元資以後の情勢 part Ⅰ

1】 元資の時代    元資と福岡合戦 2】 守護代元資の反乱    應仁の乱
3】莊氏略系 4】
莊為資松山城を攻略   莊高資と勝資

元資以後の情勢 part Ⅱ

5】 三村家親の野望と尼子との対決  6】猿掛(猿懸〕城の攻防  Ⅰ》頂見いたみ山合戦 Ⅱ、Ⅲ》猿懸城合戦
Ⅳ》三村穂井田二氏兩度の合戦吉備郡史  四月陣参考古文書

元資以後の情勢 part Ⅲ
7】 吉田義辰の加番とその最期8】 家親の作州進出と悪業の死
9】 明禅寺の弔い合戦10】  斉田城の合戦
元資以後の情勢 part Ⅳ
11】松山落城と庄氏の滅亡12】尼子氏の備中侵入 
13】尼子・庄軍・備南進攻   イ】鴨方城の戦い ロ】幸山城 ハ】経山城合戦 ニ】松山合戦 ホ】斎田城春秋の合戦
へ】植木資富の討死 ト】荘勝資の斎田奪回と三村氏の没落  チ】荘勝資の討死 麦飯山の戦い
高梁市史(郷土資料) P141より記載
11】松山落城と庄氏の滅亡
      高梁市史(郷土資料) P145 より記載

前項第一次斎田城の合戦で述べたごとく、山中鹿之介が尼子勝久を奉じて出雲に入り、かつての本拠富田城に迫ったため、守将天野隆重はこれを毛利氏に急報、 その来援を求めたため、元就の命を受けた輝元・元春・隆景らは、元亀元年(1570)正月兵を率いて出雲に進撃、尼子の属城多久和・氷之上・禅定寺・阿用・福富などを抜き 、二月には鹿之介と布部山に戦ってこれを敗走させ、もって富田城の包囲を解き、その後各地で連戦連勝、このためさしもの尼子勢もようやく衰えてきたが、 たまたま六月頃から安芸にいた元就が病にかかり、経過不良との報せで、元春一人を出雲に残し、九月、輝元・隆景らは軍をてっして引き揚げた。
こうして一時小康が得られたため、尼子方は、勢力挽回を図るのはこの秋だと、いろいろ画策、その一つとして備中の征服を企てた。そこでかねてから備中に野心を抱いていた 宇喜多直家と連合軍の結成を約し、元亀元年冬、尼子吏郎・同刑部を大将として備中に向かわせ、これに呼応して直家も加勢を出し、連合軍はまず都窪郡幸山城を攻め、 城主石川左衛門が降伏したため、矛先を備北に向け呰部城及び斎田城に植木氏一党を囲んだ。急を聞いて猿掛城穂田元資が、二千余騎を率いて駈けつけ、力戦奮闘したが、 ついにあえなく戦死をとげた。
城主植木下総守秀資もよく防戦し、容易に落城しそうになかったため、本領安堵を条件に尼子方から降伏を勧告し、植木一族もこれに従うことになり、 大賀駿河守が一千余騎を率いて斎田誠に駐屯、植木氏らは人質を出雲に送ることになった。こうして植木下総守の投降に伴い、一族の統領であった松山城主庄高資も連合軍に降り、 その子兵部大輔勝資を大将として、同右京進、宇木下総守秀資・津々加賀守・福井孫六左衛門ら三五〇〇余騎わもって鴨方の細川下野守を攻め、その後至るところの備中諸城を陥れて、 上房郡竹之庄に進んだ。こうしてすでに主将を失った猿掛城はもちろん、付近の結城はみな尼子の勢力下に入るようになったため、成羽の三村元親はこの状況を毛利へ急報援軍を求めた。 元就は病床にあったが、そのまま放置するわけには行かず、元清に八○○○余騎を率いて出陣させたのである。元亀二年二月、元清はまず後月・小田・浅口の備中西南部を回復、 元親を先鋒として松山城に押し寄せた。当時勝資以下多くの将兵は竹之庄にあり、城中手薄になっていたため、ひとたまりもなく攻め落とされ高資以下男女一〇○余人悉く戦死したのである。

  「備前軍記」にはそのことを、

さて松山の城主庄高資・其子兵部大輔勝資・同右京進・植木下総守秀資・津々加賀守・福井孫六左衛門等、尼子に属して三千五百余騎国 中に打ち出、鴨形の細川はじめ二三ヵ所の城を攻め落し、是より竹の庄を攻めんとす、この由ども芸州へ注進ありければ、元清八千金騎 を率いて備中国に出陣、三打元親を先陣として先ず松山城の庄高資を一時攻め落し、男女百余人を切り捨て、国中この問敵に降りける者 を一々に攻めとらんと擬しければ、降参する者多く、植木・庄が類(たぐい)みな雲州へ落ちる。なかに斎田誠の植木資富計り城を守りて有りける を、方便をもって討ち果し、元清猿掛城に在って備中を治めて、叉国中毛利家に属しけり。
と記している、
こうして松山城の落城に伴い、これも前節既出の元亀二年二月十八目付毛利元清より、三村元親に与えた感状に見るごとく、成羽の城主三村修理進元親が、 功によって松山城主となり、高資の首級は元清の本陣猿掛城に送られたが、彼の好意で三谷村東三成の禅応寺に葬られた。法名を「禅應寺殿前備中大守高山道林大居上」という。
元清は更に進んで斎田城を攻めたが、竹之庄に在った勝資らが斎田に至り後詰めをしたため、かえって大敗を喫した。「備前軍記」を始め各軍記には、勝資らが松山城の 陥落・高資戦死の報を聞き、驚いて出雲へ出奔したと書かれているが、これも前節で述べたごとく、当時数千の兵を擁し、しかも勝ち誇っていた彼等が、松山の落城を聞き、 一戦も交えずに出奔するということがあろう道理がなく、もしそうであれは九月の斎田合戦が起こるはずもないのである。
さて芸州では、元就の病勢が次第に悪化し、援兵を送ることができないばかりか、六月十六目ついに元就が逝去(せいきょ)した。その葬送弔祭に若干の日数を要したが、毛列輝元は元就の遺志を継ぎ、 備中はもちろん備前の征服をも期し、元清を先鋒に、今回は隆景を初め、大将輝元まで出陣することになった。元清は備中に入ってまず斎田城を囲んだが、 宇喜多直家が急を聞き、播・備・作三国の大軍を催して後詰めに駈けつけたため、九月四目大敵戦が展開され、このたびも毛利軍の敗戦となった。 輝元の備中入りは予定よりはるかに遅れたらしく、九月十七日付の輝元の書状にも、

