武蔵武士(『(久米良作氏より依頼された)武蔵武士 笹川臨風著』 より転記)


往昔おうじゃく、源平覇を爭ひ公武勢を異にするや、諸國武士各々むかふ所に従ひ、馳驅ちく攻戰してかえるを忘れたり。 當時武相ぶそう二州の兵勇、強猛無比と稱せられる。
  抑々そもそも武藏の地たる、西半は秩父の山塊重疊さんかいじゅうじょうして天瞼てんけんを形り、東半は關東の平蕪茫漠へいぶぼうばくとして八州に連り、 牧馬豐草まきばほうそうに肥え、民庶騎驅きくに慣れたり、中古、諸國に武士の興起の風盛なるや、多年鬱勃うつぼつの気此土にこご りて遂に所謂武蔵七黨を現出す。我が児玉黨亦其一に屬せり。
   予、児玉黨發祥の地に於て其正系の一に生れ、祖先の勇武奉公ゆうぶほうこうの事蹟に關する傅説を聽くや久しと雖も、兒玉黨の由來と本來の面目と其末流とに付きて首尾照應しゅびしょうおうすべき文獻あるを知らず、 一度幼時庭訓ていきんを囘想し、祖先の雄飛に至る時、其文獻完からざるの憾はただ隔簾観花かくれんかんかの比に非ざるなり。
おもふにふるきたずねてあたらしき知るは

人間進歩の要諦ようていなり。

然るに這回しゃかい世界大戦の後、人心いたずらに新奇をむか ひて反思省慮のひまなく、長短をつきあわせず、 唯々皮相の見に蠱惑こわくして推移之れおくれざらんことを おそれるゝもの如し。勢の急轉する所すこぶうれ ふべきものありと雖も或はむをざらんかくして數代をさば僅に存する児玉黨の史料の如き遂に 湮滅いんめつして再び求め難きに至るなきをやすんせず、 之れあに拱手きょうしゅ傍視ぼうかんするに忍びんや。

是に於いて報本反始ほうほんはんしの情と、郷里の子弟をして郷土史に通曉つうぎょうせしめんとの念とに依り、多年舊識たる臨風笹川種郞氏に しょくするに兒玉黨の事蹟を編纂して祖先の遺風顕彰けんしょうし、 併せて時勢の變遷に具へんことを以てし、其快諾を得たり。
  臨風氏の學殖文藻ぶんそうは世既に定評の存する所、今、斯人の靈筆に依りて 闡明せんめいせられたる我が兒玉黨の本来を讀めば予が宿年しゅくねん遺憾忽然いかんこつぜん霧消し、いささか祖先考妣こうひ (亡くなった父と母)の為めこたふるあるを感ずると共に臨風氏の勞を多としてまざるなり。
過去邈焉ばくえんたり未來茫乎ぼうこたり、之を法界に於て観ずれば、 一切無何有むかうに屬し、先祖の事蹟と子孫の出所と何の増減かあらん。然れども之を色界に求めば いささか末の行動の遼遠りょうえんの事象も必ず眼前に因果を現じ、 一つとして徒爾とじなるものし。本書世に出でて何物を増加し た何物を果報は敢へて之を究むるを要せず、 予は唯々斯時斯人に依りて本書を得たる囚縁が、予の介在に依りて熟したるをよろこ 而已まくのみ(ノミ)。以て序となす。
大正十一年九月
久米良作

児 玉 黨《以下笹川臨風氏著》

第 一 児玉郡

北には利根、南に荒川の二長流、蜒蝘えんえん帯の如ぐ西よこり南にかけて山岳重疊し、遠く秩父山系に連なり、東は沃野よくや渺茫びょうぼう として目も遙かに所謂古の武藏野をしのぶに足りるものは、即ち兒玉郡の地勢である。武藏の國に在りて、児玉郡は其西北隅に位し、利根川・神流川を境として、 上野こうづの國と相接し、東は大里郡と接壌せつじょうし、南は山嶽を以て秩父郡に隣してゐる。和名抄に古太萬こたまとあり、 郡界の變遷は之れありしも、明治二十九年に至り、那珂・賀美二郡を併せて今の兒玉郡を形づくつたのである。
武蔵はもと武蔵・秩父の二國ありて、兩國造くにのみやつこが並置されてゐた。

