(児玉町史より)

古文書 

  元應二年(一三二〇年)三月七日、幕府は矢嶋泰行の訴えの通り、上野國山名郷内畠地一所の領有を認める。
《六一》 關東下知狀写〔蜷川親治氏所蔵文書〕

  矢嶋孫太郎泰行申上野國山名郷内畠地壹所 載沽券名字四至

右、畠地者、石見七郎繁朝、文保二年十二月十七日、限永代賣與之由、奉行依申之、下召文之處、如繁朝 去年十二月十二日請文者、沽却無異議云々、 且當郷私領之旨、前前其沙汰畢、然則於件畠地者、任繁朝放券、可令泰行領掌之狀、依鎌倉殿仰下知如件、

  元應二年三月七日
  相模守平朝臣北条高時(花押影)
  前武藏守平朝臣金沢貞顕(花押影)

  元應二年(一三二〇年)八月十七日、六波羅探題は幕府の命により兒玉七郎入道に対し安藝國龜頸の警護を命ずる。
《六二》六波羅御教書〔兒玉文書〕
  (註、第一章・第一節に収録済み。第二号文書)  

  元應二年(一三二〇年)十二月十八日、六波羅探題は鎌倉幕府の命により塩谷又二郎入道らをして美濃國大井莊の奉幣に当たらせる。
《六四》六波羅御教書案〔東南院文章〕
  大井端裏書莊奉幣事」

  御即位以下三ヶ奉幣美濃國使貞光等申、幣物(准)擬雑事才事、重申狀具書如此、先度令執行之處、地頭御家人等難澁 云々、太無謂、 早於准擬雑事者、不日沙汰渡之、載起請詞、可被申散狀也、仍執達如件、
  元應二年十二月十八日
小笠原二郎殿
鹽谷又二郎入道殿(『大日本古文書』)

  元應三年(一三二一年)二月四日、奉行人鹽谷又二郎入道貞仏は美濃國の地頭・御家人等に対し、去年の六波羅御教書の旨により奉幣物等を用意させ使者の入部を待たさせる。
《六五》鹽谷定仏施行狀案〔東南院文章〕

  御即位以下三ヶ奉幣美濃國使貞光等申、幣物准擬雑事等事、去年十二月十八日六波羅御教書如此、早任被仰下之旨、准擬雑事等、致用意、相待入部、不日可被沙汰渡之候、恐々謹言、
元應三年二月四日             沙彌定佛在判
   謹上 美濃國地頭御家人等御中 (『大日本古文』)

  《解説》

この二点の史料は詳細は不明であるが、天皇の即位に必要な費用を美濃國の地頭・御家人に課したが思うようにいかず、美濃国使貞光より幕府へ訴えられ、六波羅探題は幕府の命により塩谷又二郎入道定仏らを奉行に命じ、 ことに当たらせたものと思われる。塩谷氏は児玉黨の武士と思われるが、六波羅探題に出仕していたものであろう。十二年後の元弘三年(一三三三年)に六波羅探題が足利尊氏に攻められ滅亡した際に、 近江國番場の宿で北条仲時らとともに自害し者に塩谷氏がいた。或は宇都宮氏流塩谷氏であろうか。

  建武元年(一三三四年)八月、楠正成は塩谷次郎左衛門尉討伐の命が出された由を伊賀入道へ伝える。
  《七九》楠正成奉書写〔「黄薇古簡集」〕

鹽谷次郎左衛門尉討罸之事、被仰出旨、可相心得候、猶以抽忠勤可申者也、仍執達如件、
  楠兵衛尉
  建武元年八月 日 正成
伊賀入道殿へ(『南北朝遺文』中国・四国編六四)

《解説》

この史料は後醍醐天皇より楠正成が伊賀入道に宛てて塩屋次郎左衛門尉討伐の命がだされたことを連絡したもの。 塩谷次郎左衛門尉については児玉黨の塩谷氏か、それとも他氏か判別できないが参考にあげておく。

建武元年(一三三四年)十二月十四日、津軽の降人交名が作成される。その中に工藤祐繼の若黨四方田彦三郎が見える。
《八〇》 津軽降人交名注文(南部文書〕

師行胞紙師行獻書草稿 建武元年一二月一四日

一 被留置津輕降人交明事
工藤(合点)左近二郎子息孫二郎義繼
(合点)孫三郎祐繼
    若黨分
    矢部(合点)彦五郎
    彌彦平三郎
    四方田彦三郎
    工藤治部右衛門二郎貞景死去・同左衛門次郎義村・同六郎入道道光・同四郎二郎・同又三郎・同六郎預之
(以下六五人餘略)
右粗降人等交名注進丹如件、
        建武元年十二月十四日

