(児玉町史より)
古文書 

正和三年(一三一四年)閏三月十五日、成田六郎入道長信と又五郎宗家・彦五郎宗員が所領上野國奥平村(多野郡吉井町)について相論し、和与状を作成する。

《五四》成田宗家代時方和与状写〔成田系図所収文書〕
和興

成田六郎入道長信與同又五郎宗家・彦五郎宗員法名圓勝今者出家相論、上野國奥平村事 右村者、亡父成田左衛門□□入道圓信法名爲勲功賞所宛て給也、而末分死去之所、

子息彌五郎入道慈信死去今者、子息又五郎宗家め彦五郎入道圓勝押領之由、爲長信訴人申之處、 兩方以和與之儀、宗家知行分内猿田下壹段、山 琵琶坂道 与利西平去〔渡ヵ〕長信畢、

向後不可有違亂煩、致違亂者、去渡分以一陪可被沙汰取也、但治部房榮信等同雖申子細、於彼仁等〔者ヵ〕過年死之間不及沙汰者也、 仍向後守和與狀不可有違亂、仍和與狀如件、
正和三年閏三月十五日        藤原宗家代
時方(花押影)
爲向(裏書外題)後龜鏡、右所加署判也、」
彈 正 忠(花押影) 前筑前權守(花押影)
《解説》

陸奥國に北遷した成田氏一族内での所領争いの和解状である。成田氏は武藏國騎西郡成田郷出身の武士と思われるが、安保氏と共に北遷した成田氏の庶流の一族であろうか。 亡父成田入道円信が勲功の賞として獲得した上野國(群馬県)奥平郡(多野郡吉井町)を子息の成田宗家・宗員兄弟と叔父かと思われる成田六郎入道長信との間で争われ、 ここに配分が決められた。奥平村は児玉黨に奥平氏があり、奥平氏の本貫地かと思われるが子細は不明である。

  同年(一三一四年)六月二十九日六波羅探題は海賊人を捕らえし兒玉小四郎を賞す。

《五五》 六波羅探題御教書案〔山口県文書館所蔵『萩藩閥閲録』〕

海賊右衛門五郎事、伊豫國高市郷代官景房搦渡候由、守護代信重注申之條、殊神妙也、仍執達如件、
正和三年六月廿九日越後守 (北条時敦)           
武藏守(金沢貞顕) 兒玉小四郎殿 《解説》

正和三年(一三一四年)に兒玉小四郎(藤行か)が海賊人右衛門五郎を捕らえたことを鎌倉幕府より六波羅探題を通じて賞されたものである。原文は残されておらず 『萩藩閥閲録』に収められているものである。兒玉氏が瀬戸内海の警備を幕府より命ぜられた史料が、これより後の元応二年(一三二〇年)の六波羅御教書 『兒玉文書』(史料六二)におるが、既にこのころから兒玉氏は海上警護を命ぜられていたのであろうか。

同年(一三一四年)七月一日、安藝國新勅旨田雑掌と同国志芳莊地頭との相論につき使者兒玉七郎入道遍心は請文を出す。

《五六》兒玉遍心請文案〔東寺百合文書〕

御使 端裏書兒玉七郎入道請文案」
安藝國新勅旨田雑掌頼有申、同國志芳莊地頭肥後天野五郎左衛門尉政行・同一方地頭 安藝天野 三郎次郎遠政、得大嘗會米神部語、 奪取年貢由事、去四月十一日御教書六月十日到來、謹以下預候畢、任被仰下之旨、相觸政行候之處、請文如此候、謹進上仕候、此條、僞申上候者、 可蒙日本國中大小諸神御罸候、以此旨、可有御披露候、恐惶謹言、
正和三年七月一日沙彌遍心在判
(『鎌倉遺文』二五一六五)
《解説》

この史料は安藝國新勅旨田雑掌が同国志芳莊地頭の天野政行らの年貢押領を訴えた事件で、六波羅探題より兒玉七郎入道遍心が使者として相手肥後政行のもとに派遣され、 兒玉遍心が命令通り御教書を相手政行に届けた旨を報告した文書の訴訟用副本である。
同年(一三一四年)七月二十三日、幕府は本庄左衛門尉太郎国房と由利八郎頼久との武藏國本庄内の所領争いを裁許する。
《五七》關東下知狀〔根津美術館所蔵文書〕

