武 蔵 武 士(『(久米良作氏より依頼された)武蔵武士 笹川臨風著』 より転記)

児 玉 黨《以下笹川臨風氏著》

第 三  源平時代

此等の諸氏族(武藏七黨)が活躍しかけたのは、王朝の末に於で武士階級が倔起(くっき)した時代である。源頼義・義家の奥羽征伐頃から活躍の下地は出來たのであった。 藤原氏専權政治の除弊は舊道徳舊習慣の頽敗(たいはい)を來して、保元平治の亂を將來し、公卿殿上人の貴族階級は其實力を失ひて、武士階級が舞臺(ぶたい)翺翔(こうしょう) することとなったのである。東國武士の名は是に於て始あて史乗の上に現はれ出た。保元物語、三條殿行幸の條に、官軍勢として源義朝に従ひたる面々の中に、 武蔵の國の人々には、
「豊島四郎・中條新五・新六・成田太郎・箱田次郎・河上三郎・別府次郎・奈良三郎・玉井四郎・長井齋藤別當實盛・横山悪次・悪五・ 平山・相原、兒玉に庄太郎、猪俣に岡部六彌太、村山に金子十郎家忠・山口十郎・仙波七郎、高家に河越・師岡・秩父武者」横山以下の處、半井本には、 横山には悪二・平山六二・源五二郎・熊谷次郎直實・榛澤六郎成清・アヰハラと、猪俣には、岡部六郎・近平六・河越三郎・手墓七郎、兒玉には庄太郎・同三郎、村上には云々。 京師本杉原本には、丹治成満・榛洋六郎、児玉には庄太郎・同三郎、秩父武者所・粟飯原太郎、猪股には岡部六彌太・金平六・河津三郎・手薄加七郎、村山には金子十郎・山内六郎・仙波七郎・西には日次悪次・平山、高家には云々。 鎌倉本には、兒玉には悪次・平山・粟飯原と猪俣に岡部六彌太・金平六・河勾三郎・手科七郎・庄二郎、秩父武者、高家(こうけ)には云々とある。などがあった。
白河殿の夜襲には御曹司八郎爲朝の弓勢(ゆんぜい)強く、坂東武者に手なみな見せんと、射出す鏑矢(かぶらや)は御所中を遠鳴(とおなり)して、人馬諸共に射返し、 からりとばかり門の桂に立った。此に村山黨の中にさるものおりと聞えたる金子十郎家忠、生年十九歳、御曹司の御内人高間三郎・同四郎の兄弟を斬つて棄て、 敵ながら天晴(あっぱれ)れ剛の者よ、今度の合戦に打勝ちなば爲朝が郎黨にせんずるものよ、助けてつかわせと、爲朝の感賞に預つで、家忠の面目は之に過ぎじとこそ見えた。
  清盛に對する義朝の反感と嫉妬、及源平兩氏の並立し得ざる相互の軋轢あつれきとは、 遂に平治の亂を醞釀(うんじょう)(酒類を造ること。醸造。心の中に、 ある感情が次第につくられ、たまっていくこと。)した。義朝の催促に依りて馳せ參じたる東國の武者中武臓の住人は、 「長井齋藤別當實盛・岡邊六彌太忠澄・猪俣小平六範綱・熊谷次郎直實・平山武者所季重・金子十郎家忠・足立右馬允遠元・上總介八郎弘常」(平治物語)であった。 生年二十三歳の武者振華やかに待賢門に押寄せたる左衛門佐平重盛の威勢に敵し兼ねて藤原信頼が臆病神に誘はれて引退ひきしりぞくと見るより、義朝いらだち、あの敵追出せと云ふ。 おっと答へて言下に(か)け出したる十七騎の猛者中には、長井齋藤別當實盛・猪俣小平六・熊谷次郎・平山武者所金子十郎・足立右馬允・上總介八郎などがあった。 義朝の敗北するや、此等の坂東武者は暇賜いつまたまわつて、思々に下國することとなった。一敗地に塗れた源氏の與黨として武藏の高家(こうけ)も黨も、平氏全盛時代には 雌伏(しふく)するの(や)むなきに立到らなければならなかった。 しかし此等の武士は必ずしもに依りて其進退を決する者でなくして、 (むし)ろ利に依りて、其行動を左右され、勢に(おもむ)くを以て自黨の勢力を維持する所以(ゆえん)としたのである。猶云ひ換へれば、 一種の傭兵の如き觀があった。(当時のころからすでに武士社会ではすべて双務契約であったと思われる。)治承四年(一一八〇年)、源頼朝の丘を伊豆に挙げて石橋山に敗れ奔竄(ほんざん)するや、 平氏の出なる畠山・江戸・河越氏が頼朝方の三浦義明を攻めたのには異存はないとしても、 「黨には、金子・村山・山口(長門本には丹黨に作る)篠黨・兒玉・横山・野與黨・綴喜等を始めとして二千餘騎(源平盛衰記)が三浦城に押寄せてゐるのは、 武人の時代思想が(うかが)はれる。現に石橋合戰の時ですら、佐殿(頼朝)を討手の大將大場三郎景親は武蔵相摸の勢を招いてゐるが、 其中には海老名源八權頭季貞(横山黨)子息の荻野五郎季重・同彦太郎・同小太郎・河村三郎能秀・稲毛三郎重成久下權頭直光・子息次郎實光・熊谷次郎直實・ 岡部六彌太忠澄等の名が見えてゐる。三浦合戦に綴黨(つづとう)の三勇士が三浦大介義明の孫和田小次郎義茂一人の爲に討れことは、源平盛衰記に詳しい。

