武 蔵 武 士

(久米良作氏より依頼された)武蔵武士 笹川臨風著 より転記)

第六  史乘に現われたる兒玉黨の人々

吾妻鏡仁治元年(一九〇〇年一二四〇)三月十二日の條には、
鹽谷四郎兵衛尉が出任を停められたること、同二年五月六日には、家次の弟にして朝次の叔父なる本庄四左衛門尉時家が其所帯を召放たれることを載せている。

丙子ひのえね、當番無✔故不✔事輩五人被✔止出仕、所謂宇都宮五郎左衛門尉・ 廣澤三郎兵衛門尉・鹽谷四郎兵衛尉・上野(結城)十郎・海老名左衛門尉等也、陸奥掃部助奉✔行之
癸巳みずのとみ、有臨時評定、昨式日依鶴岡神亊延引之故也、爲記左衛門尉俊平奉行、 本庄四郎左衛門尉時家被✔召放所帯云々、是小林小次郎時景所従藤平太妻女通路次之處、時家押取馬二疋、(一疋乗馬、一疋有✔荷) 搦取口付二次郎男訖、可✔被✔行狼藉科之由、依時景訴申也、

寛元二年(一九〇四年一二四四年)八月十六日、將軍頼嗣の治世に鶴岡八幡宮社前にて、流鏑馬・競馬等があって、將軍が之に臨場 されたが、淺羽左衛門四郎は競馬第五番の選手で、河村三郎と競ったのであつた。三浦氏の變には、児玉黨人は鎌倉勢に加わって之が討手に加った。吾妻鏡、宝治元年六月二日の條に、

「近江國御家人等、自✔南従✔北馳參、圍(圍繞=いじょう・・ぐるりととり巻く)左親衛郭外之四面、 如✔雲如✔霞、各揚✔旗、相模國住人等者皆張陣於南方武藏國黨々、並駿河伊豆國以下之輩者、 在東西北之三方、巳閉四門、輙(すなわち)無推參之者、」とありて、

武藏の黨人原が其催促に應じたことが見えてゐるから、児玉黨も其中にあったろう。 建長二年(一九一〇年一二五〇年)正月三日の儀式に、 御馬、淺羽次郎兵衛尉」同三年正月二日の儀式中に、「御馬、淺羽左衛門尉次郎」の名が見えてゐる 。 建長二年三月、閑院殿の造營あり、幕府は一門及御家人に命じて事に當たらさせしめた。其うち兒玉黨の族人は鹽谷民部太夫・同兵衛入道・ 小代人々・本庄四郎左衛門尉・四方田五郎・若兒玉次郎・淺羽人々・越生人々・蛭河刑部丞・本庄三郎左衛門入道等であった。
正嘉しょうか元年(一九一七年一二五七年)八月の頃、地震屢々あり、 其月二十三日には大地震動し、神社佛閣破損して、一宇全きなく、山崩れ、人家倒潰とうかいし、 所々に地上の龜裂ありて、水湧き出で、引きつづいて二十五日にも地震小動すること五十六回、依りて祈禱を命ぜられ、又勝長壽院造營の沙汰があった。九月十九日、勝長壽院造營の事始めあり、 諸堂の雑掌は安東藤左衛門尉光成・工藤左衛門尉光泰・藤民部太夫入道道佛・四方田三郎左衛門尉景綱之に任ぜられた。 景綱は資綱の兄である。同年三月一日、將軍(宗尊親王)二所進發の後陣隨兵十二騎中には、 多胡宗内左衛門尉の後を承けたる多胡比良小次郎の名が見えてゐる。 文應元年(一九二〇年一二六〇年)四月二日、將軍、執権北条長時の父陸奥守入道重時の邸に臨む。 扈従の士中に淺羽左衛門次郎があった。弘長元年(一九二一年一二六一年)正月一日、兩國司以下布衣を着して出仕し、先づ東西の侍に候し、將軍出御の後、庭上の東西 に相分れて着座したが東座の中に、阿左美左近将監・蛭河四郎左衛門尉があった。
龜山天皇の文永五年( 一二六八年一九二八年)正月一日、高麗の使者筑前に至りて蒙古の書及其國書、方物等を 大宰府に奉る。大宰府は之を鎌倉に急報し、鎌倉よりは之を朝廷に奏し、延議其書 に答えざることに決した。時に鎌倉にては宗尊親王の子惟康親王將軍職に在り、相模守政村執権職に任じ、 左馬權頭時宗が連署であった。筑紫の波風穏ならざれば、上下騒然とした事は、深心院關白記にも、

