武 蔵 武 士(『(久米良作氏より依頼された)武蔵武士 笹川臨風著』 より転記)

児 玉 黨《以下笹川臨風氏著》

第 六  史乗に現はれたる兒玉黨の人々

保元の亂起こるや、勅命を奉じて、嵩徳上皇の座せる院御所に攻め寄せたる源義朝の従士の中に「兒玉黨に庄太郎」とあるは、即ち庄太郎家長である。 平治の亂に義朝の沙汰に應じて京都に馳參じたる武藏の住人に、長井齋藤別當實盛・岡邊六彌太郎忠澄・猪俣少平六範綱等數人の名は見えてゐが、兒玉黨の人は漏れてゐる。 侍賢門に惡源太義平と平重盛とが、相馳驅して戰った際に、惡源太の率いる十七騎中には此等武藏の人網羅してゐるが、兒玉庄太郎等は加わらない。 併し有道經行の子なる行重は秩父權守重綱の義子となりて、秩父平太と稱し、秩父氏は平氏なるを以て平兒玉と稱した。行重の弟行高も秩父平四朗と稱し、 經行生むと所の女子は重綱の妻となり、悪源太の乳母となったと武藏七黨系圖に見えてゐるから、兒玉氏は秩父氏と共に悪源太に淺からざる縁故がある。此の如き縁故ありとすれば、 兒玉黨の人が平治の亂に義朝方として參加せぬ筈はない。然るに長井齋藤別當め岡部六彌太・猪俣小平六・熊谷二郎・平山武者所・金子十郎・足立右馬允・ 上総介八郎以外に武藏の住人を録していなないのは、これらの人々がいずれも十七騎中の勇士として名を傳えたたから、義朝勢の連名を記載するときにも此等の人ばかりを記して 他に及ばなかったのであろう。現に義朝の麾下に上野の人大類太郎の名が見えてゐるが、大類は児玉黨の一族である。
其後、兒玉黨の名が散見するのは、源平時代である。朝日将軍木曽義仲が京都における挙動を非なりとし、源義朝の二弟範頼・義經を將としてこれを討たしめた。義經に従いたる勇士の中には 庄太郎家忠・同五郎広方・鹽谷太郎經遠・同五郎惟広・小代八郎行平等がある。

弘行・・・→↓家行・・・→↓家弘・・・→↓弘高・・・→↓家長
・忠家弘定久下塚
・高家弘長四方田
弘方阿佐美庄五郎・・・→實高
・家 遠    潮谷平五大夫・・・・・→↓經遠
・維弘
資  行  入西三郎大夫・・・→↓行業淺羽小大夫 ・・・→行親・・・→行長
        遠  廣  小代二郎大夫・・・→行平
有 行 越生新大夫・・・→有弘

宇治川の先陣諍の條には、莊五郎弘方・鹽谷五郎維広の名が見えてゐる。但し
源平盛衰記には弘方を廣賢、五郎維廣を小三郎維廣に作り、
吾妻鏡には>廣方・五郎維廣に作ってゐる。

佐々木、梶原一陣、二陣に渡すを見て、秩父・足利・三浦・鎌倉・黨も高家も、我も我もと打ち浸りて打ち浸りて渡しけり、莊五郎廣賢・糟谷藤太・榛谷、此等は馬より下り、弓杖き、 朽桁きゅうこう渡らむとしけり、(中略)畠山が鬼栗毛も、天馬の駒とはやしか共、手負ひぬれば、きづを痛みて弱りければ、 重忠馬より下り、前足二つ取って馬手の肩に引懸けて水の底をばくくぐりたりける、 よそ目に、はや畠山流れぬと見えけるに、只一度弓杖衝き浮上りて息をちと継ぎ、猶水の底をくぐりて向こうの岸に渡りけるに、草摺くさづり重く覺えて、 見れば、黒革おどしの鎧著たる武者然るべくば助け給へと云ひければ、何者ぞ名乘れ、向の岸へなげうつべしと云ひければ、其を好む者也、 投げられ奉らば名乗らむと申す、更ばとて甲總角摑むで堤持て行く、又赤縅の鎧著て、黒馬と劣らじ負けじと流れ行く者あり、あな無慙、何者ぞ、是に取付けとて弓の筈を指出したり。鹽谷小三郎維廣と名乗りて弓に取付く、 弓を續き寄せ、其馬のしりがり(牛や馬の尾にかけて、ぐっと引き締めるかわひも。)しほでの間に取付けて教へければ、維廣しりがひに取付きつつ、 淺き所に上りけり、其後河端一段計りに近付きて、汝何者ぞ、好まばなげうつぞ、誤すなと件の堤げ持て行きつる大の男を、 ゆらりとなぐつぐ投げ上げられて弓杖にすがり、立ち直りて、只今歩にて宇治川渡したる先陣は、 武藏國の住人大串二郎と名乗りけり、敵も味方もどっと笑ふ、悪しく云ひぬやと思ひけむ、一陣畠山、二陣大串とぞ云うひ直したる、(中略)馬は流れぬ、堤に乗って京入りし給へとて小鴇毛とて秘藏の馬を與へたりけり、 鹽谷は今日流れたるが高名にて還って馬まさりとぞ申しける。

