元資とそれ以後の莊家の流
元資以後の情勢 part Ⅰ

1】 元資の時代    元資と福岡合戦 2】 守護代元資の反乱    應仁の乱
3】莊氏略系 4】
莊為資松山城を攻略   莊高資と勝資

元資以後の情勢 part Ⅱ

5】 三村家親の野望と尼子との対決  6】猿掛(猿懸〕城の攻防  Ⅰ》頂見いたみ山合戦 Ⅱ、Ⅲ》猿懸城合戦
Ⅳ》三村穂井田二氏兩度の合戦吉備郡史  四月陣参考古文書

元資以後の情勢 part Ⅲ
7】 吉田義辰の加番とその最期8】 家親の作州進出と悪業の死
9】 明禅寺の弔い合戦10】  斉田城の合戦
元資以後の情勢 part Ⅳ
11】松山落城と庄氏の滅亡12】尼子氏の備中侵入 
13】尼子・庄軍・備南進攻   イ】鴨方城の戦い ロ】幸山城 ハ】経山城合戦 ニ】松山合戦 ホ】斎田城春秋の合戦
へ】植木資富の討死 ト】荘勝資の斎田奪回と三村氏の没落  チ】荘勝資の討死 麦飯山の戦い
高梁市史(郷土資料) P141より記載

1》庄元資の時代

庄氏にとってはこれからが栄光の時期を迎える。庄氏系譜には駿河守と出ているが伊豆守といわれ、また法号を洞松寺殿桂室常久大居士とあるのは洞松寺の引檀那であったことにより、 あとでものべるように創建とともに寄進を行っている。庄氏は守護代という職権のもとに、三成荘だけでなく、備中国各地の荘園・国衙領を問わず権勢を伸張した。
矢掛町史 P214
文安四年(一四四七年)の暮れに、吉備津宮氏子の小林郷の美山・宇戸・宇戸谷・上津江の四か村が、この年に公事納入を怠っているので督促されている(吉備津宮文書)。 これを妨げているのは庄氏であろう。またこれより二年後の文安六年には、庄駿河守は生存中に子鶴若丸(元資の幼名)の名で位牌免を寄進した(「洞松寺文書」)。 この時洞松寺え米二石を寄進している。 かように生前に戒名をつけ位牌免を寄進することを逆修と称して、当時行われてた冥福を修める一方法であった。このように四か村が 吉備津宮への公事示を滞納したことや庄駿河守が洞松寺へ位牌免の寄進に、小林から米を納めさせたことなどから、守護代庄氏の動きが推察されるのは、庄氏の権威が三成荘に及び、 さらに小林郷へ、その余勢が伸びていたことである。つまり庄氏の支配権域内になっていたということがいえるだろう。したがって、小林郷から駅里荘に庄氏の権勢が広がっていたといえる。 康正二年(一四五六)に父駿河守が死亡したので、鶴若丸は、相続して猿懸城主となり、伊豆守元資と名のった。父駿河守の逝去の年に、元資は、前の文安六年(一四四九)の寄進状を書き改めた(同上)。 それには小林庄と記してあるので、文安六年から康正二年の間に、小林郷は荘園として成立し、庄氏の支配下になったものと考えられる。
矢掛町史 P212
延徳三年(一四九一年)に守護代庄元資は、備中守護細川勝久に反乱して、翌年鎮圧されたが、その後間もなく勝久が死去する。この反乱の結果は守護細川氏の備中国の支配権はほとんど失われた。これにかわって備中土着の勢力ある 守護代庄氏・石川氏らが、守護細川氏の領主権を左右する勢力にまで成長してきた。このことは守護領国制の崩壊という危機が既に迫りつつあったといえる。 文亀元年(一五〇一年)の 「南禅寺目録」に三成荘は「庄」と明記されているが、前述のごとき時世の流れからみても、表面的には、南禅寺領三成荘として存続していても、 実は、その領有権は守護代庄氏にあったといってもよい。庄氏は守護代という職権のもとに、三成荘だけでなく、備中国各地の荘園・国衙領を問わず権勢を伸張した。

元資と福岡合戦(北房町史 通史編上 P449)

元資は、幼名を鶴若丸、十郎太郎といい猿掛城主となって駿河守、のち伊豆の守と名乗った。元資の墓といわれる宝篋印搭が、小田郡三谷村横谷(現矢掛町横谷)の曹洞宗洞松寺の裏山にある。 このころから庄氏の活躍が盛んになり、山陰の山名、備前の松田と結んで周囲に勢力を伸ばすようになった。『備前軍記』によると備前金川臥竜山に文明十五年(一四八三)>金川城を築いたのは松田元成である。 松田元成の勢力伸長を快く思わず、松田氏をなんとかして押さえようとしたのが赤松正則である。元成は、備後守山名俊豊と結び、政則は浦上則国と連合し、両軍が福岡付近を中心として戦ったのが、福岡合戦である。
  文明十五年(一四八三)十一月、松田元成が浦上則国の居城福岡城を攻めることにより戦いが始まった。
東備前と播磨(浦上・赤松)の連合軍二千余騎と
西備前と備後(松田元成・山名俊豊)千八百騎備中庄元資等の軍千三百余騎
との合戦である。
十一月二十二日開戦し、松田元成が浦上則国の守る福岡城を攻めた。十二月十三日則国は赤松政則に援けを請うたが、政則の老臣がこれを知らせず、宇野上野と浦上掃部を遣わすにとどめた。この日、 庄元資は、三〇〇騎ばかりで攻め寄せると、城方からも好い敵だと打って出て激戦となった。寄手城方ともに武将かが討死するという混戦であったが、元資の嫡子右衛門四郎は、 手勢五〇〇騎ばかりで打って出た。城方からも一騎当千の勇士どもが進み出て戦い、右衛門を囲み討取ろうとする。

