(児玉町史より)

古文書

建武三年二月名和長年は朝命により庄八郎入道に一旗あげて備中国の朝敵人討伐を命じる。

《八八》名和長年軍勢催促狀〔保坂潤治氏旧蔵文書〕

  備中國□敵人爲誅罰、相催一族、令□□可致軍忠、於恩賞者不可有相違之狀、仍仰執達如件、
建武三年二月廿□日                   伯耆守(花押)
莊八郎入道殿           (『南北朝遺文』中国・四国編二五六)   《解説》

史料八一を参照。史料八一と嘉年が概ね同文の史料であるが、或はその写しであろうが、年号(月日の虫食い箇所が同じ)と宛名が異なっているが検討を要す。

建武三年四月五日、山内時通は中先代の亂の軍忠狀を出し証判を得る。証人に莊又六の名が見える。

《八九》山内時通軍忠狀〔山内首藤家文書〕

  山内首藤三郎時通申軍忠狀
  右、今年(建武三年)三月廿五日、先代合戰之時、濱面仁天敵一人打取訖、幷時通下人彌次郎男打死畢、此條板倉右衛門太郎、莊又六令見知訖、 同廿六七兩日、又致軍忠之條、無其隠、仍合戰注進如件、
承候証判了、(花押)」       (『大日本古文書』)

《解説》

中先代の亂における山内時通の軍忠狀である。庄又六が証人として名わ載せているが実名は不詳である。庄又六は足利尊氏に従って備中国より参戦したものと思われる。

建武三年七月六日、平賀兼宗が新熊野前法性寺大路の合戰の軍忠狀を出し証判を得る。証人に眞下孫三郎の名が見える。
《九一》平賀兼宗軍忠狀〔平賀家文書〕
  平賀屠遠江權守兼宗、去年晦日、於新熊野前法性寺大路、屬御手、懸先抽軍忠、打取軍敵佐々木七郎候畢、此段同所合戰眞下孫三郎見知之上、則被遂御檢見候畢、 然者、爲後證可賜御判候、以此旨可有御披露候、恐々謹言、
建武三年七月六日                 遠江權守兼宗(裏花押)
進上      御奉行所
承候証判了、(花押)上杉重能」        (『大日本古文書』)

《解説》

平賀兼宗の軍忠状であるが、六月三十日に京都で起きた合戰の時のもので足利尊氏は光厳上皇らを奉じて京都に寄り、山門(比叡山)に居た後醍醐天皇方はこれを攻めたが重鎮の名和長年が戦死するなどして失敗している。 眞下孫三郎が証人として見えるが、攝津國に西遷した児玉党眞下氏の一族と思われる。眞下氏は鎌倉時代早期から足利氏の被官となつていることが知られており、この時も京都の足利方にあって活躍したものであろう。

建武三年七月十日、足利尊氏は児玉成行の働きを賞し感状を出す。

《九二》足利尊氏感狀写〔「萩藩譜録」〕

  袖判(足利尊氏)
児玉二郎成行軍忠神妙、可有恩賞之狀如件、
建武三年七月十日
(『南北朝遺文』中国・四国編四一〇)

《解説》

 足利尊氏が児玉成行の軍功を賞して発給した感状である。年月日からして前の史料と同様に京都における合戰に際してのものかと思われる。安藝國にあった兒玉氏も足利方に属して活躍しものであろう。

建武三年(一三三六)七月ね天野遠政は西坂本の合戰の軍忠状を提出し、高師冬はこれに証判を与える。文中に塩谷四郎・莊民部房が参戦セ氏ことが見える。

《九三》天野遠政軍忠状〔天野文書〕

  天野安藝三郎遠政申、去月西坂本東脇懸先陣致軍忠畢、仍同時合戰間、鹽谷四郎、葛山孫六、莊民部房等令見知畢、次六日合戰、若黨古田二郎討死畢。 見知證人嶋津兵庫允、三浦佐原六郎、山内又三郎令存知者也、將又自身同九日被疵之條、細河卿阿闍梨御房、宍戸四郎見知畢、其上於執事(高師直)御方被實檢畢、 就中自五日至于廿日、晝夜抽忠勤次第、於軍陣無其隠者也、然早賜御證判、爲備後證之狀如件、
建武三年七月 日(証判)(花押)」(『大日本史料』六―三)

