元資以後の情勢 part Ⅰ

1】 元資の時代    元資と福岡合戦 2】 守護代元資の反乱    應仁の乱
3】莊氏略系 4】
莊為資松山城を攻略   莊高資と勝資

元資以後の情勢 part Ⅱ

5】 三村家親の野望と尼子との対決  6】猿掛(猿懸〕城の攻防  Ⅰ》頂見いたみ山合戦 Ⅱ、Ⅲ》猿懸城合戦
Ⅳ》三村穂井田二氏兩度の合戦吉備郡史  四月陣参考古文書

元資以後の情勢 part Ⅲ
7】 吉田義辰の加番とその最期8】 家親の作州進出と悪業の死
9】 明禅寺の弔い合戦10】  斉田城の合戦
元資以後の情勢 part Ⅳ
11】松山落城と庄氏の滅亡12】尼子氏の備中侵入 
13】尼子・庄軍・備南進攻   イ】鴨方城の戦い ロ】幸山城 ハ】経山城合戦 ニ】松山合戦 ホ】斎田城春秋の合戦
へ】植木資富の討死 ト】荘勝資の斎田奪回と三村氏の没落  チ】荘勝資の討死 麦飯山の戦い
高梁市史(郷土資料) P141より記載
7】part Ⅲ
吉田義辰の加番とその最期 
 

既に述べたごとく、庄氏は毛利と和を結び、そのため当面の敵であった三村家親の嫡男元祐を迎えて養子とし、これをかつて庄氏の本拠であった猿掛に置き、 将来庄氏の勢力を二分するかも知れない原因を作ったことは、高資にとっては不愉快なことであった。一方尼子にとっても、猿掛の合戦以来備中土豪の大半が毛利に帰属し、 尼子の勢力は地を払うに至ったため、何とかして備中を回復したいと考えていたが、庄高資の心中を知って、昔のごとく尼子との提携を強要してきた。高資は、 元祐はもちろんのこと三村一党に対して危惧の念を特っていたので、ついに尼子と手を結び、このため尼子は吉田左京亮義辰を加番として松山城に送りこみ、 庄氏を監視させた。以後高資は毛利に背いて尼子の麾下に入ったのである。ところが義辰は、尼子勢力の挽回に急なあまり、何かにつけて高資に干渉圧迫を加えてきたため、 堪えきれなくなった高資は、元祐初め三村一党のいさめもあって、再び尼子と手を切り、松山城を義辰に明け渡して猿掛城に逃げ帰った。
   そこで三村家親は、義辰の暴状を元就に報告、その征討を乞うたため、元就は小早川隆景に命じ、家親と香川左衛門尉光景に、備中・備後の兵三、〇〇〇余を率い、 永禄四年三月中旬、松山城を攻撃させた。「陰徳太平記」巻三三備中国松山落城付吉田左京亮自害の事の条を抄記しょうきすると、

義辰は聞ゆる大剛の者なりける故、手勢三百ばかりにて毎度勝利を得たりしかば、今迄当国に唯一人城を守りて居たりけり。さるからに家親・光景が多勢を物ともせず、 然れ共兵糧尽きたれば左京諸卒に向いて、比まま城に在って取り囲まれなば、一人も命助かる者無きのみか、後は兵糧つぎて身労れ力落ちて、敵に太刀を打ち違えん様も無く、 むざむざ餓死せんことの口借しさよ。いざとよ、未だ精気弱らざる前に打って出で、一方打ち破りて落ち行ぎなん。若し敵強くて切技くる事を得ずば、同じく枕を政べて快死 せんと言いければ、一族郎党共もっともと同じ、四月六日、両日の兵糧を付けて大手の門を開くや否や、何の会釈もなく三村が陣へ切ってかかる。