此事國家珍事大事也、萬人驚歎之外無✔他」

とあるに知られる。

其年三月、時宗は執権となり、政村は連署となった。翌年、蒙古の使者は対馬に到り、島民二人をかすめて去った。邊海の警報 しきりに至れるを以て文久八年九月十三日、幕府は鎮西の將士に海防を嚴にすべきことを令した。
小代文書に、

蒙古人可襲來之由、其聞之間、所差遣御家人等於鎮西也、早速自身下、向肥後國所領相伴守護人
且令✔致異國之防禦、且鎭領内之悪黨者、依✔仰 執達如件、
文永八年九月十三日        相 模 守(時宗) 花押
右京權大夫(政村) 花押
小代右衛門尉氏、
とあるは、其一であるが、此小代は即ち肥後の兒玉黨である。 七黨系圖に依ると、
廣行→資行入西三大夫・→↓ 行業(淺羽小太夫)
・ 遠廣(小代三大夫)・→↓ 經遠(小太郎)
・ 高遠(三郎)
・ 直行
・ 遠平・→・・→・→↓ 親平(七郎太郎)
・ 行平(小太八郎)→↓ 弘家俊平(吉田小二郎)重俊(二郎平内左衛門尉)→↓重泰(二郎)
・ 直行俊平(二郎)・→俊重(二郎上門尉)政平(有馬允七郎)
・ 行繼・泰經(八郎太郎)
・資重(九郎)
とあれど、兒玉黨系圖には
廣行→資行入西三大夫・→↓ 行業(淺羽小太夫)
・ 遠廣(小代三大夫)・→↓ 經遠(小太郎)
・ 高遠(三郎)
・ 直行
・ 遠平・→・・→・・→・・→・→↓ 親平
・ 行平→↓ 弘家・俊平・→↓重俊
・俊平・→俊重・俊光
・ 直行
・ 行繼

とありて、遠平と行平との子孫が入れ替わりになつている。併し双方の子に同じ名の俊平があり、一方の俊平の子は俊重で、 他方の子は重俊であるなど、此邊の所は双方系圖が混同してゐるかのごとく感ぜられる。蓋し肥後にあったものは、 行平の子孫であったらしく、多年の勲功に依りて安藝の壬生を賜はり、重俊に至りて實治元年(一九〇七年一二四七年)六月、 肥後玉名郡野原莊の地頭職に補せられたる右衛門尉とあるは、多分此重俊のことで、子息等は、重藤(右衛門次郎、法名宗心)・ 政平(七郎・右馬允、法名上蓮)・ 泰經(八郎左衛門、法名廣光)・資重(右衛門九郎、法名觀心)等であろう。 系圖には重俊を二郎左衛門尉若しくは二郎平内左衛門尉としてあるが、此左衛門尉は右衛門尉 の誤写であろうと思はれる。 重平等は當時鎌倉にあったが、鎮西風雲急なるが爲に歸國して海防に盡すべきを沙汰せられたのである
文永十一年(一九三四年一二七四年)十月、蒙古の兵一萬五千・高麗の兵八千は、九百餘艘の戰艦に乘じて對馬を侵し、 轉じて壹岐を襲うた。對馬の守護代宗右馬允助國・壹岐の守護代平内左衛門尉 景隆等は力戰して陣歿した。賊艦は進んで肥後の沿海にこう(侵入して荒らす。)し、 此月二十日遂に博多に逼った。少貮經資統帥とうすいとなり、九州の諸侯奮戰して之を防せいだが、一夜大風雨がありて賊艦盡く砕け、 賊兵溺死できしするもの一萬三千五百餘人と註せられ、餘賊奔竄ほうざん(逃げ隠れる)して、我軍の 大捷たいしょう(大勝利)に歸した。 當時肥後の兒玉黨も亦九州諸侯とともに殊死しゅし(死ぬ覚悟で戰うこと)して戰ったことは諸書に見えてゐる。