爰(ここ)に武蔵國の住人綴黛の大將に、太郎・五郎とで兄弟二人あり、共に大力なりけるが、太郎は八十人が力あり、東國無雙の相撲の上手、四十八の取手に(くら)からずと聞ゆ、 大將軍畠山に向て云けるは、「和田に(あつめ)られて、御方負色まけいろに見ゆ思切郎等のなければこそ、軍は緩なれ、和田小次郎討捕て見参に入れんと云捨て、 肌には白き(とばり)脇楯(わきたて)白き(あわせ)の小袖一重、木蘭地(もくれんじ)直垂(ひたたれ)赤皮威(あかひおどし)(よろい)に自星の (かぶと)(つ)け、廿四差たる黒羽(くろう)(えびら)、四尺六寸の太刀に、熊の皮の尻鞘入(しりしおでいり)をぞ(おび)たりける、滋藤の弓の眞中とり、 烏黒(からすぐろ)なる大馬に金覆輪(きんぷくりん)の鞍にぞ乗りたりける。和田小次郎は陣に打勝て、弓杖つき浪打際に(ひか)へたり、綴太郎近く歩せよす、小次郎是を見て和君は誰ぞと問、武蔵國住人綴太郎と云者也、 畠山殿の一の郎等と名乗る、小次郎は和君が主人畠山とこそ組んずれ、思ひもよらず義茂にはあらぬ敵ぞ引退(ひきのぞく)と云へば、 綴云ひけるは、まさなき殿の(ことば)かな、源平世にはじまりて、公私につけて勢を合する時、郎等大將に組事なくば何事にか軍あるベき、さらば受て見給へとて、 大の中差取て番ひ近づき寄ければ、射られぬべく覺て、綴をはかりて云やう、詞の程こそ尋常なれ、恥ある敵を遠矢に射る事なし、寄で組み腰の刀にて勝負せよとこそ云ける、綴然るべきとて、弓箭をばなげすて歩せょせ、 (おして)並て引組で馬より下へどうと落、綴は大力なれば、落たれ共ゆらりと立、小次郎も藤のまとへるが如く寄附てこそ立直れ、綴太郎は大力なる上太く高きにて、 和田小次郎が背の小きかさに係りて、押附て討んとしけり、和田は細く早かりければ、下を潜(くぐ)って綴を打倒で討んと思へり背の大小は有れけ共、力はいづれも劣らず、 相撲は共に上手也、綴は和田が(よろい)の表帶引寄て、内(から)かけつめて、兜の(しころ)を傾て、十四五度ぞはねたりける、和田綴に骨をおらせて、其後勝負と思ひければ、 腰に附てぞ廻りける、綴内搦みをさしはづし、大渡(おおわたし)に渡して(おぞまし)けれ共、小次郎はたらかず、大渡を(ひき)直し外搦みに懸、渚にむけて十四五度、 曳々と推ども推どもまろばざりけり、今は敵骨は折らんと思ひければ、和田は綴が表帶取てひきよせ、内搦みにかけ(づめ)て、兜の(しころ)を地に附けて渚へむけて、 曳音出して(はね)たりけり。綴骨は折ぬ、強はかけてはねたれば、岩の高にはね懸られてかばと倒る、刎返さん刎返さんとしけれ共、弓手のかいなを踏附て、兜のてへん(兜のてっぺん)に手を入、 亂髪を引(おおせ)くび(かき)落す、首をば岩の上に置き、綴が身に尻打懸て、沖より寄來る波に足を冷し、息を休めて居たりけるが、敵落逢(おちあ)へとぞ呼りける。 綴五郎兄を討れてをめきて(あつめる)、小次郎云けるは、和君は綴が弟の五郎にや、兄が敵とで義茂にくまんと思で懸るか、汝が兄の太郎は東國第一の力人、それに組で取損とりそこなわられたれば今は力なし、 疾々(はやばや)寄て義茂が頸をとれとぞ云ける、五郎まの當り見つる事なれば實と思ひ押並でひたと組、馬より下へ落、如何はしたりけん五郎下になり、是も首なぞ捕にける。(かく)て岩に尻懸、 浪に足討せて休む所に、綴小太郎、父と伯父を討れて、三段(もと)に歩せ、寄せ、大の中差取て番(ばん)ひさしあてつわものと射る、鎧の胸板に中て(おど)り返る。小次郎は射向の袖を振合せ、 (しころ)を傾け苦げなる音して云けるは、やや綴小太郎ょ、親の敵をば手取にこそすれ、然るに親の敵也、人手にかくるな落逢んかし、近くよらぬは恐しきか和君が弓勢(ゆんぜい)( しっかり。がっちり。)と打、 一打うたせてつと立あがり、取りて引寄(だ)きふせ、てへん( 【天辺・頂辺】1 兜(かぶと)の部分の名。鉢の中央上部をいう。てっぺん。2 頭。いただき。てっぺん。)に手を入て頸を切る、三の首を二をば取付につけ、一をば太刀のさきにつらぬきて馬に乗、 指あげつつ名乗けるは、只今畠山が陣の前にて、敵三騎討捕て帰る剛の者をば誰とか思ふ、音(おと)にも聞(き)らん目にも見よ、 桓武天皇の苗裔高望王より十一代 (按系圖諸本、自高望王 至義茂或爲十二世、 或十一世、或十世、或九世、共世系粉々、無考證)王氏を出遠からず、 三浦大介義明が孫和田小次郎義茂、我年十七歳、我と思はん者は大將も郎等も寄て組めとぞ呼りける。

