(児玉町史より)

古文書

  建武二年(一三三五年)八月二日、足利軍に兒玉蛭河彦太郎入道が捕らえられしことが見える。
  《八四》実廉忠狀(断簡)〔竹内文平氏所蔵文書〕

間、云軍勢、云役人、上下諸人空奉捨、不知行方之間、實廉獨申勤駕御、令扈従畢、其間次第、大王詳被知食之上者、不能費私詞、此條頗可謂抜群之大忠、爭可被准壽常之奉公哉、是六
  同八月二日(建武二年)御着三州(三河國)矢作宿、夙夜奉公、又不遑羅縷、動九日尊氏(足利)卿自遠州(遠江國)橋下(本ヵ)、處々合戰之日、候人等被疵畢、城山五郎貞守虜児玉黨蛭河彦太郎入道・ 松野又二郎等畢、香川四郎宗景於蒲原(駿河國)虜松野彦五郎入道父子、渡足利方之間、卽所令獄舎也、是七
  同七年廿四日、於越後國大面莊、小諸林一黨等、忽企叛逆、亂國中之時、實廉所領同國粟生田保地頭代妹尾右衛門入道本阿等最前馳向而懸先、令對治凶徒等畢、其條守護代里見伊賀五郎・ 目代新田彦二郎等一見狀分明者歟、是八
  去年(建武元年)三月九日、於關東、本間・渋谷等一黨叛逆之時、實廉獨□候〔祇ヵ〕竹園〔成良親王〕奉警固、大王之間、 候人等隨而致随分之軍忠訖、是九
  同八月三日、江戸・葛西等重謀叛之時、候人等亦致處々合戰、各々被疵畢、是十
去元弘三年(一三三三年)三月、巳 臨幸白州船上山之由、風聞之間、雖欲馳参、山河多重、塞關楯倜、不達本意、蟄居關東之處、五月十四日、故高時法師等差遣討手於實廉、 圍私宅、希有而遁萬死之陣、交山林送數日之刻、同十八日、義貞(新田)朝臣責入于鎌倉、致逆徒討罰之間、馳加彼手、至廿二日首尾五ヶ日夜之間、於處々致軍忠畢、此等子細、 云同時合戰之輩、云其時大將軍、皆存知者也、是十一
右條々、梗槪如斯、實廉苟歴武衞之官、憖掌警巡之役、雖無累葉之武略、□廻當時之策、策随分之奉公、爭可被奇捐乎、但去月十日(建武三年正月)、自山崎戰場歸參之時、可有、 行幸他所歟之由、有其聞之間、卽可令供奉之旨、深相存之處、人疲馬泥、聊㕣遲留、出御早々也、其所慥以不承及云々、説區分、空迷岐路、惆悵矢據之處、日免(既ヵ)暮、敵充滿洛中、 仍爲全身遂志報冦竭忠、暫先隱居西山阿徒送兩旬畢、不慮之儀、生涯遺恨也、亊與情參差、歎而有餘者也、抑去元弘三年十二月、竹園關東御下向之時、可令供奉之由、被仰出、云日來之疲勞、 云當時之訴詔(訟ヵ)、末承是非左右、雖進退惟谷、爭背、敕定哉、仍
                  (『埼玉県史』資料編5)
《解説》

  實廉(姓不明)の軍忠状であるが、遠江國とおうとおみのくに橋本の合戦で児玉黨の蛭河彦太郎入道が捕らえられ足利軍に渡され投獄されたことが見える。 蛭河彦太郎入道は実名は不詳であるが、『武藏七党系図』に、某彦太郎入道と見える。

高家―――莊四郎刑部丞 定重―――蛭河太郎 家氏―――小太郎左衛門尉 泰家―――太郎左衛門尉 泰氏―――又二郎 家国太郎
彦太郎入道

蛭河彦太郎入道は乱に際し、北条時行に属して足利方に捕らえられたものと思われる。ここで"児玉黨"と記されていることから、 この蛭河氏の外にも児玉黨一族が北条時行方に参加していたものと思われる。

  建武二年九月十六日、右京亮某は眞下藤四郎をして上野國一宮(富岡市)の田畑在家を源氏女に沙汰させる。
《八五》右京亮施行狀写〔武州文書〕

  阿波畠山式部□□大輔ヵ入道蓮〔女〕源氏申、上野國一宮内那波□田畠在家等事、
早莅彼所、沙汰付源氏、可被執進請取状、使節緩怠者、可有罪科之狀如件、
      建武二年九月十六日
右京亮(花押影)
眞下藤四郎殿
  《解説》

この史料は建武二年(一三三五年)に右京亮某が眞下藤四郎を使者として、阿波(畠山)入道西蓮の女源氏の訴え通り上野国一宮内名那波の田畠在家を沙汰させたものである。 眞下藤四郎は児玉党眞下氏の者と思われるが、『新編武藏風土記稿』男衾郡本田村の項に旧家眞下家があり、この文書を載せ眞下節四郎を重照とし、足利尊氏に従って京都より 下ったと伝えている。史料的には検討すべき点が多いが、十四年後の貞和五年(一三四九年)に眞下四郎太郎重氏が足利尊氏より上野国山名郷内の在家を宛がわれた史料が見られること から何らかのつながりも考えられよう。
(参考、湯山学「武藏兒玉党の眞下氏について」『埼玉地方史』第8号)

  建武二年(一三三五年)九月二十七日、足利尊氏は勲功の賞として上野国吉田次郎跡を合屋頼重に宛がう。
  《八六》足利尊氏袖判下文写(御代々墨付写)

  御判
下  合屋豊後守頼重
  可令早領知上野國吉田次郎跡事
右人、爲勲功之賞、所充行也者、守先例、可致沙汰之狀如件、
   建武二年九月廿七日

  《解説》

足利尊氏が勲功の賞として上野国吉田次郎跡合屋頼重に宛がったものである。上野国吉田次郎跡と見えるが具体的な地名はわからない。 吉田氏は児玉党にもいて『武藏七党系圖』では小代俊平が吉田氏を称しており東松山市正代付近か。或は秩父吉田付近出身の武士か、或は 別氏かよくわからない。ただ上野国南西部は児玉党平児玉流の一族の分布する地域であり、秩父郡吉田郷周辺も同流の一族があり両者は系譜的には かなり近い関係にあるから、この吉田次郎跡は児玉党との何等かの拘りがあると思われる。

  建武三年(一三三六年)正月二日、足利尊氏は安藝国高屋庄・武藏国兒玉郡池屋宿在家半分地頭職を児玉成行に安堵する。
    《八七》足利尊氏下文写〔『萩藩譜録』〕

  下       児玉二郎成行
  可令早領知安藝國高屋庄・武藏國児玉郡池屋・同宿在家半分地頭職事
  右人、如元可令領掌之狀如件、
    建武三年正月二日源朝臣(足利尊氏) 在判

  《解説》

足利尊氏が安藝国高屋庄・武藏国兒玉郡池屋在家半分の地頭職を児玉二郎成行に安堵したものである。この史料は原文書が伝わらず萩藩(毛利)で作成された『譜録』(児玉広高家)に載せられているもので、 毛利博物館に児玉文書(児玉広高家伝来)の原本が伝えられているが、『譜録』所収の広高家文書には児玉文書と宛名だけ異なる同文の文書が数点含まれていることから、児玉文書から写し宛名だけ書き換えた 可能性があり検討を要するものである。