(児玉町史より)

古文書 

  康永三年(一三四四年)八月七日、足利直義は讃岐国造田莊一件を裁許する。文面に莊十郎四郎資方らが押妨せしことが見える。  

《一二六》足利直義裁許狀〔善通寺文書〕        

   二位家法華堂領讃岐國造田莊雑掌申領家職事
右、如申狀者、當莊者依爲寺領、随心院前大僧正坊可有管領之由、去暦應三年(四ヵ)三月廿二日、將軍家被進御文訖、而大井紀四郎高綱、寒河七郎、 造田新大夫、柞原孫二郎、佐竹侍従房、莊十郎四郎、佐藤治部左衛門尉等、致押妨之由就訴申、去年十一月廿七日、可沙汰付雑掌之旨被仰下之處、 如今年七月廿日陸奥守顕氏(細川)請文者、造田莊事代官長範請文如此云々、如同日長範請文者、任仰之旨欲沙汰付之處、高綱等不充給替者、 不可去渡之由捧請文候云々在記請詞、如同日清秀等請文者、當莊領家職者、爲勲功之賞所令拝領也、被經替御沙汰之後可去渡云々者、 寺領之條無子細處、猶以違亂之條無其謂、雑掌可領掌矣、次清秀、高綱、資方、行慶等替事、所令與奪恩賞方也、仍下知狀如件、
   康永三年八月七日
左兵衛督源朝臣 (直義)(花押)                           (『南北朝遺文』中国・四国編一三四)                

 《解説》
 讃岐国造田莊の領家職につき同莊雑掌と大井紀四郎高綱(武藏武士と思われ『武藏七黨系圖』の村山党系圖・『紀氏系圖』等に大井氏が見える)(『大井町史』)・莊十郎四郎資方らとの爭いを、  足利直義が裁許したものである。既にこの造田莊一件について建武四年にも爭いが見られ莊資方らの名が見られる。(史料一〇〇)  

康永四年(一三四五年)正月二十二日、足利尊氏は山城国遍照院に同国中村地頭職を寄進する。高武藏守師直は寄進狀の旨に任せ、小串下野権守・莊四郎左衛門尉に下地を遍照院雑掌に沙汰付せしむ。  

《一二七》室町幕府執事高師直施行状案〔大通寺文書〕           

山城國中村 料所文六波羅地頭職事、任去年十一月三日御寄進狀之旨、莊四郎左衛門尉相共、可被沙汰付遍照院雑掌之狀、仍仰執達如件、
康永四年正月二十二日                     武藏守高師直在判
小串下野權守殿(『大日本史料』六―八)  

《一二八》室町幕府執事高師直施行状案〔大通寺文書〕   

山城國中村料所文六波羅地頭職事、任去年十一月三日御寄進狀之旨、小串下野權守相共、可被沙汰付遍照院雑掌之狀、仍仰執達如件、
康永四年正月二十二日武藏守高師直在判
莊四郎左衛門尉殿(『大日本史料』六―八)

 《解説》
この二点の史料は、足利尊氏が山城国遍照院に同国中村の地頭職を寄進し、莊四郎左衛門所(実名不詳)は武藏守(高師直)より遵行使に任じられね下地を同院雑掌に沙汰するようめいじられたものである。 この莊四郎左衛門尉については全くふめいであるが、四十数年前の永仁五年(一二九七年)に六波羅探題は、莊四郎左衛門尉資兼を東寺領大和国平野殿莊をめぐる争いの使者に命じているが、 四十数年の時差があるので゜同一人かどうかわからない。『建武紀』の延元元年(一三三六年)四月の「武者所結番事」に四番に莊四郎左衛門尉宗家が見えるが、この宗家のことであろうか。 莊宗家は建武元年の『雑訴決断所結番交名』に見える莊左衛門尉長家の子と思われ、この系譜に『武藏七党系圖』に見える。しかし莊資兼と莊長家・宗家との関係は系圖でもわからない。 北条氏の滅亡(鎌倉幕府・六波羅探題の滅亡)という大事件の際に、莊氏の動向もよくわからず、六波羅探題の滅亡の際に北条仲時に殉じて死んだ莊左衛門四郎俊充があったことが「六波羅蓮華寺過去帳」 にみえ、建武新政権に属した者に前記の通り莊長家・莊宗家があり、鎌倉攻めの際に新田氏に従い討ち死にした莊爲久がいる。  

