2008年(平成20年)7月10日屋久島の登山中の岩場にて

武 蔵 武 士
(『(久米良作氏より依頼された)武蔵武士 笹川臨風著』 より転記)

第 六  史乗に現はれたる兒玉黨の人々

將軍義持の薨じた時に、鎌倉管領持氏は入りて之に代らんとしたが、成らなかった。義持の弟婿青連院大僧正義圓が還俗して將軍職を襲ぎ、名を義教と改めたが、 持氏は使いを送りて賀することを敢てしなかった。 正長二年(二〇八九年一四二九年)改元して永享と稱したが、 持氏はなほ正長の年號を用ひてゐた。義教は其の叛狀あるを疑いひ、富士遊覧に托して、鎌倉の動靜を探らんが爲に、 駿河に赴いたが、持氏は來り謁しなかった。持氏の執事上杉憲實は屢々持氏を諫めて、 兩者の間に疎隔を生ずるに至り、憲實は藤澤に屏居したが、持氏は強ゐて再び之を起たしめた。 永享十年(一四三八年ニ〇九八年)持氏は其長子 賢王丸に加冠せんとした。従前の例に依ると、必ず京都に告げて、 將軍の偏諱へんき(二字の名のうちの一字を忌み避けて、用いないこと。) を乞うのであったが、持氏のあや(れい)を鶴岡の八幡祠前に行ひて、自ら之を義久と名けた。憲實之を諫めたるもの聽かずして曰く、 還俗將軍何ぞ吾が子に冠するに足らんやと。紛糾を重ねて、憲實は執事をし、 上野の白井城に據(よ)った。持氏兵をして之を討たしめ、自らは武藏の高安寺に陣して軍を督した。憲實急を京都に告ぐるに及び、 將軍義教は持氏征討の論旨を請ひ、兵を遣はして憲實を援けしめた。 持氏勢は敗れ、持氏方であった關東の將士は轉じて將軍方の味方となった。武藏七黨も亦御多分に漏れなかったのであるから、 児玉黨も同斷であったろう。 持氏は窮蹙きゅうしゅく(こまって、ちぢこまる。)して、遂に鎌倉の永安寺に入り、幕兵の逼(せまる)る所となりて 自殺し、其子義久の亦誅(ちゅう)せされた。遺子安王・春王は日光山にかくれ、結城氏朝の奉ずる所となりて結城城に據った。 幕府は憲實の弟上杉持房をして之を攻めしめたが、久しく拔く能はずあった。寄手の勢中に兒玉・猪俣黨の族人が加わってゐたことは、八一頁に述べた通りであ。 七黨系圖に阿佐美太郎左衛門尉實高の後なる六郎左衛門尉景實が嘉吉元年(永亭十三年) (二一〇一年一四四一年)正月一日、疵(し、きず)を被つたことを記しゐる。 下記系圖は四方田氏に関する系圖検討により「弘高」と「家長 」の関係を訂正したものです。家長 を家弘の嫡流とした。

 家弘・・・→↓→家長 ・・・→↓→頼家(小太郎)
・→家次(本庄二郎左衛門尉) ・・・→家次(新左衛門尉)
・→定經
・→時家(本庄二郎左衛門尉)
・→時長(四郎左衛門尉)
・→弘高・・・・・・・→↓→弘定久下塚本庄二郎
・→忠家・→弘長四方田庄三郎
・→高家・→弘季庄四郎
・→弘 綱(北堀五郎)
・→弘方阿佐美庄五郎・・・→實高阿佐美太郎左衛門尉 《正治二年正月十九日壬右衛門尉、建保四年十二月十四日壬左衛門尉
従五位下、仁治二年正月 日死、武藤國兒玉御莊、野國高山御莊、同吾妻郡内中山村、越後國荏保、 又横曾保、又大積、加賀國島田村領之而彼所々各々子息等被充行處也》
・・・→ 實家太郎左衛門・→實村左近将監又號實行 ・→時國新左衛門尉法名本空・→實信左衛門七郎法名實蓮・→行義二郎左衛門尉法名道永 家實新左衛門尉法名道實・→實繼尾張守法名道繼・→ 景實六郎左衛門尉法名宗實《於此時代改本名庄》

