(児玉町史より)

古文書 

貞和五年八月二十八日、足利尊氏は眞下重氏に勲功の賞として上野国山名郷(高崎市)内在家壱字を宛がう。

《一三四》将軍足利尊氏袖判下文字写〔蜷川親治氏所蔵文書〕       

   (花押影)
下  眞下四郎太郎重氏
可令早領知上野國山名郷内山名小六郎入道跡在家壹宇事
右、爲勤功之賞、所充行也、早守先例、可狀沙汰之狀如件、
      貞和五年八勝ち廿八日   

 《解説》
  貞和五年(一三四九年)に、足利尊氏が勲功の賞として眞下四郎太郎重氏に、上野国山名郷内山名小六郎入道跡の在家壱字を宛がったものである。山名小六郎入道は児玉党平児玉流に山名氏があるが、 源姓山名氏(新田氏一族)もありどちらの者かはふめいである。史料八五で眞下藤四郎(重照ヵ)が上野国一宮の件に関与しているが両者の関係(同族であとおもわれるが)はふめいである。 眞下氏は鎌倉初期から足利氏に被官化したものがいたことがしられるが(『近代足利市史』)、室町幕府に仕えたものの多くが"広"の通字を持つ。『武藏七党系圖』で眞下氏は"広"・弘"、 "重"の通字を持つものが多くあり、"重"の通字を用いた一族に關東で活躍するものが見られることから、重氏は關東に居住し活躍した武士であろうか。

  貞和七年(一三五一年)三月、児玉氏家は鎮西大宰府に馳せ参じた旨の着到狀を出し証判を得る。

《一三九》児玉氏家着到狀〔毛利博物館所蔵 児玉文書〕
(注、第一章・第二節に収録済み。第三号文書)

  同年三月、児玉氏家は所領安藝国た竹仁上下村・武藏國兒玉郡池屋等の安堵を乞い、足利直冬はこれを承認する。

《一四〇》児玉氏家申狀〔毛利博物館所蔵 児玉文書〕
(注、第一章・第二節に収録済み。第四号文書)

 同年三月二十三日、足利直冬は児玉弥五郎(家氏)に感状を発給する。

《一四一》足利直冬感状〔毛利家博物館所蔵 児玉文書〕
(注、第一章・第二節に収録済み。第五号文書)

正平六年(一三五一年)十月二十二日、備後國守護岩松頼宥は長井出羽守貞頼に遣わし、備中國の危機を伝え信敷の城を守るよう要請する。  

《一四七》岩松頼宥書状写〔「萩藩閥閲録」福原家文書〕

去十八日進状候、定参着候覧相存候、畠山丹波(頼繼)、守今日二十一日迄は不寄来候、就其備中国難儀の由庄四郎左衛門以下同心申給候間、 明日可罷越候、相構當城信敷庄(備後國信敷庄)御こらへ候て、可有御待帰国候、細々自備中可申候恐々謹言

  正平六年十月廿二日                僧頼宥 岩松
謹上   長井出羽守殿

 《解説》
ここに見える莊四郎左衛門尉については、他の史料に見えるように備中国草壁莊の地頭である莊一族の者と考えられる。この莊四郎左衛門尉を含め、莊氏には四郎を名乗る者が極めて多くいるが、 『吾妻鏡』に前半に見える莊四郎は莊高家のことで、『承久記』には莊家定がいる。この他、莊兼資・莊宗家・莊資方等が史料上に見られ実名のわかる者である。 実名の不明な者も多数見られ、莊四郎・莊四郎信願・莊四郎太郎・莊四郎太郎入道・莊藤四郎入道行信・莊四郎左衛門尉資兼・莊四郎入道・莊十郎四郎資方・莊四郎左衛門尉・莊又四郎・ 莊四郎左衛門・莊四郎兵衛・莊四郎左衛門尉・莊四郎次郎(春資)・莊藤四郎等がいる。
《追記》(小田郡誌 P94)
足利直冬を九州に上がるや、備後の宮盛重、畠山丹波守、上杉山田三郎など、心を通ずる者多く、備中も之に應ずる豪族少なからざりき。先に佐藤中務丞にた討れし、笠岡の豪族等は其の一人なり。 是に於いて足利尊氏は、岩松禪師事僧頼宥を下して備後の鎭無を命ぜり。頼宥來りて深安郡賀茂村勝戸城に居り頻(しき)りに直冬黨を討つ。時に、後月郡荏原村高越山に據(きょ)れる豪族あり、直冬に黨して四近を攻略し、勢盛なり。 庄四郎左衛門急を頼宥に報じて來援を求む。頼宥は正平六年十月長井貞頼に後事を託して備中に出陣せり。
頼宥の備中に來るや、庄四郎左衛門を初め尊氏黨の豪族と力を併せて、高越山城を圍み十二月に至。其間十一月十五日、 本郡北川村浄瑠璃山の戦いの如きは、最も猛烈なりしものの如し。と記載されている。