「きっと申し入れ候、そこ元相替わり無き儀に候や承り度く候。ここ元人数の儀昨日差し出し候の処、外郡表の敵相動くの由に候條、先ず是非彼の表へ差し遣わすべきの由火急に候、追々申し越され候の條、 小田に至れば高越(城主)罷り出候、聞き合わすべきの由申し聞き候。委細隆景より申し談ぜらるの由に候間、御儀定の段これを承り其の心を得べく候、恐々謹言
九月十七目            右馬頭
  輝元   花押
光  明
御宿所
熊 玄

とある、この書面は、輝元出陣の途上で出したものらしく、元明は、次にくる三村滅亡のあと、桂氏部大輔と共に松山城代となった天野五郎右衛門元明に相違はなく、熊玄とは熊谷玄蕃允のことであろう。
   さて、九月四日の合戦で大敗を喫した毛利勢は、松山城及び猿掛城を策源地として挽回の策を講じていたが、戦況は順調に回復、着々として勝利を収めるようになった、 次の書面は、そのことを立証するものである。
わざわざこの者差し上げ候

当城の儀、元明堅固の覚悟の由に候條、肝要に候。其の段心安く存じ候、ただたた兵糧、人数あるまじぎと笑止千万に候。涯分短柬(がいぶんたんかん)せしめ候、そこ元には、 人数等いかほど役にたつべきものこれ有るべく候や、つぶさに申し越さるべく候。その方の儀も比の節の事にて候條、二人三人なり共人をも呼ばれ候しかるべく候。いささかも油断あるべからず候。

竹庄表の儀はことごとく敵に同意候や。有漢表このごろは相静まり候由候いつる、いかが候や、承り度く候。

中とをり一城取り付けるべきとの儀に候。何れの在所然るべきとの、そこ元の技量どもに候や、申し越さるべく候。

行等申し付けらるべく候通申し越さるべく候。何れの口に何ほどの行たるべく候や、人数は定めて当城打ち明けられ候てはなるまじき候の條、左しては出勢のほどは如何程たるべく候や、 惣別人数いかほど候わば、何ほどの行者これ有るべきとの校量これ有るべき儀に候。よろずそこ元元明思惟の所申し越さるべく候。人数の儀は涯分相催し候。何□其方の心遣い肝要に候。

外部表の儀は諸城堅固の儀に候間、心安がるべく候。其口の心遣いまでにて僕。なお吉事追々申し承れるべく候。謹言

   九月十一日 
輝 元   花押
熊  玄

こうして続々援兵も増し、各地で勝利を得たため、宇喜多勢もついに備前に退き、庄勝資・植木・福井らは出雲へ走った。ところが植木資富のみ、一族僅かな人数で斎田に籠城、 頑強に抵抗を続けるので、猿掛城に在陣した毛利元清は、彼をだまし討たんと考え、使いを派遣して、
「国中の諸将悉く味方となったが、貴下一人武士としての義理を守られ感じ入った。もし味方になられたならば、必ず本領を安堵するから、御承知に相成ったらぜひ明日お越し願いたい」
と申し入れた。
資富も戦いに疲れこれを了承した。
植木房幸が、
これは敵の計略であると錬めたけれども、
資富は、
自分もそのように思ってはいるが、今や国中に味方はなく、いずれは敵に攻め落とされるであろう。どうせ捨てる命であれば、明日この首を渡すか、 元清の首を取るか、どちらかを決める覚悟だと答える、
それではその刀は長過ぎるというと、 資富はもっとだといって、
水田国重の刀を取り出し、「この刀は三尺三寸、よもや天井へはつかえまじ、天晴れ元清の首を討たんこと手の内にあり」と笑ったという、
こうして翌日資富ら一族十一人が猿掛城に出かけ、資富はまず刀を膝下に置いて上座につき、新左衛門以下おのおの刀を膝下に置き、次第を守って列座した、 向かい側には馳走の武士と称して十六人、これも膝元に刀を置いて座る。やがて屈強の若者二〇人ばかりが、結仕入と称して立ち現われ、すでに食事を始めたところを、 坂小六という結仕入が、突然脇差を披いて新左衛門を切り伏せた。資富は、すかさず小六を切り倒し、それより敵味方入り乱れ、火花を散らして切り結び、馳走配膳の者大半が討たれ、 植木の一党も悉く討死した。ただ資富のみ手を負わず、敵八人まで討ち取ったところへ、何を手聞取るかと元清か現われ、小長刀を打ち振って切りつけた。
資富はこれを見て、
「御辺を討たんがためここまで参ったのだ、さあ手並みの程を見給え」といって、走りかかって切り結んだ。元清も剛の者ではあるが、必死の資富に切り立てられ 、囲炉裏(いろり)につまずいて倒れるところを、すかさず資富が切りつけたが、着込みをつけているため通らず、そのうち小姓石川与九郎が資富を討ち取った。 城主か討ち取ら長たという報せで、さすがの斉田城将兵も、或いは降り或いは落ち、ついに斎田城は落城、毛利輝光は、熊谷玄蕃と井上就正にこれを守らせた。
「親藩開聞録」所載の