古事記に

天菩比命あめほひのみこと之子、建比良鳥命たけ  ひ  ら  とりのみこと、此出雲國造・ 无邪志むさしの 國造・上莵上かみつうなかみの國造・下莵上しもつうなかみの國造・伊自牟いじむの 國造・津島縣直あがたのなお遠江とおとうみの國造等祖也」とありて、

此无邪志國造は、即武藏国である。もとはムザシと濁音に訓じてゐたのが、後に清音のムサシに轉じたことは、和名抄に牟佐之むさしとあるにて分る。

崇神天皇
の朝に知々夫(秩父)の國を置き、知々夫彦命を以て國造となし、
成務天皇
の朝に无邪志むさしの國を定めて、兄多毛比命 え た  も   にのみことを以で其國造に任じたことが舊事記に見えてゐる。但し同記には无邪志國造の他に胸刺國造とありて、
岐閇きへの國造祖、兄多毛比命伊峽知直いさちなお、定賜國造とあるが、」

此胸刺は同じくムサシで、兩國あるにてはない。伊峽知直は父の兄多毛比命の後をいだに過ぎないのである。 ムサシの語源に就いては、諸説あるが明らかでない。武蔵野がありて、それから國名が出たのであらうとのと一説がむし 首肯しゅこうされるやうに思ふる。武蔵野の區域は固よりそれと確かに判定することは出來ぬ。太平記に
「四方八百里にのこれる武蔵野に」とあるは、 誇大に失してゐるが、

菅原孝標女の更科日記に、
むらさき(別名みなしぐさ)ふと聞く野も 葦荻あしはぎのみ高く生ひて、馬にまたがりて、弓持たるすゑ見えぬまで、高く生ひ繁り.中を分行に竹芝と云ふ寺あり」とあるは、

平安朝の中葉以後に於ける海邊寄りの武蔵野の光景であつた。其後になると
道興准后の迥國雑記けいこくざっきに、

武蔵野にて殘月を眺めて、

山遠し有明殘る廣野かな

同じ野を分けくれてよめる、

草の原分もつくさぬ武藏野の

今日の限りは夕なりけり

此夜は此野に假寝して、
 色々の草花を枕に片敷て、
  少しまどろみ夢の覺めけ
    れば、

花散りし草の枕の露の間に

夢路うつらふ武蔵野の原

 

武蔵野の草に假寝の秋の夜は
 

結ぶ夢路も果やなからん

此野の末にあやしの賤の屋にまりて雨を聞きて、

旅枕都に遠きあづまやを 

幾夜か秋の雨になれけん

と記し、
柴屋軒宗良さいおくけんそうちょう
(室町後期の連歌師。号、柴屋軒、長阿。駿河の人。宗祇の門人で、師の没後、郷里宇津山麓の丸子に柴屋軒を営み、京都と駿河の間を往復。) の東路の津登に、同じ處(勝沼)に山寺あり、前は武蔵野なり、杉本坊といふにして、

露をふく野風か花に朝曇

武蔵野の景気ばがりなり。

同(永正えいしょう六年 1509年)八月十五日、氏宗同じく息政定、これから駒打ち並べ、武蔵野の萩薄しゅうはくの中を過行がてに、長尾孫太郎顯方の館鉢形と云ふ處に着きぬ。 政定馬上ながら口すさびに、

武蔵野の路のかぎりは口すさびに、

秋の風をばしら川の關(中略)