引き續いての衣笠合戦には、河越叉太郎・江戸太郎・畠山庄司次郎等を大將として、 金子・村山・山口黨、兒玉・横山・丹黨・忍・綴黨を始めとして三千餘騎之に參加し、金子十郎家忠は天晴れ剛の振舞に敵膽(きも)を冷やさせた。

かく云ふ程に、二十六日辰時、武蔵國住人江戸太郎・河越太郎、黨の者共には、金子・村山・俣野・山口、兒玉黨を始として、八百騎にて押寄たり、 先つ綴の五郎は父と兄とを、小坪にて討せたる事安からず思ける故に、眞先にかけて出來たり、支度の如く城内より矢先を揃て射る、一方は石山二方は深田なれば、 寄る武者多く討れけり、叉打物(うちもの)冠者(かんじゃ)(ばら) 肩を(そう)(ならべ)て打向戦ければ、(おもて)を向る者無りけり。 (かくあ)りければ綴が黨少し引退けるを、金子の者共入替て、金子十郎木戸ロヘ攻寄たり、城中より例の矢先を揃て射けれ共、金子少しも退かず、 二十一迄立たる矢をば折かけ折かけして戦けり、其時内より是を感じて、酒肴(しゅこう)一(いち)具(ぐ)家忠が方へ送りて云けるは、軍の様誠に面白く見えたり、