就いてはこの度其方在番之儀、隆景・定俊より申し越され候通り承知せしめ候。しかればいずれの境目たるといえども長久在宅候わば、 備作の間において千五百貫の地遣わし置かるべく候。先ずもって当時佐井田城番肝心に侯。なお両より申さるべく候。謹言

十月十二日輝元 花押
熊谷玄蕃大殿    (妙)

この度佐井田罷り蒙り候義心懸けの段神明に俣。備前一着の上五拾石の地これを遣わすべく候。堅固の在番肝要に候。謹言

十月二十日輝元花押
井上源右衛門殿

右二通の書面はこの時のものである。先にこの斎田城において穂田元資が戦死し、このため城主を失っていた猿掛城には、その後松山城主三村元親が管轄(かんかつ)し、 その一族が交代して守備することになった。この合戦のあと毛利輝元は備中に入り、備前侵入をも計画したが、その実現を見ず、かえって逆に宇喜多直家と和睦提携し、結果はいわゆる備中兵乱を引ぎ起こして、三村氏滅亡の因をつくることになったのである。

12】尼子氏の備中侵入小田郡史 p145  より記載

室町時代に於て備中國守護は、多く細川氏の一族なりき。即ち細川頼之の備中鎭撫の後、其弟満之守護に補せられ、二子基之満重相次ぐ、長祿年間(1457~1460)細川上總介氏久あり。 寛正(1460~1466)む以後には細川勝久あり、永正十二年(1515)には細川政春守護に補せられる。此の如くして備中國は細川氏の勢力範圍なりしが、後周防の大内氏勃興するに至りて之に代れり。 然るに出雲の尼子経久、□(盬)治氏を亡ぼして山陰方面を併呑し、餘力ヲ以て安藝に入るや、是に大内氏の勢力と衝突するに至れり。かくて尼子氏安芸備後方面よりと、 美作方面とより備中に侵入し來れり。其詳細を記すべき史料は缺乏せるも、尼子晴久が備中を略定せしは、天文五年(1536)(江北記)にて、 其平定を終りしは同七年なりき(天文日記)、同八年十月二十八日、細川持隆が赤松政村の為に、兵を出して備中に入り、尼子と戦ひて敗れしも(蜷川(になかわ)親俊日記天文日記)、 かかる事情によりてなるべし。故に従来細川氏從屬たりし庄為資も、天文初年頃より尼子の麾下(きか)となりしは勿論の事なり。
安藝の毛利氏は、初め大内氏の麾下たりしが、中頃尼子氏に屬せり。元就に至り大永年間の終わり頃、尼子氏と斷ちて再び大内氏の幕下となる。尼子晴久を討たんとして、 天文九年(1540)九月雲伯等八ヶ國の兵参萬を率いて、安藝に入り元就を吉田郡山城に圍めり。此役庄為資、三村家親、石川細川等備中の豪族は尼子軍に從軍せり(陰徳太平記)。

中国兵亂既記には、尼子晴久より三吉備後を功事並に中国侍大将三吉へ加勢の事と題し。
天文九年八月雲州大守尼子右衛門督晴久は、備後国三吉備後入道嫡男新丘衛は、大内幕下にて、尼子方周防國へ相働く通路を妨げ、雲州勢兵糧及難、 彼三吉を討随への軍勢の始終を可開と、尼手下野守、同名刑部少輔、同式部大輔為先陣、五萬六千4餘騎相随へ、備後國比督尾城へ押寄せ、府野山崎邊に陣取給ふ。 三吉備後入道、同新兵衛以小勢遂防戦数月相抱へ、大内家へ後詰を乞ひければ、幕下の國々へ有廻國、不移時備後三吉が居城へ遂後詰、備中にて大内幕下特大将、  一手は石川左衛門尉、細川備中守、高橋玄蕃、和勢左京亮、小田小次郎、笠岡掃部、村上弾正都合六千、兵船三百艘(そう)、宮め浦、連島、笠岡の浦より漕出し、 備後國鞆津に著船、一千は三村修理亮、二階堂近江守、野山宮内少輔、赤木蔵人、上野民部、同伊豆、上田右衛門、穴田和賀六千餘、備後東條雲州横田大阪峠に構要害、 難所にて敵を待つ。南備中勢八月晦日に、備後國山崎に著、城内へ案内を通じ相圖を侍居ける處に、九月二日深更に城兵夜討に可出。城内の貝に隨ひ諸国後詰勢も、 尼手晴久の旗本へ突掛り、以合言葉相働き、深く切入り浅く引取り、敵の首をば討捨て取間敷と相定め、丑の刻に尼子陣へ押寄せ鬨を作る。諸陣寝耳に是を聞き、 騒動仕ける處へ、矢を射掛け突掛りければ、尼子晴久はき旗幕を打捨て落散りけるを、數多討捕りける。東條横田境目に待居ける備中勢、晴久の旗本へ切掛れば、 尼子勢騒動して、無道山峰へ登り、谷底へ雪崩れ落ち、我が太刀に貫かれ數輩失にける。尼子家の侍大将ぞ數多討捕り、義隆郷御本陣へ送りければ、譽感(ようかん)の書二階堂近江守に給わる。