鉢形を立て、須賀谷と云ふ所に、小泉掃部助の宿所に一日休らふ、人數はなくて、懐紙かいし表八句、

冬枯れやかやが下葉の秋の風

武蔵野の東野中の程なるべし。

霜枯の景気けいきばかりなり。

とあるは、いづれの足利季世の武蔵野觀であった。十郡にまたがにりて西は秩父峯、東は海、北は河越、南は向ヶ岡、都筑つづき原に至るなどと限界を立てるものもあるが、 必ずしも確乎としてかく限定すべきものでない。江戸の西北に連なる武蔵一帯の地は、おしなべて之を武蔵野と稱したのであろう。

日本武尊命が蝦夷を征し給へる時、甲斐より北に轉じて、武臓上野を歴給へるたまひしことが、 日本書紀の景行紀に見え、神功紀に武藏の人千熊長彦、仁徳紀に武蔵の人強頸、雄略紀に武蔵國直丁のことが見えてゐる。安閑紀に武藏國造笠原直使主が同族小杵と國造を爭ひ、年を経て決しないので 小杵は密に援を上毛野君小熊に求めて使主な殺さんとはかった。

使生之れをさとり、京に走りで之れを訴へたから朝廷はを断じて使主を國造となし、小杵を ちゅうす。使主乃ち国家の爲に横渟・橘花・倉樔の屯倉みやけ(あるいはとんそう)を献じたとある。笠原直は出雲臣と同族であつたが、太子傅暦に、 舎人とねり物部連兄麻呂にかばねを武藏國造を賜ふとあるに依ると、其後國造家は一變したこと見える。ムサシの國號に武臓を宛てたのは大化改制後のことで、 秩父・横見・橘樹・多磨・久良の諸郡を置かれた。

天武天皇十三年五月の條に

帰化の百済僧尼及俗人男女二十三人を武蔵の國に置き、

持統天皇の朱鳥おかみ元年 (神武紀元一三四六年 西紀六八六年)四月の條に

筑紫の太宰府より献ぜる新羅しらぎ僧尼及百姓男女二十二人武蔵に置き、

同四年 (一三五三年 六九三年)二月の條に、

帰化の新羅韓奈末許満等十二人を武蔵に置いたことが見え、

元正天皇の靈龜二年 (一三七六年 七一六)五月

駿河・甲斐・相模・上總かずさ下總しもうさ常陸ひたち下野しもつけ七國の高麗人こまうどびと千七百九十九人を武蔵に遷して高麗郡こうらいぐんを置いた。

聖武天皇の天平五年(一三九三年 七三三年)六月

武蔵の國埼玉郡新羅の人徳師等男女五十三人の請に依りて
金姓となし、

淳仁天皇の天平寶字二年(一四一八年七五八年)八月

帰化の新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人を武蔵の國の閑地に移し始めて新羅郡を置き同四年四月、帰化の新羅人百三十一人を武蔵國に置いた。 斯くの如く帰化人が多かったのは、韓半島に於ける支那民族の壓迫の結果で、唐の太宗が高麗征伐は遂に高宗の朝に成功し、亡國の遺臣は爭って我に投帰することとなったのである。我が朝廷が此等亡命の客を優遇せられことは、

天武天皇の十年 (一三四二年六八ニ年)八月
三韓諸人へのみことのり

「先日十年の調税を復し、既にはんぬ、且つ加ふる帰化初年ともに來るの子孫を以て並びに課役悉く免ず」とあり、

同四年二月には、
唐人、百済人、高麗人並に百四十七人に爵位を賜ひ、同年九月には、化來の高麗人等に祿を賜ひ各々差あり、
元正天皇の養老元年(一七七三年七一七年)十一月甲辰きのえたつの詔に

「高麗百済二国國の士卒、本國の亂に遭ひて聖化せいかに投ず、朝廷其の絶域ぜついきなるを憐みてふくを給し身を終らしむ」とあるにても、
皇恩の浅からざることが知られる。帰化人の子孫が優遇せられた一例としては、

