児玉黨一族の動向
(児玉町史より)

古文書 

    弘安四年(一二八一)閏七月十一日、幕府は兒玉六郎・同七郎・同左衛門入道に対し子息を安藝国の所領に差し下し、異賊警護に当たらすよう命じる。  

《二一》関東御教書〔児玉文書〕
(註、第一章・第一節に収録済み。第一号文書)

弘安六年(一二八三)八月十四日、六波羅探題は雅楽左衛門三郎入道を使者として三聖寺領の備中国小坂庄雑掌の訴えにより地頭の莊藤四郎入道信行に参決すべきことを伝えさせる。

《二二》 六波羅御教書〔三聖寺文書〕

  □□端裏書御教書
三聖寺領備中國小□□〔坂庄〕 雑掌申地頭庄藤四〔郎入道〕 行信押領一庄所務、抑留年ヵ 貢由事、長老狀副重訴状具書□□□如此所申ヵ 無相違者、任先下知状、□□辨済年貢、此上有所申者ヵ九月十日以前可令參決、□□不承引者、 殊可有其□□沙汰由ヵ被相觸行信也、仍執達如件、
 弘安六年八月十四日        左□□〔近将監〕北条時宗

                   □□〔藏守〕北条時村

     雅樂衛門三郎入道殿     

《二三》 六波羅御教書〔三聖寺文書〕

  三聖領〔山城國〕備中國小坂庄雑掌〔申ヵ〕 地頭庄藤四郎入道行信致條々非〔法ヵ〕由事、請文披見畢、 重訴狀具書□□、領家・預所々務事、地頭不及相〔綺ヵ〕間、度々加下知之處、 捧自由陳狀不承□□〔引ヵ〕、頗招其科歟、早停止雑掌所訴〔申ヵ〕 條々非法、敍用庄務、辨済年貢、可□□〔遂ヵ〕御撿注、井猶不拘下知、 成庄家之□□〔煩ヵ〕者、可注中關東之旨、相觸行信、 可被□□〔召ヵ〕分明之散狀也、仍執達如件、
       弘安六年十二月八日      左近将監(北条時国)□□

武蔵守(北条時村)□□

   犬甘蔵人入道殿
   雅樂衛門三郎入道殿

《解説》

  この史料(史料二二・二三)は備中国(岡山県)にある荘園の小坂庄をめぐるもので、文面に破損が多く不明瞭であるが、 京都三聖寺領であった小坂庄の雑掌が庄務・年貢の件につき地頭の庄藤四郎入道行信の不法を六波羅探題に訴え出たもので、 六波羅探題は雅楽左衛門三郎を使者とし両者を対決させるために、この旨を庄行信に伝達させたものである。 史料二三は四ヶ月後のものであるが、庄家(荘園領主)側の要求が満たされなかったようで、六波羅探題は使者二人に命じて 庄行信に非法を止めるよう伝達させたものである。小坂庄は岡山県浅口郡鴨方町付近にあった荘園と思われ字名に小坂東の地名 が残っている。庄氏が備中国草壁庄の外に、この小坂庄の地頭職を得ていたことを示す史料である。尚、この小坂庄と草壁庄は 隣郡同士で極めて近い位置にある。
庄藤四郎入道行信については児玉党庄氏の者と思われるが、その系譜は不明である。
   (関連史料がもう一点あり。史料二五)

弘安八年(一二八五)四月十一日、六波羅探題は大甘蔵人入道らをして備中国小坂庄一件につき沙汰せしめる。

《二五》 六波羅御教書〔三聖寺文書〕

三聖寺領備中國小坂庄□口地頭庄藤四郎入道行信代□口所務條々事、訴陳之趣雖(所ヵ)詮、當庄所務事、經度々沙汰□、地頭不承引之旨、雑掌訴申之、□口違亂之由、地頭代載陳狀之上、不□□、早打莅彼所、 可沙汰居雑掌、口□(於ヵ)年貢者、遂結解、 可令辨済□口者、任關東延應御下知状、可有□□、可被存此旨也、仍執達如件、
   弘安八年四月十一日      左近将監(北条時国)□□
                   武蔵守(北条時村)□□
  犬甘蔵人入道殿
  雅樂衛門三郎入道殿