と記せるも信じ難し。何となれば天文九年の戰は、尼子氏の毛利元晴攻にして、三吉攻に非ず。尼子晴久の備後三吉城を圍みしは、天文十三年七月の事なり。
 同書は更に章を改めて、尼子晴久の毛利元晴を吉田郡山城に圍みしは、天文十年七月の事とし、且つ此役に備中の侍大将は、大内義隆に飛脚を以て郡山城の後詰をなすべきかと伺ひしに、 尼子晴久大軍にて其國を通る故、各自要害堅固に守り、海道の難所に關番(せきばん)を置き、雲州勢の陣所へ兵糧を送るを妨げよとの事なりければ、 其旨に従ひ石川左衛門尉ヽ二階堂近江守、高橋玄蕃、上田右衛門、清水備後は、穂田庄太夫居城猿掛山城石田要害へ楯籠り、關ケ鼻を切塞ぎ兵糧通路を留めると記せり。 出雲より藝州吉田へ送る兵糧が、山陽街道上の小田郡、吉備郡の境界に近き、關ケ鼻を通過すべしとは、方角違ひも亦甚しと云ふ可し。同書はつづきて、三村修理亮、赤木蔵人、 野山宮内少輔、秋庭大膳、鈴木孫右衛門等は、備後東條へ出張して、横田大坂峠を塞ぎ、兵糧及び尼子勢の往来を止むる旨を記せり。何れも記憶違ひより来りたる誤成るべし。
 常時備中に尼子氏の勢力は、頗(すこぶ)る優勢にて、之に服従せざるものは皆無(かいむ)付加といふべく、殊に前記の侍大将中にも、上野伊豆守等の一族は天文二年に滅亡し、 笠岡掃部は小供にて従軍の資格なく、信を措き難きを遺憾とす。然るに天文九年吉田攻が、數月功爭の末敗退したるを以って、尼子氏の名聲稍(ようやく)下り坂となり、 陰に志を大内氏及び尼子氏に通ずる者在るに至れり。三村家親の如き其代表者なりといふべし。

13】尼子・庄軍・備南進攻北房町史 通史編 P484~500
イ】鴨方城の戦い

尼子勢は元亀元年(1570)の暮れさきに降参した備中の国侍を案内者として、国中の侍大将の留守の城々を攻め従えた。浅口郡鴨方杉山城(現浅口郡鴨方町東小坂) 城主細川下野守に使者を立て、
「尼子家の幕下に入り、忠節を尽くし、武勇をもって備後国も切り取ってほしい」
と申し入れた。
  細川下野守は

「藝州家から懇意にして貰っているので今更寝返って味方にはなれぬ、と断り使者の首を刎(は)ね、即時に一五〇騎及び雑兵二〇〇〇余を随えて片島(現倉敷市片島町) に討って出て要害により防戦した。」
しかし尼子勢は、七〇〇〇余りの大軍であり、味方は士分二〇〇騎にも足らぬ小勢であったから、細川方は津々加賀守資朝、福井孫六左衛門を討ち取ったものの、 細川下野守は衆寡敵せず討死し、敗れた残兵は備中国山手村西郡(現都窪郡山手村西郡)の幸山(高山)城へ逃げこんだ。尼子勢の武威は広大となり、降参した備中の国侍 を加えて備中さ酒津村(現倉敷市酒津)の城を取り囲んだ。城主高橋玄蕃は九州へ出陣中で、弟の高橋右馬允らが僅かの人数で立て籠もっていたが、防戦することも出来ず、 城を明けて幸山城へ逃れた。
幸山城

尼子勢は、尼子刑部小輔氏久、大賀駿河守、庄伊豆守幸山高資、植木下総秀資らを先陣とし一万余の軍勢をもって山手村の幸山城へ押し寄せた。城主石川源蔵左衛門尉久式 (ひさのり)は、九州の立花へ出陣中で留守であった。城代の祢屋(ねや)七郎兵衛のほか、友野石見・日幡(ひばた)六郎兵衛・生(おん)石(じ)中務・上山兵庫等が留守を守っていた。 日幡(ひばた)六郎兵衛は、庄兵部大輔勝資のもとへ
「自分は城代として城をまもっていたので一戦に及びましたが、領地を今まで通り相違なく下さるなら味方となり忠義を尽くします」
と申し伝えてきた。そこで尼子方も納得し、双方誓紙を取り交わして和を結んだ。
 ハ】 経(きょう)山(やま)城合戦