《解説》

降伏した武士の名簿の中に、工藤氏の若黨(郎従)として四方田彦三郎の名が見える。この四方田氏については、出羽國平泉内に四方田氏の所領があったことが『新編追加』に見える。 これは地頭の四方田景綱父子がその押領を訴えられた事件であるが、この子孫と関係があるかも知れない。『武藏七党系図』には景綱の曾孫に彦三郎か兼綱を載せている。
四方田景綱は『吾妻鏡』にも数度名を見せるが、特に正嘉元年(一二五七年)九月十八日の項で、景綱は鎌倉勝長壽院造営の儀式に相州御方(北条政村)として参加している。 また工藤光泰や安藤光成も北条氏の下で参加していることから、この交名に載せられた武士の内、安藤・工藤・四方田氏が北条氏との関係の深い者であった事がわかる。 また野辺左衛門五郎の名が見えるが、猪俣黨に野辺氏があって北条氏の代官として日向國櫛間院に下った一族があったが、この者が在地の武士か猪俣流の武士かは不明である。 勝者側に安保・瀧瀬氏の名が見えるが、これも武藏武士丹黨一族で、暦應三年(一三四〇年)の安保光阿状(安保文書)に見える出羽國海辺余郡内に所領を得た安保氏の庶流であろう。 安保氏惣領家も北条氏と関係が極めて深く、北条氏の滅亡の際に一緒に滅んでおり、安保光義(光阿)は逆に足利氏に仕え、その勲功として惣領家跡を相続している。 この譲状にみえる出羽國内の所領も相続したものであろう。

建武二年(一三三五年)二月、名和長年は朝命により莊四郎入道に一族をあげて備中国の朝敵人の討伐を命じる。
《八一》名和長年軍勢催促狀〔毛利家文書〕

備中國朝敵人爲誅伐、相催一族□日可致軍忠、於恩賞〔者ヵ〕不可有相違候、依仰執達如件、
建武二年二月廿□日                        伯耆守(花押)
莊四郎入道殿                         (『南北朝遺文』中国・四国編一二三)

《解説》

この史料は伯耆守(名和長年)が備中國(岡山県)における朝敵人鎮圧のため、備中國草壁莊の地頭であった莊四郎入道に対し、一族あげて軍忠を尽くすよう求めたものである。 備中の莊氏は後醍醐天皇が隠岐島より逃れた際に名和氏に従い勲功を上げたようであが、六波羅探題が滅亡した時に北条仲時らと共に自害した者の中に莊左衛門四郎俊充があったことが蓮華寺過古帳に見える。 莊系図等ではこの俊充を資房とするものがあるが明瞭ではない。鎌倉幕府の滅亡にあたって莊氏も二つに分かれて戰こととなった。こののち備中に西遷した莊氏は足利尊氏に従い北朝方として働き、 備中國の守護代として活躍する。

建武二年(一三三五年)六月、肥前国東妙寺の寺領坪付注文が作成される 。文中に薦田盛秀・定秀父子の名が見える。
《八三》肥前国東妙寺妙法寺寺領坪付注文写〔東妙寺文書〕
(前略)
一 薦田左近將監盛秀子息定秀
       中郷又南里十坪三段三丈  十五坪七段四丈  十六坪一段二丈中
一 彼杵田所四郎兵衛入道子息重成
       中郷乙馬手里廿三坪一丁
       同卿河依里屋敷一宇
        神崎里十二坪畠地三丈
右、 兩寺當知行公田等坪付注進如件、
       建武二年六月  日
〇 紙継目に裏花押影あり                         (『肥前国神崎莊史料』)

《解説》

肥前国の東妙寺・妙法寺の寺領を書き上げたものであるが、薦田左近将監盛秀・定秀父子の名が見られる。これにより薦田氏が肥前国神崎郡神崎莊内中郷の一分地頭であったことが想定される。 薦田氏は現在の美里町大字小茂田を本貫地とする児玉黨武士で、伊豫國(愛媛県)土居に所領を得て西遷したと言われている(薦田錦一『薦田氏出自物語』・『武藏七党薦田氏の展開』)。 薦田氏に関する史料は極めて乏しくその系譜や動静も不明であるが、『太平記』に薦田弾正左衛門の名が見られる。