(児玉町史より)

古文書

 建武四年(一三三七年)三月十二日、児玉成行は宣旨によって右衛門少尉に任官する。

《九八》光明天皇□宣案写〔「正閏史料〕
上卿  左兵衛督
建武四年三月十二日  宣旨
従五位下藤原(兒玉)朝臣成行
宣任右衛門少尉
蔵人頭内藏源季實 (『南北朝遺文』中国・四国編五八八)

建武四年(一三三七年)八月十一日、細川顕氏は桑原左衛門五郎をして、莊十郎四郎らの訴える讃岐國造田莊違乱の件の使者とする。

《一〇〇》細川顕氏あきうじ書下写〔「阿府志〕

佐竹侍従房行慶、十郎四郎資方、豐島三郎五郎重將等申、造田讃岐國違亂間事、造田新太夫長守抑留領家年貢之間、被違奉公之忠、不敍用歟、太以増其咎云々、限來廿五日以前、 可究濟之間可被相觸也、使節有緩怠之儀者、可有其咎之狀如件、
廿日到來
建武四年八月十一日      (花押影) (細川顕氏)
桑原左衛門五良(常重)殿
《解説》

建武四年(一三三七年)に細川顕氏は、莊十郎四郎資方らの訴える讃岐国造田莊における造田長守らの違乱を、桑原常重を使者としてしょりさせたものである。莊十郎四郎資方は名前にすけの通字 を用いていることからも備中国草壁莊に西遷した児玉0-党一族と考えられる。讃岐国造田莊の地頭であったのであろうか。

  延元三年(一三三八年)、国魂行泰は軍忠状を出し証判を得る。文中に去年十二月十六日に武州安保原にて合戦がありしことが見える。

《一〇二》国魂行泰軍忠状(国魂文書)

陸奥國岩城郡國魂太郎兵衛尉行泰申合戰事

一 去年十二月十三日、上野國〔利〕根河合戰致忠畢、 一  同十六日、武州安保原(兒玉郡)合戰抽軍忠者也、
一 同廿四日・五日、鎌倉・飯嶋(鎌倉)椙本(鎌倉)合戰捨身命致忠畢、 一 今年正月廿四日・廿八日、美濃國阿時河・〔赤ヵ〕坂合戰致忠者也、
一 同二月十四日・十六日、伊勢國河又・河口合戰抽軍忠畢、 一 同廿八日、奈良合戰致忠了、
一 同三月八日、河内國古市河原合戰抽軍忠者也、 一 同十三日・十五日・十六日、八幡(山城國)渡野邊(渡邊) (攝津國)天王寺(河内國)於所々合戰致忠節畢、

  所詮自動亂最前至于今、抽忠節之條、大將軍北畠顕家御見知之上者、預御證判、爲施弓箭面目、恐々言上如件、
延元三年三月 日(証判ヵ)・・・・」(『埼玉県史』資料編 5)
 《解説》

陸奥國岩城郡の住人国魂行泰の軍忠状である。行泰は南朝方として北畠顕家に属し奥州より転戦している。 延元二年(一三三七年)十二月十三日に利根河合戰、同十六日に兒玉郡安保原で合戰、以後鎌倉・美濃・伊勢・ 河内と関西方面に転戦したことを載せている。この史料に見えないが十六日の安保原合戰の際、 兒玉郡の薊山(淺見山)で合戰が行われたことが『桜雲記』・『関城書裏書』等に見える。 兒玉町大字下眞下の旧家(児玉党眞下氏の子孫と言う)に伝わる家伝書「伝書之事」には、 この合戰で南朝に属した眞下春行が討ち死にしたといい、外薊山にあった児玉党の菩提寺西光寺 (児玉町大字下浅見の小字名として残る)がこの戦乱のため焼失したとの伝承のある。

  建武五年(一三三八年)三月二十六日、田代了賢・田代顕綱は、天王寺・石川河原合戰の軍忠状を提出し、 細川顕氏はこれに証判を与える。富田平三・富田又太郎入道・富田弾正忠の名が見える。

《一〇三》田代了賢軍忠狀〔田代文書〕

細河押紙兵部少輔殿御一見狀」
田代豐前又次郎入道了賢申、・・・・再度史料を入集すること。

  暦應四年(一三四一年)六月六日、足利直義は児玉成行の対し石見国の凶徒討伐を命ずる。

《一二三》足利直義軍勢催促狀写〔「萩藩譜録」児玉文書〕

石見國凶徒退治事、所遣武田伊豆守信武也、早令發向、可致軍忠之狀如件、
暦應四年六月六日       判
兒玉右衛成行門尉殿

  康永二年(一三四三年)九月十二日、一色道猷は東妙寺・妙法寺雑掌の訴えし肥前国神崎莊内薦田九郎三郎を押領せし一件につき書下を出す。

《一二四》九州探題一色範氏(道猷)書下〔東妙寺文書〕

東妙・東妙法兩寺雑掌申、寄進地肥前國神崎莊内中元寺孫三郎入道(淨印)幷薦田九郎三郎跡田地事、可退平津孫三郎入道・席田四郎左衛門入道等濫妨之由、 先度催促畢、急速遂其節、載起請之詞、可被注申也、仍執達如件、

康永二年九月十二日沙彌(一色道猷)(花押)
惣公文入道殿『肥前国神崎莊史料』)
  《一二五》九州探題一色範氏(道猷)書下〔東妙寺文書〕

東妙・東妙法兩寺雑掌申、寄進地肥前國神崎莊内中元寺孫三郎入道(淨印)幷薦田九郎三郎跡田地事、可退平津孫三郎入道・席田四郎左衛門入道等濫妨之由、 先度催促畢、不日可被申左右也、仍執達如件、
康永二年十一月二日 沙彌(一色道猷)(花押)
惣公文入道殿 肥前国神崎莊史料』)

  《解説》

この二点史料は東妙寺・妙法寺雑掌の訴えし兩寺への寄進地肥前国神崎莊内の薦田九郎三郎跡等における平津・席田両氏の濫妨事件のその後の状況を問うたものである。神崎莊における薦田氏の所領については、 建武二年六月の兩寺文書(「東妙寺妙法寺領坪付注文写」史料八三)に見える。

<