『中国兵乱記』(巻二)『備中集成志』(十四)によると尼子勢は幸山城での勝利に続いて賀陽郡黒尾村(現総社市黒尾)経山城主中島大炊助元行のもとへ使者を立て、
「尼子の味方になり備中・備前までも切り取られたい」と申し入れた。
中島元行が近郷の小城主や家臣達にはかると、かれらはこぞって
「いま雲州の大軍を相手に防戦されても、この小勢では勝つことは出来ない。まずは尼子に随身する旨返答され、暫く時をかせぐのがよろしい」と答えた。
そこで元行は尼子氏久・大賀駿河守のもとへ、
「仰せの趣は了承した。当城は大内義隆・毛利元就の時から永年味方して恩賞に預かっているが、毛利家の家老がわれに対し、無礼な振舞いが多く口惜しく思っている時である。 尼子の幕下に加えて頂き忠功を励みたい」と返答した。
大賀駿河守はこれを聞き届け軍勢を引き揚げた。元行は計略をもって一時の難を逃れたのである。
元行は小早川隆景へ飛脚を送り救援を救めるとともに、在所の要害の普請を行った。経山城は三方の谷が深い要害の城で地続きの寺屋敷に兵を配した。鬼の城構えに伏兵を置き、 小寺城や片山の妙現山に至る山々に普請を行いね要害堅固にして弓五〇人、農民二〇〇~三〇〇人ずつ籠らせ、道筋は番兵を置いて交替で守らせた。
彼はまた国中の親類や一味の城主へ後詰を依頼した。尼子刑部や大賀駿河守は裏切られたと知って経山城に籠る中島大炊助を討取るため一〇〇〇〇余騎を二手に分けて南門へ押寄せ、 弓を射込んで閧の声を挙げね乗っ取りを図ったが城中からは何の反応もないので、城内に人はいないと判断し、遮二無二城門近くまで攻め寄せた。其時ね中島大炊助は時分 はよしとみて出撃を命じた。馬の尾に松明を結びつけ五〇余頭を尼子勢へ暴れ込ませたから尼子勢は大騒ぎとなった。これに乗じて大炊助は一七〇騎を前後にし 雑兵二三〇〇余人を従えて閧の声をあげて突いて出た。
尼子勢が驚き所々の落とし穴へ落ち込んで大騒ぎとなったところを、清水備後守宗則が一一〇〇人を従え総社宮より雲州勢の背後へ突きかかると、 雲州勢は不意を突かれ前後を取り巻かれて一二〇余人が討死した。残った兵は三輪山(現総社市三輪)や軽部(現都窪郡清音村軽部)の要塞へ逃げこんだ。 雲州勢は其後攻めよせる術もなかった。
庄兵部大輔勝資・植木下総守秀資・津々加賀守資直らは先陣として深入りして城兵に喰いとめられ、ようやく井山村(現総社市井山)へ退き、宍粟(しさわ)(現総社市宍粟)の古城へ引籠った。 幸山城の祢屋七郎兵衛・友野石見は、さきに尼子勢と和を結んだが経山城の中島大炊助が奮起するとこれに呼応し、鍋坂まで出向き数日間滞在して尼子勢を押さえた。
この時尼子久氏・大賀駿河守は経山城を取り巻いたが、中島大炊助家臣、中島九右衛門・石井新右衛門が坂口でよく防戦したので攻め落とすことができず、 大賀駿河守は遠巻きにして兵糧攻めを図った。
これに対し中島大炊助は、清水田兵衛に五〇騎、祢屋孫一郎に五〇騎をさずけた。この二手は総社大明神の馬場にへ向かい、それより軽部村の二か所の要害へ忍びより ・大賀駿河守・庄右京進資時の陣屋をおそった。中島大炊助自身は一三〇人を率い尼子刑部・庄伊豆守高資・津々加賀守資直の陣屋をおそい、火を付け番兵を切って廻った。 尼子方は寝耳に水であったから馬よ兜よと大騒ぎとなった。元行の指図で中島勢はいかのにも弱々しく引上げにかかると、それが中島勢の戦略とも知らず尼子方は追いに迫った。 この時小谷村(現総社市福井)の谷々から清水田兵衛・祢屋孫市郎が後(あと)備(ぞな)えに突きかかり、中島大炊助らも途中から引き返して戦いに挑んできた。数刻の戦いのすえ、 尼子方は若林治郎右衛門・隅野源蔵ら三七〇余人が打ち取られ、多くの将兵が鍋坂(げ総社市井尻野と宍粟(しさわ)の権現岳西側の坂道)から湛井川(現高梁川)へ雪崩落ち、 数知れないほどの死者を出した。
尼子勢は意気消沈してやむなく植木秀資の本城である斎田城へ引き返した。また尼子勢は山陰方面でも振わなかったから尼子刑部氏久、大賀駿河守は兵をまとめて備中から山陰に戻っていった。
二】 松山合戦

尼子勢が備中南部に侵攻した時、真壁の杉氏、成羽の三村氏の諸城を降参させようと、大賀駿河守を使者として降参を勧め
「若降参セサレハ早速攻落ス」と威嚇した。
すぐ、三村が安芸の毛利家に尼子侵入のことを報ずると、毛利元就、輝元は驚き、再び、毛利元清に名ある一族の部将をつけ、士卒一万余騎を率いて備中に出陣させた(備中集成志)。
多々良系図』によると三村元親、同孫兵衛尉親重、杉雲暁、同政房、同直弘、伊達常陸介教久、同左京進久清、同刑部久貴らが軍勢を揃えて毛利元清を迎えている。
元清は