《解説》

    この史料は史料二二・二三と同様に備中国小坂庄に拘わるもので、小坂庄の庄務・年貢の問題がなかなか解決しなかった。文面に″地頭代″とあることから地頭(庄藤四郎入道行信)自身は関東或 いは京都に居て代官支配をしていたのであろうか。又、″任関東延応御下知状″とあるから、この一件は四十六年も前の延応元年(一二三九)より争われていたことになる。庄氏が小坂庄地頭職を得たのもそれ以前であろう。
《追記》「小坂氏記録」(中山和藏)によると、
文永元年(一二六四年)鎌倉宗尊親王に一味同心して同十一年落城した上黒茶臼丸城(宇戸谷)の左京祐兼重、中黒高丸城(小林)の式部太夫兼□、下黒中丸城(西三成)の左近太夫兼近が見られる。宗尊親王は文永三年廃されて惟康新王が將軍に就任しているので、 同十一年落城という小坂氏記録では確かなことは言えないが、小坂氏を配下にしたと見られる莊氏の勢力は、このころ遥照山南から美星町宇戸谷辺・鴨方まで伸張して地頭職を握っていたと考えられるのである。

同年七月二十八日、沙弥静心は地頭有道時綱の命により野田観音に灯油田を寄進する。

《二六》沙弥静心寄進状〔大徳寺文書〕

奉寄進
  野田観觀音堂燈油田事
  合十伍代者住僧作坪在郷堀内



右地頭有道時綱仰、所奉寄進也、御意趣者、爲心中所願圓滿也、仍寄進之狀如件、
     弘安八年乙酉七月廿八日 沙彌靜心 (花押)
(『大日本古文書』)

〈解説〉

    弘安八年(一二八五)七月に、加賀国(石川県)能美郡野田郷野田村の野田観音に対して、その地の地頭有道時綱が地頭代と思われ る沙弥静心に命じて田地を寄進させたものである。地頭の有道時綱は児玉党四方田氏と思われる。
 弘高-高綱―遠綱-某-時綱

(『武蔵七党系図』略図)

同年(1285年)、但馬国大田文が作成される。日置郷・釈迦寺の地頭に越生兵衛太郎長経、相博保の地頭に蛭河左衛門尉の名が見える。

《二八》 但馬国大田文〔『日高町史』校訂本〕

但馬國太田文弘安八年之註進太田太郎左衛門政頼
     (中略)
     気多郡
     (中略)
日置郷    百四十六町七反九十四分地頭越生兵衛太郎長經   廿一町九反二百七十分八幡宮神人免

不審、伊福別宮已下領、
   佛神田      八十五町一反三百四十分     権門      十町八反半
   地頭新給田  四町六反百六十四分         公文給    壹町
   定田    十六町四反二百十五分
釋迦寺        二町一反地頭同人
   (中略)
   城崎郡
   (中略)
相博保    三拾九町四反二百四分地頭蛭河左衛門尉

   人給;        七反                     地頭給      三丁五反三百十九分
   定田       三十五町一反二百四十五分
   (中略)

右、註進如件、抑隨催促出注文之所者、就其状註進之、度々雖相觸、不敍用輩事者、雖須注進言上、日數延引之條、依有其恐、 且任建久・建治之帳、註進之、於田 破失 地者、雖不被仰下、至前田代 破失 所入之彼畠地也、 又雖帯地頭幟 破失 本自令勤仕御家人役來輩 破失注分之、謹令註進言上之状如件、
  弘安八年十二月 日  守護人大江破失
  (下略)
                     (『日高町史』史料編)