嘉吉元年、城陥りて、安王・春王は囚はれて殺され、季弟永壽王は因はれたるも、其幼なるを以て死を宥された。後に古河公方成氏となったのは此永壽王である。
    将軍義敎は剛毅であったが、意甚だおごりて自ら用いること多く、功臣の濫殺されたるもの少なからず、遂に怨を招いて、 嘉吉元年六月、松滿祐の弑する所となり、其子義勝・繼ぎ立ったが、就職後、 二年にして薨じ、其弟義政がたった。關東にては持氏の季子永壽王をして鎌倉管領の後を襲がしめ、 寶徳元年(二一〇九年一四四九年)十一月三十日左馬頭に叙せられ、 名を成氏と改め、上杉憲實の子實忠を以て執事とした。しかるに成氏に取りて 憲實は父の仇であり、憲實の弟清方は兄安王・春王の仇であったから、憲忠に對しても不快の感情を有してゐた。成氏は又結城朝の子成朝を近習としたから、 憲忠と成朝との間にも自ら確執があった。憲忠は鎌倉の山内にゐたから、これを山内上杉と云ひ、扇ケ谷には上杉顯房がゐたからこれを扇ケ谷上杉と稱した。山内上杉は長尾景仲が之を佐け、 扇ケ谷上杉は太田資清を補佐してゐた。成氏は獨り結城氏の後を用いたばかりでなく、上杉氏の爲に殺された里見氏等の子を用いたから、此等の人々は上杉氏に對して復儺せんとするの遺志があった。 景仲・資清等は意安せず、成氏を攻め之を走らせたが、却って成氏の黨の破る處となった。幕府は之を命じて和解せしめたが、疎隔そかくせる意志は容易に解く事能はずして,この兩者の間には絶えざる闘爭があった。 幕府は駿河の今川範忠をして鎌倉を攻せしめてこれを火き、成氏は出奔して下總の古河を保つた。之を古河御所と云ふ。

長禄元年(二一一七年一四五七年)六月、 幕府は渋川義鏡をして關東を鎭撫せしめた。義鏡は關東の諸武將と議して關東の主帥しゅすい(指揮官)を置かん事を乞ひ、 将軍義政は弟政知を関東管領として下向せしめた。伊豆の堀越に居館を構えたから、之を堀越御所と云った。然し東國の將士は心を成氏に歸する者が多かつた。
扇ケ谷の上杉持朝は河越城を築いて、堀越公方を輔け、其宰太田道灌は江戸城を築いて、持朝及其子定政を輔佐してゐた。山内上杉家では顯定があって長尾昌賢が之を佐けてゐた。 堀越公方及兩上杉と古河公方成氏との間には戰爭が絶えなかったが、文明5年山内の宰長尾昌賢が死んで、弟忠景が之を襲いだ。昌賢の子景春之に平ならず、文明八年武藏鉢形城に據りて反し、成氏に應じた。 斯くの如くにして紛亂は更に一層加わって關東は麻の如く亂れたが、成氏と上杉との間には和議が成り、景春孤立して、鉢形城は太田道灌の陥れる處となり、上杉顯定は移りて鉢形城に入った。 顯定は道灌の威名あるを忌て之を除き、扇ヶ谷の勢力を殺ささんが謀ったが、扇ヶ谷の上杉定政はうまうまとその計略に乘せられて、文明十八年遂に道灌を殺し、顯定は之を機として定政を攻めた。 扇ヶ谷の勢力はお 衰えて、關東の將士は多く山内家に屬する事となった。之よりして顯定は鉢形城を根據とし、定政は河越城に據りて互いに其勢力を爭った。
斯くの如く武藏が戰亂の巷となったから、武藏の國人が其紛亂のうちに投じたことは云うまでもない。兒玉郡の五十子いかこの如きは屢々當時の戰場であった。五十子は本荘驛の東南一里の處にあって、今の北泉村の字である。 身馴川と九郷川・志戸川三水の會流地點で、鎌倉や江戸や河越から上州諸城への往還の要路にあたってゐる。上杉顯定が古河の成氏と戰った時も此處に陣を置いた。文明五年(二一三三年一四七三年)十一月、扇ヶ谷の上杉政眞は成氏と 五十子に戰って敗死した。此の政眞は扇ヶ谷の上杉持朝の孫で、持朝の後を襲いだのであるが、政眞が死んで、其子がなかった爲に持朝の子定政が嗣立しりつしたのである。 文明九年には長尾景春は五十子を襲うて、其處に屯營 してゐた兩上杉を破った。兒玉黨の根據地に近い處は斯くの如くに汗馬の馳違うふ地點となってゐたのである。
  更に當時の金城湯池と稱せられた鉢形城は荒川の斷崖絶壁にありて、武藏・上野を脾睨ひげい(へいげい)(城壁のくぼみから敵情を覗(のぞ)き見ること) する形勝の地であった。又河越城は天嶮の地ではなかったが、 平野の間に屹立きつりつして樞要すうようの地に當ってゐた。此鉢形と此河越とが對峙して爭ってゐたから、武藏一帯の地は全く混亂の狀態であったのである。
之より先、京都では將軍義政が政務に(つかれる)、子なきを以て弟義視に其職を傳へんとした。然るに偶々夫人富子が義尚を生むに及びて継嗣問題の爭いが起こり、 管領細川勝元は義視を奉じ、勝元と權力を爭ひたる山名宗全は義尚を擁して、遂に應仁の大亂を醸す事となった。之よりして足利氏の政令は行われず、畠山・斯波氏にも家庭の爭いがあり、 此等が縦横に錯綜して、京都は殆ど擧げて兵燹へいせん(兵乱によって起こる火事)く處となり、十一年の間兵久しく結んで解けなかった。關東が混亂している間に、伊勢の人伊勢長氏は 駿河の興國寺城より起こり、伊豆の堀越を襲ひて政知の子茶々丸を滅ぼし、伊豆を平定して、韮山に居り、更に力を關東に及ぼし、欵を扇ヶ谷の上杉定政に通じて、山内の上杉顯定を攻め、 進んで相模の小田原を取て、相模の大半を略した。長氏薙髪ていはつして早雲と號し、氏を北條と改めた。