續日本紀、延暦八年(一四四九年七八八年)の條下にある高倉朝臣福信のことを擧げ得る。

冬十月乙酉、散位従三位高倉朝信福臣みまかるず。福信は武蔵の國高麗郡の人なり。本姓背奈せな、其祖福徳、唐の 季勣きしゃく(唐の末期ごろを表すのではないか)に屬して平壤城を抜く。國家みかどに來歸して武蔵に居る。 福信は即ち福徳の孫なり、少年、伯父背奈行文にしたがひて都に入り、時に同輩と晩頭、石上衢いしがみのちまた(町>) に往き、遊戯相撲し、巧に其力を用ひで其敵に勝つ。遂に内裏に聞え、召されて内堅所に侍せしむ。是より名を著はし、初は右衞士うえし大志に任ぜられ、 ようやくうつり、天平中。外従五位下を授けられ、春宮亮しゅんきゅうのすけに任ぜらる。 聖武皇帝甚だ恩幸を加へらる。勝寶しょうほうの初、従四位紫微少弼しびしょうひつに至り、本姓を改めて高麗朝臣を賜はり刑部大輔に遷る。 神護元年、従三位を授けられ、造宮卿ぞうぐうきょう(しゅんきゅう【春宮】1 皇太子の居住する宮殿。また、皇太子。とうぐう。2 春の神の宮殿。《季・春》、【春宮亮】しんきゅうのすけ  律令制で、春宮坊の次官。) を拜し、兼て武臓近江守にる。寶龜十年、上書して言ふ、臣聖化せいか>(せいか(‥クヮ)【聖化】帝王の徳化。しょうか。2 キリスト教で、「きよめ」のこと。) 投じてより年歳すでに深し、但し新姓の榮、朝臣過分と雖も、而かも舊俗の號、高麗未だ除かれず、伏して乞ふらくは高麗を改めて高倉となさんと。為に之を許す。天應元年、 弾正尹兼武藏守に遷り、延暦四年、表を上りて身を乞ひ、借位を以て弟に歸す。こう(みまかる)ずる時、年八十一。

此等の帰化人は武蔵野開墾の爲に移住させられたのである。彼等は獨り農耕にのみ力をつくしたのではなく、韓半島の文化を移植して、 機業にも力を致したのであるから、東國文化は此原始的曠野あらのに其根を芽生めばへしたのであった。

婦化人の武蔵野移住は史上に見えたる以前にも相當に行はれたのであらう。秩父郡の採銅も彼等韓人の手に依って行はれたのであった。

元明天皇の元年(一三六八七〇八)正月十一日、

武蔵の國秩父郡より熟銅を献じた。朝廷は之をみして、元を和銅と改められた。

く治め賜ひいつくしみ賜ひつる天津日嗣あまつひつぐ (あまつひこねのみこと【天津彦根命】天安河(あまのやすのかわ)で、素戔嗚尊が天照大神に誓約(うけい)を行なった際生まれた、五男神中の一神)のわざと、 いますめら(天皇、あるいはこれと深い関係のある人や神の意を、敬意をこめて表す。「天皇(すめらぎ)」「皇御国(すめらみくに)」 など他の語と複合して用いることも多い。すべら。)、わが御世に當りてませば.あめつちの心をいとほしみいかしみ、かたじけなみ、 かしこみいますに聞こしめすをす國の中の東の方武蔵の國に、自からに成れる和銅にぎあかがね出でたりとそう してたてまつれり、此の物は天にます神、にますか(くにつかみ)(くにつかみ。地の神。▽神(天のかみ)に対する。)のあひうづなひ(うずなう(うづなふ) 【珍う】〔他ハ四〕(「なう」は接尾語)良しとする。大切に思う。うずのう。*続日本紀‐和銅元年正月一一日・宣命)まつり、さきはへまつることによりて、うつくしく出でたるたからにあるらしとなも、 神ながら思し召す、是を以て天地の神のあらわしまつれる瑞寶しるしのたからに依りて、御世の年號改め賜ひ、換へ賜はくとり賜ふ大みことを、 もろもろ聞し召さへとのる、故に慶雲きょううんの五年を改めて和銅の元年はじめめのとし御世の年號と定め賜ふ、是を以て天の下に慶びの大命を詔りたまはく云々。

