元資以後の情勢 part Ⅰ

1】 元資の時代    元資と福岡合戦 2】 守護代元資の反乱    應仁の乱
3】莊氏略系 4】
莊為資松山城を攻略   莊高資と勝資

元資以後の情勢 part Ⅱ

5】 三村家親の野望と尼子との対決  6】猿掛(猿懸〕城の攻防  Ⅰ》頂見いたみ山合戦 Ⅱ、Ⅲ》猿懸城合戦
Ⅳ》三村穂井田二氏兩度の合戦吉備郡史  四月陣参考古文書

元資以後の情勢 part Ⅲ
7】 吉田義辰の加番とその最期8】 家親の作州進出と悪業の死
9】 明禅寺の弔い合戦10】  斉田城の合戦
元資以後の情勢 part Ⅳ
11】松山落城と庄氏の滅亡12】尼子氏の備中侵入 
13】尼子・庄軍・備南進攻   イ】鴨方城の戦い ロ】幸山城 ハ】経山城合戦 ニ】松山合戦 ホ】斎田城春秋の合戦
へ】植木資富の討死 ト】荘勝資の斎田奪回と三村氏の没落  チ】荘勝資の討死 麦飯山の戦い
高梁市史(郷土資料) P141より記載

5】 part Ⅱ
三村家親の野望と尼子との対決

三村氏系譜も決定的なものは伝えられぬが、「川上郡誌」や「小田郡誌」所載の略系、或いは「吉備郡史」に載せられた鬼身きのみ城主上田孫次郎  実親の後裔と称する幕末松山藩主板倉勝静重臣の一人、中洲三島毅の撰した「三島氏世譜」、更に元後月郡山野上村福良ふくらの出身で、現在東京に 住む三村仁奈子提供の系譜などを勘案すると、もともと三村氏は清和源氏新羅三郎義光を遠祖とし、小笠原の姓を名乗っていたが、一三世小三郎長時のとき、常陸国筑波郡三村郷に 往んで三村姓を名乗り、新左衛門親時の時、信州挾江さばえに移り、その後元弘の初め、三村孫二郎能実よしざね の時から備中国小田郡星田村、今の美星町に移り往み、建武二年八月十一日足利左馬頭直義の命によってこの地方を知行し、地頭職となったものらしい。その後、家親、親経、盛親(或いは時親) を経て宗親となったが、三村氏の系図は図(省略)となっている。 図(省略)のごとく、孫二郎能実の時、小田郡星田村に移住した三村氏は、その後星田を知行地にあてられ、 次第に土豪としての勢力を蓄えていった。例えば「大日本史料」の天竜寺文書によると、

天竜寺雑掌申す。備中成羽の庄。本主三村信濃入道余類居当庄に住せしむ。動成其の煩い云々。おおく謂うなし。早く其の妨を止めらるべし。 若し承引せざる者。罪科に処するため注進なさるべし。依って仰せ執達件しったつくんだの如し。

明徳四年(1395)十月七日左衛門佐 判
細川兵部大輔殿

とあるが、三村信濃入道が盛んに成羽庄を荒らしている。兵部大輔は細川満之であり、左衛門佐は管領斯波義将、信濃入道は盛親(一説には時親)のことであろう、 このほか文明初年のものと思われる吉備郡水内地方へ侵入の古文書も伝えられているから、三村氏は、この信濃入道盛親のころから備北への進出を考え、川上郡成羽庄や 吉備郡水内方面へかけての活動を始めたらしい、明徳四年(1395)の文書は、当時成羽が天竜寺領であったため、三村の横暴を同寺から幕府に訴え、このため幕府は備中守護細川満之に命じて、 これを禁止させようとしたのである。
   天文二年、庄為資が松山城を攻撃したのは、盛親の孫家親の時代であるが、彼は若くして剛勇の聞こえ高く早くから備中の覇者たらんとする野望を抱いていたし、 庄氏とは縁者の関係もあって、為資と連携して兵を北方にすすめ、祖父盛親以来多年の宿願であった成羽を攻略し、その鶴首城に居城を移し、星川の法雲山城は、叔父左衛門大夫為親に預けて旧領を守らせた。
   このように三村家親は、最初庄為資と互いに提携して備北に勢力を伸ばそうとしたのてあるが、庄氏が松山城に入って以来、その勢力が次第に強大になるのを見て、内心安からざるものがあり、 両雄並び立たずというか、両者の問は次第に冷ややかとなり、結局、庄・三村雨氏はを交えるに至ってしまった、かくしていわゆる備中兵乱の幕が切って落とされることになったわけである。