早雲が相模の大半を略したりと聞いて、扇ケ谷の上杉朝良(定正の子)は之を撃たんとしたが、早雲は之と和して兵を遣はし援けて山内上杉氏を攻めしめた。 永正元年(二一六四年一五〇四年)九月、顯定は朝良を破り、進んで河越城を攻め、朝良は江戸城に移った。既にして顯定は其宰長尾爲景越後に叛したるを以て之を攻めて敗死した。 早雲は相模の三浦氏を亡ぼし、遂に上杉氏を滅さんとしたが、其志を獲るに先ちて、 永正十六年八月病死し、其子氏綱襲いで、江戸城を攻めて之を奪った。氏綱も亦父に肖て、善く兵を用ひ、 大永四年(二一八四年 一五ニ四年)正月には江戸城を占領し、天文六年(二一九七年一五三七年) 七月には河越城を奪った。古河公方成氏死して、嗣子政氏は其子義明と睦しくなかった爲に、義明は出でて下總の小弓に居りて、里見氏の奉ずる所となった。 之を小弓御所と稱す。政氏の子高基立つに及び、氏綱と結びて、氏綱に乞ふに小弓御所を攻めんことを以てし、 大永七年(二一八七年一五二七年)十月、 氏綱は小弓を攻め、里見氏を鴻之臺に破りて、義明を斬った。氏綱の子氏康も亦英雄の資ありて、北條氏の兵力益々振ひ、一擧して上杉氏を滅し、宿志を遂げんとした。 天文十二年(一五四三年)、山内の上杉憲政(顯定の養子憲房の子)は扇ケ谷の上杉朝定(朝良の養子朝興の子)と、古河公方高氏(高基の子)を奉じて河越城を攻む。守將北條綱成善く防ぐ。 天文十三年、氏康急を聞いて來り救ひて大に上杉氏を破り、朝定は亂軍の間に死して、扇ケ谷上杉氏亡び、ついで同廿一年正月、氏康は憲政を上州の白井に攻め、憲政出奔して、 山内上杉氏は亡んだ。氏康は晴氏を古河に攻めて之を陥れ、晴氏の子にして、氏康の妹を生む所の義氏を立てて之を下總の關宿に移し、古河公方の名のみを存せしめた。此に於て關東八州は殆ど北條氏の平定する所となったのである。