其の長驅して京師に入り、四条河原に戰ふや、鹽谷太郎兄弟は武勇の譽れを殘した。

義仲も今日を限りと主思ひければ命を惜しまず散々戰ふ、武藏國の住人鹽谷太郎兄弟三騎ね四條河原の東の端に控えたるが、兄の太郎弟の三郎に云う様は、 御邊は栗子山にて、能き敵に組むで物具を剥ぎ取って高名をせむと云ひしは忘れたりやとはげませば三郎、爭でか忘るべきとて馬を川に打ちいれて、西へ向けて 渡る處に、木曾方より信濃國の住人長瀬判官代と云ふ者、黒絲縅くろいとおどしの鎧に葦毛の馬に乘って河の西端より内入れて、 東へ向けて渡りたり、長瀬・鹽谷、東西より河中に寄せ寄り

寄り、馬と馬とを打並べて、組んでだぶんと落ちにけり、手を取り組み、腹に腹合わせて、上になり下になり、浮きぬ沈みぬ俵がころぶ様に四五段計り流れたり、 敵も味方も目を驚して是を見る、深き所に流れ入って、水の底にて組合ひたり、良暫く見えざりけるに水紅流れければ誰打たれぬらむと思う處に、鹽谷は左の手に敵の首 を捧げ、右の手には敵の物具を剥ぎ取って、口に刀をくはへつつ、東の陸へさと上がり、武藏國の住人鹽谷三郎某、長瀬判官代が首捕りたりやと名乗る、由々敷ぞ聞えし。

義仲の武將樋口二郎兼光が國の住人兒玉黨と深い関係にあるが爲に其命乞いをしたことは前章に述べたが、吾妻鏡にも此事を記して、

元暦元年(一八四四年 一一八四年)二月二日辛酉、樋口二郎兼光梟首きょうしゅ澁谷庄司重囗國奉之 ,仰郎従平太男、 而斬損之間、子息澁谷二郎高重斬之、但去月二十日合戰之時、依>被疵、爲片手打云々、 此兼光者、與武藏國兒玉黨之輩、爲親眤 此間、彼等募勲功之賞、可兼光命之旨、申請之處、源九郎主雖聞事由、 依罪科不輕、遂以無免許云々。

とある。當時兒玉黨より出でて義仲に従ひたる者に忠家の弟莊四朗高家があった。弓矢取る身の義は重く、命は輕く、兄は東に在りて弟は西にあつた。兄は木曽殿に背けよと云ふ、 弟はそりゃならぬと云ふ、殊に木曽殿討たれ給いたる今日、敵なる九郎判官殿に従うは義の為にも名の為にも忍び難いところである。兄上の至情にむくふべき途はただ死あるのみと、 斷斷乎だんことして家兄の言をしりぞけた。忠家嗟歎さたんして、よしよし斯うなつては、彼が陣頭になつて現はるる日を待って、 我自ら討ってくれん、やみやみ他の手に委すべからずと、男々しくも決心した。莊四朗が團扇の兒玉旗を翻して陣頭に進み來るを見るより、忠家は馬を馳せて之に向ひ、兩個搏戰して、どうとばかりに 兩馬の間に落ちた。忠家の従士來り會し、遂に高家を生擒いけどりして、之を義經の前に致した。義經壯なりとして、其死を宥し、之れを幕下の士に加えた。 家高深く其恩に感じ、今後合戰あらん日は、必ず先陣に立て、一命を君に捧げんことを誓った。此間に源平盛衰記に載せたる記事は前章に詳である。高家は其言に違わずして、一の谷合戰では平家の大將 但馬守經正を討取りて殊勲を樹てた。
  一の谷の猛襲に馳せ參じて、範頼に従ひたる兒玉黨の人々には、莊三郎忠家・同五郎弘方・鹽谷五郎維弘・莊太郎家長・秩父武者四朗行綱・小代八郎行平があり、義經の部下としても   又参加しものが少なからずあった。あらくれた源氏の面々が猛かりに猛かって襲いかかった威勢には、陣中に笛を吹き琵琶を弾じ、軍の門出に臨んで幕夜和歌を投じて去る風流闊達の平家の公達は 到底敵し難くあった。生田の森の固め敗れ、鵯越の險陥り、一の谷の陣は總崩れに崩れた。頼むは海上の船に身を託して、西に退去するのであつたが、源氏の勇士はちっとも手を緩めず櫂を放れたる 獅子の如く、あちらの濱邊に、こちらの浦わに逃げ行く平家の人々追窮巳まなかった。吾妻鏡に、