八幡愚童訓

此九國にては、かねて攻來べしと思ひし事なりければ、來ぬと聞くより、馳參る軍兵は、太宰少貮・大友・紀伊一類・白杵・戸次・松浦黨・原田・大矢野・児玉黨以下、神社佛寺等の司等に至るまで、 我々もと馳集まりければ、たとひ異敵十萬におよぶとも、何ほどの事あらんとて、いさましくぞ見へにける。

太宰少貮經資・大友頼康・菊池・原田・松浦黨・紀伊・山鹿・児玉黨・草野・高木・龍造寺・ 高來たく・有馬純黨・大村・西郷・深堀等、及神職社務・山徒防人・徒テ十萬餘騎、至壹岐・ 松浦・今津博多姪濱所々相戰、十月二十日、合戰於筑前赤坂数囘、於蒙古數百萬之兵交鉾こうぼう之間、 靡✔敵助✔我、破✔堅碎✔強、或所✔討或被✔創、顯✔忠播✔功者、不✔知幾何いくばく

一敗地に塗れた蒙古は、弘安四年再び大擧したが、我軍殊死して戰ひ、屢々之を破り、賊をして岸に近しめない。 會々月黒きの夜、西北の風大に起り、賊艦多く覆歿す、我軍之に乘じ掩撃し、殆んど之をせん(ほろぼす)した。 九州の児玉黨が之に參加したことは云うまでもないことであろう。
北条時宗の子貞時執権となるに及び、安達泰盛、其の外祖たるを以て勢があったが、内管領の平左衛門尉之と爭ひて、 讒構ざんこう(まげて組みたてた告げ口をして、人をわなにおとしいれる。)し、 弘安八年(一九四五年一二八五年)十月、遂に泰盛及其子宗景は誅戮ちゆうりく( 罪のある者をころす。)せられた。 児玉黨の片山五郎左衛門尉基重は安達氏と善かったが爲に亦其禍に遭うた。 基重は和田義盛に與して誅せられた稲島五郎友行の弟行成の孫である。

維行・→↓廣行・・→↓家行・→家弘・→↓家長
・弘高
・資行→行業・→行親(淺羽三郎)・→↓行光(小三郎)・→↓行信(三郎)
・經行・→↓保義 ・行忠(中務丞)・→泰行・→行氏(次郎五郎)・→氏盛(左近將監)
  ・行重・→行廣平武者・→↓行俊(武者太郎)行長(五郎兵衛)・→行直(民部丞)・→俊直(左衛門尉入道)・→↓重直〇〇(大炊助左衛尉)

  ・行綱(武者三郎) 兼直〇〇(大炊助左衛尉)
・友行(稲島五郎) 俊家〇〇(三郎太郎)

・行成武者五郎)・→直行(片山太郎)・→↓基行(彦五郎)
   基重〇〇(五郎左衛門尉)
・成季(白倉三郎)・→↓信季(白倉太郎兵衛尉)
・成氏(白倉三左衛尉)・→成家〇〇(三郎)

   

然るに、安達氏を倒したる平左衛門尉頼綱は猶之にあきたらずして、其子の安房守資宗を將軍となさんとし、事さらされて誅せられた。 實に永仁元年四月のことである。児玉黨の白倉成家・淺羽氏盛等は此變に與して誅せられ、淺羽重直・蒹直・俊家等は功を以て賞せられた。