《解説》

  弘安八年に作成された但馬国(兵庫県北部)大田文に児玉党武士の所領の記載がある。日置郷と釈迦寺の地頭に越生兵衛太郎長経、 相博保の地頭に蛭河左衛門尉の名が見える。越生氏は武蔵国入間郡越生郷出身の児玉党武士で、既に宝治元年(一二四七)の越生有高譲状写 (『報恩寺年譜』)にも見えている。承元二年(一二〇八)の関東下知状(『同前』)には見えないので、その間に地頭職を得たのであろうか。
有行――有弘―-有高―|-有信-―信高
             |一有直‐―長経-―経高―経村
(『武蔵七党系図』に『報恩寺年譜』所収文書を参考にして作成)
日置郷は百四十六町七反余の田地を有する郷で、郷の総てが地頭の所領ではないが、越生氏にとって有力な所領を得たことになる。 ただし日置郷の地頭職は、後年猪俣党荏原氏に替わっている。
   又、相博保の地頭に蛭河左衛門尉の名がみえるが、蛭河氏は児玉郡蛭河郷(児玉町大字蛭川)を本貫地とする児玉党庄氏流の武士で、 庄四郎高家から蛭河氏を称す。高家は『平家物語』では一谷の合戦で平重衡を生け捕りにしたとされ、『吾妻鏡』建長二年(一二五〇)三月の条に閑院殿内裏造営 の雑掌分担目録に″蛭河刑部丞跡″とあり、既にこの頃は死去していたと思われる。蛭河氏は源平の合戦に源氏に従い多くの勲功を挙げたものと推定されるが、 確認できる所領はこの相博保一例のみである。この蛭河左衛門尉は実名が無いため系譜上では確認出来ない。

弘安九年(一二八六)+月二十九日、昨年の石門合戦の勲功の賞として某上総介に所領が宛てがわれる。その所領の中に長門国小津木名の地頭が 大淵弥五郎入道だったことが見える。

《二九》 将軍家政所下文写〔「正閏史料」〕

將軍家政所下
  可令早上總介 領知
   安藝國苅田久武郷 武田又太郎六郎跡・長門國小津木名 大渕彌五郎入道跡事
右、依去年石門合戦之忠、所被充行也者、早守先例、可致沙汰之状、所仰如件、以下、
   弘安九年十月廿九日         案主菅野
          知家事
令左衛門少尉藤原
別當陸奥守平朝臣(北条業時)
押字
   相模守平朝臣(北条貞時)
押字

《解説》

   この史料は弘安八年(一二八五)に起きた霜月しもつき騒動(鎌倉幕府の有力者安達泰盛一族と御内人みうちびと得宗被官とくそうひかんの平頼綱らとの権力争いで 安達氏側が敗れる)の影響が地方にも及び、筑前国(福岡県)岩門いわと合戦はその代表的な一例であった。これは九州における少弐しょうに(武藤) 景資と惣領の少弐経資との一族間の勢力争いで、安達氏側に立った景資の拠点の岩門(福岡県筑紫郡那珂川町)で合戦があり、景資と 安達盛宗らが敗北した。この結果、武藤景資・安達盛宗側の所領は没収された。史料に見える武田又太郎六郎跡・大淵弥五郎入道跡は 武藤景資側についたため没収地となったものと思われる。
  兒玉党平児玉の流れに大淵氏があるが、大淵弥五郎入道は児玉党の大淵氏であろうか。そうであれば児玉党大淵氏は長門国小津木名 に所領を得ていたことになる。『武蔵七党系図』には大淵平二郎高重の孫に弥五郎時高が見える。
行高秩父平四郎
――― 高重大淵平二郎―― 高能五郎―― 時高弥五郎

同年(一二九〇)十二月十四日、六波羅探題は東寺領大和国平野殿庄雑掌の訴えし件につき庄四郎左衛門尉使者として遣わす。

《三三》 六波羅御教書案〔東寺百合文書〕

東寺領大和國平野殿庄雑掌聖賢申當庄土民等寺用抑留事、重訴状如此、深栖八郎蔵人 源泰長・拓植又二郎 平泰清爲使者、
不申散狀之條、何様事哉、不日可進請文旨、可被相觸也、但執達如件、

永仁五年十二月十四日右近將監(北条宗方)御判

前上野介(大仏宗室)御判

庄四朗左衛門(資兼)尉殿  (『大日本古文書』)