といい、その合戦の状況を詳述した後、

吉田は今ははや戦死せんと思い、一足も引かず戦いしが、何とかしたりけん、一方打ち破りて落ちて行く。始めは七八十ばかりの従兵共、主を討たせじと討死するもあり、 或は落ち行くも有りて、今は唯西郷修理亮勝静といふ郎党一人になりにけり。修理主を落延びさせんとて数度返しあい戦いけるが、股を二箇所突かれて己に討たるべかりしを、 吉田向う敵追い払い、修理が手を引いて落ち行きける故、落ち得難くぞ見えにける。修理主に向い、某事はたとえ故郷へ帰り得候共、かく深手負いて候えば、 とても今後の功あるべからず。ましてや前後の敵を打ち払いてのがれ候わん事難かるべし、同じくは某を打ち捨て、公一人にても国に帰らせ給い、晴久公の御用に立たせ給え。 <44>と再三諌めたが、

左京、我れ戦場において討たれんとせし事数箇度に及びしかども、汝身命を棄てて危きを助けし故、所々にて功を樹て名を揚げたり。比の思いいかでか報ぜがらん。 死なば一所ぞと耳にも入れず、手を執って肩に引き掛け落ち行きける程に、落人有りと聞きし一揆ばら、馬物具もののぐ奪い取らんとて馳せ集り 、所々にてさえぎりけるを、左京大太刀をもって切り払い払いしてようやく河辺まで落ちたりけり。ここにて川の向うを見れば一揆二三百人 やじりそろえて待ち懸けたり。又後の方を顧みれば、三村紀伊守親宣、五六十騎にて追いかけたり。左京今はのがれ得じと思い、 如何に修理、今は網裡の魚、のがるるべき方なければ白害せんと思うぞ。汝死出三途の供せよと言いければ、修理亮、ええ打ち捨てて落ちさせ給わば落ち延びさせ給うべかりしを、某故に敵に取り込めさせ給うこそうたてけれ。 あわれ身のつつがなく候わば、ここをば打ち破りて落し申すべきに、反って御足まといに成り候事の口借しさよ。はや首打たせ給えと差し延べたれば、 左京太刀振り上げて打ち落す。
と述べ、続いて

吾が身は河中なる石上に腰を掛け、大音声を揚げて、吉田左京亮義辰と言う大剛の者が自害するを見置きて後代の物語りにせよやとて、腹十文字にかき切り、さて太刀を取直し、 自ら喉を押し切りて河水の座へ飛び入りける形象けしょう、項王が鳥江の戦死、弁慶が衣川の立死もかくこそ有りけめと、前後の敵兵、 ああ切りたり左京とて、感ずる言しばしば鳴りも止まざりけり。 彼の腰掛たる石をば、時の人吉田石と名付けたり。

「萩藩閥閲録」所蔵の永禄四年(1561)四月二十日付隆景からの左記感状は、この時のものらしい。

去る六日備中国松山藩居の時 敵一人 僕従小三郎討ち捕え誠に神妙の者也仍って感状件の如し
永禄四年四月二十日   隆 景 花押
井上叉右衛門殿

この合戦の結果、毛利氏の備中における勢力はもはや動かざるものとなり、将軍義輝は、元就の子隆元をもって備中守護織に任じたのである。

8】 家親の作州進出と悪業の死

三村家親は年来毛利の麾下に入り、伯耆に出陣して尼子勢と戦っていたが、その留守をねらって備前の松田左近将監らが備中に侵入、侵略をはじめた、 当時尼子氏は衰えて出雲の富田一城のみとなっていたから、家親は元就に乞うて暇をもらい、松田を討つため備中に帰ったが、松田は年来の敵宇喜多直家と結び、 更に備中へ攻め入らんとしていたため、家親は急いで備前に討ち入り、岡山城及び船山城を攻め、金光与二郎・須々木豊前等を降して帰ってきた。 それが永禄六年のことであった。その後小康を保ったのを脱会に、元就は尼子の本拠月山富田城を抜くために、家親に参戦を要請した、これに応じた家親は伯耆に転戦し、 元就の信頼にこたえた。永禄七年三月上旬家親は、日野郡不動滝城に香川左衛門尉光景と共にはいって、尼子氏の本城富山月山の後背地である日野・西伯耆の地を脅かさんとした。 そこで尼子義久は、その臣福山肥後守に命じて三村・香川を討つため日野にはいらせ、この不動カ岳のふもとの如来堂に夜討ちを試みたが、勝利を得ず退いた。 これによって伯耆における尼子勢は前後して衰え、やがて永禄九年富田城の落城となるのである。
不動ケ岳にいた三村家親は、のち法性寺の城に移った。
法性寺城  西伯郡西伯町法勝寺
吉田左京亮の居城 法勝寺城・尾崎城ともいう。

