武 蔵 武 士(『(久米良作氏より依頼された)武蔵武士 笹川臨風著』 より転記)

児 玉 黨《以下笹川臨風氏著》

第 二  武蔵七黨

勇幹なる武蔵の武人は一定の根據地に於て繁衍(はんえん)したる其一族を以て一団結を作り、多くの家人を有し、平居(へいきょ)には弓馬の道を講じ、 一旦事ある時は戦闘に従事したのであつた。其の(ようや)(あらわ)れるは'保元平治亂からであって、源平二氏の亂を経て、南北朝の間に至りて其勇名を馳せたのである。 武臓の國人は勇幹であったに相違ないが、七黨が中世以後戦闘史上に光彩(こうさい)(はな)つた所以は、職として其多数が厩牧(きゅうぼく) に開係したに由るのである。厩牧令(きゅうぼくれい)に。

(およ)そ牧は牧毎に長一人、帳一人、(むれ)毎に牧子二人を置け、其牧の馬牛は皆百を以で群をなせよ。
凡そ牧に在る駒犢(こまとく)( 駒==仔馬、犢==子牛)は二歳に至らば、 年毎の九月に、國司、牧長と共に(むか)いて官の字の印を以て左の(もも)の上に印せよ。(こうし)は右の髀(もも)の上に印せよ、並に印し(おわ)りなば、よろいに毛の色齒歳を(ろく)して、 簿兩通(ぼりょうつう)(おさめ)れ、一通は國に留めで案となせよ、一通は朝集使ちょうしゅうし(奈良・平安時代、四度の使いの一つ。諸国から所管の国郡司の考文(勤務成績評定書)および雑公文を携えて毎年上京する使い。 )に(ふ)(帳簿に記入)して太政官に(もう)(報告)せ。
凡そ牧馬、乗用に堪ふべくは、皆軍團に(ふ)(あずける)せよ、當團の兵士の内に於て、家富んで養ふに堪へたるものを(かん)(えらんで)んで(あ)てよ、其上番及雑の駈使(くし)を免せ。
凡を諸道に驛を置くべくは、卅里毎に一驛を置け、若し地勢阻瞼(そけん)、及水草無からむ處は、便に(したがえ)(成り行きに任せて)て安置せよ、里數を限らざれ、其乗具及(みの)(かさ)等は、各々置ける所の馬の数に准じて備へしめよ。 (そう)なる者を取りて充てよ、馬毎に各々中中の戸をして養ひ飼はしめよ、若し馬闕失(けしっ)するあらば、即ち驛稻(えきとう)を以て(いち)かえへよ、 其傳馬は郡毎に各々五、皆官(かいかん)の馬義解ぎげに曰く、 ふは軍團の馬を以て之にあてつるなり、其驛馬も亦同じ)を用ひよ、若し無くば常處の官物を以て市ひ充てよ、通じて家富んで兼丁(けんてい)ある者を取りて付けよ、 やしないて以て迎送に(きょう)せしめよ。
おおよそそ驛及傅馬に乗りて、前所に至りて替へ換ふべくは、並に(とう)(走ること)し過すことを得ざれ、其の馬無きの處は此令を用ひざれ。
凡を軍團の官の馬は、本主、郷里の側近十里の内に調へ習はんと欲せば(ちょう)(いう通りにまかせる)るせ、家に在りて非理に死失せば、六十日の内に備へ替へよ、即ち身死し、家貧しくしで、備ふるに堪へざるものは此令を用ひざれ。
凡そ驛傅馬は年毎に國司検簡(けんかん)せよ、其の大に老ひ病みて乗用に堪へざるものあらば、便にしたがいひて貨賣れ、 得たらむあたへ若し少くば、驛馬は驛稻(えきとう)を添へよ、傅馬は官物を以て市ひ替へよ。

驛馬・傳馬としで、交通の用具であつた馬は、また戦時に於て馳驅ちくの用に供する必要なる機關あつた。天智天皇の元年(六六八年)には、 大に牧地を置き給ひ、天武天皇の七年、(六七八年)には、親王諸臣省百寮ももつかさに兵馬を畜養すべきを令し給ひ、同十一年(六八ニ年)には、文武官は務めて兵 を用ひ馬にることを習ふべし、馬あるものを騎士となし、馬なきものを歩卒とす、若し詔旨(しょうし)(さから)ひ、 馬兵うまつわもの便(たよりに)ならず、及器械關乏するものあらは之を罰すべしと(しょう)せられた。軍團の制置せらるるや、 弓馬に便なるものを騎兵となし、餘を歩兵とした。

