居に打居られて、小膝を打てどうと伏、 同國の住人莊の三郎爲久是を見て好能敵なりと思ひければ、續て是に組んと大手をはだけて馳懸る。長崎遙に見てからからと打笑て、 黨の者共に組べ玖波、横山をも何かは嫌べき、合ぬ敵を失ふ様、いでいで己に知せんとて、 爲久が鎧の總角そうかく・あげまきつまんで中にひっさげ、弓杖計安々と投渡す。 其人つぶてに當りける武者二人馬より倒に打落されて、血を吐て空く成にけり。高重今はとても敵に見知らぬる上はと 思ければ、馬を懸居大音揚て名乘けるは、桓武第五の皇子、葛原親王に三代の孫平將軍貞盛より十三代、前相模守高時の管領に 、長崎入道圓喜が嫡孫次郎高重、武恩を報ぜん爲討死するぞ。高名せんと思はん者は、よれや組まんと云ままに、 鎧の袖引ちぎり草摺あまた切落し、太刀をも鞘に納つゝ、左右の大手を播ては、此に馳合彼に馳違い、大童に成て懸散しける 。斯る處に、郎等共馬の前に馳塞て、何なる事にて候ぞ。御一所こそ箇様このように馳廻り坐せ、敵は大勢にて早谷々亂入、 火を懸物を亂暴し候。急ぎ御歸り候て守殿の御自害をも勸め申させ給へと云ければ、高重郎等に向て宣しけるは、 餘に人の逃るが面白さに、大殿に約束しつる事をも忘れぬるぞ。いざさらば歸り參らんとて、主従八騎の者共、山内より引返しければ、逃て行とや思けん、 児玉黨五百騎、蓬し返せと訇て馬を爭て追懸たり。高重ことごとしの奴原や、何程の事か仕出すべき迚聞ぬ山にて打けるを、 手茂く追て懸りしかば、主従八騎騎と見返て、馬の轡を引廻すとぞ見えし、山内より葛西の谷口迄、十七度迄、返し合せて、五百餘騎を追退け、又閑閑とぞ打って行きける。

建武中興の業久しからずして弛解し、足利尊氏鎌倉に據り新田義貞を除く名として、叛旗を翻へすに及び 建武二年(一三三五年一九九五年十一月、 尊氏追討の勅を義貞に下して之を討たしめられた。當時義貞に従ひたる一門豪族の内児玉莊左衛門の名が見えてゐることは前章に之を述べてゐ。