6】 猿掛(猿懸〕城の攻防

天文二年(1533)、すでに述べたごとく庄為資は松山城を攻撃、城主上野伊豆守頼氏兄弟を討ち取り、その領地を奪って備小半田を領有、自ら備中守を称して、 その子高資と共に松山城に入り、旧本拠の猿掛城は、近親の穂田(穂井田ともいう)豊後守実近を城代として守らせ、状勢に応じて両城を来往していたらしい。
   さて、そのころまでの備中の守護は、多くは細川氏の一族で、備中は細川氏の勢力範囲であったが、やがて周防すおうの大内氏勃興に伴い、 これが細川氏にとって代わった。ところが出雲の尼子経久が塩冶えんや氏を滅ぼして山陰方面を併呑へいどん、余力を駆って安芸に侵入、 大内の勢力と衝突するようになった。尼子が作州へ勢力を伸ばして兵を入れたのは、天文元年(1532)九月その将三好安芸守に命じて、苫田・勝田二郡の作北地帯を攻略したのに始まるが、 やがて尼子は安芸・備後方面からと、作州方面からの二方面から備中に侵入、「天文日記」によれば、ほぼ備中の平定を終ったのは天文七年(1538)のことてあった。 翌八年十月二十八日、細川持隆が赤松政村のために兵を出して備中に入り、尼子と戦って敗れたのも、こうした事情からであろう。従って備中における尼子氏の勢力は、 天文の初年から極めて優勢で、備中の土豪で尼子に従わぬ者はほとんど無く、庄為資は、元より三村家親もその座下に属すしかけである。
   一方安芸の毛利氏、初め大内氏の麾下きかにあったが、一時尼子に属し、その後元就の時代に至り、大永年間(1528~1528) の終わりから尼子と断交、再び大内氏の幕下に入った。これがため尼子晴久は、元就を討たんとして天文九年(1940年)九月、雲・柏二州を中心とする八カ国の兵約三万を率いて安芸に入り、 元就を吉田郡山城に囲んだ。ところがこの吉田攻めは、翌年正月、数カ月にわたる攻防の後、晴久が敗れて出雲に帰った。以来尼子氏の名声はやや下り坂となり、 陰に毛利氏に通ずる者も現われた、三村家親はその代表者の一人である。
   資料が乏しく、その年代を明確にすることはできないが、おそらく天文二十年(1551年)のことであろう、猿掛城を守っていた庄の一族、城代穂田実近は、 兵を出して後月郡における三村氏の領地に侵入、山野上村頂見で戦った。頂見山頂見寺は、聖武天皇の勅願により僧行基が開基したと伝えられ、七堂伽藍を備え、 保元年間(1156~)一度火災にかかったが、建長年間(1249~)小菅城主那須貴泰が旧のごとくに再興したといい、近郷稀に見る伽藍であったが、 この戦いで一山兵火を浴びて灰燼かいじんに帰したというから、激しい合戦であったのであろう。こうして庄軍は凱歌をあげて猿掛に帰り、 この時同寺にあった資泰すけやす寄進の梵鐘ぼんしょうを奪い、猿掛城の警鐘に用いたといわれるが、 これが庄・三村両軍衝突の緒戦で、為貴・高資の父子は直接合戦には参加しなかったが、城代が兵を動かすのを一族の首領が知らずはずなく、知っていて助けないわけがないから、 やはり背後には為資・高貴父子があり、第一線に立っだのが穂田実近というだけのことであろう。
   一敗地にまみれた三村軍の統領家親は、その報復を図ったが、優勢な尼子氏を背景とし、備中における豪族の大部を麾下におく庄氏に敵対することは、 これはなかなか容易なことではない。そこで毛利元就に助けを乞うた。かくして毛利氏の備中侵入となるのである。
    天文十八年(1549年)九月四目神辺城が落城、続いて二十一年七月備後滝山城が陥落したことは、尼子にとっては大きな打撃であったが、毛利氏にとっては 備中への追跡が開けたことになり、元就の食指がまさに備中に向かって動くかんとしていたところへ、三村家親からの援軍依頼である。元就はさっそく快諾して備中へ兵を追めた。 すなわち「陰徳太平記」巻二一によると、

家親一人御味方に参り候いなば、備後・備中の国人共は、三箇年の中には、ことごとく御手に属し候いなんず。先ず自分の敵にて候穂田を攻亡し候わば、細川・石川・伊勢の一族共は、 やがて降人と成るべき間、比旨御許容あって、早く援兵を賜り候え。

といい「向後は御手に属し忠勤をぬきんずべく」と申すし入れたらしく、元就はこれを聞いて、

家親が味方に来る事、此れ即ち一国を得たるの助けありと悦び、やがて が望む旨にぞ任せられける。其後三村に約を違えじとて、同二十二年二月初旬、元就父子三人、芸州吉田を打立ち給い、 同十五日元就・隆元は備中国出部・井原に陣をすえられ、元晴ばかり同国猿掛近く打ち出で給い、三村家親先陣として一千五百余騎、城下の近辺屋陰(今の矢掛町)を始め在々を放火し給う。 穂田治部大輔為資は、聞ゆる勇者なれば、敵に城下を焼かせ、なにかは遠見して在るべき、急ぎ打ち出で、家親を追い立て元春と直に勝負を決すべしとて、軍配をなして勇みけり。