永禄七年(一五六四年)毛利氏の築城。同年、三村修理亮家親が日野の不動カ岳城より移ってこの城にはいった。九月、家親は尼子方の吉田源四郎、 その部下谷上孫兵衛、福山肥後守らの守る八橋城を攻略、吉田らは富田城にはいった。
    同八年十月、福山肥後守、平野又右衛門らが来襲、城下に火を放ったが家親は出て戦わなかった。平野は家親の作戦を察して引き退いたが、 血気盛んな福山は城下を荒らし、日暮れに及んで引き返すところを家親は大挙して出撃、福山の軍を押し包んで攻撃、福山はついに討死した。

家親はこの様に伯耆にあって武威を振い、尼子方に怖れられていたが、永禄九年(1566)毛利元就は尼子義久を攻め、今はもう月山城だけを残し、 その落城も眼の前にあった。この機会を捉えて家親は永い遠征に国元の備中の様子が見たいし出来るならこの際、宇喜多を除き上洛の心配のないようにしたいと元就に願った。 心委せにせよ、という許可が下りたので、二千余の一族郎党を引き連れて松山へ帰った。その旅の疲れを取る暇もない位に、永禄八年五月には作州に出陣、 後藤摂津守勝元を三星城に攻めた。勝元は備前沼亀山の城主宇喜多直家の女婿であったから、直家は驚いてかねてから勇士の聞え高い馬場次郎四郎を遣してこれを助けさせた。 次郎四郎に多少の槍先の功名はあったが大勢上三村方が優勢であった。しかしながら家親も何等得るところなく兵を退き、その後山陰に出陣して活躍、 翌九年春帰国して再び作州に攻め入った。その勢いはなかなか盛んで、備前へも進撃するらしいという風聞も立ったから、直家は不安の念に駆られ、 津高郡加茂の浪人遠藤叉次郎・喜三郎の兄弟が、かつて成羽に往み、家親を見知っているばかりか、作州の地理にも詳しいと聞き、これに暗殺を依頼した。 二人は作州に忍び入り機会をねらううち、家親は予定どおり作州に入り、久米郡穂村の興禅寺を本陣とした。永禄九年二月五日の夜、兄弟は夜警を装って興禅寺に入り、 短銃で家親を暗殺した。しかしさすがに戦いなれた一族三村孫兵術の建策によって、喪を秘して松出に帰り、改めてその死を発表葬儀を行った。 これを知った直家は大いに喜び叉次郎に一、〇〇〇石の地を与え、浮田河内を名乗らせ、弟喜三郎も遠藤修理と改名、宇喜多の家臣とした。三村方ではその一族老臣相集まり、 家親の二男元親を守り立て、機会を待つて弔い合戦をすることになったが、家親の叔父五郎兵俗親房のみ即刻報復すべしと主張、一族郎党五○余人、 それに縁故の者七、八○人を率いて直家の本拠沼城に向かい、悪戦苦闘、五月上旬一人残らず討死して、名を千載に残した。