由利八郎頼久與本庄左衛門太郎國房相論、武藏國本庄(児玉郡)内生子屋敷・立野林幷畠地事
右、正應四年十月二日下知以後、就申子細、欲是非之處、如去月廿六日兩方和與狀者、國房於下地者前渡之、至年々得分者糺返之條、仍爲難治、以國房重代相傳領筑前國小中莊地頭職、 相副代々御下文以下次第證文等、件得分之代、自明〇年辰歳永代所避與頼久也、彼莊別相傳之上者、時家祖父國房曾跡御公事等、 國房一切不可懸申頼久、又國房背御下知之由、永不可訴申云々者、押領得分物之代、去與所領之時被許容之條、爲先傍例、任彼去狀、可令頼久知行者、依鎌倉殿(守邦親王)仰、下知如件、
正和三年七月廿三日相模守平朝臣(北条煕時)
(『鎌倉遺文』二五七五〇)

《解説》

この史料は、武藏國本庄内生子屋敷(本庄市付近ヵ)等の地をめぐり本庄左衛門太郎国房と由利八郎頼久が爭ったもので、正和三年(一三一四年)に幕府より判決が出された。先月中に示談が成立したが、 尚問題点があったようで結局、本庄国房が曾祖父時家より代々相伝してきて筑前國(福岡県)小中庄を頼久に与えることとなった(瀬野精一郎『鎮西御家人の研究』)。本庄市はここ小中庄の地頭職を失ったわけである。 武藏國本庄内生子屋敷等については、本庄市域の地と思われるが比定地はない。
本荘左衛門太郎国房は児玉黨莊氏流の本荘氏で、文面に「時家国房曾祖父」とあるように『武藏七党系図」の記載と一致している。

弘高―――莊權守 家長―――莊太郎 依家小太郎
家次―――本庄二郎左衛門尉 朝次太郎新左衛門尉
時家―――本庄二郎左衛門尉 家房―――左衛門尉 㤗房―――太郎左衛門尉 国房太郎
(『武藏七党系図』略図)

文保二年(一三一八年)十一月十二日、鎌倉幕府は、矢嶋泰行の訴えの通り、上野国山名郷(高崎市)内在家一字の領有を認める。

《五九》關東下知狀写〔蜷川親治氏所蔵文書〕

矢嶋孫太郎泰行申上野國山名郷内在家壹字載沽券名字堺
右在家者、石見七郎重朝所帶也、去年七月三日、限永代放券之由、泰行就申之、爲尋問實否、遣召府之處、如重朝八月廿三日請文者、沽却之條無異議云々、爰當郷私領之旨、先々其沙汰畢、 然則於彼地者、任重朝券文、可令泰行領掌者、依鎌倉殿仰下知如件、
文保二年十一月十二日
  相模守平朝臣北条高時
  武藏守平朝臣金沢貞顕
《解説》

この史料は史料六一とともの矢島孫太郎泰行が上野国山名郷(群馬県高崎市)内の在家一所と畠一所を石見七郎重朝より購入したことを鎌倉幕府より了承されたものである。 山名郷の一部にすぎないが、元来は源姓山名氏或は児玉黨山名氏の所領だったと思われるが、どのような理由で所有が替わったのかは不明である。
矢島氏は史料三八~四一で近江国で活躍していたことが知られるが、系譜は不明な点が多い。先の矢島氏は有道を称していることから児玉黨の一族と考えられるが、 『武藏七党系図』では記載があいまいでありかつ安芸国に西遷した兒玉氏の系譜と関係がありそうな点が見られることなど問題点が多い。

遠峯――― 経行――― 保義――― 行遠―――吉島三郎大夫 親行―――山名大夫四郎 家親島名刑部丞
某――― 惟行――― 定行 泰行
惟親―――矢島太郎 泰親
(『武藏七党系図』)
惟行――― 経行――― 時行――― 行家――― 重行――― 朝行――― 爲行
貞行――― 泰行
惟親――― 泰親――― 重蓮――― 繁行――― 家親――― 親光
(萩藩『譜録』兒玉系図)

  以上のように特に惟行・定(貞)行・泰行・惟親・泰親の記載は世代が異なるもののかなり類似し、かつ家親は同世代に記載され、両者の系譜が何等かの関係があったのではないかと思われる。