とあり、その後の合戦のもようを詳しく述べているが、この戦いは、反って庄方の大勝となり、寄手の混乱がいかに見苦しかったかは、当時の文書「森脇覚書」に、

穂田衆まかり出て三村衆を追い崩し罷り退候。御本手衆も歴々のみ参り候。志道次郎四郎、臼井藤二郎と申す人打ち死候。其外数多越度候。 元春様は、屋掛と申す処に御ひかえにて、少し高き所に御打上り御側には椿上総殿の居り候。御旗をも見ず、歴々の衆逃げ退き申す由に候。後御沙汰候。元春様御控え候故、 すべて相退き味方運をひらき申すの由候。

とあるのでも明らかである。

注 「陰徳太平記」には、この庄軍の首将を穂田治部大輔為資、すなわち庄為資であるとしているが、これは猿掛城代穂田実近の誤りであろう。何となれば、 「庄氏家譜」によると為資は、元就が井原に陣を敷いた同じ二月十五日に逝去せいきょしているから、当の為資は、もちろん、 子の高資も出陣できよう道理がない。もっとも吉備津神社所蔵の文書に、永禄元年の「為資書状」が残されているところからその死を永祿初年とする説もあるが、 たとえそれを真としてもすでに老年、実権は嫡子高資に譲り、自ら采配を揮ことはでぎなかったに違いけない。

さて、こうして猿掛の合戦は庄軍の勝利になることはなったが、当時中国において昇天の勢いにあった毛利を敵にまわすことは決して有利ではない、そこで庄氏は毛利氏に講和を申し入れた。 元就の方でも別に庄氏や穂田氏に対して恩怨おんえんがあったわけではない。ただ家親の乞いを受けた機会に、備中へ勢力を伸ばそうとしただけのことであったから、 さっそくこれを承諾、その斡旋によって庄・三村両氏の和睦が成立、家親の長男元祐を穂田の養子とし、これを猿掛城に置き豊後守実近は引退、両家の宿恨は一応解消した、 かくして三村・庄両内氏を始め、備中における群雄の大半は毛利の幕下に入り、これまで備中を席捲していた尼子の勢力は影を潜めるに至った。

注 「陰徳太平記」には、更に「三村穂田重ねて合戦の事」という一章を設け、
三村宗規が、

今度敵を侮りてい一戦に仕損じ候事、ひとえなにがしかか不覚第一に候。今一度猿掛に押し寄せ一戦仕り会稽かいけいの恥(会稽之恥・・・敗戦の恥辱ちじょく)を そそぎ申すべぎに付き、元就には御開陣候とも、元春ばかりは止まりて其様を御覧あるべし。

と依頼したため、元就・隆元は帰陣し、元春の軍のみ井原に滞陣、四月三日両軍は今の井原市西江原で一大遭遇夜戦を行った。この第二回目の合戦では穂田軍が敗れ、この結果両軍の講和となり、 元祐養子の問題も起こったとしている。 両雄並び立たずというか、両者の問は次第に冷ややかとなり、結局、庄・三村雨氏はを交えるに至ってしまった、かくしていわゆる備中兵乱の幕が切って落とされることになったわけである。

Ⅰ》頂見いたみ山合戦天文二十二年(一五五三年) 北房史 P457

庄為資の一族猿懸城代穂田実近は、成羽城主三村家親と絶えず、小競り合いを続けていたが、天文二十二年>(一五五三)山野上村頂見(井原市野上頂見)に侵入し、 激戦の末勝利を得た。頂見寺は一山兵火を受けて焼失し、那須与一の子孫という那須資泰が寄進した梵鐘を、庄の軍勢が奪って猿掛城へ持ち帰った。 後に猿掛淵に沈んでいたのを馬鞍山城主(現笠岡市山口)小田乗清が引き上げて現笠岡市走出はしりで持宝院じほういん に寄進した。吉備郡史の穂田氏略系には、為資の子にて高資の弟となせり。其根據如何。穂井田又穂田と書く、猿懸城所在地の庄名にて、為資も亦穂田と稱たる事は、 前に引用せる「ほいたつるわか殿云々」とある文書によりて見るも明らかなり。要するに為資の一族中の有力者にて、猿懸城代を命ぜられしものなるべし。

Ⅱ》猿掛合戦天文二十二年(一五五三年)二月初旬

『備中集成志』(拾弐)によると三村修理亮家親は智謀・武勇・人に秀でていたが、今後大将と仰ぐのは、毛利元就より外ないと思い、三村五郎兵衛を元就のもとに遣わし、

向後ハ御手ニ属シ忠勤ヲ可抽候(中略)家親一人御味方ニ参候ナバ備後・備中ノ国人共ハ三箇年ノ中ニハしんク御手ニ属シ候ナンズ先自敵ニテ候穂田 ヲ攻亡シ候ハバ、細川・石川・伊勢ノ一族ハ頓テ降人ト可成間、此旨御許容有テ早ク援兵ヲ賜リ候ベシ」と申請した。
Ⅲ》猿掛合戦天文二十二年(一五五三年)二月初旬