『備前文明乱記』によりこの場を紹介しておこう(『岡山県通史』上巻九七五頁参照)

是を見て、庄伊豆守元資、法城寺掃部助を使者にして申けるは、同名右衛門四郎若武者にて楚忽そこつの討死をも仕るべし、合戦の道は敵味方を見合わせ、時節を計て敵を打ほすを勇士とは申すなり。 只討死して敵に利を付けるをば古来より大将の心とせず。急度伴い帰るべしと云ければ、掃部助急ぎ馬を馳せて此由を云。右衛門四郎此旨を聞きて、勇士のならひ戦場にいやしく も敵に、後をみする様やある。一足も引かず討死すべしと訇て、楯より前面に進み出て二間渡しの長鑓を取り直し、備中国の住人庄右衛門四郎と云う者なり手なみの程を見すべしと大言す。 沼田与一・岩間孫四郎・目黒次郎左衛門らと渡り合わせ散々に戦い右衛門を討てけり。
激しい攻防の末、四郎は浦上方の目黒兄弟に討取られ、あたら若い命を失った。この時、伊豆守自ら出陣し、城を攻め落そうと突進してきて激しく戦い、城方にも多数討死する者が出た。このころの城方は、 赤松政則に援軍をたびたび要請したが、政則側近の重臣たちは、これを政則に知らせず、その上、政則自身も但馬の合戦に敗れた。これを聞き、福岡城の将兵は、戦意を失ってしまった。浦上美作守則宗は、 京都所司代として京都におり、浦上則国の要請により播磨に帰ったが、味方の赤松政則と不和になった。これを聞き、城中では、赤松につく者、浦上方に味方する者とに分かれ、浦上方は城を捨てて退散してしまい、 寄せては城を焼き払い福岡城は落城した。庄・松田・山名軍は、それぞれ意気揚々と引き揚げた。時に文明十六年(一四八四)正月二十五日である。

2】 應仁の乱と其の影響     小田郡誌(P132)

西軍足利義尚あしかがよしなお   山名持豊やまなもちとよ  畠山義就はたけやまよしなり    斯波義廉しばよしかど
将軍家幕府     畠山家     斯波家
東軍足利  細川勝元  畠山政長  斯波義

山名宗全と細川勝元の軋轢あつれきに、種々の事情の加ばりて起りたる、應仁の大乱には、我備中国は、守護細川勝久に従ひ、細川黨として上洛し、参加奮戦したるも、 其詳細を知るべき資料を缺く。
この影響を受けて、全国至る處に爭亂起こりしが、本郡地方も亦免る能はざりき。當時備後は大體に於て山名黨なりしが細川黨も少なからず、互に相攻爭せり。即ち應仁二年(一四六八年)五月、 幕府は山名政清の所領安那郡を収めて、細川教春に與へたる如き(大日本史料八編)、亦文明二年(一四七〇年)十二月山名黨の宮内教言が蜂起して、山内新左エ門の館を攻めたる如き(同上)、 亦文明三年四月十六日。山名是豊が坪生に出陣し、次いで草戸の敵を破りて鞆に進みたる如き(同上)、備後東南部の爭亂を物語るものなり、此時に當り細川黨たる、猿掛城主伊豆守元資は、 細川黨應援の為備後に出陣し、柏村(盧品郡綱引村)に於て宮氏と戦ひしが、其弟藤四郎資長戦死せり。

奉寄進
     洞松寺祠堂同地事
合田伍段者八田庄三内 坪付別紙在之

右子細者文明参年十一月二十日於備後柏村愚弟資長令討死畢仍為後菩提末代寄進候所如件 元資 花押
右柏村の戦に關して、其詳細を知るべき史料を缺ぐは遺憾なり。

文明五年應仁の大乱の首領、山名宗全、細川勝元相尋いで病歿びょうぼつし、両軍主将を失ひしも、 戦ひは尚繼續されしが、文明九年十一月両軍兵を解き、部将等何れも其の国に還れり。これより諸国の爭亂益々甚しく、幕府の威令地に墜ちて、暗黒時代の第一歩を見るに至れり。
  當時備前國は赤松正則の所領たりしも、正則は播磨に在りて、備前國は其臣浦上則宗、松田元隆等して治めしが則宗は正則に從いて京に在ること多かりし為、 松田元隆の勢力獨り伸展し、其子元成嗣ぐに至り専横を極むるに至れり。是に於て正則之を抑制せんとするも、元成は實力は慿(ひょう)みて屈せず、 遂に居城金川城によりて叛旗を翻し、諸国の豪族の援助をへり。猿掛城主庄伊豆守元資は其子四郎次郎等を率いて おもき援け、文明十五年十一月浦上則國の居城福岡(邑久郡行幸村)を攻め、一族右衛門四郎戦死するに至る。福岡合戦これなり。
備前文明亂記に曰く、

