武蔵武士
 
兒玉町史より

應安七年(一三七四年)十月一日、富田康知は、御教書及び施行狀の旨に任せ、備前國金岡東庄領家識を龍安寺に打渡す。

二一二  富田康知打渡狀〔龍安寺文書〕

 龍安寺領備前國金岡東庄領家識事、去年十二月廿日御教書幷當年九月十四日任御施行旨、寺家御代官任 一圓打渡申候也、仍渡狀申候也、仍渡狀如件、
  應安七年十月一日 左衛門尉(富田)康知(花押)
 (『大和郡山市史』)
解説

この二点(二一一)、(二一二)の史料により備前國において富田氏が活動していたことが知られる。富田左衛門尉康知については系譜もわからないが、 兒玉党に富田氏があるので参考に上げておく。富田氏の数流あり兒玉党富田氏に比定できる知りようは乏しい。

應安七年(一三七四年)十月十四日、鎌倉府は藤田越中入道覺能の訴えにより阿佐美彌四郎左衛門入道・蓮沼安藝入道に命じて、武蔵國比企郡竹澤郷における竹澤一族 の押領を停止させる。

二一三  關東管領上杉能憲(道□)施行狀案〔円覚寺文書〕

同前(校正華)
藤田(合点)越中入道覺能申、武蔵國比企郡竹澤郷田畠在家・同郷宮入村竹澤左衛門将監入道跡事、訴狀如件、子細見狀、 竹澤二郎太郎童名土用犬丸・同修理亮入道幷比丘尼左近将監入道姉尼・ 泉蔵人太郎等押領云々、爲事實者、甚無謂、早蓮沼安藝入道相共莅(り、望む)彼所、守去應安二年六月十五日御下文之旨、沙汰竹下地於覺能藤田、可被執進請取狀、使節更ヵ不可有緩怠之狀、 仍仰執達如件、
   應安七年十月十四日       沙彌(道□、上杉能憲)在判
   阿佐美彌四郎左衛門入道殿

二一四  關東管領上杉能憲(道□)施行狀案〔円覚寺文書〕

同前(校正華)
藤田(合点)越中入道覺能申、武蔵國比企郡竹澤郷田畠在家・同郷宮入村竹澤左衛門将監入道跡事、訴狀如件、子細見狀、 竹澤二郎太郎童名土用犬丸・同修理亮入道幷比丘尼左近将監入道姉尼・ 泉蔵人太郎等押領云々、爲事實者、甚無謂、早蓮沼安藝入道相共莅(り、望む)彼所、守去應安二年六月十五日御下文之旨、沙汰竹下地於覺能藤田、可被執進請取狀、使節更ヵ不可有緩怠之狀、 仍仰執達如件、
   應安七年十月十四日       沙彌(道□、上杉能憲)在判
蓮沼安藝入道殿
解説

この二点(二一三、二一四)の史料は、熊倉府が藤田越中入道覺能(能員)の訴えにより、阿佐美彌四郎左衛門入道と蓮沼安藝入道に命じた竹澤一族の比企郡竹澤郷における押領を停止させたものである。 しかし知りよう二〇四~二〇六で藤田能員は竹澤左近将監入道跡の竹澤郷を得たが、この地の元の地頭は竹澤一族の押領があって知行出来ない旨を訴え出たものである。竹沢氏は竹澤郷を失ったが この地を離れず新地頭である藤田氏に対抗したものと思われる。竹沢氏は竹沢郷の名字の地である。使者となった阿佐美氏は兒玉党で蓮沼氏は猪俣党武士と思われる。
(『武蔵七党系図』略図』
経行・・保義・・↓行家
行高竹澤二郎・・行定五郎

應安七年(一三七與年)十二月二十四日、室町幕府は石清水八幡宮領備中國水内北庄の雑掌の訴えにより、庄四郎・松田左近將監入道に命じて弘石大和入道らの押坊を停止させて下地を雑掌に沙汰させる。 また翌八年二月九日、幕府は再び庄四郎・小河兵庫助に使者を命じ沙汰させる。