牧場に御牧・國牧があり、御牧は帝室の直轄にして。左右馬寮の管轄に屬し、國牧は兵部省に屬している。延喜式に依ると、御牧は甲斐・武藏・信濃・上野に在りて、武藏の御牧は、石川牧・由比牧・小川牧・立野牧とある。此等の牧場に飼養せられた馬は、 毎年九月十日、國司が牧監若くは別當等と牧場に臨場りんじょうして檢印し、之を帳に記し、四歳以上にして用にふべきものを選定し 、翌年八月、牧監等にに附して之を貢進(こうしん)する。若し公貢に>あたらざるものあらば、之を驛傅用とする。但し信濃国だけは 此(かきり)に在らずとある。信濃・甲斐・上野の御牧では其長を牧監と云ったが、武蔵では之を別當と稱した。年貢の御馬は 甲斐六十疋・武蔵五十疋(諸牧三十疋・立野牧二十疋)・信濃八十疋・上野五十疋であった。叉諸國牧は遠江(とおとうみ)駿河(するが)相摸(さがみ)武蔵(むさし)安房(あんぼう)上總(かずさ)下總(しもうさ)常陸(ひたち)下野(しもつけ)伯耆(ほうき)備前(びぜん)周防(すおう)長門(ながと)伊豫(いよ)土佐(とさ)筑前(ちくぜん)肥前(ひぜん)肥後(ひご)日向(ひゅが)にあったが、 武蔵の牧は檜前(ひのくま)牧であった。其牧場の馬が五、六歳となれば、毎年左右馬寮にすすめる。但し西海諸國では之を太宰府に進めた。 左右馬寮では均分に檢領し、(おわ)りて之を兵部省に移す、其數は武臓に於で十疋であっ穴。毎年十月以前に之を貢上するのを例としたので朝廷 では之を近都の牧に放飼はなしがいした。近都牧とは、右馬寮に屬する攝津國(せっつのくに)鳥養牧・豊島牧・爲奈野牧、左馬寮に屬する近江國甲賀牧・ 丹波國胡麻牧・播磨國垂水牧であった。飼養法としては、放飼の、他に、櫪飼(いたがい)( 馬を板囲いの厩(うまや)で飼うこと。厩飼い。また、その馬。板立(いただち)。立飼(たてがい)。⇔放し飼い)・ 繫飼(けいし)(つないで飼う)・國飼(こくし)があった。櫪飼(れきし)とは櫪( 「クヌギ」、かいばおけ(カヒバヲケ)。牛馬のえさを入れる容器。まぐさおけ。また、馬屋のゆかに並べた敷き板。) 中に養ふを云ひ、・繫飼(けいし)は牧馬を繋いで之を調すると云ひ、國飼は左右馬寮より御馬を山城・大和・河内・攝津・伊勢・近江・美濃・丹波に附して養はせるので、 山城六疋・大和五疋・河内六疋・攝津十疋・伊勢十疋・近江十疋・美濃十疋・丹波五疋であった。叉山城に美豆厩ありて、御馬の肥えざるものを養つた。

朱雀天皇の承平不元年(  一五九一年九三一年)、(一五九一年九三一)、

武蔵の小野牧を、同三年秩父郡石田牧・兒玉郡阿久原牧を勅使牧(御牧と同じ)とした。小野よりぼ四十疋を毎年八月二十日京に進め、秩父よりは二十疋、八月十三日に之を貢した。

村上天皇の天暦六年(一六一二年九五二年)には、

此頃甲斐・武蔵・信濃・上野の貢馬が期に違ひ、及例數を減じたから、勅して國司・牧監を責め、共の期に後れ、數を限ずるものは 牧監に他の功勞ありとても、賞例に預らず、屢々(しばしば)闕怠(けったい)を致すものは其任を解郤かいきゃくし、國司の五位以上は位祿を奪ひ、六位以下には 罰俸を命ぜられた。しかし朝威地方に及ばず、是後諸國よりの歳貢は多く期限に後れて、或は冬に至り、甚しきは明年に至った。就中なかんずく、甲斐の諸牧の如きは毎年例貢を減じ、或は□馬を進めたから、