9】 明善寺の弔い合戦明禅寺の弔い合戦

その後三村方では、支配下の備中各城に兵をめ、先に降伏した備前岡山城主金光与次郎・船山城主須々木豊前らを味方 として防備を固めたため、宇喜多勢も容易に的中への進出ができず、永禄九年秋から上道郡沢田村の明禅寺山に塁を築き、備中勢との小ぜり合いが続いていた。 そのうち翌十年春、風雨の烈しい夜を選んで三村勢はこれを攻め取り、弥矢与七郎・薬師寺弥七郎らに命じて、一五〇余人をもってこれを守らせた。 直家は生来の策略家である。彼は謀略をめぐらし、利をもって岡山の金光与次郎・船山の須々木豊前、中島大炊らに内通させ、弥矢与七郎・薬師寺弥七郎らには降参を勧めたが、 二人がこれを拒絶したため、いよいよ明禅寺攻めを決意、金光与次郎に対しては、近日明禅寺城を攻める。三村の後詰めがあれば有無をいわさずこれを討ち取るから、 必ず三村が後詰めとして出陣するよう誘い出せと依頼した。金光は承諾して、さっそく石川左衛門尉に使いを立て、近日直家明禅寺城奪回のうわさがある。その時出陣され、城内と しめしし合わせて討たれたら、御勝利疑いなしと申し送った。弥屋・薬師寺からも同様の急報があったため、三村一族は一堂に会し、これこそ天の与えた弔い合戦の好機。 不倶戴天ふぐたいてんの敵直家を討ち取り、勢いに乗じて備前一国を攻略せんと軍勢を集め、備中高松城で軍議を開き、左翼軍は三村修理進元親を大将とする七千余騎、 中央軍は石川左衛門尉を大将として八千余騎、右翼軍は庄式部少輔元資(三村家親の嫡子で元祐を称した人物)を大将とする七千余騎、これが三方より進撃して宇喜多軍を包囲し、 その根拠地に侵入せんとした。これに対して直家は五千余騎を五段に構え、その先鋒にまず明禅寺山城を攻撃させた。
   その戦況については、「備前軍記」を始め、「妙善寺合戦記」・「中国兵乱記」などいろいろあるからここでは省略するが、結果は三村軍の大敗となり、 大将石川左衛門尉久智を始め、中島加賀守・小出小太郎らも戦死し、庄元資は負傷して辛うじて逃れ帰り、元親も敗残兵をまとめて備中に帰った、世にこれを明禅寺崩れといったものである。

注 「備前軍記」では、この時庄元貴が戦死したといい、東山のふもとに元資の墓と伝えられるものもあるが、元資は翌十一年九州へ出陣したという記録が残っているから、これは信ずべきではない。

10】斉田城の合戦高梁市史(郷土資料) p150

禄九年>三村家親が暗殺され、翌十年その子元親が、明禅寺の弔い合戦で散々に敗北したことは、庄氏にとって勢力挽回の好機であった。一方かねてから備中をうかがって 虎視耽耽こしたんたんとしていた宇喜多直家は、備中将兵の大半が毛利に従って九州に出陣した留守をねらい、永禄十一年浮田七郎兵衛 を大将とする九千余騎を以って備中に乱入した。
   当時松山城にあった庄備中守高資や斉田城の植木秀長等は、ここで一族協力し、力を尽くして防ぎ戦っても、 九州出陣中の毛利氏からの援兵は期待てきず、いわゆる衆寡しゅうか敵することはできない。むしろ宇喜多の幕下とたって、 庄氏の勢力回復を図るにしかずということになり、人質を岡山に送って投降した。
    北方、出雲のほうでは尼子氏の勢いがようやくきわまり、義久は永禄九年十一月二十一日富田城を放棄して毛利に降った。 ところが尼子の遺臣山中鹿之介は京都に上り、密かに織田信長の助けを求め、尼子勝久を奉じて旧勢の回復を回り、毛利氏当面の敵豊後の大友と結んで、互いに心を合わせ、 毛利を挟撃せんと約し、備前の宇喜多や美作の群雄とも連結し、まず伯耆に入って岩倉城を陥し、永禄十二年五月には海路出雲に入って、毛利の属城を次々に攻め落し、遂に旧本拠富田城を囲んだ。
備中でも中でも後月郡芳井町正霊山城主藤井能登入道皓玄も、尼子の旧恩を思い、大江田隼人祐等と謀って、勝久の命を奉じ、同年八月三日の夜、五〇○余人の軍勢で、 にわかに起って備後神辺城を襲い、ここを根拠として近郷を討ち従えた。
   こうした毛利にとって重大な事件が、各地に相次いで勃発し、容易ならぬ状勢となったため、元就は筑前に出陣中の吉川・小早川に帰国を命じ、 特に毛利元清を備中に向かって発向させた。元清はまず後月郡に入って江原の伊勢氏を従え、次いで小田郡に入り、小田氏を帰服させ、進んで猿掛城に迫った。 当時同城には宇喜多の将兵が駐屯していたが、これを駆逐し、こうして備中西南部を平定した元清は、成羽の城主三村元親を始め、元猿掛城代穂田実近、それに小田・伊勢などの諸将を従えて、 植木下総守秀長の籠る上房郡斎田城を包囲し、昼夜の別なく攻め立てた。ところが秀長は戦巧者で、極力防戦に努め、容易に陥落しない。そこで元清は、 徒らに力攻めすれば味方の損害 を出すのみだと判断し、遠巻きにして城内の糧食が尺きるのを待つことにした。
   秀長は、止むを得ず嶺本与一兵衛を密使として備前に派遣、直家の援軍を求め、直家は直ちに一万余騎を率いて馳せつけた。城中はこれに力を得、 内外揉み合って戦い、直家も機を失せず打ってかかったため、毛利勢は総崩れとなり、穂田実近は戦死、三村元親も深手を負い、元清は退却した。明朝 毛利元清は、このように斎田の一戦で敗れたが、 その後何らかの条件で、庄・植木の一党を帰服させ、毛利の勢力に帰属させたものらしい。そのことはいかかる文献・軍記類にも伝えられていないが、そうでない限り、庄・植木の一党は相変わらず直家 の麾下にあり、従って元亀二年の尼子・宇喜多連合軍の備中侵入にあたり、彼等との間に斎田及び呰部における合戦の起ころうはずはないのである。

