武 蔵 武 士(『(久米良作氏より依頼された)武蔵武士 笹川臨風著』 より転記)

児 玉 黨《以下笹川臨風氏著》

第 六  史乗に現はれたる兒玉黨の人々

家長の弟弘長は兒玉郡四方田に居住したから四方田と稱した。今の北泉村大字四方田である。弘方は兒玉郡淺見村に住した。 今の共和村大字下淺見がそれである。鹽谷五郎家光の名は武藏七黨系圖及兒玉系圖には所見がない。此等の系圖に依ると、鹽谷五郎經遠の子に高光・經光があり、 七黨系圖には經光の所に二郎、奥州合戰討死とあるから、家光なるものは此二人の一人であろう。一の谷合戰で珠功を樹てた鹽谷維弘も奥州合戰討死とあるから、 吾妻鏡記載の他に兒玉黨に従軍するものは、猶少なくなかった。
吾妻鏡、文治五年八月二十日の條に、

丁未ひのとひつじ卯剋二品(頼朝)令玉造郡給、 則圍泰衡多賀渡々城給之處、泰衡兼去城逃亡、自殘留郎従等 束手歸降、此上者、出于葛岡郡、赴平泉給、戌剋被遣,sub>二御書於先陣軍士等中、所謂三浦十郎・和田太郎・小山小四郎・ 畠山二郎・和田三郎、至于武藏國黨々者、面々取此御書、令見之、 得旨趣、可��合戰計、之由被之、 其趣、各追敵、到津久毛橋之時、凶徒等避其所、於平泉者、泰衡構城屯勢相待歟、 然者僅率一二千騎、不馳向、相調二萬騎軍兵、可至亡敗績之敵、 雖侍一人、無之樣、可用意者、

と頼朝よりの沙汰が見えている。

さしも三代の栄華を極めたる平泉は鎌倉殿の威令の下に奉公の誠を盡せる鎌倉勢の勇幹なる攻撃の爲に敢なくも滅亡し、 奥州は平定に歸した。頼朝の振旅しんりょ(軍をととのえて凱旋すること。) して鎌倉に還るや、途にして、武藏の慈光山に愛染明王の供米を送り、長絹ちょうけん百疋ひゃひきを衆徒に賜はった。 「是れ素願の成就に依りてなり」とある。即ち
吾妻鏡文治五年六月二十九日の條に、

丁巳ひのとみ、日來御禮敬愛染王像、被于武藏慈光山、以之爲本尊、 可奥州征伐御祈禱之由、被御別當嚴耀げんよう並衆徒等、 當寺者、本自所御歸依也、去治承三年三月二日、自伊豆國、遣御使盛長、 令いる洪鐘こうしょう(大きなつりがね)給、 則被鐘署名於件鐘而云々、

とありて、奥州征伐に當りて祈願をかけたのであった。慈光山は比企郡平村大字西平にありて、又都幾とき山と稱し、 寺都幾山一乗法華院と號し、天台別院にして、鑑眞和尚の弟子僧廣恵を以て其開山とする。 前記吾妻鏡にある別當殿嚴耀は秩父重綱の弟で、畠山重忠の伯父に當る人である。
建久元年(一八五〇年一一九〇年)十一月、
頼朝は初めて上洛した。其随兵たりし人々は、
先陣
四番 小越四郎 十三番 莊太郎三郎 四方田三郎 淺羽小三郎 十四番 鹽谷六郎 十六番 阿佐美太郎 三十六番 鹽谷三郎
後陣
五番 小越右馬允 十八番 秩父平太 倉賀野二郎 二十二番 大河原次(太)郎 小代八郎 二十四番 淺羽五郎 二十八番 莊太郎 三十一番 小見野四朗 莊四朗 三十三番 鹽谷太郎 四十五番 眞下太郎
であった。
建久六年(一九五五一一九五年)二月、
頼朝再度の上洛に於ける随兵中には、小代八郎・淺見太郎・淺羽五郎・倉賀野三郎・淺羽庄司三郎・莊太郎・四方田三郎等があった。

二代将軍頼家の時に起こった比企氏の變に兒玉黨の比企氏に加擔する者少なからず、野與黨の人々と俱に比企氏の爲に殊死して戰かったのである。愚管抄に
「比企が子共、聟の兒玉黨などありあいたる者は皆討れにけり、比企は其郡に父(秩父)の黨とて、みややの大夫行時といふ者の娘を妻にして、 一萬(一幡)御前が母をもうけたるなり、其行時はまた兒玉黨を聟にしたるなり。」とある。
され幕府は其前後策として建仁三年(一八六三年一二〇三年)十月二十七日、
武藏の諸黨をして北条時政に對する反感を和げしめんことをつとめた。

壬戌みずのえいぬ、武藏國諸界之輩對遠州、不貮之旨、殊被含之、左衛門尉義盛爲奉行云々。

鎌倉の三代将軍實朝は就職の政治初めとして、小代八郎等と山形五郎爲忠との間に起これる安藝國壬生莊地頭職に就いての爭を裁斷したことが、
吾妻鏡元久元年(一八六四年一二〇四年) 七月廿六日の條に見えてゐる。