「去年宇喜多直家騒動モ、庄高資カ謀ナリ其時誅伐スベス処、弥々野心ヲ挟ミ、尼子ト一味シテ騒動ヲナス、先此者ヲ退治シテ尼子ヲ可討果」

と命令い元亀二年(1571)二月、三村元親をさきがけとして松山城を窺えば、庄勝資、植木秀資らは竹荘方面に出陣し、城内は手薄となっていた。この時だと、松山城へ一気に乗り込んだ. 城内には高資以下男女一〇〇人ほどいたばかりでたちまち切り崩され、ことごとく討取られてしまった。
    高資の首は、元清の本陣猿掛城に送られ、現矢掛町三谷村東三成の禅応寺に葬られたという。我が町にも高資にかかわりのある禅応寺があり、立派な宝篋印塔があるが、関係については不詳。
   この後元清の指図で元親は備中守に任ぜられ松山城主となり、三村孫兵衛尉親成が、鶴首城の城主となった。又鴨方領は伊達久清に、石賀領、津々領は杉雲暁に賜った。
庄・植木はこの時、領地を没収され、尼子方に属し出雲に移り、尼子勢の衰微とともに浪人になったとする軍記ものと、いやそうでなく、数千の兵を擁していた彼等が一戦も交えず出雲へ浪人するはずもなく、 もしそうであれば九月の斎田城合戦が起こるはずはないという説がある。ここでは後記毛利輝元の横井左衛門尉にあてた書状により後の説をとり、記述する。 

ホ】斎田城春秋の合戦   P 490

毛利元清は、松山城を陥落させた後進んで斎田城を攻めたが竹荘にあった勝資らが後詰めして毛利軍と戦いこれを破り元清らは大敗した。
藝州では、 元就の病気が急に悪化し、六月十六日七十五歳で没した。毛利勢は備中に援兵を送ることが出来ない状態になり、春の斎田城攻めは失敗した。
毛利軍は、其後斎田城再度攻めの準備を着々と整えて、九月元就の意思を継いだ毛利輝元が大軍を送りこんだ。
斎田城では植木下総守秀資らが守りを厳重に固めた。宇喜多直家は、備中斎田城の急を知り、庄・植木を援けるため備前・美作の兵をもって救援に駆け付けた。
三村元親はこの戦いは、激戦になると思い兄の穂田元祐に助けをもとめた。元祐(もとひろ)は二〇〇〇余騎をもって斎田表へ元親より早く到着した。 直家は元親が到着しない前にこれを打倒せと下知した。元祐は忽(たちま)ち敵を追い散らし、暫く休んでいた処、乗馬が急にがつ駆け出し、 馬は宇喜多軍に駆け入った。元祐は斬りかかる宇喜多勢と、力戰したが、ついに宇喜多勢に討たれた。
斎田城では宇喜多軍の後詰めを得て、九月四日大激戦が展開され植木の城兵は奮戦して今度も毛利軍の敗戦となった。
しかし毛利軍は、松山城と猿掛城によって勢力の挽回をはかった。
『萩藩閥閲録』(卷二十五)ら輝元が横井左衛門尉にあてた感状が納められている。

就二今度備中佐井田表之儀一、其許別而御心遣奉>察候、当城之儀、以二御覚悟堅固一被相拘候、誠無二比類一存候、隆景事途中頓ナク被二罷出一候、 我等事今明之間討立候、旁申談可>及二一戦一候、猶追々可二申承一候間、先閣筆候、恐々謹言
(元亀二年)九月九日   輝元 御判
横井左衛門尉殿

これは横井左衛門尉の佐井田表での比類ない働きを賞したものである。この書状から元亀二年(1571)九月初旬の斎田合戦を裏付けることが出来る。 植木の城兵の奮戦により、九月四日の斎田城攻めには失敗したが、毛利方は松山城及び猿掛城を作戦基地として想を練り、各表の城々を勢力圏に繰り入れ、 兵糧人数を増し着々と充実させ、備中国を従えたので、宇喜多勢は備前に引き揚げていった。ここで宇喜多軍の後盾を失った 庄勝資・植木秀資・同孫左衛門等庄一族は、尼子を頼りに出雲へ出奔した。

へ】植木資富の討死 P 492

植木秀資の甥で美作守秀富の嫡男に与九郎資富という豪の者がいた。かれら庄一族が出雲へ浪人した後僅かな兵で斎田城に立て籠もっていた。 そのころの情況を『備中集成志』(巻 十四)は、次のように述べている。

毛利元清ハ庄・植木ヲ撃チ随エ、小田ト云ウ所ニ在仁ス、然ルニ植木美作守が長子資富ト云者有。極メテ不敵成ル者ニテ強力任侠ナリ。   同名新左衛門資光并ニ重左衛門房幸抔(など)ト云者トテ一族斎田之城ニ居テ数万之敵、国中ニ充満スレ共、不屑(もののかずとせず)光陰ヲ送リケリ。 毛利元清是ヲ聞キテ大イニ打笑テ扨モ扨モ命不知ノアブレ者共哉。輝元ヘ申テ所領ノ一ヶ所モ安堵サセ某シガ先手ニセバヤト思へ共良モスレバ逆意 ヲ企テ武勇ニ自慢ヲスル者共ナレバ後日之禍ヒニモ成リナント押寄テ討取ルモ安ケレド多クノ人ヲ討センモ惜ナキナリ。」