《解説》

  この史料は、永仁五年(一二九七)十二月に東寺領の大和国平野殿庄(奈良県平群郡)雑掌聖賢が、平野殿庄の農民達が年貢を抑留 したことを六波羅探題に訴えたが、六波羅探題は深栖八郎蔵人と柘植又二郎を使者として調べさせたが何等返答がないので、 庄四郎左衛門尉(資兼)を使者として返答書を差し出すよう命じたものである。
庄四郎左衛門尉資兼は備中国(岡山県) 草壁庄の地頭として西遷した児玉党庄氏の一族と思われる。

永仁六年(一二九八)四月十一日、平野殿庄雑掌聖賢再び訴える。文面に使者として庄四郎左衛門尉資兼の名が見える。

《三四》 大和国平野殿庄雑掌聖賢重申状案〔東寺百合文書〕

東寺御領大和國平野殿庄雑掌聖賢重申
 爲□ 勑張本悪黨人願妙以下交名輩、令□背日限七ヶ度召苻等、難澁至極、且任先傍例、被召置彼交名人等於武家、
且可退治庄家押領自由悪行狼籍由、先欲蒙御成敗、雖過日限、御使于今不召進交名人等條、被成改召符文章、 改無盡期御教書、訴人疲難堪子細事、
副進
一通 被食上 御使資兼注進於御沙汰正月十二日訴狀案可申立御沙汰□目子細事
二通 寺用抑留之條年來承伏之庄官百姓一圓一帋陳狀案
一通 於御年貢者不遂収納由下司清重陳狀〔案〕
一通 願妙謀作不實之返抄同謀陳狀等案
      立寺用抑留承伏之陳狀、今年始乃貢所濟之由令謀作不實之返抄等、 願妙一人謀陳之狀也、
一通 就于願妙謀作不實之返抄等珎事雑掌追進之狀〔案脱ヵ〕
一通 願妙以下與力同心之交名人等注文〔案脱ヵ〕
一通 可被召交名人傍例召苻案
       但交名人注文井傍例召苻等案文外具書等、御不審之時、御引付可持参者也、
 件□所、且爲一圓進止寺領之上者、雖非武家御口入之地、梟逆之土民等、悪行之次第手餘之間、依被下 綸旨於武家、自㝡前、被召彼悪黨人等之處、 御使或取進自由不賓請文陳狀等、更不及召進彼等、或自去年九月至今年正月、取寵三ヶ度召苻等而不遂使節之間、以庄四郎左衛門尉資兼、 有御尋之刻、任去年十二月十四日御教書之旨、相燭深栖八郎蔵人柘植又二郎侯之處、未及散状之旨、去正月九日御使資兼注進之状分明也、 卽被令彼注進御沙汰、正月十二日訴状委細也、雖然、不被誡御使之私曲、剰以令謀作不實之返抄等願妙 一人謀陳之狀、被閣御沙汰之間、書進追進之處、可書直之由、雖爲難堪、隨御奉行之仰而害直之處、終不被召交名人等、還彼成改召符文章於問狀之條、且七通之内、四通之召苻文章、始終皆以同躰也、 以無盡期御教書、空逸年月之條、理訴之疲、訴人之歎、何事過之哉、子細去三月三日訴狀委細也、案文備進之、就中、於重疊之謀陳者、更不可有御信用、任 綸旨、被召置彼悪黨人等於武家、 可有御尋造逆之次第之處、剰依被成下寛宥御教書、御使不召進彼等之間、押領自由、悪行狼籍、彌以巧無道、令闕如佛性燈油以下供□米等之條、已及五ヶ年者也、且任注文是非、先被召交名入者傍例也、 但傍例之召狩案備進之、所詮、任先傍例、被成直召狩文章、可召取進彼 悪寛人等之由、1 被仰下巌制之御使、但東言上如件、
    永仁六年四月十一日                        『大日本古文書』)