「その後蒲冠者(範頼)並びに足利・秩父・三浦・鎌倉の輩等競ひ來り、源平の軍士互いに混亂し、白旗 赤旗を交えて闘戰する體たらくは、山に響き地を動かし、凡そ彼らの樊膾はんかい張良ちょうりょう((1) 中国漢初の功臣。字は子房。 高祖の作戦の中枢となり、蕭何、韓信とともに漢創業の三傑といわれた。(~前一六八)(2) 能楽の曲名。各流。五番目物。観世小次郎信光作。張良が黄石公の川に落とした沓(くつ)を取って、 その人柄を認められ、ついに兵法の奥儀を授かる。ちょうりょう‐そう(チャウリャウサウ)【張良草】 「はんかいそう(樊草)」の異名。)と雖も、すなわ ち敗續し難きの勢なり。しかのみならず城廓は 石嚴高くそびえて、駒のひづめ通じ難く、澗谷深幽かんやしんゆうにして、人跡己に絶ゅ。九郎主、三浦十郎義連巳下の勇士を相具し、鵯越 (此山は猪鹿兎狐の他は通ぜざる險阻けんそなり)より功戰せらるる間、商量を失ひて敗走し、或は馬に策ちて一の谷の館を出で、或は船にさおさして四國の地に赴く>  本三位中將(重衡)は明石の浦に於て景時・家國等の為に生虜せられ、越前三位(通盛)は湊河の邊に到りて、源三俊綱の爲に誅戮しゅうりくせらる。其他薩摩守忠度朝臣・若狭守經俊・武藏守知章・大夫敦盛 ・業盛・越中前司盛俊・以上七人は、範頼・義經の軍中にて討取る所なり、但馬前司經正・能登守教經・備中守師盛は遠江守義定之をたり」とある。

が如く、平家の諸將は多く、此時に源氏の獲るとこになった。但し之を獲たものの名は一方の大將を記しているが、実際に於いては其部下の士の働きであった。經正ごときもそうであったが、 重衡は、莊太郎家長がこれを生擒いけどりしたと源平盛衰記にみえてゐる。

本三位中將重衡は、國々の驅武者取集めて、三千餘騎にて、生田杜を固め給ひたりけるが、城中亂れつつ、火焔、屋形屋形に充滿ちて、黒煙空に覆ひ、軍兵散々に蒐隔てられて、東西に落失せぬ。耻を知りたる者は敵に組んで討ちたれめ、 走付の奴原は海に入り、山に籠りけれども生くはる少く死ぬ事は多く、

敵は雲霞の如し、味方は勢いなかりければ、重衡今は叶わじとてね濱路にかかり、渚に打副ひて、西を指して落ち給ふ。其日の装束は 、褐衣に白糸を以て群千鳥を縫ひたる直垂に、紫すそごの鎧をぞ著給へる、馬は童子鹿毛とて究竟の逸物、早走なり、大臣殿の御馬を預り給ひてぞ乘り給へる。莊三郎家長が、よき大將軍と見て、父子乘替の童三騎にて追うてかかる 三位中將は蓮の池をも討過ぎ、小馬の林を南に見なし、板宿・須磨にぞかかり給ふ、莊三郎目に懸けて、鞭に鎧をあわせて追ひけれども、逸物には乘り給へり、只延びにのび給ひける間今は叶はじと思ひ、十四束取りて、番ひいて、 追ひ樣に馬を走して遠矢に射る、其矢馬の三頭に射籠めたり、其後は、あふれども打たれども、疵を痛みて働かず、(中略)三位中將今は力及ばずして、相構えて馬を海へぞ打入れむとし給ふ、そこしも遠淺なりける上、馬も弱りて進ざりけけば、 汀に下り立ち、刀を抜き鎧の引合を切り、自害し給はむずるにや海に入り給はむずるかと見せかければ、家長手しげく攻めより、馬より飛下り、乘替(乗りかえるために用意してある乗り物。予備の乗り物。主として馬にいう。) に持たせる小長刀を取り十文字に持ちて開き、するすると歩みよりぬ、君の御渡りと見進せて家長參りて候、如何に正なく自害あるべからず、いずくまでも御伴仕るべしとて、畏ってありければ、三位中將、自害をもし給はず、遠淺になれば海にも入り 給はず、立煩ひ給ひたりけるを、家長つと寄り、我馬に掻乘かいのせ奉り、指繩にて鞍にのしづわ(しずわ(しづ‥)【後輪】鞍の背後の鞍骨(くらぼね)。前の鞍骨の前輪に対する呼称。) にしめ付けて、我身は乘替に乘りて歸りける。其の勲功の賞には、陸奥國しつとしと云ふ所を給ひけり。        同じ源平盛衰記に、