依りて天下に大赦し、高齢のものをにぎはし、孝順のものを門閭もんりょう旌表せいひょうし、 鰥寡孤獨かんかこどくのものをめぐみ、百官に物を賜ひ、諸國郡司に位二階を加へ、武蔵の國今年のよう、 當郡の調ちょうを免除した。和銅の發見者金上旡・日下部老・津島堅石には従五位下を授けられたが、此金上旡は歸化の新羅人の子孫であると云ふことである。叉此採掘に就ついては、 高麗の歸化人であった羊大夫なるものが與りて力多かつたと傳へられてゐる。羊大夫のことは傅説にのみ存在してゐる。秩父郡の金澤村は當時の採銅所であり、和銅開珍と云ふ銅鑄を鑄造した鑄錢司ちゅうせんつかさ は同郡里谷村に置かれた。羊大夫は其一類の歸化人を引率して此事業に盡瘁じんすいししたのであつた。上野三碑の一なる上野國多野郡吉井町大字池村にある多胡の碑は、 催鑄錢司の長官多治比眞人三宅麿の奏請そうせいに依りて、和銅四年(一三七一年七一一年) 六月九日上野の國に多胡郡が置かれて、羊大夫が其郡領に任ぜられことを記念の爲に書き留めたものだと云ふ。

碑文に

「辨官符、上野國片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成、給羊成多古郡和銅四年六月九日 甲寅きのえのとら宣左中辨五位下多比眞人、太政官二品穂積親王、左大臣正二位石上尊、右大臣正二位藤原尊」とあるは、

  即ち其事蹟を傳へたものであるとのことだ。

武蔵野は婦化韓人の力に依りて、其草莽(そうもう)を開き、到る處に墾田墾地を見たが、曠野(あらの)の名殘は猶遠く後世にまで及んだ。 しかし京都とは關山百里(かんざんひゃくり)隔て、其行程は上二十九日、下十五日と稱せられてゐたのであるから、西の文化が此に及ぶことは稀れで、 長く文化史上に其痕(そのあと)を留めなかった。渺茫(びょうぼう)たる曠野(あらの)のまだ開拓されない所が多いから、 人煙(じんえん)稀少(きしょう)であつた。従つで盗賊(とうぞく)出没(しゅつぼつ)することも多く、治め難しと稱せられてゐた。
  武蔵はもと東山道に屬してゐたが、光仁天皇の寶龜二年(一四三一年七七一年)十月、改めで東海道に屬することとなつた。

績日本紀の光仁紀に、

寶龜二年十月、太政官(もう)す、武蔵の國は山道に屬すと雖も、兼ねて海道を(う)け、公使繁多にして秖供(しきょう)(たえ)へ難し。 其東山の驛路(えきろ)((うまや)(みち)驛路(うまやのみち))は、上野(こうずけ)の國新田驛(にったのうまや)より 下野國(しもつけのくに)足利驛(あしかがのうまや)に達す、 此れ便道なり、而して上野國(こうずけのくに)邑樂郡(おおらくぐん)より(みだれ)り、五箇の(うまや)を經て武蔵國に到り、事おわりて去るの日、 叉同道を取りて下野國に向ふ。今東海道は相模國夷參驛(いさまのうまや)より下總國しもふさのくにに達するまで其間四驛、往還便近なり、 (しか)るに此を去りて彼に就くは損害極めて多し。臣等やっこなど商量するに、東山道を致して東海道に屬すれば、公私所を得て、人馬(やすむ)ふあらんと。奏し可とす。
とあるは、 即ちそれであり。