此酒召て力つきて、手際(てぎわ)(見事な手並み)の軍し給へと云ひ送りたりければ、金子返事に申けるは、承候うけたまわりそうろうぬ、能々飲で城をば只今落し申べしと、 (やが)て兜の上に淺さ黄絲威(いとおどし)の腹巻を打かけて、少もひるまず攻寄ければ、大介是を見て若者共に下知(げち)しけるは、 あはれ云甲斐なき者どもかな、あれを二三十騎馬の鼻を並べてかけ出て、武蔵國の者共の案内も知ぬ深田(ふかだ)に追はめて、(お)かしと(こう)けれ共、 幾程もなき勢にて討出ん事も中々悪かりなんとて、出ざりければ、大介老々として、然も所勞(しょろう)折節(おりふし)なりけるが、 (しろの)直垂(ひたたれ)烏帽子(えぼし)押入て、馬に(かつぎ)乘られて、雑色(ぞうしき)( 平安時代以後、公家・武家の家の従者。雑役をつとめる。中世、鎌倉・室町幕府で、雑役をつとめた下級の職員。)二人を馬の左右に附て(ひざ)をおさせて、 太刀許帶もとにおび(身に着けて)て、敵の中へ討出んとしければ、従兄弟佐野平太馳来て、介殿の物のつき( ものにつかれたような、亡霊や魔性がのりうつる。)給たるか、打出給ては何のせんか有べきとて引留ければ、 おのれらぞ物の附たるとは見る、軍と云はきけ、或時はかけ出て敵をも追散し、或時は敵におはれて引退きくなどするこそ、目をも覺して面白けれ、 何と云事もなく、草鹿小男くさじしこおとこ(鹿の形をした的。檜(ひのき)の板で鹿が首をあげている姿をつくり、牛皮や布を張り、中に綿を入れて横木につるしたもの。草鹿的。)鹿的しかのまと なぞ射る様に見ならはすと云ままに、佐野平太を鞭を以て打たりける。去程に日も暮ぬ、軍に各し疲れて、大介事の外に弱げに見けれ、 共云けるは、各さればとて自害すべからず、兵衛佐殿はよも荒凉こうりょう(軽率であること。うっかりすること。不注意であること。)に討れ給はじ、佐殿の生死をも聞定めん程は、甲斐なき命を生て、 始終を見果みはて(たてまつ)るべし、如何も安房上總方へ落給ぬらん、今夜爰を引て船に乗て、佐殿の行末を尋ね奉るべし、義明は今年七十九にせまれり、其上所勞の身なり、義明幾程の命を惜みて、 城中をば出けるぞと、後、見聞人の云事も口惜ければ我をば捨て落べし、更に惜(あたら)あるべからず、急々佐殿に落加り奉て本意を(とぐ)べしと云けれども、 さればとて捨置べきに非ず、子孫とも手輿(てごし)(たごし)(かつぎ)乘ておちんとしければ、大介大きにしかりて輿(こし)にも乗ず、 され共兎角(とんく)(とにかく)こしらへ(こしらえる==いろいろとなだめて気持を落ち着かせる。なだめすかす。なぐさめる。話して気持をとりなす。) て押乘て城中をば落にけり。宗徒(むねと)(主だった) の者どもは濱の御崎にありける船共に、打乘々安房の方へぞ(おもむ)ける。大介が輿こしをば雑色(ぞうしき)共が(かつぎ)たりけるが、 敵は近く攻懸りければ、輿を捨て逃にけり、近くつきつかはれける女一人ぞ附たりける、 敵の冠者原(かんじゃばら)追かけて、大介が衣裳を剥ければ、我は三浦大介と云者を、(かく)なせぞと云けれ共、叶はず直埀剥れてけり、 去程に夜も明にけり、大介哀れ我能云ひつる物を、城中にてこそ死なんと思つるに、若者共が云につきて、犬死してぞする事こそ口惜けれ、 さらば同は畠山が手に懸りて死なばやと云け共、江戸太郎馳來て大介が首をば討にり、如何にも老の云事ば様あるべし、元より大介が云つるやうに捨置すておくならば加程かほどの恥に及ばざのらましとぞ人申ける、云々。

しかし頼朝の旗色よしにと見て、坂東武者の續々歸参したことは、吾妻鏡、
治承四年(一八四〇年一一八〇年十月二日の條に
武衛(ぶえい)(ここに)常胤つねたね廣常等之舟(こぎ)(わたる)大井隅田兩河精兵及三萬餘騎(おもむく)武蔵國 云々」