同年(一二九八年)四月十五日、六波羅探題は使者の庄四郎左衛門尉(資兼)に、平野殿庄一件についての請文を提出させるように命じる。

《三五》 六波羅御教書案〔東寺百合文書〕

大和國平野殿庄雑掌聖賢申土民等抑留年貢事、重訴狀如此、使者深栖八郎蔵人 (源泰長)拓植平泰清 又次郎不申散狀之條、
何様事候哉、不日可進請文之旨、可被相觸侯也、彷執達如件、

永仁六年四月十五日 右近將監(北条宗方).2.2御判

  前上野介(大仏宗互)在判

庄四郎左衛門尉殿(『大日本古文書』)

同年(一二九八年)六月、東寺領大和国平野殿庄の雑掌聖賢は、願妙以下の押妨を再び訴える。

《三六》 大和国平野殿庄雑掌聖賢重申状〔東寺百合文書〕

東寺御領大和國平野殿庄雑掌聖賢謹重言上

欲早任先傍例、仰廉直奉行人、以嚴制御使等、可被召誡置當庄押領悪黨人惣追捕使願妙父子・下司清重以下交名人等於武家由、 重被申下巌密 綸旨、爲願妙・清重等、猥令追出預所、背寺命、打留佛聖燈油以下御祈禱米・恆例臨時寺役等條、已五箇年、 奉□背綸旨幷武家日限八箇度召苻等、違 勑悪行狼藉、所犯罪科不可遁断罪、將又、無盡期參差召苻使節私曲等、難堪子細事

副進

六通 綸旨案任富庄官百姓等訴之旨、 被申進一乗院云々
三通 綸旨井西薗寺殿御施行寺家御拳状等案武家被下之
八通 武家日限八箇度召符等案召符之參差使節之私曲等子細有之
一通 上御使庄四郎左衛門尉資兼請文案

右、當庄者 宣陽ヵ門女院御寄進之地、當寺無雙之□所異他、仍被定置佛聖燈油以下供□米等以降、已雖送六十餘廻之星霜、 會無權門勢家之妨綺、是併爲 朝家・将軍家長日不退之御祈禱所之故也、而悪黨人願妙以下交名人等、猥成一味同心之謀議、自去正應六年之比、構出無盡之謀略、 寄事於左右、自永仁二年至于當年、不相従寺家之所勘、理不盡令追出預所之後、如私領而令押領一庄、打留嚴重之佛聖燈油以下御祈禱米等之間、雖爲本所一圓進止之寺領、 彼等惡行餘手之間、任傍例、依被下 綸旨於武家、雖有其御沙汰、云召苻之參差、云御使之私曲、連々雖訴申之、于今不被成直其文章、又不被誡其私曲、徒經年序、空送日月之條、 理訴之疲、長日不退之行法、無足之勤、尤不便次第哉、就中、云嚴密之 綸旨、云武家日限八箇度之召苻等、爲願妙以下悪黨入等、泰處無之條、且爲 朝敵之振舞、且爲寺敵之所行、 任被定置之旨、爭無御炳誡哉、不日可被断罪之條、更不可有豫儀、然則仰廉直之奉行人、以嚴制之御使等、被召誡置大張本之願妙以下悪黨人等於武家、急速被糺定之後、 可被定罪名之旨、殊爲被申進嚴密之 綸旨於武家、日來御沙汰之次第、注進言上如件、
    永仁六年六月  日                  (『大日本古文書』)

永仁六年(一二九八)八月二日、六波羅探題の使者庄左衛門尉資兼は、大和国平野殿庄一件につき請文を提出する。

《三七》庄資兼請文案〔東寺百合文書〕

「永仁六八九」
大和國平野殿庄雑掌聖賢申土民等抑留年貢事、任去四月十五日重御教書之旨、相觸深四心貯蔵人・拓殖又次郎候之處、又次郎請文如此侯、 謹進上之、於八郎蔵人者、不及散狀侯、以此旨、可有洩御披露侯、恐惶謹言、
(永仁六年)八月二日左衛門尉資兼裏判 請文


(『大日本古文書』)