『兼ねて、相圖の事なれば、松田一黨には左近将監元成、子息孫次郎元勝(中略)其外家來若黨一千八百餘騎、備中國には上野土佐守、同豊前守、同三河守、庄伊豆守、子息四郎次郎、 多気、川面、小坂、河西、高木、東条、都合其勢一千三百餘騎、松田勢一手になりて、福岡西より北の山に陣を取る云々。すでに山陣の人々は、夜前大火に城落ちて、 浦上紀三郎を討ちすまし、樽村見参に入るべしと思ひしに、安の外城中には事ともせず、樽村成敗の由聞つたへ、如何すべきと内談しけるが、庄伊豆守申すけるは、 味方には山上に陣をとり、城を目の下に見下ろし、手の内の敵どもを攻落さで、徒に日を送る無念さよ、一合戦して雌雄を決すべきとて、十二月十三日伊豆守の手の者、 足軽野伏の體にて三百人計り、富岡と云う小山の北の蔭より打出たり。浦上紀三郎が若黨共是を見て、定て城を攻めらんと此頃相待つ所に、今日迄甲斐甲斐しく合戦をもせぬ事よと、 安らかず思いしかばね敵打って出る間、城より出合、一矢射違ふる程こそあれ、切掛切掛散々に戦ふ。寄手には細屋七郎右衛門、白賀新兵衛討死し、城方には岸野五郎左衛門打たれて、 相引きに引退く所に、庄右衛門四郎是を見て、手勢五百人計にて、富岡山の南の端より打て出る。城中より櫛橋彌五郎、岩間孫四郎、難波十郎兵衛、沼田與市、延原八郎左衛門なんどを始めとして、 大勢切って出る。是を見て庄伊豆守元資、法成寺掃部助を使にて申しけるは、同名右衛門四郎若武者にて、楚忽の打死を仕るべし、合戦と云ふは、味方を見繕ひ、時節をはからひ 敵を亡すを以て勇士とは云うなれ。只討死して敵を利を付るを能とはせず。屹度きっとくだんひ歸れと云いければ、馳向て此由を云ふに、 右衛門四郎曰く、侍が戰場に出て゛出で、敵に後を見するやうやある。一足も引まじい物をとこうて、楯より面に進出で、二間渡りの鑓を取直し、 備中の國の住人庄ノ右衛門四郎と云ふ者ぞ、よれ手次の程を見せんと云ふ。沼田與市、岩間孫四郎、目黒次郎左衛門、弟與一左衛門渡合ひ、散々に戦ふ、目黒次郎左衛門臑當すねあてを突れ、 與一左衛門弓手の肩を突かれながら、右衛門四郎打取にれり。法成寺は右衛門四郎を呼返さんとするに、かへらで討死する間、散々戰ひ延原に討たれりけり。云々
  かように敵味方亂れ合ひ、追つ返しつ散々に戰ひ引退く所に、城中若武者共、両度の合戦に逢はざるを無念よや思ひけん、城戸を押開き堀橋を渡て、二千人計さっと出る所に、 備後勢松田勢庄伊豆守始めとして東西より眞中に取籠、一人もあまさじと切先そろへて、えいや聲にて雲霞うんかの如く切てかかる間、浦上伯耆守大音聲にて申けるは、 城郭をかまふるは敵を引懸利をせん為の謀也。廣場に出合は勇士の短慮ぞ、構に入て敵を射よとよばはりける間、げにもとて次第次第に引退く所に、あまりに手しげく追懸るほどに、取て返しさんざんに戰ひ、 彌延九郎左衛門、井原孫左衛門、内藤四郎兵衛、福井少次郎、其外浦上紀三郎、同伯耆守が若黨共七十餘騎討たれりけり。云々』

此戰に於ける庄元資等が如何に勇戰せしかを知るに足らん。松田元成は遂に福岡城を焼き拂ひ、勢に乗じて三石を攻めんとして克たず。逃げ後れて唯一騎金川に還らんとせしが、中途追撃せられて自刄す。 かくて此後は終り諸将各其の國に歸りしが、赤松氏も亦瓦解(がかい)して全く統一なきものとなるに至れり。

2》守護代庄元資の反乱    (高梁史郷土資料 P134)

庄氏は鎌倉以来猿掛の城主で、備中草壁郷、今の小田郡三谷村や山田村など備中南部を中心とした土豪であり、 室町時代には守護細川氏の守護代として、大きな勢力を持っていたが、応仁の大乱後はますますその勢力を伸ばし、細川氏の領国支配権はしだいに衰えて来た。
  「蔭涼軒日録」いんりょうけんにちもくろくによると、京都相国寺領の川辺荘で、文明十八年守護の被官石川左京進が、代官職を望み強引に川辺荘へ入部、 合戦に及ばんとし、更に延徳二年(1490)八月六日の「同目録」では、石川左京進むりやり相国寺領三百貫の川辺荘へ入部してきたので、相国寺では彼に五十貫の年貢をこしたのである。
      
元資の寄進状の書 猿懸城と小田川 三に上がり藤
蔭涼軒目録」延徳三年(1491年)十一月二目の条には、

昨坂東語云。去月廿一日備中において大合戦あり。守護方と庄伊豆守の取り合い也。(細川)上総介殿一家の家子の廿四人。被官八十人。全部で五百人ばかり討ち死にす。 松田冠者は宮内の倉會に打ち入り、庄四郎次郎は河辺の介に討ち入る。家財すこぶる多く。三日納めさせる約束で管理させた。ところが去る六月争いが起こり、 左京進が討死したため寺家より使者を差し下した。 一方庄伊豆守元資と安富新兵術尉とも合戦を始めたが、これはうっかりすると大事になるであろうといっている。 元資は駿河守を称したが、その前伊豆守と名乗っていた時代があるらしい。このように備中南部は、川辺荘の事件から次第に騒がしくなり、ついに元資は延徳三年庄元資は、 守護細川勝久に対して反乱をひき起した。 三夜運び取るといえども尽きず。米銭には目をかけず。故に備後の衆皆これを取る。 とあって、始め庄元資の方が優勢で、守護方の細川上総介家子二四人。被官八○人、総勢五〇〇人ばかりが討死したが、
「同日録」延徳三年十二月二日の条によると、
細川上総介は庄伊豆守を討つため急ぎ京都を進発、翌延徳四年(1492)三月二十八日より大合戦になった、
「同日録」延徳四年四月六日の条には、