北房町史 通史編 P 474

備中の形勢を心配した毛利元就は、毛利伊予守元清にニ萬の軍勢を授けて救援に向かわせた。これに呼応して杉雲暁は二七〇騎、伊達教久は三〇〇騎、三村元親は三五〇騎、 穂田実近は二五〇騎、工藤行光は一五〇騎、其他石川左衛門、石賀與兵衛、内田等が毛利の軍陣に馳せ集まった。しかし荘一族は降参していたから参加しなかった。 そこで毛利元清は 「庄一族ハ一人モ不参加ニヨリ宇喜多ト一味なり、先ッ庄ヲ退治スヘシ」と命じ、永禄一二年十一月下旬、三村元親、穂田実近(毛利元晴)が先頭をきって中津井の斎田城を攻めた。 斎田城主は 「庄家ニテノ老功、毎度戦功有ル」猛将植木下総守秀長であり、ほかに武勇の誉れ高たった嫡子秀資、さきに美保関の合戦で隠岐為清を討って武名を揚げた次子の、 美作守秀富、その次男源三兵衛資忠父子、秀長の弟の植木孫左衛門秀胤、若林治郎右衛門、庄一門の勇者、福井孫六左衛門重之等一騎当千の勇者たちが守っていた。下總守は、 宇喜多直家に急を告げると共に決死防戦の覚悟を固めた。其時の様子を『備中集成誌』は次のように記している。

「永禄十二年十一月植木下総守秀長、斎田城ニ有ケルガ一族共ヲ集メ云ハ、まことニ小身ノ侍程つたなキ者ハナシ、 尼子たおレテ毛利ニ随フ、ハカナキに又浮田ニせめラレ水火ヲのがレントシテ降参シケリ。 是サエ男道トハ云難キニ又毛利ノ大軍ニ 叩頭こうとう罪ヲ謝シ手ヲスッテ面縛めんばくスル事生前ノ恥辱にあらざるヤ、イサヤ此小城ニ引籠リ一戦ノ上ニ運ヲ天ニ任サント云、 子息美作守、唯今ノ御一ことわりノ至極ト存候、早支度有ヘシト云、汝等必大軍ヲ恐ベカラズ。吾ガ一族郎党等百五十騎雑兵合シテ一千五百餘 さいわい皆肝鉄石ノ者共也、某十八歳ノ時父ノ藤資代官トシテ三好長基へ加勢ニ参リ、大内衆ト淀堤ノ合戦ニ一番槍ヲ突テ敵ヲ退ケル。 則チ三好殿ヨリ御持槍ニ感状ヲ添テ水田庄ヲ賜ル。其ヨリ十六度ノ戦功ヲ立テ今年七十歳ニナレバ軍ノ勝負ハ某知タルゾ。弓矢鉄砲ノ者共屏裏ヲ堅メヨ、槍ヲ持侍ハ手配法ノ如くせよ、 自身は浮武者ニ成テ弱キ方ヲ助クト云ウテ士卒ヲ励マス。」