奈良朝より平安朝の初へかけてます々催された蝦夷征伐には武藏の國人も他の東國人とともに使役(しえき)せられた。
元明天皇の靈龜れいき元年(七一五)五月には

武蔵・相摸・上總・常陸・上野・下野等六國の富民一千戸を陸奥に移住せしめ、聖武天皇の神龜じんき元年(一三八四年七ニ四年)四月には坂東九國(陸奥を加ふ)の 軍三萬人に騎射(きしゃ)を習はしめたを初めとして歴朝、坂東八國(相模・武蔵・安房・上総・下總・常陸・上野・下野)の兵士を徴發(ちょうはつ)して或は多賀城に、或は雄勝おかち (奈良時代、蝦夷征伐や東北経営の拠点として築かれた城柵。秋田県湯沢市、または雄勝都羽後町にあったといわれる。天平宝字三年完成。雄勝城。)・桃生ものう(宮城県桃生郡雄勝町)・ 伊治いじ(陸奥胆沢(いざわ)地方の蝦夷に対するため、神護景雲元年に築かれた城塞。宮城県栗原郡内にあったとされる。)の(さく)(おさめ)せしめ、 又は糧食を輸送せしめた。武藏等東國の兵士はひとり東北、蝦夷に力を(つく)したのみではなく、防人(さきもり)として西海(さいかい)の防備にも使役せられた。
聖武天皇の天平二年(一三九〇年七三〇年には、
他の諸國より徴發の防人を(とど)めて獨り坂東人士の専任とした。
武藏秩父郡の人大伴部少歳は詠じて曰く、

大君のみことかしこみ、うつくしけ、まこが手はなれ、島つたひゆく

と。
孝謙天皇の天平寶字元年(一四一七年七五七年)には、
一たび坂東諸國の防人を停めて九州の人を以て之れに當らせたが、
稱徳天皇の天平神護二年(一四ニ六年七六六年)には
太宰府の(たのみ)に従ひて再び東國の防人を徴發た。
「然れども人勇健(ゆうけん)にあらざれば、防守し難し、 望み(ねが)ふらくは東國の防人をきゅうに依りて 邊戌(へんじゅ)(いぬの「戌」とは別字「じゅ」と読む、意味は「武器を持って、国境を守る」)に配せむ』 との奏言を見ても、
東國人の勇幹(ゆうかん)なるを察知すべきである。相摸國(さがみのくに)の防人部領使守ことりづかいのかみ( 特に、防人(さきもり)を宰領して輸送する責任者。国司が引率して出身国より難波津に至り、ここから乗船させて大宰府に向かう。防人部領使。 宰領==かしらだって物事の取締りや処理をすること。また、その人。司宰。中世以降、荷物を運送する駄馬や人夫をひきつれ、その指揮・監督・警衛にあたること。また、その役。夫領(ぶりょう)ともいう。)
藤原宿奈麿は詠じて

「大君のとほのみかどと、不知火(しらぬい)、筑紫の國には、(あだ)まもる、おさへの(き) ぞと、聞しをす、四方の國には人澤(じんたく)(人や点々とつながる沼。また、草木のはえている所と水たまりとが、たがいちがいに続く湿地。)に、 満ちてはあれど、鳥が鳴く、東男子(あずまをとこ)は.いで向ひ、顧みはせずと勇みたる、猛き軍卒(いくさ)と、ねぎたひ云々」

と東國防人の為に思を述べてゐる。
大件家持は

「鳥が鳴く、東男子(あづまおとこ)の妻別れ、悲しくありけん、年のを長み」

と東國防人の夫妻別離を(えい)じ、常陸國(ひたちのくに)部領防人使ことりさきもりづかい大目息長眞人國島は

「今日よりは顧りみなくて大君の、しこの御楯と、出て立つ我は」

忠烈(ちゅれつ)(きわめて忠義の心の強いこと。)なる情を歌謡に寄せてゐる。萬葉集には東國人の防守に關した歌が少からず載つてゐて、其中には武蔵國人の作も数多ある。 稱徳天皇の神護慶雲三年(一四ニ九年七六九年)十月には東國人の義勇奉公を(よみ)して、つるぎを賜ひ 禁裡(きんり)((みだりにその裡(うち)に入ることを禁ずるの意から)天皇の住居。宮中。禁中。皇居。御所。)の警護に任ぜしめられた。