柏悦叟はくえつのおきな来り伝う。備中の事につき広説ありて言う。去月廿八日大合戦あり大守上総介殿勝利を得、庄伊豆守城をすて没落す、 きずを負し庄と同じく没落す。香西五郎左衛門尉城において切腹。讃岐より香西召し寄せし所の軍兵の大半討死す。備前の合力の勢、かくの如く功を致す。 されば菅城あまた敗績すべし。云々。若し是れ実事なれば天命おそれむべき也。

とあって、戦は大変な激戦で、上総介の軍と備前浦上則守の援軍のため、猿掛城は包囲され、庄伊豆守は城を捨てて逃げ、上野玄蕃も五ヵ所の庇を負って没落、香西五郎左衛門は城で切腹、 軍勢の大半が討死して元資方の敗北に終った。しかしながら、「日録」の終りには「若しこれが事実ならば天命畏れむべきなり」といっているので、どこまで事実かは明らかではない。 事実それから間もない延徳四年六月には、上総介と庄伊豆守とが和睦を結び、備中はようやく静かになった。このことは天下の幸せであり、慶賀に堪えないといっている。ともあれ庄氏は、 その後着々と勢力を蓄え、やがて備中松山城への進出となったことだけは確かである。

矢掛町史 240

(下記の元資は疑問に思う、莊氏系図上のどこにあたるのだろう) 享禄四年(一五三一)管領細川高国と晴元とが戦った時晴元が勢の近藤盛久の首を取ったことが庄氏系譜の注に出ている。 母がここも石川源左衛門尉久成伯母である。『陰涼軒日録』によれば文明十六年(一四八四)十一月末兄僧青源寺が相国寺領摂津国中庄に打入っている記事があるが 同年十二月二日には伊豆守元資自身が強入部している。このような強気な行動はついに延徳三年(一四九一)には上洛中の細川氏久の留守を襲って勝ちはしたが、 同四年には急を間いて帰国した氏久に四国勢の香西氏を加勢に抱込んだにもかかわらず敗れ城をすてて没落せざるをえなかったことが同目録にあるが、すでにのべたのでくり返さない。 なお、松尾惣太郎は同目録にこのころ頻繁に出る庄四郎次郎を元資に当てる一般の考えを否定しているが、この説に従いたい(『中世期における備中国の荘園と国人』)。 頼久に次いでその子伊豆守が城主となった、

高梁史郷土資料 P132

唯一彼(頼久)の業績として今日に伝えられているものに城下安国寺の中興再建かおる。もともとこの寺は大忠寺または大林寺といったが、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提樹を弔うと共に、 一つには足利氏天下統一の威信を訪示し、他方人心の収らん、土地領有のしるしとして、かつての国分寺建立にならい諸国に安国寺を置き、この寺をも備中の安国寺とした。 (中興は寂室和尚円応禅師、このことは寂室の伝には出ていないが、彼は久しい間備・作の国におり、備前安国寺にも住んだことがあるからまず問違いはない)頼久城当時にはすっかり 荒廃に帰していたため、彼が堂塔を修理し、寺田・寺林を寄付して再興した。「頼久寺由来記」によると、大永元八月十六日頼久が死去したので、時の住持は彼の功をたたえ、 「頼久寺殿円叟道満大居士」の法名を贈り、その子伊豆守の希望もあって、これより天忠山(後天柱と改む)安国頼久禅寺と、頼久の名を寺号に取り、永世その名を伝えている、 城下の一寺に対してすらこうてあったから、居城の整備は申すまでもないところであろう。頼久に次いでその子伊豆守が城主となった。

備中誌」によると、

大内氏旗下、後毛利氏に属す。頼久の子なり。天文二年庄為資が為に亡さる、西国太平記に云う、当國の守護を考うるに大松山の城主上野伊豆守。
と書かれている、
「頼久寺由来記」によると、彼の名は頼氏といったらしい、弟に右衛門尉がいたが「中国太平記」によると、

「大松山には上野伊豆守居住して小松山の城には同名右衛門尉を置かれける処に、天文二年猿掛の城主庄為資押し寄せて相戦う。  庄は当国の旗頭たるにより、植木下野守秀長、庄に力を合わせ横合より攻め掛け、上野が勢を追し崩し伊豆守を討取り、大松山を乗っ取る。小松山の上野右衛門尉も植木が一族若林次郎右衛門に討れし」とあり、
「西国太平記」にもはぼ同じような記載がある。「庄氏系譜」にも、
天文二年(1533)大松山の城主上野伊豆守と猿掛城主庄為資と合戦す。植木藤資馳せ来りて横を入れ伊豆守討死す。 夫より大松山を乗っ取りて、小松山に上野右衛門居りけるを植木が一族なる若林次郎右門首を取る。為資公より藤資に斎田の給うという。
とある。これらの記載によって大松山・小松山を中心にして合戦があり、上野氏滅亡のことが知られる。これが歴史に残る松山城を中心として初めて展開された戦国の合戦で、 この結果、上野氏は二代約二四年で滅びたわけである。