《解説》

   翌年(永仁六年=一二九八)、平野殿庄の雑掌聖賢は関係書類を添えて再び訴状を差し出している。以下の史料三五~三七も関連史料である。それによれば年貢を抑留した張本人は、 元来は平野殿庄の土民達であったが、当庄を押領する悪党人を捕らえる立場にある惣追捕使の願妙父子と下司清重らが寺の命に従わず、預所を勝手に追い出し年貢・諸役等 に乱暴・狼ぜきを働き悪党人となってしまったため、幕府の力で鎮圧してほしい旨を訴えている。
この事件に使者として名を見せる 庄四郎左衛門尉資兼は、この後嘉元三年(一三〇五)の六波羅下知状(『熊谷家文書』史料四五)に名を見せている。 庄資兼は備中国に所領を持つ児玉党の武士で在京していたと考えられるが、尚資兼の系譜については不明である。

永仁六年(一二九八)十二月二日、六波羅探題(北条宗方)は矢島弥太郎等に、蔵人所近江国菅浦供御人等の訴えし一件に付き、 塩津庄地頭熊谷七郎次郎(直忠)に対決するよう命じる。

《三八》 六波羅御教書案〔菅浦文書〕

蔵人所近江國〔菅ヵ〕浦供御人等申鉤事、重申狀如此、度々雖下召文、不及散狀云々、 甚無其謂、
來廿日以前可召決之旨、可被相觸鹽津庄地頭熊谷七郎(直忠)次郎也、仍執達如件、
    〔仁脱〕六年十二月二目 右近将監(北条宗方)在御判
     曾我(平家綱)又次郎太郎殿
    矢嶋(有道)弼太郎殿
       (『鎌倉遺文』一九八八七)

永仁七年(一二九九)二月二十日と三月十七日に、六波羅探題は再び矢島弥太郎等に、近江国菅浦供御人等の訴えし一件に付き、塩津庄地頭の 熊谷氏に再度対決するよう伝達させる。同年三月二十三日に奉行人有道某矢島弥太郎力)は請文を提出し、地頭の熊谷氏が御教書を受け取らない旨を報告する。

《三九》  六波羅御教書案〔菅浦文書〕

「六波羅殿〔端裏書〕御教書案 第四度 供御方
蔵人所近江國 〔菅ヵ〕浦供御人等申鈎事、重申狀具書如此、 度々下召文之處、不事行 云々、來月五日以前、可參決之旨、可被相觸同國鹽津庄地頭也(熊谷直忠)仍執達如件、

永仁七年二月廿日 右近将監(北条宗方)在御判

前上野介(大仏宗宣) 在御判

曾我又次(「平家綱)郎太郎殿

矢嶋(有道)咽太郎殿
(『鎌倉遺文』一九九五二)

《四〇》 六波羅御教書案〔菅浦文書〕

蔵人所近江國〔菅ヵ〕浦供御人等申鉤事、重申狀具書如此、度々雖下召文、 不事行云々、來月十日以前、可參決之旨、可被相〔觸ヵ〕鹽津庄地頭也、仍執達如件、

永仁七年三月十七日右近将監(北条宗方)在御判

前上野介(大仏宗室)在御判

曾我(平家綱)又二郎太郎殿
矢嶋(有道)彌太郎殿
(『鎌倉遺文』一九九八四)

《四一》 有道某請文案〔菅浦文書〕

蔵人所近江國 〔菅ヵ〕浦供御人等申鈎事、永仁六年十二月二日御教書、畏下給候畢、任被仰下候之旨、
相觸鹽津地頭(熊谷直忠)候之處、 稱在京、〔留ヵ〕主仁、御教書不請取侯、次同七年二月廿日御教書幷同三月十七日御教書下給侯之間、
則相觸侯之處、是又申在京、御歌書不請取侯、以此旨、可有御披露侯、恐惶謹言、
        永仁七年三月廿三日         有道(矢島)奉行請文
                          裏判
(『鎌倉遺文』一九九九二)