「朕が東人(あづまひと)に刀を授けてさぶらはしむ事は(いまし) の近き(まもり)として護らしめよと(おも)ひてなむある、 此東人は常に云はく、ひたいにはは立つとも背に箭は立たじ(前進して前に傷を受けることはあっても、退却して後ろに傷を受けるようなことはしない。)と云ひて、 君を一つ心をもちて護るものぞ、此心知りて(いまし)仕へとの(みことのり)り給ひし御命(おおみこと)を忘れず、かくの(さま)を悟りて、 もろもろの東國(あづまくに)の人々もつつましまり仕へまつれ」

宣勅(せんちょく)あられられたのである。武蔵國人は其東國人の一つであって、勇幹を以て既に業に知られてゐた。
   武蔵國造   む   さしのくにのみやつこ兄多毛比命  え     た  も   にのみことの子孫を初とし、 其後物部連兄麿もののべのむらじこのかみのまろの任官を見、國郡制置後には三變して大伴部氏となった。 景雲元年(七六七年)に、足立の人大伴直不破麻呂かばねを武蔵宿禰と賜ひで武蔵國造となし、延暦十四年(七九五年)に足立郡大領武蔵宿禰の弟總を國造としたことが見える。
  しかしもう此頃に於て國造は唯に名のみであった。既に大寶三年(七〇三年)七月。引田祖父は武蔵守に任ぜられ、和銅元年(七〇八年)三月には當麻櫻井、靈龜元年(七一五年)五月には 大神狛麻呂、養老三年(七一九年)七月には多治比縣守あがたのかみ
天平三年(七三一年)五月には布勢國足、天平十年(七三八年)六月には粟田人上、大平十年八月には多治比廣足、 天平十八年(七四六年)五月には紀清人、天平勝寶四年(七五ニ年)五月には手早辰成。天平勝寶六年(七五四年)九月には石川麻呂、天平寶字八年(七六四年)三月は、石川名人、天平寶字八年四月には石川人成、 天平神護二年(七六五年)三月には巨勢公成、神護景雲二年(七六八年)二月には藤原百川、寶龜元年(七七〇年)八月(延暦二年(七八三年)六月重任)には高倉福信、寶龜五年(七七四年)三月には藤原濱成、 寶龜九年(七七八年)二月には笠王、天應元年(七八一年)五月には石川眞守、延暦四年(七八五年)四月には石川垣守、延暦五年(七八六年)八月には阿部人上、 延暦七年(七八八年)二月には石川豊人、延暦十年(七九一年)七月には多治比宇美の就任があった。平安朝に入りては、藤原麻呂・藤原眞夏等を始めとして、多くの武藏守があったが、 其の多くは遙授(ようじゅ)(【遥任】ヨウニン〔国〕中古、公卿クギョウなどが国司になってもその地へ赴任せず、下役人に実務を行わせること。『遥授ヨウジュ』)の官であって、 身躬(しんきゅう)(みずから身を挺して)ら任に(おもむ)いたものは稀であった

  國都制置以前の國府は足立都てあった。和名抄に足立郡郡家ぐんけ郷とありて、今の大宮の邊である。秩父國が武藏國に合併されてから後に、秩父の文化も此辺に移ったのであった。 國郡制置以後になると、国府は多摩部の奥羽官道に當る今の府中に設置せられることとなった。今府中に國府址を存してゐる。
兒玉郡は秩父に近いから、往古に在りては秩父文化の影響を受けてゐたであらう。しかしもともと大した文化でもないから、其の地氣が久しく開展しなかっかのは當然である。其の(ようや)(あらわ)れて來たのは、中世以後のことで、 實に兒玉黨の倔起(くっき)(よ)るのである。   (つづく)