3》庄 氏 略 系

上野氏兄弟を討ち取って、松山城主となった庄氏は、もともと太織冠藤原鎌足の子孫と言われる。早くから武蔵の国に往し、武蔵七党の旗頭の一人として重きをなし、 庄権守藤原広高は鎌倉幕府の御家人となり、その子本庄太郎家長の時、平家追討に際して武功をあげた。平氏没落に際して備中一国が欠国となったので、 守護代として関東から移ったものであるが、入国した家長は城を猿掛に築き、横谷の御土井に居館を構えて、次第にその勢力を蓄えて行った。
   その系譜については、別綴に載せているとおりであるが、家長より六代の孫、資房は庄左衛門四郎と称し、 片山村幸山城(高山城)を領しており、その母は木屋村福山城主真壁小郎是久の女である。この資房のときに元弘の乱がおこり、六波催の触状により、高橋・陶山・真壁などと共に京都へ上り、 北条仲時に忠勤をはげみ遂に死んでいる。
 それから更に六代の孫にあたる元資は、幼名を鶴若丸と言い、十郎太郎庄駿河守と称し、猿掛の城主であった。
洞松寺は小田郡三谷村横谷にある曹洞宗の巨刹であるが、境内には庄元資の墓と伝えられる宝箇印石塔があり、元資の寄進状も残っている。
   この寄進状は、洞松寺殿桂室禅門の位牌免についてである。洞松寺殿というのは元資の父氏敬のことで、洞松寺の寺号も元資の父 「洞松寺寺殿」の法号にちなんだものであろう。
   また、洞松寺には庄氏からの寺田売り渡しの文言が残っているが、この文言のお蔭で織田・豊臣・徳川の時代を乗り越えて、 武家に没収されることなく寺領を維持することが出来たのである。

注 後記 これ程ききめのあった売り渡しの文書も、大東亜戦争敗戦により、農地改革が行われるや、あっけなく寺領を離れていった。

4》 莊為資松山城を攻略
為資の宗家相続北房町史 通史編 上巻P452

元資は文明三年(一四七一)に細川氏に従い、山名氏を討つため、備後柏村に出陣して、弟資長を失ったが、また同十六年、福岡合戦で子息右衛門四郎を失い、 後継ぎがなくなった。そのため北家の庄右京進則資の孫で、兼資の嫡男である為資を養嗣子(ようしし)として迎えた。為資は猿掛城を根拠として周囲に勢力をのばした。
  ここで永正・大永ごろの政治状勢をみておきたい。
足利十代将軍義稙(よしたね)(はじめ義材(よしき)のち義尹(よしただ)(イン))は、越中で明応二年(一四九三)六月より明応八年(一四九九)までの六か年、 周防で明応八年十一月より永正四年(一五〇七)までの八ヵ年、計十四年間流浪生活をすごした。明応二年二十八歳であった義稙も永正四年には四十二歳になっていた。
  永正四年西国大名の雄、大内義興に助けられて上洛を画策し、中国の諸大名を従えて山口を発し、十二月には備後鞆津に到着し、ここで年を越した。この兵力は二万五千といわれるが、 備中勢では庄為資・石川左衛門尉久智・福井孫六左衛門重之・三村宗親等が従った。永正五年(一五〇八)四月九日境港に上陸し、六月六日に堺を発し京都についた。 そして同年七月一日義稙は征夷大将軍に復した。
   当時、備中においては元資の養嗣子為資の勢力が強大になっていた。延徳三年の備中守護細川勝久の合戦は前述の如く守護方の勝利となったが、 以後実質的に勝久の支配力が失われ守護代元資の力が伸びていった。この領主化の力を受けついだのが為資であり、為資は猿懸城に拠り、備中中部の実力者となったのである。
其頃の備中松山城の城主は上野氏であった。
  『上野頼久の遠祖は、三河国碧海郡上野の出身という。上野刑部少輔氏之は、最初越前の小谷城にいたが、その知行の一部が備中下道郡にあった。 その子民部大輔信孝は将軍義稙の近臣となった。
明応二年(1493)義稙は、細川政元と戦って敗れ、捕らえられて政元の家臣上原元秀邸に幽閉されたが、雷電と集中豪雨に乗じて、ひそかに邸を脱出し、 細川方の手の届かぬ越中へ逃れれ、神保長誠(ながざね)を頼って兵を集めた。その後明応8年(1499)十一月,近江の坂本まで進んだが、 六角高頼らに討たれて河内に走り、幾多の困難を経て周防に逃れ大内義興を頼った。
  信孝は義稙の近臣として、義稙の救出、義興のもとへの使者をつとめて義稙を助けた。そのため義稙や大内氏の信頼が厚く、 永正五年義稙が再び将軍となるとその側近に仕えた。信孝は永正六年(一五〇九)備中の国人たちを味方につけ、上野頼久を備中松山城主とした。 信孝は、義稙復活に功績があったから、細川高国と大内義興の同盟を基礎とする義稙の政権が復活っすると、幕府官僚の大幅な更迭が行われ、 このとき幕府の奉行人に取り立てられた。
  将軍義稙の後、義晴・義輝と代わったが、信孝はこれらの将軍に仕え信任が厚く大永六年(1526)二月将軍義晴が八幡宮に参詣したときは、 『帯剣の役』をつとめた。「帯剣の役」とは帯剣して君主の側近に侍し、これを護衛する役である。
  信孝の子頼久は、松山城主になると安国寺を再興した。安国寺はもと天忠寺又は、大林寺といい足利尊氏が後醍醐天皇の御冥福を祈り、 人心を収攬するために建立したもので、頼久が入城した時は、荒廃していたので、修理し再興した。後此の寺は天忠山安国頼久禅寺と称した。 頼久の嫡子伊豆の守頼氏が城主になると自らは大松山におり、小松山に弟の右衛門尉をおいた。
『中国太平記』によると、
「大松山城には上野伊豆守が居住し、小松山城には同名右衛門尉がおかれていたが天文二年(一五三三)猿懸城主為資が押し寄せて相戦う。 庄は当国の旗頭たるにより植木資下総守秀長、横合より攻め掛け伊豆守を討ち取り大松山城を乗取る。小松山の上野右衛門尉も植木の一族若林治郎右衛門に討たれし」とある。
『西国太平記』は文章は大体同じだが、伊豆守を討ったのは藤資としている。いずれにしても松山城は、落城し、上野氏は滅亡した。
この合戦の後、為資は備中守を称し、猿掛城は最も信頼のおける穂田実近に預け、自分は松山城に移り、備中半国すなわち下道・小田・上房・英賀の一部などを領有した。
  庄氏一門の配置・庄氏との関係を『庄氏系譜』『西国太平記』などみるとつぎのとおりである。