斯くの如く武藏相模の地が修羅の巷であったのにかゝはらず、兒玉黨を初めとして武藏七黨の名は殆ど史乘に現はるることなく、源平時代や鎌倉時代やに於ける如き活動が絶えて見えないのは、 要するに七黨の勢力が減退してゐた結果であろうと思はれる。その中でも兒玉黨・猪俣黨の如きは他の諸黨に比して、最も勢力があったのであるが、それすらもう活躍してゐない。 此勢力の減退は畢竟ひっきよう(ようするに、結局)するに戰術の變化が最も大なる所因をなしてゐのではあるまいか。騎射に長じた武藏の黨人原は一騎打ちの勝敗に於てこそ優者であったが、大部隊の懸引にて全局の勝敗 を決する時代に於ては、どうしても人後に落ちねばならぬ。よしや戰爭に参加したところが、大部隊中の一支隊に過ぎないのであるから、勇名を戰場に馳せる事は困難であった。 殊に伊勢長氏が裸一貫から關東平定の基を置いた様に、階級打破、閥打破が着々として實行され、智と力との競爭が烈しい時代であったから、舊氏族は滅亡し、むし、新氏族が興起し、 雄飛したのであった。武藏七黨の族人が活躍し得なかったのも、亦時代の然らしめた處であった。 本國に於ける兒玉黨の名が舊に比して現はれなかったに反して、中國筋に於ける兒玉黨は案外に振ってゐた。備中の莊氏如きは其一である。備中の莊氏は兒玉黨の莊太郎家長から出てゐる。 家長七世の孫資房の時、備中國川上郡高山に居城し、其後下道郡猿懸城に移った。爲資の時に至りて、上房郡の松山城を攻め城主上野頼久を走らせて之に據った。實に天文二年の事である。 元龜二年(一五七一年 二二三一年)、尼子勝久の備中を侵すや、莊氏は其旗下に馳せ參じ、其後毛利氏の攻むる所となりて、高資(爲資の子)は戰死し、高資の子勝資は出雲に走った。  天正三年(一五七五年)勝資は小早川隆景の招く處となり、備前の兒島をせめて陣歿した。其子宮丸は父の功によりて英賀郡高釣瓶城にゐたが、長じて三郎次郎と稱し、豊太閤の朝鮮征伐に従ひ蔚山うるさん城外に戰死を遂げた。 其他備後の神邊に莊三郎元遠あり、播磨に莊右京亮などがあったが、何れも兒玉黨の族人であろう。備中穂田の莊式部少輔元祐・安藝の兒玉長門守就吉・兒玉三郎右衛門就忠の如きは、固より兒玉黨の人々であったのであ。

尼子勝久は備中國を切り従へ、備後口より藝州へ可切入然らば宇喜多と牒し合せばやとて、此旨を被云送ければ、直家も尼子の加勢に因りて、備中を手に付ん事を悦び、頓に領掌して大將一人被差越候へと 被返答ける間、元龜元年(一五七〇年)正月中旬、秋上三郎左衛門綱平を將として、二千餘騎差向けらる。(中略)かくて松山城に在りける莊の高資・其子兵部大輔勝資・同苗右京之進・植木下總守秀資・津ゝ加賀守・福井孫六左衛門等三千五百餘騎 國中へ打出て、鴨方の細川を初め、二、三ヶ所攻落し、そりより竹莊を攻めんとす。此由至藝州注進しければ、爲討手元晴(毛利)に八千餘騎を附て差向られける間、三村元親先陣に進み、先づ松山城を一時攻に攻落し、 城主高資を始め、男女百餘人切捨にし、其後國中に此間敵に降りける者ども,一々に攻取るべしと擬せられけり。此勢を見て、敵共皆己が城を守りて敢て戰はんとする者も無く、或は降參する者多かりける故、植木莊も國中に堪へ兼ねて、出雲へ落行ける程に、 今は國中に手に遮るも者もなければ元晴猿懸に在城して、一國を指揮せらる。(陰徳太平記)

周防の大内氏は累世の餘威に依りて、中國に覇を稱し、九州の諸國を平げ、大内義隆は太宰少貮に任ぜられ、周防・長門・豊前・筑前の守護となり、出雲の尼子氏と爭ひ、 安藝の武田氏を滅し、備前・備中を風靡ふうびするの勢あり、其居城山口は京都にならひて、條坊を制し、風流讌遊ふうりゅうえんゆう (くつろぎ落ち着いて酒食を楽しむ。讌楽えんらく・・酒宴の余興の音楽)、を喜び、京様に擬した。然るに其臣陶晴賢が相良武任と權を爭ひ、義隆は武任を信じて晴賢を疎んじたから、 遂に晴賢の怨む所となりて、天文二十年(一五五一年 二二一一年)九月、其の攻め殺す所となった。安藝の毛利元就はもと大内氏に屬してゐたが、大内氏の内亂に乘じ、義隆の爲に儺 を復するを名として、 弘治元年(一五五五年 二二一五年)、晴賢入道全薑を厳島に誘ひ、風雨の夜之を破った。晴賢自殺して、毛利氏は大内氏に代はることとなった。