同四日の條に、
「畠山次郎重忠参會井渡河越太郎重頼・江戸太郎重長又参上云々」
とあるが如くて、

武藏武士飜然ほんぜん(今までのやり方がすっかり裏返しにかわるさま。)源家の味方に馳せ參ずることゝなった。範頼・義経が義仲追討のために宇治・勢多へ向つた時、其従士の中には金子十郎家忠・同與一近範・ 源八廣綱。勅使河原權三郎有直・庄三郎忠家・勝大(小代)八郎行平・猪俣金平六範綱・岡部六彌太忠澄の名が見えてゐる。
長門本平家物話には、
兒玉黨の庄三郎同四郎が敵味方に分れて合戰した(おもむき)が記されてある。
爰に兒玉黨に荘三郎・荘四郎とて兄弟有り、三郎は義経に附奉りけり、四郎は義仲に有り、然るを木曾討れ給て後、樋口が手に附で上ると聞えければ、
兄三郎使者を立て、弟四郎に云けるは、
    誰を誰とか思ひ奉るベき、木曾殿は討れ給ひぬ、九郎御曹司へ参給へかし、さるべくは共様申上候はんと云遣しければ、
    兄弟のよしみ、今に始ぬ事に候へ共、誠喜入て承り候ぬ、急ぎ參んとぞ返事したりける、兄三郎さればこそと云、

待けれども見えざりければ、重ねて使を遣したりければ、
四郎申すけるは、
    誠に兩度の御使然べく候へば、參べくこそ候へども、且は御邊の御爲も面目なき御事也、刀矢取習、二心あるを以て今生こんじょうの恥とす、昨日迄は木曾殿に附奉りて御恩を蒙り、 二なき命を奉んと思ひき、今は又討れ給て、幾程もなく命を助らんとて、本主の御敵、九郎御曹司に參ん事、ロ惜くちおしく候へば、御定は然べく候へども、之こそ參候まじけれ、 御悦には先懸けて討死して、名を後代に揚、三郎殿の面目をも施し奉るべしと申たりければ、
三郎力及ばす、さては四郎さる者なれば、言葉違はずして、先ずべきなんず、人に討せじ、同は我討取て、御曹司の見參に入べし、弓矢取物のしるし、是こそと思て待かけたり、 案の如く荘四郎團扇の旗指せて、まっさきに進すみて出來る、是を見て荘三郎、あはや四郎は出來るはと思て、兎角とかくの子細に及ばず、押並しへて、組落たり、しばしはからひかねけるが、 兄弟同じ程のにてやありけん、互に組臥くみふしたりけるを、三郎は多勢なりければ、郎等数多落合て、四郎を手取に取てけり、御曹司に進らせたりければ、荘三郎神妙に仕たり、 四郎が命は助るなりとのたまひければ、 四郎が申けるは、
命を助けられまいらせたらんしるしには、自今以後軍の候はんには、眞先懸で、君に命を進らせ候べしとぞ申ける、
皆人是を感じけり。 兒玉黨は義仲の部下の勇將樋口次郎兼光と縁故があったから、今度の功勞に代へて其命乞ヲ義経に哀願したとのことが 源平盛衰記に見える。長門本・伊東本・八坂本には樋口を兒玉黨の(むこ)と記してゐる。

兒玉黨團扇の旗持て、百餘騎の勢にて出來たり。樋口を中に巻籠かんろうて、軍をばせず申けるは、やあ樋口殿軍を止給へ、和殿はからいは助け奉らん、廣き中に人て(むこ)に成は、其様の時のりょう也、 詮なし詮なしとて心ならず取籠とりこめて、具して京へ上り、軍將義経に角と申ければ奏聞そうぶんしてこそ助めとて、院御所に將參り、此旨申入ければ、今日は斬れざりけり。
樋口次郎兼光は、兒玉黨が<嘆申たんしんに依て、義経奏聞せられければ、死罪を宥し、大路を渡し禁獄せられたりけるを、院御所法住寺殿の軍の時、然るべき上﨟じょうろう女房達などを 捕へて衣裳を剥取裸に成て、五六日取寵奉り、はじらいを見せ奉りたりける故に、彼女房達口惜事に思召し、かたへ(ほかの)の女房達を相語、兼光男を生置せ給はゝ゛尼にならん、 御所を出ん、淀河・桂河に身を投んなど様々に訴申させ給ければ、法皇も力及ばせ給はず、公卿僉議(せんぎ)ありて、女房の訴訟も默止がたし、 兼光は木曾殿が四天王の隨一、死罪を宥さるゝ事虎を養ふ恐ありと、殊に沙汰有て、明二十七日獄舍より取出して、五條西朱雀に引出して斬られけり。