元就はそれを聞き「家親ガ味方ニ来ル事ハ此即、一国ヲ得タルノ扶ケアリ」と喜びその望みにまかせたという。ここに毛利と三村の同盟をみた。この合戦のとき、元就父子三人は吉田を発った。 三村に約束をたがえまいと、天文二十二年>(一五五三)二月初旬安芸吉田を発ち、十五日には元就隆元は備中井原に陣を置き、元春ばかり同国猿掛近くに打って出た。家親は先陣として、 一五〇〇余騎で屋陰(矢掛)はじめ在々に放火した。穂田庄実近は聞こえた勇者であるので敵に城下を焼かせてなるものかと急ぎ討って出て家親を追い出し元春と直ちに勝負を決しょうと勇み立った。 まづ実近は一〇〇〇余騎を従えて三村勢に打ちかかった。藤井四郎次郎には五〇〇騎をもって三村の後陣を撃つと見せかけておいて元春の本陣を襲えと策略して敵の様子を 窺っているうちに夕方となった。家親が士卒を下知して引こうとした時をすかさず、実近が前より打ちかかり、実近と戦おうとすれば藤井が後陣を襲うのでさすがの家親も混乱して 矢掛方面に退いていった。三村軍が退いたので、実近は元春二〇〇〇余騎に勝負をいどんだ。然し中国に比類ない猛将の一吼に実近軍は戦慄し、馬を駆けさせてかちどき の声だけあげている。元春の部将井上河内守が五〇騎ばかりの強弓者を揃え散々に射立てた。そのうえ元春の旗本が清々と打ち懸かってきたので、家親も不叶と思いいそいで猿掛へ引き上げた。
再度猿懸合戦 北房町史 P459天文二十二年(一五五三)

四月三村家親は先の戦いは敵を侮って不覚をとりましたが、今度は穂田を討って汚名をそそぎたいと元就に願い出た。元就・隆元はもっともなことだと自分ら 葉芸州へ帰陣したが元春は在陣した。四月三日家親が一五〇騎、元春は二〇〇〇騎を持って井原まで軍を進めた時、家親の忍びより、実近が四月五日の丑寅(>二~四時)の頃夜討ちを 仕掛けてくるとの報告を受け、一人残らず討ち取ろうと陣備えをして待ち受けた。実千香はそのことを夢にも知らず軍を敵前五、六〇〇㍍まで進めたとき三村軍中の兵士一人に実近軍中に 莫逆ばくぎゃく(ひたしい友人)がおり、三村軍が待ち伏せしているので夜討はしない方がよいと知らせてきた。そこで実近は静かに諸軍を引き返した。 このことを三村方の物見の兵が見つけ急ぎ帰って家親に報告したので家親は、一〇〇〇余騎を従え鬨の声をあげて追いかける。五郎兵衛・孫兵衛も横合いより打ってかかたので実近は決死 の覚こで戦ったが家親の斬り込み鋭く不意を討たれ部下は討ち死にしてり分散してしまった。実近は唯一騎となって猿懸城へたどり着いた。実近はこの負け戦の 鬱憤うつぶんを晴らしたいと思ったが味方に野心の者がおって、夜討のはかりごとが漏れたのだと疑い、 家親も実近が途中より引き返したのは味方の中に敵に通じる者がおったためだと心をひきしめたので、その後は両軍重ねて戦おうとしなかった。 実近はこの上元就と戦うことは、 庄家滅亡につながると思いやがて降人となって人質を差し出した。元就はこれをいれ三村、穂田共私恨を氷消して、爾汝じじょの交 (たがいにきみ、おまえと呼べるような親しい交際。)わりをし、実近は家親の嫡子元祐を請うて養子として隠居した。 これより三村元祐として猿懸城主となり穂田(穂井田)を名乗った。

註 猿懸城再度の合戦は天文二十二年四月五日とあるが、為資の死が同年二月十五日とあるので、それから推定すると為資 は既に死亡しており、実際は、庄為資ではなく猿懸城代穂田実近が采配を取ったと見るべきである。 両雄並び立たずというか、両者の問は次第に冷ややかとなり、結局、庄・三村兩はを交えるに至ってしまった、かくしていわゆる備中兵乱の幕が切って落とされることになったわけである。

Ⅳ》三村穂井田二氏兩度の合戦吉備郡史 中巻 (P 1551~) 天文廿二年(1553)

皇紀二二一三、後奈良天皇天文二十二年(1553)は成羽を根據とせる三村修理亮家親と猿懸城を根據とせる穂田為資と龍驤虎踞りゅうじょうこきょ の二雄が東西に分かれて二月、四月の兩度に亘りて龍虎相搏りゅうこあいうつの激戦を演せしがやがて二氏 相交綏あいこうすいして多年の宿怨しゅくえんを解消しお互いに婿を通して平和を 克復こくふくし得たり、今陰徳太平記巻廿一、其ことごとく鈔載しょうさいして以って之を大観せんと欲す。