とある。資富は同族十八人と共に斎田の城に立て籠もって孤軍奮闘の覚悟をかためた。敵の大将毛利元清さえ、所領を与えて家来にし、 先手の大将にして働かせたいと思うほどの「強力任侠」の武将であった。しかしややもすれば、武勇を自慢し、逆意を抱き易い人物 であると考えこれを殺戮(さつりく)することにした。
元清は斎田城の資富のもとへ使者を遣わし、
「敵ト成リ味方ト成ルモ弓箭ノ習イ也。向後ハ味方セラレヨ、サアアラ累代ノ所領各々へ可遣。同心ニ於テハ明日是ヘ来リ給へ、 料理ヲモ饗(もてな)シ対面サン」と申し入れた。
資富は
「委細過當(かとう)」ニ覚候間明日参上仕御礼可申」とこたえて使者を返した。
房幸は
「今俄(にわ)かに和睦を申し込んだことは、疑わしいので、明日の会見は止められたい」と諌めたが、
資富は
「自分も同感である。明日は元清の首を取るか自分の首を渡すか、どちらかであろう。その覚悟で臨むつもりだ」と覚悟のほどを語った。
房幸は資富がもっていた長い刀を短い刀に指しかえるようにと進言し、大月国重が鍛えた太刀を差出した。資富はこれならば天井にも使えまいと自若としていた。
翌日資富は一族十七人とともに猿掛城へ赴き御馳走役の若人十六人が座る座敷に通され、料理の座に就いた。そこへ給仕人と称して、 屈強の若者二〇人ばかりが現われ、資富らが膳にに向かって箸をとるところへ、突然脇差を抜いておそいかかり、まず津々新左衛門を斬り倒した。 それより敵味方入り乱れ火花を散らして戦い、植木一族はついに一人残らず討死した。ただ資富だけは最後まで痛手も負わず奮戦した。大剛の聞こえ高 かった元清は小長刀を振って打ちかかった。其時の様子を『庄氏系図』と『備中集成志』は次のように記している。

資富莞(かん)爾(じ)ト笑テ御邊ニ逢事生前ノ本意也、某ガシガ腕の骨見ラレヨト云侭(まま)ニ、太刀取リテ渡リ合ウ。元清ハ元就卿ノ子ト云、 敢(いさみ)ノ誉ア人ナレバ互ニ蹂躪(じゅうりん)ス。元清少引キ退カント後退リセラレルケルニ圍爐(いろ)裏(り)ニツマズイテ倒レタルヲ乗懸テ 斬リタルニ着込ミヲ著タレバ内ヘハ不徹、其隙ニ、小川トイウ小姓後へ廻テ與九郎ヲ斬?(いただい)タリ」

壮烈な戦いぶりに感じ人々は鬼植木と批評した。斎田城の庄・植木の一族はここに逼塞(ひっそく)し、城は三村元親に賜り、元親の三村兵部少輔親盛 を斎田城主として守らせた。
こうして反毛利勢力は備中から一掃され、残ったのは毛利方に属する武将で、その代表的なものが松山城の三村備中守元親、真壁城の杉雲暁、 唐松城の伊達久清、幸山城の石川左衛門尉久式らであった。
ト】庄勝資の斎田城奪回と三村氏の没落 P 496

庄兵部大輔勝資は、元亀元年(1570)、尼子刑部氏久ガ備中に侵入してきた時尼子に降参したため、元亀二年、毛利に領地を没収され、暫く出雲で浪人暮らしをしていたが、 このころは毛利に許されて本領を安堵、呰部城の城主におさまっていた。かれは数年、三村に恨みを抱いていたから、同じく滅ぼされた植木、福井の残党と協力し、 毛利の三村方端城攻めに際し、数百騎をもつて天正二年(1574)十二月二十七日斎田城を攻め落とした。時の城主三村左京は忽ち敗北して松山城へ落ち延びた。
   安芸国から八万騎と称される大軍が備中に入ったが大将の毛利輝元、小早川隆景、毛利元清は、三村元親との合戦を好まず、杉雲暁、豊後守元良父子を呼び 「三村家親、数年武勇の忠もあり、遺恨を止めて以後も旗下にて忠を励めば、助命の上、本領無相違可宛行」旨を、
松山城の三村元親に申し含めるよう申し渡した。
   雲暁父子は、その旨を伝えるため松山城に向かったが、松山方の守備兵は、信用せず、面会を許さず、逆に発砲する有様であったから、逆に合戦となった。 三村氏は毛利、宇喜多の連合軍に攻められ、備中の諸城は相ついで陥ち、天正三年(1575)六月二日、元親もついに、自害して果てその一族も滅亡した。
  この後松山城には、毛利の老臣天野中務少輔元明・天野五郎右衛門尉元信父子・桂民部少輔元延が城番となり成羽鶴首城には三村孫兵衛尉親成が封ぜられ 、領地も加増され、親成かれをもって、三村家の頭領とされた。
  呰部方面の斎田城・丸山城・大山城等も、此の合戦に功のあった庄勝資、植木秀資、福井孫六左衛門に安堵されたと推定される。

チ】庄勝資の討死 麦飯山の戦い
『庄氏系図』によれば

天正三年(1575)毛利輝元三家ノ人々ヲ招テ謂ルルハ、宇喜多直家、備前ニ在テ某ニ随ハズ、東ハ播磨・印旛・西ハ備中・備後・某ノ領地ノ中ニ在。是是非大軍ヲ以?(たおす)べシ。 児嶋ハ備中ヨリ近ケレバ攻取テ繋(つなぎ)ノ城ニセント云」(中略)

各人それに同じだという。中にも小早川隆景申すには、直家は名高い弓取容易に破り難い。児島を攻めても直家が後結をすれば大事な合戦になる。 直家の策略を挫(くじ)く者は今当家にはいない。某年老いて役に立たないが、元就卿に属し奉(たてまつ)り軍の勝敗の仕方はほぼ覚えている。 某に二万の兵を授けて下さるならば備中に行き児島を取ってみせましょうという。よく思案してみるに、備中国、庄・植木の一族、数度の軍に勇敢に戦い功名を立てている。 この者ども出雲に行き浪人していますので、本国へ召し返し先手をさせてはどうかという。一同最ものことと賛意を表したので、輝元より使いを出し、 庄・植木の一族は本国へ帰ってきた。
  勝資は出陣の前に一族を集めて語るには、
  「当家が滅びるか栄えるかは、この一戦に功を樹てるか否かにある。と先祖の功績を述べ、児玉党の旗頭庄太郎家長より某に至るまで、十六代、 弓箭の道において一度も後(おく)れを取ったことはない。今、児島の先手を頼まれ中国に並びない武将小早川隆景に我ら一族を撰ばれたのは武門の誉れである。 敵いかに強く、多勢と雖も某一番に斬り入って大将と差し違えよう。おのおのはどうだ」という。
一族皆感涙(かんるい)し、無双の功を立つ申すという。