一條天皇の寛弘九年(一六七二年一〇一二年

嚴に之を責むるの詔勅(しょうちょく)を發せられた。 けれども地方制度の紊亂(びんらん)(はなはだ)しく、到底狂瀾(きょうらん)既倒(きとう)めぐらすことは(かた)くあつた 《【廻狂瀾於既倒】狂瀾を既倒(きとう)に廻(めぐ)らす (韓愈の「進学解」の「障二百川一而東レ之、廻二狂瀾於既倒一」による。倒れかけた荒れ狂う大波を来た方向へ押し返す意から)傾きかけた形態を再びもとの状態へひきもどすこと。》

堀河天皇以後になると、

甲斐・武藏等は馬を貢せず、但し信濃のみは、猶左馬寮に屬して貢進したから、十六日の駒牽(こまひき)は僅に舊例を存してゐたが、 衰替すいたいはなはだしきため、一疋の馬を進めて故事に供するほどに憫然(びんぜん)なものであった。しかも馬の所有權は漸次武士階級の手に移つたのである。

こまひき【駒牽・駒引】
一 中古、毎年八月中旬に、諸国の牧場から献上した馬を天皇に御覧に入れる儀式。天皇の御料馬を定め、また、親王、皇族、公卿にも下賜された。もと、国によって貢馬の日が決まっていたが、 のちに一五日となり、諸国からの貢馬も鎌倉末期からは信濃の望月の牧の馬だけとなった。秋の駒牽。《季・秋》
二 中古、毎年四月二八日(小の月は二七日)に、武徳殿で天皇が馬寮の馬を御覧になった儀式。天皇が前庭を通る馬を御覧になり、その後で舞楽の演奏、 饗宴などが行われた。五月五日の騎射の準備。《季・夏》

御料牧場たる御牧、官牧場なる國牧の他に、驛傳馬・農耕用駄馬を飼養する牧場も固より多かったであらう。平野戰の多かった時代に、騎馬は卓越用務を帯びてゐた。 大庭平太景能は保元合戦のことを語り、信西八郎爲朝の矢を免れたことを述べて、
「勇士は只騎馬に達すべき事なり」と云つてゐる(吾妻鏡建久二年八月一日の條參看)。
騎馬にすぐれたことは當時の平野戦に於ける優越者であった。團體の勢力よは、中心の勢力を重んじ戰戦であったから、一騎打の勝負が多かつたのである。
  地方の武士が馬を重んじたことは。云ふまでもなく、其の大名と稱するものは、概ね數十疋を畜養した。源頼光が賓客に馬の引出物をしたと云ふは有名なる話で、 源頼朝は嘗で一百匹を後白河法皇に献じ、叉一千匹を施しで東大寺の落慶式を行った。
   武蔵七黨は普通に横山・猪俣・野與・村山・西・兒玉・丹を稱するが、野與を加へずに、私市(きさい)を入れる説もあり、又綴・私市を加えて野與・村上を省いたのもあり、 又西・村山を除いて綴・私市を加えへたものもあり、山口黨を加へたものもある。蓋し武藏には當時斯る黨が多かったであろうから、其中の勢力ありたるものを選んで七黨と稱したしたのであらうが、 勢力の消長ありたるために、時代に依りて互いに出入りがあったのであろう。但し横山・猪股・丹及兒玉だけは必ず七黨の員に備ってゐたので、以で其の勢力の長く著しいものがあったことを知るに足りる。
  下野に於け那須七黨・下總の下總七黨・宇都宮の紀清兩黨・攝津の渡邊黨・伊勢の白兒黨・出雲の新宮黨・肥前の松浦黨の如ぐ、此頃には何々黨と云ふ團結が到る處にあった。

 源平盛衰記に、
「かかりければ大名小名、黨も高家も」とあるが如く、
一族のものが集まっ團結をなし、族長戴き、其下に家人郎黨を置き、其姓対に依りて黨名を稱したのである。然るに武蔵七黨堂はいずれも牧場に關係があった。横山・猪俣両黨は小野氏で、 小野牧に關係があり、丹黨は丹治氏で、秩父郡石田牧、西黨は日奉氏で由比牧・小川牧等に關係し、児玉黨は阿久原牧に關係してゐた。横山・猪俣の 二黨は小野氏より出でゐる 小野篁の七世孫を隆泰と云ひ、武蔵守となり、義隆を生んだ。義隆は横山に住んで、横山大夫と稱した。横山は今の八王子市地方である。

萬葉集に
「赤駒を山野にはなしとりかねて多麻の横山かちゆかやらむ」とあり、
古き峙より馬の放飼があったことが知られる。由比牧・石川牧も此附近であった。
《以下の記述は、主に各黨の出自及びその庶流について述べているので省略します。》