《解説》

この史料は足利尊氏が九州にあって再起し、五月廿八日兵庫の湊川合戰に大勝して六月京都に向かった際のもので、入京直前の六月五日の合戰での天野遠政が出した軍忠状である。  足利尊氏軍は六月十四日には入京している。
 この合戰で足利軍に塩谷四郎と莊民部房が参戦していたことが見える。足利尊氏か九州から中国筋をへて京都に進軍したことから、この塩谷四郎は安芸国能美島地頭の塩谷氏ではないかと思われる。  莊民部房も備中國草壁莊地頭の莊一族と思われる。

建武三年九月五日、足利尊氏は山城国桂川合戰で討死した父四方田太郎左衛門尉の働きわ賞し、子の太郎左衛門尉に感状を出す。
《九四》足利尊氏感状写〔「(古証文」一所収〕

  今年正月晦日桂川(山城國)合戰事、父太郎左衛門殿先〔尉ヵ〕懸討死候間、軍忠之至、所感思也、於恩賞者、追可有其沙汰之狀如件、
建武三年 九月五日                  尊氏(足利) 御判
四方田太郎左衛門尉殿
  《解説》

この史料は足利尊氏が討ち死にした父の四方田しほうでん太郎左衛門尉の軍功を賞し、 子の太郎左衛門尉に感状を出したものである。建武三年(一三三六年)正月に山城国内で連日激しい合戰がおこなわれたが、  正月三十日の糺河原で起きた合戰の際のことかと思われる。宮方の名和長年・楠正成・新田義貞と足利尊氏・直義らが戦い、 足利方が負け丹波国に逃れている。この時四方田太郎左衛門尉父子も足利方にあって参戦し、父の太郎左衛門尉が討ち死にしたことを賞したものであるが、 九月の段階になって足利方は京都を回復しており、十月には両軍が一時和睦するなど足利方がかなり優勢な状況となっており、 足利尊氏が將士の論功行賞を行ったものと思われる。

  建武三年(一三三六年)十一月、田代市若丸(顕綱)は軍忠状を提出し、高師㤗はこれに証判を与える。文中に矢島六郎が参戦せしことが見える。

《九五》田代顕綱(市若丸)軍忠状〔田代文書〕

田代豐前市若丸顕綱申、去正月二日、江州伊岐代御合戰之時、屬御手、向大手、於辰巳角矢倉下、致軍忠之刻、若黨高野式部房定祐、左足甲被射通畢、且狩野下野三郎、 矢嶋六郎等、見及候之上、於戰場既御檢知畢、將又翌日三日、令參栗本御宿、入見参者也、然早下賜御證判、欲備弓箭之眉目、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、
   建武三年十一月                     市若丸
(押紙)越後守殿」
(証判)高師泰(花押)」

  《解説》

この史料は建武三年正月二日、近江国伊岐合戰の時の田代市若丸(顕綱)の出した軍忠書である。 京より鎌倉に下り中先代の亂を平定した足利尊氏は大軍を擁して上洛し、 近江国において宮方と合戰になった際のものである。文中に矢島六郎の名が見えるが、 児玉党の矢嶋氏ではないかと思われる。矢嶋氏は近江国周辺で活躍していたことが知られている。
尚、足利尊氏はこの後一旦京都に入ったが、合戰で大敗して九州に逃げており、 そこで再起して再び京都を奪還している。田代市若丸は大敗の爲軍忠状を提出できず、 其の後十一月の日付のように足利尊氏は再起による京都平定後に、論功行賞のために提出したものであろう。

  建武三年(一三三六年)十二月十一日、足利直義は武藏国阿保郷・枝松名内塩谷田際在家・太駄村ほかの地頭職を阿保光泰に安堵する。

《九六》足利直義下文〔埼玉県立文書館所蔵 阿保文書〕

  (註、第一章・第二節に収録済み。第九号文書