其一 二月陣

一  両軍の陣容 

三村氏  略系  成羽城主 三村宗親―――家親―――元親

備中国川上郡成羽の住人三村修理亮家親と云うものあり多年の間攻城野戦の功を積んで近國に獨歩する勇者也。加之智謀ちぼう 萬人に勝れたるものなれば向後中国の大將と成るべき器量の人を監察するに大江元就の外又あるべしとは覚えざれば頓て同苗五郎兵衛を元就へ遣わし

「向後は御手に屬し忠勤をぬきんすべく候然らば中国悉く御兼併けんぺいの上にては吾等一身の功を以って切り取りたる所をはことごと く賜はるべく候又天下に御旗を挙けらるるに於いは備前・備中・備後三箇國をえん行はれ候べし荒涼こうりょうの申事に候へとも家親一人御味方に參り候ひなば 備後・備中の國人共は三箇年の中にはことごとくく御手に屬し候ひなず、先づ自敵にて候穂田(猿懸城主)を攻め亡ぼし候 はば細川(鴨方)石川(高山)伊勢(高越山)の一族共はやがて降人と成るべき間此旨御許容有て早く援兵を賜はり候へ」

申請もうしうけひたりければ元就聞き給ひ家親か味方に來る事此れ即ち一國を得たるのたす けありと悦び頓て彼が望む旨にぞ任せられける。其後三村に約を違へじとて天文二十二(一五五三)年二月初旬毛利元就父子三人藝州吉田を打立ちた給ひ同一五日元就隆元は 備中國伊末(出部)井原に陣をすえへられ元春ばかり同國猿懸近く打出て給ひ三村家親先陣として一千五百餘騎城下の近邊矢掛(屋陰) を始め在々に放火し給ふ。

穂田氏略系
略系 莊 元資――庄為資――高資――勝資――久資

實近――元祐(三村家親の嫡男)

庄系圖作信資、幼字宮若丸。毛利氏ヨリ二万石ヲ受ケ高釣瓶ニ居リうつ山役に戦歿       

穂井田治部大輔為資は聞ゆる勇者なれば敵に城下を燒かせ何かは遠見して在るべき急ぎ打出て家親を追立て元春と直に勝負を決すべしとて 軍配をなして勇みけり。先づ一千餘騎 をばた為資自ら従へて三村(家親)が手に懸るが後陣を撃つ躰に見せて元春の本陣に懸るべし。其時吾れ家親を追ひ立て直ちに元春の陣へ切り懸り、前後より撃つならば元春如何に猛 くとも引く味方に備へ亂して果々はかばかしき合戦成るまじきぞ。但し三村が勢引かざる内に懸るべからず。引く敵と一に成て追ひ行き不意に懸りて 切り崩すべきぞと合圖を定め敵の様體ほ伺う風に日稍々やや西山近なりしかは家親士卒を下知して引かんとす。 為資避來鋭情機。とは此の時なるへしとて吾身は一千餘騎を率ゐて討て出て當國の御家人田治美、石賀、伊勢等 は一揆原六七百人差添へて右の方なる長田山へ押上げ元春の本陣へ懸る勢を見せよとてつかはしける。