秀長は城兵を鼓舞し、防戦を手配りをして、毛利勢の来襲に備えた。『備中集成誌』は其後の合戦の模様を軍記物語に記している。其れを現代文に書きかえて紹介してみよう。

この城は西南面と南東面は険しい谷であり、西面は切り立った石英粗面岩の尾根続きである。寄せ手は各地の城を攻め落とし、勝ちに乗じて襲来した者たちであったから 「この小城の一つ何のことやある」 と競って何の配慮もなく城に迫った。
    寄せ手が塀際にたどりついたところで城兵が塀の裏櫓りろ狭間きょうんを開き、さしづめ、ひきづめ散々に射た。 寄手はこれをものともせず持楯つき立て、 かけ声かけて切岸のもとまで攻め寄せた。城兵は寄手をめがけて大木・小石を投げかけ、楯を打ち砕き、とまどう寄手を手だれの城兵が矢を雲霰うんさん(あられ)のように射懸けたから、寄手は手負人や、死人が折り重なり、「河水為ニ紅水ト成ル」
といわれるほど、寄手の被害は甚大であった。
あまりの被害の甚大さに毛利方の部将・桂玄蕃允は、元清の前に来て、


此城究竟きゅうきょう(屈強)の要塞、その上、城主秀長は武功の誉れ高い老功の武者、この城を力攻めしてみても味方は討たれるだけで容易に落城するとも思えませぬ。 不意の籠城だけに兵量の蓄えも少なく、やがて食糧も尽き自滅することは間違い有りませぬ。戦わずして敵を屈服させることこそ、良将の戦術かと存じます」と諌めた。