平氏追討の際、範頼に従ふ武藏の人々には稲毛三郎重成・同舍弟榛澤四郎重朝、同向森五郎行重兄弟三人、海老名太郎兄弟四人・中條藤次家長、 兒玉には庄太郎家長・同三郎忠家・同五郎廣賢、鹽谷(しおや)五郎維廣・小林次郎・同三郎・小河五郎・勅使河原權三郎有直・秩父武者四郎行綱・ 太田兵衛重治・廣瀬太郎實氏・太田四郎重治・安保二郎實能・中村小三郎時經・河原太郎高直・同次郎盛直・小代八郎行平・久下次郎實光等あり義經に従ふものには、 畠山庄司次郎重忠・久下權頭直光・河越太郎重頼・同小太郎茂房・猪俣金平六範綱・熊谷次郎直實・子息小次郎直家・平山武者所季重・金子與一近範・源八廣綱・ 小川小次郎助茂・山田太郎重澄・岡部六彌太忠澄・同三郎忠康等があった。一の谷の合戰には武藏の勇士いづれも獅子奮迅ししふんじんの勢を以て競ひかかった。 「其後兩方の城戸口を開きければ、信濃國の住人村上判官代泰信を始めとして、秩父・足利・武田・三浦・鎌倉の輩、小澤・横山・吉田・猪俣・野與・山口・ 兒玉・丹の黨の者共、五騎・十騎三十騎五十騎百騎二百騎づゝ馳寄々、我も我もと(あつめ)入けり。源氏平氏亂合、自旗・亦旗相交り、おめき叫名乗戦ふ音、 an style='color:#009900;font-size:10.0pt'> 武藏國の住人私黨に、河原太郎高直・同二郎盛直、兄弟二人馳來て、馬より飛び下り、藳下々わらのげげ(わらぞうり)をはき城戸口に攻寄せて、今日の先陣と名乗て、逆茂木を登越々々、 城内へ入りけるを、讃岐國の住人(長門本平家には備中)眞鍋五郎助光、弓の上手精兵の手だれなりければ城戸口に選置れたりけるが、さしあらわれて、 能引き暫く固めて放つ矢に、河原太郎が弓手の草摺くさずりの餘を射させて弓杖ゆみづえにすがりて立すくみたりけるを、弟の次郎つと寄肩引懸けて歸りけるを、助光二の矢を以て、 腰の骨懸けて鎧かかけず射こみたりければ、兄弟逆茂木の本に、太刀の柄を把て並居たり。眞鍋が下人是を見て、櫓の下よりつと出て落合ひけれども、二人が首は取られたり。 心の剛は能谷・小山に劣らずこそ思ひけれども、運の極に成ぬれば、敵一人も取らずして討たれけるこそ無慙(むざん)なれ。同國猪俣黨に藤田三郎大夫行安續て、 逆茂木(さかもぎ) (木の枝の先端をすべて鋭くとがらしたのを土にさし、または、柵に結んで敵を防ぐのに用いるもの。さかもがり。)を登り越えんとしけるを、 眞鍋引固めて放つ矢に同じぐここにて討たれにけり。藤田が妹の子に、江戸四郎と云ふ者あり、今年十七になりけるが、 連て蒐入り、散々に戦ふ程に、鎧の胸板を射られて弱る處を、阿波民部大輔成良が甥に、櫻間外記大夫良連が手に討たれぬ。人見四郎も爰にて討たれにけり。 勲功の時、河原太郎と藤田行安が子供に生田の庄を給ふ。共墓所の爲めなり、今の世までも彼社の鳥居の前に堂塔を造立して菩提を弔ふとかや。(源平盛衰記)

但し藤田三郎の死狀に就いて伊藤本・八坂木・南部本等平家物語の記する所は其事情を異にしてゐるが、戦死したことは事實であつた。
吾妻鏡、壽永三年(一八四四年一一八四年、)三月五日の條に