(「南北朝時代の僧頼宥と直冬黨」の項を参照)

観応三年(一三五三年)三月二日、足利尊氏は遠山景房に勲功の賞として、安房国古国中村の眞下中務丞を宛がう。

《一五一》将軍足利尊氏袖判下写〔遠山文書〕

進上

(花押影)(足利尊氏)

 下   遠山安藝守景房
可令早領知、安房國古國府中村 眞下中務丞跡
右爲勲功之賞、所充行也、者早守先例、可致沙汰之狀如件、
          觀應三年三月二日
                 (『岐阜県史』史料編古代・中世一)  

《解説》
この史料によって眞下中務丞が安房国(千葉県)古国中村を領していたことが分かる。しかしこの時眞下氏この地を失っていが、失った理由は不明である。 この頃幕府内部では権力争いが激しく、足利尊氏と足利直義兄弟の不和や、直義と尊氏の執事高師直との爭いが幕府の基盤を揺るがし政局を混乱させていた。 この頃眞下氏の動静は不明であるが、これらの事件に何らかの形で関与してたのではないかと思われる。しかしこの後も眞下氏は足利尊氏の下で幕府の奉行衆として名を見せている。
眞下中務丞の実名は不明であるが、この年より十年前(康永元年)に行われた天龍寺造営に際しての記録(『天龍寺造営記録』)の中に、眞下中務丞広仲(当時四十歳)の名が見える。 おそらくは同一人であろう。また延文二年(一三五七年)十一月の祇園社領越中国堀江莊の一件に奉行衆として名をみせる眞下入道紗弥心蓮は、この眞下中務広仲の法名であろうか、 さらに『師守記』貞治三年(一三六四年)七月の条に見える、越中国山室保の地頭眞下入道も同一人の可能性がある。同一人とすると六十二歳になる。

正平七年(一三五二年)三月、高麗經澄は足利尊氏に属して武藏国高麗原等において新田義宗軍と戰う。文中に岡部弾正左衛門尉の名が見える。

《一五二》高麗経澄軍忠状〔町田文書〕

高麗彦四郎經澄申軍忠狀事
右、去潤二月正平 十七日、将軍家(足利尊氏)御發向之間、自鎌倉令供奉訖、

一 同十九日、自谷口御陣、屬干藥師寺加賀權守(元可・公義)入道手、同廿日、於人見原(多摩郡)散々合戰、通裏訖、
    此等次第、鬼窪彈正左衛門尉・澁江左衛門太郎、於同時合戰、令見知者也、
一 同廿八日、於高麗原(高麗郡)執事(仁木頼章)御手、於東手崎最初合戰致戰、若黨原七郎手負 右股被架〔突ヵ〕條、

   此次第岡部彈正左衛門尉・鬼窪左近将監令見知候訖、仍軍忠次第如件、
      正平七年三月  日
             「承了(証判)(花押) 」

《解説》
この史料は足利尊氏に属した武藏武士の高麗経澄の軍忠狀である。正平七年(観応三年)閏二月に上野国で新田義宗・義興が挙兵し、十八日に鎌倉へ攻め入っている。 経澄は将軍家が出発するので鎌倉より従ったと言っているが、実質は情勢が不利だったので鎌倉から一旦退去したものであった。しかし武藏国人見原・高麗原等の合戰で足利軍が勝利し、  三月中には、鎌倉に戻ることが出来た。高麗原の合戰で岡部弾正左衛門尉が足利方として参戦していたことが見える。『太平記』には児玉党が新田方に属していたことが見え、 淺羽・四方田・庄・桜井・若児玉氏がいた。外にも丹党・猪俣党らも参加したとして、恐らく關東にいた者の中で足利直義に属した者や南朝方の者が新田方に多く参加したものと思われる。 右股被架〔突ヵ〕