二     戦争

さて、為資は三村が引く後慕ひ射手を進めて追懸くれは家親取て返し散々に戦ひけり何れも劣らぬ勇士なれは南風北風數刻戰ひけるが家親思ふ様日 ようやく暮れぬ、夜に入りて後は假令一戦に利を得たりとも引退かんこと難かるべし、若かず敵離れして引取らばやと思う所に長田山より田治美、 石賀等か一手打下し川を渡して追べき體なるに藤井四郎次郎半月の卓物たてもの緋威ひおどしかぶとを着し黒なる馬に打乗り五百許いおつばかり眞黒に成て打て懸り三村が後陣を さえぎんとす、こうればさしもの家親も日は巳に暮れぬ。
敵は前後に進んだり返して穂田と戦はんとすれは藤井後陣をさえぎれり、退しりぞいて藤井を 追拂おいはらはんとすれば、穂田又後をしたひたり。進退しんたい ここきわまつて詮方せんかたなく見えしがつい に前後の備混亂して屋蔭を指して引きにけり。吉田勢も志道次郎四郎、椿新五左衛門,臼井藤次郎、櫻井など三村が勢に加わりしが味方の敗北するを見てこは口惜しき次第哉と 各四人返し合せて討死す。敵ますますしょうに乗りてしきり かちどきを揚げて追駁ついばくけるほどに巳に元春の旗下さして進んだり。元春之を見給ひ二千餘騎 を二隊に分ち陰陽に備へ射手を左右に進め吉川治部少輔ここ在りて逢くも引くもの哉、返して討死せよと大音に下知せらる。 穂田(庄為資)兼ては此頃中国に又なき大猛將の名高き元春に逢うて手詰の勝負を決せんと勇み進んだりしか、今眼前に元春と名乗給ふを聞きては勇気弛み 踟躕ちちゅう(ためらう、ぐづぐづする)戦慄せんりつして馬を一面にかけ居ゑ徒らに鬨をのみ作りたりしは眞に 獅子一吼ししいっく(大声でほえる)すれば百獣腦裂ひゃくじゅうのうれつすとはかかることをや申すべき藤井は元春の陣を 目懸け前後より撃たんことを欲し引く敵に追ひすがりて策を擧げて馳せ來る、ここに引く味方(毛利)の中に河原毛なる馬に打乗り、 くわ形打たるかぶとに黒具足着たる武者唯一騎道の側なる小高き所へ駒を乗上げ、井上河内茲に在り、 井上の者共爰に集り來り候へと呼はりければ鬼神きしんあざむ程なる勇士共源五郎、源三郎、與三右衛門、 右衛門太夫、玄番を先として五十騎許ひたひたと一所に集まり、何れも劣らぬ弓強なれば、やじりを揃へて散々に射る、穂田敵を追ひ來りて 備亂れたる所を井上黨に射立てられ殊に元春の旗本兵皷はたもとへいこ(つづみ)を撃て靜々と懸るを見て叶はじとや思ひけん今や是迄也、 輕く引取れや者共とて一度にさっと引てけり、是を見て藤井も進むに及ばず馬引返して逃ければ寄手勇進して追蒐ついしゅう けるを元春巳に暮れたり,深入すなと下知して諸士を招き返して打入れ給ひけり。(三村家親屬毛利家、附備中國猿懸城合戰事。参照)

其二 四月陣

三村家親元春に申けるは、今度敵を侮りて一戰に仕損し候事偏にか不覚第一に候。今一度猿懸に押寄一戰仕り穂田か上巻を見申さすば家親諸人指頭のちょう (あざける)を解くへき様候はず元就には御開陣候とも、元春には今暫し御滞留候はば某謀を廻られ會稽かいけいの恥はじ(會稽之恥まけた恥辱・・敗戦の恥) そそき候ひなんとすと申けるに依て元就、隆元は歸陣し給ひ元春許ぞ在陣はし給ひける。抑も此家親は智謀世に勝れたるものなれば生家人共多く 作り座頭になし穂田か領内其外近國に差遣はし又藝州沼田の佛通寺の沙門托鉢を行じけるに紛して出家數人作り立て是も敵國に入置きければ斯者共敵の密謀一々に告知らせけり。 去程に同四月三日三村家親一千五百餘騎先陣に進み、元春は熊谷、天野等二千餘騎を相従へて後陣に控へ各井原迄打出て給う。穂田為資之を聞て家親先日負戰したるが殘念さに打出たるらん。 今日は必定十死一生の合戰ならんとこそ覺えたれ味方尋常の戰を為しては勝利を得じ「イザトョ井原へ一夜討セン」とて軍配を下知して曰く。

○ 夜打の計(東軍)
(一) 為資は七百餘騎にて三村が陣を打つべし。
(二)藤井四郎次郎は五百餘騎にて元春定めて三村が陣に夜討入りたりと聞いて援兵を出されて陣中のあしならん所へ駈け入りて不意の戰を決すべし。
(三)村田掃部は三百餘騎を率ゐてはるかの後陣に控へ若し夜討仕損して引退かは備を堅くして待受け諸勢を引取り候へ。
(四)行吉は二百騎にて為資か後陣に三町許り引下って備へ夜打難儀におよばば合図を守り入替経よ。
(五)合戦は五日の夜の丑寅の間ぞ(天文二十二年四月五日夜)と定めける、然る處に彼の家親か作り座頭、急ぎ馳せ来りて今夜夜討仕るの由承り候御用心候べしと告げたりける間、家親聞て是願ふ所の幸也とて先ず。
○逆撃の計
(一)三村五郎兵衛、篠村三徳斎に三百餘騎を相添へて陣所より七八町隔て茂りたる深谷に伏兵をつくる、是は夜討散して引かん所を遮りて討つべきてだて也。
(二)三村孫兵衛、松山勘解由に熊谷の手の者、水落甲斐守、末田勘解由、同縫殿ノ助等を宗徒にて三百餘人陣より二三町去て民屋の傍なる竹林に隠し夜討半ならん時後詰せよと下知氏。
家親は一千餘騎、穂田が本陣に切懸らんと控へたり。
(四)其の外熊谷・天野・香川等一勢々々引分けて穂田を中に取巻き一人も残さず討取らんとて夜討今やと待ち懸けたり謀洩れ穂田(東軍)退却し三村(西軍)進撃、また追撃す。