「去月於攝津國谷一被罰平氏五日、 武藏国住人藤田三郎行康、先登令討死(おわる)、仍募勲功賞彼遺跡子息能國可領之旨、今日被仰下云々」
とある。

一の谷の固破れて新中納言知盛が濱邊にって落行いたあとを追蒐ついしゅうけたものは兒玉黨であった。長門本の平家物語には、之を註釋ちゅうしゃくして、

知盛は武藏國司にておはしければ、兒玉黨見知りけるにゃ」と云ひ、
印本一本・伊藤本・八坂本・鎌倉本等には 天をひびかし地を動す、實百千の雷を集めたらんよりもおびただし、組んで落っる者もあり、落ちて引組くもあり、上に成り首を取るもあり、下に成首を取らるゝ所もあり、 平家はよき城に籠りたれば、さり共と防戦ひけり、源氏は勝色の軍なれば勝に乘りて攻め戰ふ、源平何れも入り亂れて、左右なく勝負あるべしと見えざりけり」(南部本平家物語)。 私黨の河原太郎兄弟は先登して敵箭に斃(たお)れた。

「知盛卿が生田森の大將軍に'おはしけるが、東に向て戰給處に、山のそばより寄りける兒玉黨の中より(伊藤本・八坂本には猪股黨とある)使者を立て、君は一年武藏國司にて渡らせ給へば、 其好を以て兒玉の者共が中より申候、いまだ御後をば御覧ぜら候はぬやらんと申しければ、新中納言以下の人々、後を顧給へば黒煙押懸たり、あはや西の手は破れにけると云ふ程こそあれ、 取物も取敢へず我先にとぞ落行きける」
と云ってゐる。

大将知盛危く見えたれば子息武藏守知章は父を討たせじと中に割って入りて、戦死を遂げた。その間に知盛は逃げ延び、馬を海上に浮ばせて、丘船へとのがれ入ったのである。 但馬守經正は赤地錦の直垂(ひたたれ)に鐙はわざと着ず身輕に落延びて侍一人をもつきそわさせて、大藏谷の方へ向って落行くを、武藏の住人庄四郎高家(兒玉黨)之を見て、
そこへ落させ給ふは平家の公達きんだちと見奉る返し會ひて組給へやと呼ばはりながら追蒐ける。
經正きっとなりて、
逃げるのではなし、汝を嫌ふにてあるぞと、
其儘に馬の足掻あがきを早める。
高家腹を立て、
合戦の間は上下の差別なく、向ふ敵に引組ひを法とする、よしよし其義ならば引捕へてはじを見せんと、 主従三騎經正に競ひかゝる。
經正今は叶はじと、馬よりひらうと飛んで下り、かっぱとばかり腹掻き切って亡せた。

義経が破竹の勢を以て屋島に押寄せたる時の従士中にも、横山太郎時兼・金子家忠・同餘一親範・熊谷直賓・同直・平山季重・猪俣範・庄忠家等の名が見えてゐる。 下野國の住人那須餘一宗高が敵船のじく(船のへさき)に立てたる扇を射落して、弓の上手と名高いを博した際にも
  「後の陸を顧れば源氏の大將軍大夫判官を始て、畠山庄司次郎重忠・土肥次郎實平・平山武者所季重・佐原介義澄・子息平六義村同十郎義連・和田小太郎義盛・同三郎宗實・大田和四郎能範・ 佐々木四郎高綱・平左近太郎爲重・伊勢三郎義盛・横山太郎時兼・庄太郎家永等。源氏大勢にて轡を並べて之を見る」とある。
越中次郎兵衛と伊勢三郎とのことば合戦果てじっと見るより、金子十郎進み出て、詮なさ殿原の雑言無用、 去年春一の谷の合戰にて武藏相摸の若殿原の手並も見たであらと、云ひも終らぬに、舎弟與一は十二束三伏(じちゆうにそくみつぶせ)(十二束に手の指三本を伏せた幅を加えた長さ。また、その長さの矢。)の矢よつ (鎧(よろい)の左右の袖の化粧の板の前後につけた受緒(うけお)・懸緒(かけお)の総称。)引ひてひやうと放てば、たず次郎兵衛が鎧の胸板を突き通すた。
  武蔵野に馬を馳せて弓を射て久しく武力を養成してゐた武藏の勇士は源平時代に其精鋭の真面目を發揮したのであった。騎兵が多勢であつたと云ふことは、當時の戦争に於て奇功を奏した最も大なる原因であつた。
  遮莫(さもあらば)(しかたがない)れ、武藏の諸豪族は攻城野戰の功に依りて、一躍有数の地歩を確得することとなった。奥州平泉の平定するとともに葛西三郎清重は奥州總奉行に任ぜられ、 陸奥國御家人事、葛西三郎清重可奉行の沙汰を受けた。葛西氏は秩父氏の出で、秩父別當武基の弟武當を祖とする。武當の子當家、當家の子康家は豊島三郎と稱す。 康家の子清光、清光の子が即ち清重である。驍勇(ぎょうゆう)にして、頼朝に従って屢々しばしばの功があった。奥州總奉行としても、所領内に市を建てゝ窮民を賑し、 亂後の國中は靜謐(せいひつ)に歸した。建久の初、頼朝に扈従(こじゅう)(貴人につき従うこと。また、その人。)して入朝後、兵衛尉に任ぜられ、子孫奥州の牡鹿郡に在りて葛西氏を稱した。