元清も賛成し、兵糧攻めに改めた。城の南は毛利方の兵、西と北は備中勢で固めた。とりわけ成羽の城主三村元親、猿掛城代穂田実近は備中屈指の武功を誇る武将で、 前々から植木秀長と武威を争っていたから真っ先に城に乗り入れ、多年の宿意を達成しようと斎田城より高い東北の高台に陣き城の動きを見守っていた。 こうして数日が経過するうちに城内の兵糧は乏しくなった。若林甚左衛門・隅野源蔵等は城主の秀長に
「兵糧がなくなりあと三日を保つことも出来ない有様です」と報告した。
秀長は城兵を集め
「今は兵量も盡き後僅かで一両日の食糧を残すだけになった。此の上は、いかにしても備前に急を告げ宇喜多殿に後詰を乞う外に道はない。誰か敵の包囲を忍び抜け、この趣を告げてくれるものはないか」と見回した。
城兵はお互いに顔を見合わせ、ためらっていたが、其時嶺本与一 『備中集成誌』には与一兵衛というものが進み出て、
「私は足に自信がありますすれば、一命を投げ打ち宇喜多殿への御使者をつとめます」と申し出た。
    秀長は大そう喜び、与一にその役を申付けた。
与一は
「岡山表までは僅かに十七里(約六十八キロメートル)今宵こよい早速出発します。宇喜多勢後詰めときまったならば十町 (約1.08キロメートル)向うの、真窪山に狼煙のろしを二か所、万一後詰がないときは、一か所上げて合図を致しましょう」
と打ち合わせ
烽火のろしの刻限を明後十五日の八ッの下刻(午前三時過ぎ)と定めた。 与一は十三日子の下刻(午前一時過)ぎ折からの烈しい風雨に紛れて城中を忍び出、 菅迫すけがさこから大谷おおやに出、矢内やのうち・長代・竹荘を通り、韋駄天走いだてんばしりで難なく岡山に着いた。 沼城で与一の報告をうけ、斎田城の危急を知った直家は大いに驚射た。
「秀長を今救わぬとあっては武門の恥、その上味方の諸士も頼み甲斐ない大将だと思うだろう。急ぎ後詰を送るゆえ、直ちに立ち帰って城の武士を勇気づけよ」
と申し含めるとともに、宇喜多忠家、岡越前守家利・花房助兵衛職之もとゆき等に一万余騎を授け斎田城の救援に向かわせることにした。斎田に戻った嶺本与一は、 約束通り八ッの下刻、真窪山に馳せ上がると城に向かって合図の狼煙を揚げたる城兵たちは
「真窪山に狼煙が見える」
と喚声を上げ一筋か二筋かと見守った。しかし見えた狼煙は一筋だけであった。士卒は、
「さては後詰はないようだ。われらの命もこれまでか」
と色を失い落胆した。しかし其中に隅野源蔵(『備中集成誌』一書に福井孫六左衛門ともいう)という物慣れた勇士がいた。かれは立ち上る狼煙を見守っていたが、やがて
「宇喜多殿の後詰は必ず参る。あの狼煙は一筋に見えるが、あれは与一があせつて、 縦に二筋程近く並べて狼煙を上げたためである。よく見られょ、 煙の先端の消え口は二筋見えるであろうが」と注意した。
落ち着いてよくみるとたしかに二筋あったから、城中一同どっと歓声をあげて勇み立った。 その日のさるの刻(午後四時すぎ)備前勢一万余騎が 真窪山・陣畝山に押しあがり、どつと閧の声を上げた。寄せ手の毛利方が救援の宇喜多勢を敵か味方かと戸惑ううところを城中から弓・鉄砲を散々に打ちかけたから寄せ手は支えきれずね浮足立った。 動揺する敵の様子た秀長はね植木孫左衛門、福井孫六左衛門には、三村元親の軍勢に向かわせ、自分は美作守秀富と共に穂田実近を追討することにし、南の城戸を開き二手に分かれて討って出た。 植木孫左衛門と福井孫六左衛門は、ひとつになつて元親の陣へ面もふらず切りかかった。内・外からの挟み打ちにあつた三村勢は散々に突き立てられ総崩れになつて退却した。 毛利方の穂田実近は目をいからし、
「敵に後足をみせるとは見苦しい。返せ返せ」
と部下を励まし自ら二度三度とって返し防ぎ戦ったが、数か所の痛手と戦闘のつ疲れのため、遂に植木の勇士根来久徳に鎗つけられて、首級を挙げられた。久徳は左手に首級を高くさし上げ、 「中国に隠れない穂田殿を討取りたり」
と叫んだ。そのため三村、伊達、杉、細川、石川、工藤、野山ら備中の国侍は、毛利元清の陣に赴きね
「先ッ御退陣有テ、重テ宇喜多ヲ御退治有ルベシ、庄ノ一族共ノ謀ナレバ、宇喜多ヲ一先御免シ有テ庄ヲ御退治相成レハ国ハ鎭リ可申」
と一時退却することを進言した。元清もこれを了解し、毛利勢は全軍退却を開始した。
宇喜多忠家、花房助兵衛らは、
「逃げる奴ばら追い打ちかけよ」

と下知して戦さを止めず二里(約八キロメートル)ばかり追打ちにして毛利方の兵を数多く討取り、戌の刻(午後八時ごろ)にいたって軍勢をまとめて引き揚げた。 取った毛利方の兵は八〇〇余人という。斎田城の攻略に失敗した元清は旗本一三〇〇余騎と共に引き揚げ、味方の国侍が進言したように猿掛城に退いて再征の準備をすすめた。 さて、毛利方は宇喜多勢が備前に引き揚げると備中諸城に軍勢を増強し、軍備を整えて斎田城に圧力を加えてきた。そのうえ、一族の中心である秀長は、病気で伏し、 そのため斎田城の志気は衰え、毛利方の諸城に囲まれた中で孤立をまもることは困難になった。其後の動きはあきらかでないが、恐らく毛利方に屈し、服属したものであろう。