観応三年(一三五二年)五月、吉河経景(仁心)第堀光重・山城得る国における軍忠を報告し、赤松則祐はこれに証判を与える。文中に粟生田氏・藤田一族が足利方に属し参戦したことが見える。

《一五五》吉河経景(仁心)代堀四郎光重軍忠狀〔吉河家文書〕

吉河五郎入道仁心(經景)代堀四郎光重申軍忠事
右、仁心爲老躰病者之間、爲堀四郎光重代官、去三月十八日、攝津國馳參瀬河宿以來屬干當御手、
宇治荒坂松山松井洞□於所々御陣致知忠節畢、次同四月廿五日、 善法寺口西中尾合戰之時、
功破御敵要害致軍忠畢、 其後、至于御敵没落之期所在陣也、此等次第、河原次郎左衛門尉、
粟生田ニ郎左衛門尉、藤田一族等同所合戰之間、所令見知也、然早爲賜御証判、粗言上如件、
   觀應三年五月   日
            「承了 証判   (花押) 赤松則祐
                          (『大日本古文書』)

《解説》
この史料は吉河経景の代理堀光重の軍忠状である。京都・大阪付近の合戰の軍忠を申し出したものであるが、鎌倉で足利尊氏は弟の義直を倒し、さらに南朝方の新田義宗勢と武藏国の所々で戦い勝利を得たが、 京都には子の義詮を置いていた。この間北朝と南朝方が一時和睦していたため南朝方は京都に盛んに出入りし、和睦も破れ結局義詮は南朝方に攻められ近江国に退去せざるを得なかった。義詮は軍勢を集め京都 奪還の行動を起こし所々の合戰で破り京都の奪還に成功している。この軍忠狀はこの時の者と思われ、義詮に属したものに河原・粟生田・藤田氏があったことが見える。
河原・粟生田・藤田氏はいずれも武藏国で河原氏は私市党、粟生田氏は児玉党、藤田氏は猪俣党の武士で、いずれも播磨国に所領を得て西遷した者たち思われる。

文和三年(一三五二年)十月七日、紗弥某は下文の旨に任せ、莊駿河權守・土師尾張權守、備中國河辺郷内壱分地頭職を雅楽以秀に渡すよう沙汰させる。

《一五九》沙汰某施行狀〔毛利家所蔵文書〕

備中國河邊鄕内壹分地頭職三郎跡小山孫 任去月廿二日御下文之旨、土師尾張權守相共、可被沙汰付雅樂太郎左衛門尉以秀之狀、依仰執達如件、

      文和元年十月七日       沙彌(花押)

莊駿河權守殿

(『南北朝遺文』中国・四国編二三七一)

《解説》
これは室町幕府が莊駿河權守に対し、土師尾張權守と共に備中国河辺郷内の壱分地頭職を雅樂以秀に沙汰させるように命じたものである。 莊駿河權守は実名も不詳であるが、備中国草壁莊の地頭であった莊一族と思われる。同じく備中国内に所領を持っていたと思われる土師氏 とともに使者を命じられたのであろう。
《追記》小田郡史 P54より
文和元年は正平七年(一三五二年)なり。前期の四郎左衛門と駿河權守とは、同一人なるべし。
足利直冬は正平七年十一月遂に吉野朝に降りて鎭西をしたがへ、勢復張りしも、後敗れて中國に歸り、藝備の間に居りて黨を集め、北黨との功爭相續きしが、 正平十六年七月其將山名時氏は、伯耆より美作に出でて八城を陥れ、ついで翌年十一月二軍に分かれ備前、備中に向ひ北黨を攻む。秋庭三郎は山名に通じて、 其將多治目備中守等を松山城に入れしかば、備中守護高師秀防ぐべき様もなく、備前徳良城に退きたり、山名軍勝に乘じて兵を出ししかば、備中一圓其勢に復す。唯陶山備前守(イ備中守)一人は、笠岡に在りて屈せず、 將軍方として孤立せり。直冬も石見より備後に入り、府中に於いて山名軍と合いせしが、宮下野入道道山の爲に破られて備後を遁走とんそうし、山名時氏亦北朝に降参せしかば、備中の南軍はすこぶる不振となりたり。 されども本郡北部地方に於いては、可なりの勢力を有し、莊駿河守は直冬黨の爲先に猿懸城をおわはれしと見え、直冬の命によりて、吉河山城守父子相尋で其跡を領せり。