穂田之をば夢にも知らず、鶏鳴けいめいあかつきを報すると等しく先陣後軍次第を追て打出たり。ここに穂田か家人、小田崎某、三村か家中に莫逆ばくげきともありければひそかに小田崎が許へよいの夜打に味方洩れ聞え。斯様々々の手立をなし待ち懸け居候也。夜討差延へられて宜しく候へしとそ告たりける。 穂田敵陣をへだてること今五六町が程にて此事を聞きさらば敵の知らぬ先に引取れとて行吉を殿として静かに諸軍を引返す、然るを三村より出したりし物見の者共急ぎ馳せ歸りて告たりけれ共、 三村何條さる事のあらんとて又人を遣はして見せたるに同じ様に告ける間さらはとて家親一千餘騎かちどきを作りて追懸けれは五郎兵衛、三徳齋等も是と聞いて追て行き孫兵衛、 勘解由、水落、末田の者共も横谷に打て懸る穂田いざ一方打破りて引かんとて士卒を一所に集めて控へたれば行吉、為資に向て爰をは唯引かせ給ひ候へ、 行く先の敵の聲は僅かの勢と聞えて候、打破らせ給ひ候へ、殿をは某仕り候べしとて取て返すを見て藤井も此に馳せ來り此に両勢合せて七百餘騎爰に快く戦死せんと進んだり。
家親、無手と渡り合へは行吉、藤井は兼て今夜討死と覚悟したりし程に何かは少も切りつ切られつ鋒より火花を散らして戦ふ所に三村孫兵衛等の者共前後左右より打てかかり熊谷 、天野等も續いて懸りける故、藤井、行吉散々に切立らる治部為資も三村五郎兵衛に渡り合わせ暫く戦ひけるが突き立てられて引きにけり。村田掃部助は先陣に閧の聲の間近く聞えける間、 心許なしとて物見を遣はしけるに味方打負け引退くと聞て策にあぶみを合わせて馳せて行き為資と一に成らんとする所に藤井、行吉等散々に成て逃げ來り敵 雲霞うんかの如く追ひ駈けたるを見て、為資取て返へし命を際に戦ひけるに村田も一手に成て突て懸る、され共暗夜の事なれは何れを敵味方と知り難く 名乗る聲相詞をしるべにて走り懸り々々打合り、敵は兼ねてちょうし合わせしこと也、味方は不意の戦いなればついに叶ふべき様もなくさしもの 穂田為資も打負けて引退く。家親之を見て北くるをふことびんなれば行吉取て返して討死す、藤井も爰を最後と振舞ける程に薄手重手三箇所負 たれは郎等に助けられて逃退きけり。かかる程に穂田は手の者分散して稍々しょうしょう唯一一騎猿掛ノ城にぞ入にける。家親も勝て冑の緒を締めよ深入 すなとて引返し討取る首共點檢するに村田掃部助、行吉某、池上七郎四郎、加藤十兵衛を先として百七十餘とぞ記しける、穂田は家親に方便はたかられたり今一度合戦して鬱懐うっかいちらせんと思ひけれども味方に野心の者あれはこそはかりごとの漏れたるらめと>狐疑こぎの心を生し、又家親も今度は一定穂田を討取 へかりしに彼道より引返すこと、味方の兵、敵に志を通じて告知すなめりと心を置ければ互に跡を九淵の底に潜め重ねて戦はんともせざりけり。かくて為資一々と思慮を廻すに元就に矛盾に及ふ事、 終には當家滅亡の端たるべしと思ひぬかずいて降人になり人質を差出す其後元就の命によりて、三村、穂田、私の宿恨氷消してかえっ爾汝じじょの交をなし。家親の嫡子元祐を請うて養子とし家事を譲りて隠居せり。(三村、穂田重て合戦之事附三村穂田合體ノ事の條参照)
参考 庄、三村、二氏及二氏と同時代の豪族を合記せる諸文献。
『中国太平記』

『 庄為資、備中半國壹万貫ノ地ヲ領ス、新見に樽崎、唐松に伊達、此外小給人ノ書上ハ各ノ家人共也、一族多く中能クテ懽者モアリ、又大内方、尼子方ト権ヲ爭フ者モアリケル云々、此時一國の旗頭ハ庄為資也。 三村、樽崎、工藤、野山ハ庄ガ縁者ナリ其他ノ人々皆懇款(こんかん)ヲナシケリ。

『西國太平記』

庄為資備中半國一萬貫ノ地ヲ領ス、高山に石川、呰部に福井孫六左衛門ナト云フ者共外小給人ノ書上は各ノ家人共也 殊(こと)に植木斎田城主下總守秀長、津々加葉山城主加賀守範宗、福井呰部城主孫六左衛門

『荘ガ為資花押書状』
浦友分之儀。如前之可致申。付候彌不可有。相違候委細者。中島左馬丞可申候。恐恐謹言。
永禄元年(1558)卯月廿日          為 資 花押
浦 友 神