貞和四年(一三四八年)十月八日、高直は足利尊氏の命により四方田七郎兵衛入道らをして、山城国日吉社神田における朝山輔直らの押妨を停止させ下地を雑掌に渡させる。

《一三一》室町幕府執事高師直奉書案〔東寺百合文書〕  

拝師莊端裏書  日 吉 分」
奉行人諏方大進(円忠)

山城國紀郡内日吉散在田雑掌良盛申同郡内神田等、重訴狀二通如此、雑掌所預裁許也、早市新左衛門尉相共莅彼□、
止朝山孫二郎輔直、磯谷兵庫允兼有憚 家字等、沙汰付下地於雑掌、 可被進請文狀、使節不可有緩怠之狀、仍仰執達如件、

貞和四年十月八日武藏守高師直在判
四方田七郎兵衛入道殿
市新左衛門尉殿

 《解説》
 この史料は貞和四年(一三四八年)に山城国紀郡の拝師莊内にある日吉社分の神田について日吉社雑掌良盛が朝山孫二郎輔直・磯谷兵庫允兼家の押領を訴えた事件で、足利尊氏の裁許により 武藏守(高師直)が命により、四方田七郎兵衛入道と市神左衛門尉両人を使者に立て、朝山・磯谷の押領を止め下地を雑掌に渡すよう命じられたものである。
四方田七郎兵衛入道については実名もわからないが、児玉党四方田氏の一族と思われる。『武藏七党系圖』によれば四方田氏で七郎を称したものは数人見られるが、四方田三郎弘長の孫に兵衛七郎家親がいる。 四方田氏は出羽・伊勢・能登・備後国に所領を持っていたことが知られているが、山城国内に所領を持っていたことは知られていない。しかし、この史料に見られるように、所領争いが起きた場合紛争地周辺 に所領を持つ武士が使者につかせられる場合が多くみられることから、四方田氏を山城国内に所領を持っていたと考えられる。四方田七郎兵衛入道も武藏国を離れ、山城国に西遷し、足利氏に属していたものと思われる。 十二年前の建武三年には四方田太郎左衛門尉父子が足利尊氏に属して桂川合戰で奮戦し、尊氏より感状が出されている。(史料九四)
なお、この四方田七郎兵衛入道は浄延と号し、同年十一月八日の「紗弥浄延請文」(倉持文書)によれば、陸奥國加美郡穀積郷における倉持氏の所領相伝に関与している(佐々木慶市『中世東北の武士団』)。  

貞和四年(一三四八年)十月三十日、幕府は田代顕綱の乞いし近江国三宅郷内の地頭職安堵の件につき、矢嶋弥太郎入道に命じてその領有の實否を調査させる。

《一三二》室町幕府引付頭人奉書〔田代文書〕

田代三郎顕綱申、近江國三宅郷内十三町六町田大方分地頭職安堵事、訴狀具書如件、云相傳當知行之段、可支申仁之有無、
爲元弘収公之地否、將又建武三年軍忠之次第、載起請之詞可被注申之狀、依執達如件、
貞和四十月卅日左衛門(石橋和義)(花押)
矢嶋彌太郎入道殿(『大日本史料』六―十二)

 《解説》
x 幕府は田代顕綱の訴える近江国三宅郷の領有の件につき、矢嶋彌三郎入道に調査を命じたものである。矢嶋氏は度々近江国内における事件等で登場して来るが、同国内に所有していたものと推定される。 『室町幕府守護職家事典』下によれば、近江国野州郡矢嶋・中村とする。

貞和五年(一三四九年)三月二十八日、修理亮某は幕府の命により、莊又四郎らをして備中国県主保領家職を地頭が濫妨せし由につき子細を調査させる。         

《一三三》室町幕府引付頭人奉書写〔「華頂要略門主伝」補遺〕

備中國懸主保領家職事、地頭濫妨云々、勘以不可然、相共土屋宮内左衛門尉、莅彼相尋子細注申狀、依執達如件、
貞和五年三月廿八日修理亮御在判
莊又四郎殿(『南北朝遺文』中国・四国編一七〇四)          

  《解説》
  この史料は、貞和五年(一三四九年)に備中国県主保(岡山県後月郡)の領家職が地頭によって押領されているとの訴訟があり、室町幕府は土屋宮内左衛門尉と莊又四郎の両人に事の詳細の調査を命じたものである。
莊又四郎は同じ備中国内に所領(草壁莊地頭)を持つ児玉党流の莊一族と思われる。