「鹽谷五郎維廣と云ふ者、五騎にて濱の方より馳來る、あはれよき敵に行合ひて分捕せばやと思ひたる景色なり、」とあが如く、
兒玉黨の活躍振りは目覺ましくあつた。
但し重衡を生擒したる者に就いては、源平盛衰記に莊太郎家長とあるが如く、武藏七黨系圖にも
「家長、莊太郎、一の谷合戰、平重衡卿生捕」とあるが、
兒玉黨系圖には記していない。のみならず、但馬守經正を獲のは源平盛衰記及武藏七黨系圖等には高家とあるが、兒玉黨系圖には之を忠家としてある。しかし孰れにしても兒玉黨人の功名手柄に至りては爭うべからざる事實であった。吾妻鏡元暦元年二月十五日の條に

 「蒲冠者範頼・源九郎義經等の飛脚、攝津國より鎌倉に參着し、合戰の記録を献ず、其趣は去七日、一の谷に於いて合戰し平家多くを以て命をおとす< 前内府(宗盛)巳下、海上に浮かびて、四國の方に赴く、本三位中將は之を生虜せいりょうす、又通盛卿・忠度朝臣・經俊巳上三人は蒲冠者之を討取り經正・師盛・教經、巳上三人は遠江守義定之を討取り、敦盛・知章・業盛・盛俊、巳上四人は 義經之を討取る。此外梟首きょうしゅする者一千餘人、凡そ武藏・相模・下野等の軍士各々大功をつくす所なり、追って注記言上すべし云々」とある

を見ても、武藏・相模・下野等の勇士が尋常ならざる働きをしたことが分明である。西海にうかびたる平氏わ追討せんとして、範頼・義經は兵を進め、屋島・壇ノ浦に於いて 此を先途せんどしのぎを削った。當時兒玉黨の人々も義經に従いて、戰場の間を馳驅ちくしたのであった。平氏滅亡して後、元治元年(一八四五年  一一八五年) 五月八日、鎭西の沙汰施行を命ぜられたる時の條の中にも、

鎭西之御家人等、鹽谷五郎以下、多以歸參 おわる、遣御使、 被向後參上、可汰鎭西海
とありて、兒玉黨の鹽谷五郎等が西海に撥遣された事は明らかである。

頼朝義經の間が不和となり頼朝は義經を誅せんが爲に土佐房昌後を京都に遣わしてこれを襲はしめた。源平盛衰記には土佐房昌後幷に兒玉黨等六十餘騎とあるが、吾妻鏡、 文治元年十月九日の條には、「とあり、昌俊八十三騎の軍勢を和具し、三上彌六家季(昌俊の弟)錦織三郎・門眞太郎・藍澤二郎以下云々」とあり、同十七日の堀河夜討の條には「土佐房俊、 先日關東の嚴命を含むに依り、水尾谷みおのや十郎巳下六十餘騎の軍士を相具し」とあって、兒玉黨の人々の名が見えないから確かでない。

義經が高館に死んで、平泉滅亡の源を開き、頼朝はこれを機とし、奥州征伐を企てた。頃は文治五年七月十九日、鎌倉殿の御供に参じたる兒玉黨の人々は 小越(越生)右馬充有弘・庄三郎忠家・四方田三郎弘長・淺見(阿佐美)太郎實高・淺羽五郎行長・小代八郎行平・鹽屋(鹽谷)太郎家光等であった。