松山城(現高梁市) 庄備中守為資
猿懸城現矢掛町 穂田実近、為資の二男ともいわれる
斉田城(現北房町) 植木下総守藤資、 為資の弟 
植木城(現北房町)  植木下総守秀長、 藤資の嫡男
賀葉山城(現高梁市) 津々加賀守資朝、 為資の子
丸山城(現北房町) 福井孫六左衛門、 庄氏の一族
また庄氏と初め姻戚関係ある縁者を見ると次のとおりである。
幸山こうざん城(現山手村) 石川源左衛門久式、伯母は元資の母。
鳶巣城(現新見市) 樽崎右京大夫利景の妻は庄資昭。
四畝忍山ようねおしやま城(忍山城しのぶやましろ)(現岡山市高田)  工藤治郎兵衛尉妻は庄氏敬の妹。
野山城(現賀陽町) 宮内少輔朝村女が為資の母
矢倉畦城(現賀陽町) 田中掃部介直重の妻は庄氏敬の末の妹。
甲(こう)籠(ごめ)城(現新見市) 伊達常陸守の女は藤資の妻。
石賀山城(現新見市)  伊達常陸守の女は藤資の妻。
離小屋城(現賀陽町) 大槻玄内信繁の妻は元資の妹。

(小田郡誌 P145 是より為資兩松山を持て、庄備中守と稱し、備中半國一萬貫の主となる。其跡猿掛へは翌年穂井田實近移り住む。斎田の植木、津々の津々、 呰部の福井等は為資の一族なり。成羽の三村、高山の石川、竹の庄の工藤、新見の樽崎は庄の縁者なり。云々)
   (矢掛町史 P241 備中半國すなわち下道・小田・上房・英賀の一部を領有した。縁者として、三村、高山の石川源左衛門尉久式、新見の楢崎、竹荘の工藤、野山の宮内少輔、 近縁の者に竹荘の矢倉、田中掃部介直久などをもつ一族であった。内室は美作高田城主三浦下野守平元兼の女である。)

高梁史郷土資料  P136
「洞松寺文書」によると

これよりさかのぼる文明三年十一月二十日、元資は備後図柏村に出陣し、弟の資長をも失っている。元資の子が一人だけであったとは限らないが、或いはI説にいうごとく、 我が子も弟も失って庄宗家の子孫が絶え、庄の北家より為資が出て、宗家を継いだものかもしれない。
  為資のことが初めて史上に表われるのは、「陰徳太平記」巻二の義稙卿御帰洛に付き将軍再任の事の条で、それには、

永正四年(一五〇七年)十一月廿六日義稙卿防州吉敷の旅館を御発駕はつが有りければ、大内左京大夫、 多多良義興、防・長・豊・筑の軍兵二万五子偏を引率して前後を欧奉す。その外随従の諸将(中略)備中に庄備中守為資・細川伊勢・石川左衛門尉・福井孫六左衛門・三村備中守宗親・清水・伊達あり。 永正五年四月九日堺港に上陸し、六月京都に入り、足利義稙再び将軍となる。

とある。松山城攻略以前に備中守を名乗るはずはないが、「陰徳太平記」の著述年代の関係からそうなったのであろう。ともかくこの永正の前後から 、為資は父元資の勢力を背景に、猿掛城を中心として次第に台頭してきたらしい。
  さて、天文元年(一五三二年)になると、山陰の尼子が作州一帯に侵入、県北はようやく騒がしくなってきた。 「備中国新見庄史料」所載の天文二年六月二十三日付東寺公文殿にあてた新見国経の書状によると、