『天正四年(1576)小早川隆景、安国寺恵瓊ヲ大将トシテ備中備後ノ守護人ヲ先(せん)魁(かい)トシ其勢二万余騎児島麦飯山城ヲ攻ム。城主、明石源三郎トゾ聞へシ。 浮田ヨリ加勢三千騎籠ル。毎日ノ鉄炮逼合(ひんごう)有。毛利方ハ向城ヲ本城ノ如ク拵(こしら)へテ兵粮山ノ如ク敵ノ兵粮ノ道ヲ塞ギタリ。』

庄兵部大輔勝資、叔父、同右右京進資時、堅を摧(くじ)き強を破って働き又植木下総守秀資、植木孫左衛門秀胤、津々加賀守資直、福井孫六左衛門等我おとらじと戦う。 激戦の中で秀資手を負うて本国斎田に帰る。
城方より明石源蔵を大将として一文字に斬って出る。隆景、安国寺是を見て麾(き)(大将のさしず旗)を振って士卒を下知する。城方が、すでに敗北する時、 庄勝資白星の兜を着し黒糸縅(おどし)の鎧に十文字の槍を堤げ部下を励まし突然走り入って明石源蔵を突き伏せ首を捕り、立ち上がる所を、源三郎の手の者が勝資を突き伏せた。
田中源四郎は八月十八日の夜毛利方へ押寄せたが、夜のことで毛利方一人もこれに応じて向かう者が無かった。其時植木孫左衛門二〇人ばかりで 我等備中呰部の住人植木孫六左衛門と名乗り互いに槍を合わせ激しく戦い、遂に田中源四郎を討ちとる。その他の者も功名をそれぞれする。
元より勝資等の戦死を感じ所領安堵の折り紙が出され子息宮若丸(信資)に名跡を立て領地を賜る。
二歳の宮若丸の後見役として勝資の叔父、庄右京進資時と植木孫左衛門を定められた。宮若丸に二万石の採地が与えられ庄、植木氏もそれぞれ恩賞が与えられた。
宇喜多直家は毛利家と和睦し、宇喜多の老臣共の子供三人を吉田へ人質として出す。
この戦さに功を樹てた庄、植木の一族は再び備北に帰り咲き毛利家に服属して中国兵乱に際し活躍するのである。

註 以上天正四年(1576)麦飯山城の戦況と庄勝資の死を記述したが、これは『中国太平記』に載せるところで、この年代は前述のごとく毛利氏としては東上して織田氏を討つためには、 その道筋にあたる宇喜多氏との連合が必要であった。其為、永年毛利氏に忠節を尽くしてきた三村氏を将軍義昭の調停があったとはいえ、つきはなして宇喜多方と和平連合したのである。 天正三年三村元親を討って間もない天正四年のころ毛利方が宇喜多方の持城を攻めることはない。また勝資が城主明石源三郎の首をとり自分も討死したと述べているが、 明石氏の系図により源三郎は誰か、やや詳細に調べてみよう。
  小和田哲男・山本力の『戦国大名家臣団』より明石系譜の略系をあげると、次の図の如くである。
明石源三郎景憲――― 源三郎景親――― 全澄(てるずみ)
浦上家重臣
浦上宗景の重臣
浦上宗景の重臣
磐梨郡熊野保木城主
保木城主(宇喜多家の国政を執る大阪の役に際し大阪方として奮戦する。)

この元亀・天正のころは明石家の中心人物は源三郎景親であった。したがって麦飯山城主とこの城を守るとすれば景親であろう。父源三郎景憲は年老いているので、隣国との重要境城は、 守りきれぬ。ここで源三郎景親を麦飯山城主とすればその證(あかし)に不合理が出来る。景親は永禄十年(1567)の明善寺合戦、十一年の備中斎田城攻めの時、直家に加勢し、後、天正五年(1577)直家が天神山城の浦上宗景を攻めた時は、直家に内心して宗景を遂うている。其後宇喜多家の客分として保木城に居った。天正十年(1582)備中高松の役、十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻等、各地の合戦に参加し天正十二年(1584)には飛弾寺に叙任しているので、天正四年に討たれるはずはないのである。   小田郡史にもこれらから推定して「明石源三郎は天正四年には健在なり」とし『中国太平記』   記事には、信じ可からざる点少しとせず。としている。勝資の死はいつであろうか、刀書「光山押形刀」には庄勝資が天正九年(1581)麦飯山で討死したという添え書きがあり、『日本歴史地名大系』(908)に上呰部村高釣城について毛利氏は八浜の合戦で軍功あった勝資に対する恩賞として遺児宮若丸(後信資)を上呰部の高釣城主とし、英賀郡に七一三石の地を与えたとしている。   八浜合戦には多くの備中勢が参戦しているが、一族あげて参加した庄・植木の奮戦状態の詳細は不明である。したがって勝資討死のことも判然とはしていないが前記のごとく諸状勢を比較判断するとね天正九年(1581)八浜の激闘の中で討死したのではなかろうか。