《解説》

  ここで取り上げた四点の史料は、永仁六年(一ニ九八)から翌年にかけて、近江国(滋賀県)竹生島の内の蔵人所菅浦供御人が同国 塩津庄地頭熊谷一族の乱暴浪籍を六波羅探題に訴えでた事件で、六波羅探題は矢島弥太郎と曽我又次郎太郎を使者に任命している。 矢嶋氏らは、塩津庄地頭の熊谷七郎次郎直忠のもとに御教書を渡すべく持参させたが、熊谷氏側は度々在京中で留守と称して御教書を受 け取らなかった。そのため矢島弥太郎はその旨を六波羅探題に報告している。
 熊谷直忠は武蔵国熊谷郷(熊谷市)を本貫地とする武蔵武士で、熊谷直実の子孫で熊谷氏の庶子家である。惣領家は安芸国(広島県)三人庄 に所領を得て西遷している。
  矢島弥太郎はその系譜を明らかにできないが、史料四一に″有道奉行″と見えることや、また時代は下るが『見聞諸家紋』に矢島氏が軍配団扇紋 を使用していることが見えることから、児玉党の一族と思われる。この矢島氏については他にも数点史料が知られるが、その多くが矢島氏が 近江国周辺で活動をしているので、近江国内に所領があったのではないかと思われる。
 児玉党矢島氏の本貫地は明らかではないが、『武蔵七党系図』では上野国に分布する一族(島名・山名・吉島氏)と近い位置にあるので、 上野国出身の児玉党武士と推定される。
 矢島氏は児玉党一族のほかに、奥州に矢島氏があり、信濃国にも神氏系の矢島氏がある。

嘉元三年(一三〇五)六月十二日、六波羅探題は庄松王丸と伯父親資の相論を裁許する。

《四五》 六波羅下知状〔熊谷家文書〕

   庄松王丸代國秀與伯父又太郎親資相論亡父敬願遺領事
右、就訴陳狀擬有其沙汰之處、去々年嘉元元八月十三日兩方出和與狀畢、如國秀・資兼等狀者、敬願遺領等不漏壹所、
以參分貳爲松王丸分領、以參分壹可爲、親資分領、次京都屋地事、子細同前、次自今以後、預在京御恩者、分限同前、
次於池河狩倉等者、雨方可令管領之、但遺領内攝津國久貞名御位田下司しょくならびに備中國草壁庄東方之地頭屋敷
壹町餘在之但就屋敷畠
者、參分壹之外也、親資可令領知之分狀幷契狀別紙在之、向後更不可有變改之儀、若背此狀者相互可被申行罪科云々、

如同日親資狀者、子細同前者、捧和具状之上者、不及異儀歟歟、然則任彼状、向後無違亂可致沙汰也、仍下知如件、
   嘉元三年六月十二日(金沢貞顕)         越後守平朝臣(金沢貞顕)(花押)
                    
   遠江守平朝臣(北条時範) (花押)