丙戌ひのえいぬ、安藝國壬生莊地頭職事、山形五郎爲忠、與小代八郎等、相論之間、就守護人宗左衛門尉孝親注進狀
今日、於御前、被一決、遠州幷廣元朝臣等被御前、 是将軍家直令斷政道給之始也 

畠山重忠の變には兒玉黨の一部は重忠に與し、一部は北條氏を援けた。
吾妻鏡に北條氏を叙して、

「先陣葛西兵衛門尉清重・後陣堺平次兵衛尉當秀・大須賀四郎胤通・相馬五郎義胤・東平太重胤也、其外、足利三郎義氏・小山左衛門尉朝政・三浦兵衛尉義村・同九郎胤義・ 長沼五郎宗政・結城七郎朝光・宇都宮彌三郎頼綱・筑後左衛門尉知重・安達藤九郎左衛門尉t景盛・中條籐右衛門尉家長・同刈谷平右衛門尉義季・狩野介入道・宇佐美右衛門尉祐茂・ 波多野小次郎忠綱・松田二郎有綱・土屋彌三郎宗光・河越次郎重時・同三郎重員・江戸太郎忠重・渋河武者所・小野寺太郎秀道・下河邊庄司行平・園田七郎幷大井・品河・春日部・ 潮田・鹿島・小栗・行方之輩・兒玉・横山・金子・村山當者共、皆揚鞭」とある。
重忠攻撃軍に兒玉黨の參加したるを見るべきであるが、一方には忠實にして、しかも讒者ざんしゃの爲に不測のわざわいをも蒙りたる重忠に味方するものもあった。七黨系圖の稲島二郎友平は重忠 の爲に武州二俣川に於て討死するとある。

維行・・→↓→弘行・・→↓家行・・→↓→家弘・・→↓→弘高・・→↓→家長
・→經行有三郎別当・・→↓→保義時行共云
・→行重秩父平太重綱養子・・→↓→行弘(行重)平武者・・→↓→行俊秩父武者太郎
・→行綱武者三郎
・→成季白倉三郎
・→行成武者三郎
・→友行稲島四郎(五郎)・・→↓→友時
・→友重
・→友平稲島二郎

友平の父友行・兄友重は後年和田義盛に加擔かたんして誅せられたのを見ると、稲島氏は深く北條氏に對してふくむ所があったと思はれる。 和田氏の亂に和田氏に與したものは稲島氏のみでなかった、鹽谷三郎維盛(吾妻鏡では惟守)あり、富田三郎親家等であった。維盛き木曽征伐・平氏進撃に勇名を馳せて遂に奥州合戰に戰死したる維弘の子であり、維光は其長子である。

弘行・・・→↓→家行・・・→↓家弘・・・→↓→弘高・・・→↓→家長
・→忠家弘定久下塚
・→高家弘長四方田
・→弘方阿佐美庄五郎・・・→實高
→家 遠    潮谷平五大夫・・・・・→↓→經遠
→親家富田三郎・→維弘・・・維盛・・・維光

富田氏は兒玉郡富田、即ち今の北泉村大字東富田に居住したるを以て依りて氏とした。維盛・維光は戰死したが、富田三郎は生擒せらた。 しかし、其の大力無双の故を以て赦免せられたことは、吾妻鏡、建保元年(一八七三年一二一三年)七月十一日の條に見えてゐる。

庚戌かのえいぬ、天晴、相州(北條義時)參御所(廣元朝臣第)給、被盃酒、其間、 相州被申云、去五月、所于義盛之富田三郎、強力勝于人、扛 (【扛鼎】コウテイ・カナエヲアグ かなえをかつぎ上げる。非常に力が強いことのたとえ。〔→史記〕)石云々、 将軍家爲覽其藝、召富田、伊東七郎具參、候寝殿西面簣子、 自御所、被大鹿角二(方七寸 長三尺)、 依仰、相州令進之給、二角一度折之、滿座・・することなかれ感嘆 、又御感餘 、 可囚人之旨、被仰出云々、相州即令知其趣於金窪左衛門尉行親給云々、

しかし、兒玉黨にも又幕府の爲に盡したものが少なくなかった。吾妻鏡、建保元年五月三日の條に、和田義盛の子朝比奈三郎義秀・土屋大學助義清・古郡左衛門尉保忠等 の奮戰が屢々幕兵を退けたるを以て北條泰時は兒玉黨の小代八郎行平を使者として、之を将軍實朝に報じたことが見えてゐる。

義清・保忠・義秀等、並三騎くつわ、攻四方之兵、御方之輩士退散及度々、 仍匠作(泰時)以小代八郎行平使者法花堂御所云、雖多勢之特、 更難、敗凶徒之武、重可賢慮歟云々、将軍家太令驚之給、防戰事、猶擬評議 于時廣元朝臣令政所之間、有其召、而凶徒滿路次、 非怖畏、賜警固武士、可參上之由、 依之、被>軍士等、之時、廣元葛務水干參上之後、 及御立願、廣元爲御願書執筆、其奥以御自筆、 被>二首歌、卽以公氏、彼御願書、被>於鶴岳

つづく