比企能員(のりさだ)の(おば)の夫を掃部允かもんのじょう(律令制で、宮内省に属して、宮中の掃除や設営のことをつかさどる官司の第三等官。)と稱し、武藏比企郡少領であった。 掃部允の死後其妻薙髪(ちはつ)(髻(もとどり)を切ること。また、頭髪をそること。法体になること。剃髪。)して尼となるが、 世に比企禪尼と稱する。能員を養ひて己の子となし、比企氏を(おか)さしむ。禪尼(かつ)て頼朝を乳養し、又伊豆の配所に 糧ヵを給すること二十年、嘗て乏しからざしめ、頼朝深く之を徳とした。禪尼に三女あり、 長は安達盛長に、(とつが)し、次は河越重頼に(ゆ)き、季は伊東祐清の妻となった。頼朝兵を起すに及び、能員は常に幕下に在りて、(やや)ゝ親近せられ、(しばしば)々功を樹てて右衛門尉に任ぜられ、 檢非違使けびいしとなった。能員の妻は鎌倉の二代將軍頼家の乳母となり、其女若狭局は頼家にちょうせられて一幡を生んだ。能員は北條氏を滅さんとし、謀漏れて族滅せられた。
   畠山重忠にしろ、熊谷直賞にしろ、西黨の平山季重にしろ源平時代に名を高くし武藏住人の譽を揚げたものは少くなった。村山黨の金子十郎家忠の如きは保元平治以来の勇士であった。 猪俣黨の岡部六彌太忠澄、丹黨の勅使河原權三郎有直、横山黨の横山太郎時兼・中條藤次家長・別府小太郎忠澄、野與黨の南鬼窪小四郎行親等を初めとして、武藏の武士殊に七黨の勇士は、 いづれも源氏倔起の風雲に乗じて、赫々かっかくたる功勲を史乗の上に殘したのであった。されば恩賞に與りて、諸方に領邑りょうゆうみ、 其氏族も各地方に分派して、繁衍(はんえん)することとったのである。
吾妻鏡文治三年(一八四七年一一八七年)三月十九日の條に、

上宮太子聖跡法隆寺領地頭金子十郎妨㕝、可停止之趣、去年下知給之處、猶不靜之由、 寺家帯院宣訴申雑色里久、可(いかるが)庄押領之由、 及沙汰件庄㕝、太子殊依執思食、有載趣、二品専所聞食驚也、
 下 播摩國(いかるが)庄住人  
止金子十郎妨一向従領家所勘㕝、右件庄可止金子十郎妨之由、 去年依院宣、令下知畢、 而金子十郎入置代官、令領庄之由、重所仰也、 甚以不當所行也、自今以後、早可令>停止其妨、若猶不用者、爲誡其沙汰人、 所遣使者里久也、早可廢彼妨之狀如件。

とある見れば、金子十郎は播磨(いかるが)庄一の地頭に任ぜられてゐたのである。又同年四月廿九日の條に、公卿勅使伊勢國驛家雑㕝勤否狀事とありて、 知行所を載せてゐるが其中、勤仕庄の中に多々利庄(四方田五郎弘綱知行)とあり、
勤仕庄の中には丹生山公田(四方田五郎)松永名(四方田五郎)、 粥安富名(岡部六野太)などが見えてゐる。猶建久元年(一一九〇年)四月十九日、内宮役夫人工作科未済成敗所々事の條に、淡路國國分寺、
知横山權守時廣とあり、
建久四年(一一九三年)七月二十四日の條にも
横山時廣より前足五後足四の異馬を献じ、是れ所領淡路國國分寺邊に出來したる山云々の記事を載せてゐる。'此等は單に其一端に過ぎないが、武藏の諸族が各地方に地行所を有してゐたことを知るに足りる。 従つで其一族が分派して地方地方に散在するに至ったことをト知すべきである。