前略 当国もいよいよ取り相たるべく候。作州の儀につき、尼子方より合力の儀申され候。去年五月より今にいたり、 子供番替りに高田表に立て置き大儀に及び申さず候。伯州の東半国と作州一国申し合い、尼子方に敵と成り候。当国も人により敵に一味候。しかれ共叉尼子方理運に成り行き候。先ずもって御心安んずべく候。
一、上方の儀、いろいろ雑説申し候え共、御寺家は無事に御座候由申し候。千万目出度く存じ候。御気遣い察し奉り候。
一、当国の事、二つにわかれ候て、只今取り合い必定たるべく候。如何に成り行き候べき哉。子細重ねて申入れるべく候。無事にて御公用等大奔走申し度く候。

とあって、尼子氏から作州へ進出してきたから合力せよといってきた。この合戦は去年の五月ごろから今日に至るまで続けられ、子供を番替わりに高田表(作州勝山)へ遣わしている。 伯州東半分と作州一国は尼子への敵対を申し合わせている。備中でも人によって一味する者も敵対する者もあるが、どうも尼子方に勝算があるようだ。いずれ備中は二つに分かれて 合戦が姶まるてあろうが、その結果はどうなることか、子細は重ねて申し上げる。というもので、こうした世相であったから、大内氏の後援下にあった上野氏に対し、庄為資は尼子と結び、 備北への進出を図ったものであろう。戦国時代は新勢力が興って旧勢力に代わる時代である。上野氏滅亡の松山城攻略作戦も、いねば尼子対大内の衝突であった。
   果たして天文二年猿掛城から兵を出した庄為資は、備中松山城に上野伊豆守を攻撃、これを滅ぼして備中年半国一万貫の地を領し、自ら備中守を名乗り、 備中における戦国大名の先駆けとなったのである。

中国太平記」の記事は、上野氏についての項に既載したが、同じことが「西国太平記」にもあり、庄氏系譜にも、

天文二年松山城主上野伊豆守兄弟を討ち捕え、大松山小松山を持つ、これより為資備中小半国一万貫の地を領し、備中守に成り、自ら国号の屋形とす。時に呰部上合寺山城を築く、 又中津井斉田の城を給わるという。斎田の城には植木下総守藤資を置く、此の時一国の旗頭は庄為資也、植木に植木下総守、津々に津々加貿守、呰部に福井孫六左衛門は庄が一家なり。 三村氏を始め、高山に石川源左衛門尉久式、新見に楢崎、竹の庄に工藤、野山に宮内少輔は庄が縁者也。又近縁に、竹庄に矢倉佃田中掃部介直久、離小屋に大槻廓内信繁、 唐松に伊達隼人、石賀に石賀與兵衛、その外小給人の保障は各の家の人共なりと云う。

とある。こうして為資は松山城に入った。しかし本拠であった猿掛城を放棄したわけではなく、「西国太平記」では穂井田実近にそれを守らせている。「吉備郡史」所載の穂井田氏略系によると、 この実親を、為資の子高資の弟であるとしているが、その根拠は分からない。しかし穂井田は穂田とも書き、猿掛城所在地の荘名を、為資も穂田の姓を名乗り、元資も穂田を称したことのあることは、 既に引用した「洞松寺文書」の庄鶴若丸を「ほいたつるわか殿」といっていることでも明らかである。すなわちこの地は、もともと庄一族の親類縁者で固め、庄氏の宗家となる者は この穂田の地名を冠して使用してしいたらしいから、穂井田実近も一族中最も信頼のおける有力者で、従って彼に猿掛の城代を命じたのてあろう。

小田郡誌    P144より、

庄伊豆守元資につぎて史上に表はるゝものは、庄為資なり。某庄氏の系譜には、為資を元資の子なりとせり。元来元資に四郎次郎と稱する子息のありし事は、 備前福岡合戦記及び其他の文書によりて明瞭なれども、四郎次郎と為資とを同一人と認むる事は、吾人の取らざる所なり。何となれば吉備津神社文書に、 永禄(一五五八)元卯月廿日付為資の書状あり。文明十五年(一四七三)の福岡合戦に従軍したる四郎次郎を、當時十五六歳と仮定するも、 永禄元年には九十餘歳ならざる可らす。九十餘歳は人生不可能の年齢にはあらざるも、極めて稀なるものなり。若し四郎次郎不幸壮年の時死歿し、 其弟の相続したるが即ち為資なりとせば、合理性を増すべし。叉某庄氏の系譜には、民部少輔兼資の子にて右京進則資の孫とせり。洞松寺の古文書を見るに、 元資と前後して庄北則資の寄進取二通あり。果して然らば為資は庄北家より入りて、宗家を繼ぎたる事となる、要するに四郎次郎の消息を明らかにする材料の、 見當らざる限り、何れとも定め難し。
  永正の初頃、足利前将軍義尹(後義稙(よしたね))は管領細川政元に遂(お)はれて、周防の吉敷に在り。大内義興に寄食して兵勢次第に熾(さかん)なりしが、 永正四年(1507)四月細川政元は、細川澄之、香西元長等に殺され、澄之其後を嗣ぎしが、これも亦細川高國等に殺され、京都擾亂して上下心身を安んぜざる由を聞き、 上洛の事を義興に謀(はか)り其賛成を得たるを以って、十二月大挙して吉敷きを發し、安藝に入り檄を四方に飛ばして兵を召す。九州四国中国の兵應ずる者多し。 中にも備中より馳せ参じたる豪族には、 庄備中守為資(此時為資未だ備中守とならず治部大輔也)、細川、伊勢、福井孫六左衛門、石川左衛門尉、三村備中守宗親、清水、伊達等あり。 かくて一行は備後鞆津にて越年し、五年(1508)四月九日堺港に上陸し、六月に京都に入り、七月には義尹再び将軍となれり。
  之を為資の史上に表はるゝ初とす。、「陰徳太平記」巻二の義稙卿御帰洛に付き将軍再任の事の条。
  為資は其後次第に勢力を得、天文二年(一五三三)遂に備中の雄鎭たる松山城を攻め、城主上野伊豆守頼氏を滅ぼし、其領地を併せり。茲に至りて為資は備中半国を領し備中守と稱す。