《解説》

 備中国草壁庄に西遷した庄氏一族内の所領争いの関係文書であるが、庄敬願けいがん の遺領をめぐって子息の松王丸と 伯父の又太郎親資ちかすけ が争ったもので、既に嘉元元年(一三〇三)に双方より和与状が出され、同三年(一三〇五)に六波羅探題より裁許が出されたのである。 文面によれば敬願の所領は備中国草壁庄東方地頭屋敷・摂津国久貞名御位田下司げす 職その他があったらしい。 裁許の結果、京都屋地や在京御恩をはじめ遺領の三分の二を松王丸が、三分の一を親資が相続し、池河狩倉等は両方で管領することになった。
   この庄氏一族は文面に、敬願・松王丸・国秀・資兼4又太郎親資の名が見られ、いずれも系譜等で確認できる者はいないが、 永仁五年(一二九七)に大和国平野殿庄の事件に庄資兼が上御使として名を見せている。いずれにしてもこの庄氏はこの時期には西遷していたと思われ、 京都屋地・在京御恩の記載からも六波羅探題に出仕していたものと考えられるだろう。また庄氏が摂津国久貞名御位田下司職を有していたことは重要である。
《追記》矢懸町史 p248より
これは子の松王丸の亡敬願の遺領を松王丸の伯父親資と相続争いをして、六波羅に訴出たのに対して和与が成立し成文化したもので、すべて三分の二が子の松王丸、三分の一が伯父の親資が相続する。 京都にもっている屋地も京御恩分も同様であるが池・河・狩倉は両方で管理し領する。ただし、摂津国久貞名の御位田下司職と備中国草壁庄東方地頭屋敷―但屋敷畠は一町余あり、此れは三分の一以外として親資が領知せよということである。 越後守平朝臣(貞顕)は金沢貞顕。遠江守平朝臣は北條時範でいずれも六波羅探題であり、当時の裁判の組織を知ることができる。 この文章では草壁荘東方の地頭屋敷では屋敷内に畠が壱町余あることで、この文章そのものでは環濠をめぐらしたかどうかはわからないが、他の例から考えるとそれをもち、 その中に畠と館と或は下人所従の家がいくらかあったのではなかろうかと想定されるところである。この場所は東方と書かれているので、お土居がこれに当たるのではなかろうか。
《 矢掛P247》 中世武士の地域社会 中世地域社会には三つの中心があったと考えてよい。第一は支配者を中心とした村落生活の中心「館・土居」であり、第二は軍事的中心としての城であり,第三は精神生活の中心としての寺社である。 関東の正編武士は未開の原野に囲まれた生活様式を,そのまま西国に於いても再現,維持しようとした。今日の移民が母国の生活の様式を新たな土地に再現しようとすることと同じである。その結果,彼らにとって日常生活に根を下ろした東国の狩猟生活を持ち込み鷹狩や狩が行われた。又,そのための狩倉が設けられることになった。土居という比較的広い屋敷地を持つ住居様式も,本来は未開の地が広く存在する関東の住居様式であった。たまたま九州の園が東北、関東などの門田と似ているのは,開発が進んでいないということの共通点をもつからに他ならない。狩猟の風習は流鏑馬という形で残っている場合が多い。現在では神事として,それも豊凶占いなどと組み合わされていることが多い。 

延慶四年(一三一一)三月三日、岩田・薄・吉田・小幡ら郡内地頭が秩父大菩薩宮の遷宮流鏑馬射手役を対禅するにつき、社家中村行郷が留守所に訴える。

《五三》 中村行郷申状写〔秩父神社文書〕

中村彌次郎行郷謹言上

 欲早爲岩田六郎、且男先例、且任郷々例、可勤仕由被仰下、武州秩父郡内大菩薩御遷宮鏑流馬射手役事件條、
御遷宮之時、當郡郷々地頭等、不論用物多少、爲郷役一郷例鏑流馬一騎令勤仕之條、爲先例之間、令催促之處、自餘郷々地頭等、 雖令領掌之、彼岩田六郎背支配歩、可申付御教書之由返答之條、頗難堪之次第也、然者早且任郷々例、且依先例、可勤仕彼役之由、爲被仰下、恐言上如件、
  延慶四三々
 論名字
井戸惣領彌九郎・薄四郎次郎・〔友〕恆惣領吉田五郎次郎・久永惣領小畠(児玉行頼)平太跡
   名字雖令各別、申狀文章如右、依不及書写之

《解説》

史料末尾に秩父郡内の″郷々地頭″である井戸・薄・友恒・久永惣領の名字が書き上げられている。これは論人の名前で本文を略した。
秩父神社の本殿遷宮の儀式の流鏑馬の射手役に拘わるもので、秩父郡内には郷々地頭として丹党・児玉党武士が多く分布しており、 ここに見える井戸郷(長瀞町井戸)の丹党井戸弥九郎、薄郷(両神村薄)の丹党薄四郎次郎、支恒郷の児玉党吉田五郎次郎、 久永郷の児玉党小畠(小幡)平太(児玉党秩父氏)跡が、丹党武士岩田六郎と同様に中村行郷の役負担の催促を拒否していた ために訴えられていたものと思われる。
 (参考、海津一朗「東国における郡鎮守と郡内在地領主群」『中世の東国』第六号。)