松山城主荘為資は天文二年(1533)より永禄三年(1570)迄松山在城なり為資花押とあるは是歟「浦安分之儀」とあるは應仁二(1468)丙ひのえ 戌 いぬ(戌子ひのえねにして丙戌は二年前の 文正元年(1466)丙戌なり誤れる歟)九月十六日浦友大夫宛小西三郎元秀花押の吉備津宮所蔵文書あり曰く
「新宮御贄(にえ)三元たしかにたしかに持せ進し候よくよく御注文へ御つけあるべし恐惶謹言。尚々申入候以後までの事ニ存候間堅申入候たしかにたしかに三元進候」
また裏書に「浦友大夫彼魚を納め候はゆわわ(れカ)ぬ子細にて候由此方より申候へは折紙と魚を此方へ返し候。中番經花押」とあり。
今何れの地か詳かならず應仁二年より永禄元年迄正に九十年を距つ。庄為資の文書花押を徴すべき唯一の史料たり。
又、

 元亀元年(1570)尼子方より使節ヲ立ケルハ御邊は晴久より以來一味の幕下たり、本領ハ申ニ及ハス備中一國或ハ美作迄モ切取ニセラレヨ武力ニ随テ其國ヲハ可附與ト有 植木一族詮義シテ各同心シ誓紙ヲ交ハセシト云々、庄高資子息兵部大輔勝資云々津々加賀守、福井孫六左衛門ヲ始トシテ三千餘騎國中の小城トモヲ撃シタカヘリ。

『中国太平記』

植木下總守雲州一味條云。去程二庄高資ヵ一子兵部少輔勝資、同名右京亮,植木下總守秀資、津々加賀守,福井孫六左衛門等、尼子方二一味シテ國中ノ小城ヲ攻落サント 其勢三千餘騎ニテ鴨方二押寄セ細川ヲ攻亡ス。
是二於テ國中ノ勢愈(いよいよ)々相加ハリテ五千餘騎ト成シカバ此勢ブ脱スルトテ直ニ多気ノ庄表ニ打出タリ。成羽ノ三村家ハ毛利ノ幕下ナリシカ尼子多勢ニテ敵シ難シト 思ヒケレハ藝州へ飛脚ヲ馳テ急ヲ告ル事頻也、輝元大ニ驚キ元清ヲ大将トシテ三萬餘騎差向ケラル、家親案内者トシテ先陣ヲ受取不意こ松山ニ押寄セ城主高資ハ 其子勝資二附テ軍勢ハ多気庄へ差向ラルレバ只近習小性ノ足弱ノミ防戦ノ術ナク高資始メ悉ク討死シテ落城ニ及ヒケレハ多気庄ノ諸軍以下如何トモスベキ様ナタ雲州へ落行ケル。

小早川隆景感狀寫

去六日備中國松山落去之時敵一人僕従小三郎討捕之、誠神妙者也、仍掲感状如件。

永禄四年四月廿日   隆    景  
井上交右衛門尉殿                   (浦家文書・大日本古文書 家わけ第十一)

是文書に據れば三村家親の案内に依りて毛利方が庄の松山城を陥れしは永禄四年四月廿日に在りし也。 やがて家親遷リテ之に居る。
叉、

宮若丸(庄二郎久資ト稱ス呰部高釣瓶主)カ父勝資ハ備前兒島郡飯山合戰ニ討死シケレハ毛利ヨリ其子宮若丸未タ二歳ナリケルニ父カ名跡トシテニ萬石ノ釆地ヲ與へ勝資ヵ叔父 庄右京進ト植木孫右衛門尉ヲ後見ト定メラレ兩人共ニ五千石ノ釆地ヲ與ヘラレ福井孫六左衛門、津々加賀守ハ庄ヵ一族ト云ヒ累代ノ長臣ナレハ共ニ二千石ノ所領ヲ宛行ハレケル。 宮若丸成人ニシテ庄二郎久資ト號ス姉二人アリ一人ハ野山宮内少輔ヵ妻、一人ハ植木孫左衛門ヵ嫡子五兵衛ヵ妻ナリ。五兵衛ハ下總守秀資ヵ孫ニテ武勇ノ聞アリケレバ元和三年 池田備中守長幸松山城へ入り給ヒ召出サレ三百石ヲ食シケル。庄二郎久資ハ蔚山外構ニ在リテ漢南人ト戦ヒテ戦死セリト云フ。

庄駿河守。吉備温故秘録、古簡之部に。
庄駿河守宛、秀吉花押の書狀見ゆ。

未申通候所、御内存旨被仰越尤侯、即御朱印被成下候、彌有御才覺、御忠節肝要存候、此方之儀如在存間敷候、近日播州?可罷越候之條、則其表可相働候、其刻可申承候、 隨て太刀一腰馬一疋到來、令祝着候、芳期後音之時候、恐々謹言

(大正五年ヵ)正月十日                  秀吉 花押
庄駿河守殿  御返報             (吉備温故秘錄 巻之五十、古簡七)