中國太平記曰く、

當國大松山の城には、上野伊豆守、小松山の城には同右衛門尉居りけり。去ぬる天文二年猿懸の城主庄為資、押寄せて相戦ふ。植木下総守秀長庄を助け大松山を破る。 小松山も植木の一族、若林次郎右衛門に討れて亡ぶ。是より為資両松山を持て、庄備中守と稱し、備中平同一萬貫の主となる。其跡猿懸へは翌年穂井田實近移り往む。 斉田の植木、津々の津々、呰部の幅井等は為資の一族なり。成羽の三村、高山の石川、竹の庄のエ藤、新見の楢崎等は庄の縁者なり。云々。

かくて為資は松山城に入り、穂田豊後守實近をして猿懸城を守らしむ。實近の出身に関しては、
西国大平記に
「天文三年實近猿懸に移りたり、是は尼了の家人庄と一所なり」と記せるの外、信ずべき文書見當らず。
吉備郡史中の穂田氏略系には、為資の子にて高資の弟となせり。其根據如何。穂井田叉徳田と書ぐ、猿掛城所在地の庄名にて、為資も穂田と稱し元資も亦穂田と稱したる事は、 前に引用せる「ほいたつるわか殿云々」とある文書によりて見るも明らかなり。要するに為資一族中の有力者にて、猿掛城城代を命ぜられしものなるべし。何となれば、 為資松山城に移るの後も、猿掛城及び其領地を放棄せしに非ず。為資及其子高資も、時には猿掛城に来往したりと認むべき理由あるを以てなり。

荘高資と勝資

高資は幼名を大六といい、庄氏二代の松山城主で、為資の子であり、勝資は高資の子、すなわち為資にとっては孫にあたる。「庄氏系譜」によると、為資は天文二十二年(1553)二月十五日に没した。 法名を上合寺殿前備中大守花岩江大居士という。為資の死後その子高資が備中守となり、松山城主となったが、元亀二年三村元親と毛利元清の連合軍に破られて戦死、庄氏は ふく滅した。この年については「備中誌」や「備中話」などの異説もあるが、毛利元清が三村元親に与えた感状に

この度松山表において敵数輩、殊に城主高資討ち捕えられ、落城のとき、御粉骨比類無き御働きに候、よってその賞として松山の城遣わし置べく候の間、この上軍忠抽きんぜらるべし、 なお杉右衛門尉河合伯耆守申し述ぶべく候、恐々謹言。
    二月十八日       元 晴  花押
        三村修理允殿      
                御陣所

とあり、この感状は元亀二年(1572年)のものてあるし、その後竹庄に派遣されていた勝資らが、この事件を知って後詰をし、同じ元亀二年九月、毛利軍に大打撃を与えておる。 こうした当時における毛利・尼子・宇喜多の関係から考えても、元亀二年のほうが正しいように思われる。
   次に高資の子を「備中誌」も「備中話」も城主の列に加えて 三代としているが、前掲の感状には「城主高資被討捕」とあるし、また、前掲各書に「城主高資は子勝資に軍勢を付けて竹庄表へ差向けしゆえ、城中小勢なれば防ぐべきようもなく 、故ついに陥り高資はじめ悉く討死す」とあるから、三代城主と考えるのは無理であろう。この三村・毛別連合軍の松山城攻略作戦については、次の非運の三村氏二代 という新たな節を設けて詳述するが、勝資は竹庄にあって松山城の陥落、高資討死の報を聞き、驚いて尼子を頼って出雲に走り、備中一国は悉く毛利の支配下になったと、 「庄氏家譜」をけじめ「備中誌」・「備中話」いずれも記載している。しかし当時数千の兵を擁し、勝ち誇っていた彼等が、松山落城を知って一戦も交えず出奔 するといことは考えられないし、そうでない限り九月の斎田合戦が起こるはずはない。元亀二年九月四日、毛利の先鋒元晴は斎田城を囲み、岡山の宇喜も急を聞いて 播・備・作三国の大軍を率いて後詰をし、一犬激戦を展開、毛利軍の敗北となり、このため彼等は松山城及び猿掛城を策源地として戦勢の挽回を図り、援軍も次第に増加して 勝利を期したというから、勝資等の出雲出奔はその後のことであろう。
   さて、毛利の主将輝元は、この斎田城の戦いに庄・植木の一党に、極めて勇敢であり、敵ながら天晴であった、 現在勝資は出雲に走り浪人の様子であるが、これを召し返して児島麦飯山城の攻略戦に先手をさせてはどうかということで、使者を派遣して召し返した。このため勝資 らはようやく帰国、天正四年勝資は、植木秀長らの一党と共に麦飯山城主明石源三郎と戦い、鎗を執ってこれを突伏せたが、源三郎の手の者によって討死した。 輝元はこの功に感じて、その子宮若丸に跡を立てさせたが、彼は朝鮮の役で戦死、勝資の弟資直が継ぎ、子孫は英賀郡津々村(現在の中津井町津々)にすみついた。