二一五  室町幕府奉行人奉書〔石清水文書〕

石清水八幡宮領備中國水内北庄雑掌申、弘石大和入道幷守護家人森戸次郎左衛門入道以下輩、致押坊由事、重申狀、具書如此、庄四郎相共、不日沙汰付雑掌、可被執進請取、更不可有緩怠儀之狀、 仍執達如件、
   應安七年十二月廿四日          沙彌(花押〕
    松田左近將監入道殿
(『大日本古文書』)

二一六  室町幕府奉行人奉書〔石清水文書〕

石清水八幡宮領備中國水内北庄□□雑掌申、弘石大和入道幷守護家人森戸次郎左衛門入道以下輩、致押坊由事、重申狀、具書如此、庄四郎相共、 不日沙汰付雑掌、可被執進請取、更不可有緩怠儀之狀、した如件、
   應安七年十二月廿四日          沙彌(花押〕
    庄四郎殿
(『大日本古文書』)

二一七  室町幕府奉行人奉書〔石清水文書〕

石清水八幡宮領備中國水内北庄雑掌申、去年十二月廿四日□□奉書如此、案文遺之、早仰下旨、庄四郎相共、莅所 沙汰付雑掌、可被執進請、若有子細者、可注進之狀如件、
   應安八年二月九日          沙彌(花押〕
    小河兵庫助殿
(『大日本古文書』)
解説

この三点(二一五、二一六、二一七)の史料は石清水八幡宮領である備中國水内北庄の雑掌が、弘石大和入道羅の押坊を受けている旨を室町幕府に訴え、幕府は庄四郎・松田左近将監入道 らを使者として事にあたらせたものである。庄四郎は実名不詳であるが、同国の草壁庄に西遷下児玉党庄氏一族の者と思われる。

應永二十五年(一四一八年)三月二十八日、鎌倉公方足利持氏は横瀬美作守・岩田中務丞入道に命じて、安保宗繁・滿春等の訴えし武蔵國児玉郡蛭河郷・阿久原郷・太田村外における   本庄左衛門入道・藤田修理亮羅の押坊を止めさせ、下地を宗繁・滿春等に沙汰させる。  

二六六  關東公方足利持氏御判御教書

〔横浜市立大学図書館所蔵安保文書〕
    (註、第一章・第二節に収録済み。第一六号文書)

應永二十六年(一四一九年)十二月二十日、備中國守護細川頼重は庄甲斐入道・高橋駿河入道に、南禅寺領備中國三成庄公文・田所両識等を、同寺雑掌に渡すよう命じる。

二六七  備中國守護細川頼重書下〔南禅寺文書〕

南禅寺領備中國三成庄公文・田所両識、幷休耕寺等事、早、可沙汰付下地於寺家雑掌狀如件、
    應永廿六年十二月廿日       〔兵ヵ〕 部少輔(細川頼重) (花押)
庄甲斐入道 殿
高橋駿河入道 殿
(『矢掛町史』史料偏)

解説

備中國守護細川頼重は、理由は不明であるが南禅寺領備中國三成庄の公文識・田所識を同寺雑掌に渡すよう、同國守護代の庄甲斐入道に命じたものである。
  庄甲斐入道は同國草壁庄の地頭の庄一族と見られ、この時期に同國は両國の守護代にまでなっていた。甲斐入道の実名は不詳で、岡山県には 数種の庄系図が伝わるが、いずれにも見当たらない。
  南北朝・室町時代を通じて、關東で活躍した庄一族を除くと、数種の記録や文書史料より、この庄甲斐入道のの外にも、多くの庄一族の名が 見られる。例えば、庄四郎入道(『毛利家文書』)・庄八郎入道(『保坂氏旧蔵文書』)・庄又六(『山内首藤文書』)・庄十郎四郎資方(『阿府志』)・『善通寺文書』・ 『田代文書』)・庄孫三郎(『御的日記』)・庄四郎左衛門尉(『大通寺文書』)・庄又四郎(『華頂要略』)・庄四郎左衛門(『萩藩譜録』)・庄兵衛四郎(『金剛寺文書』)・庄駿河権守(『古証文』)・ 庄駿河守(『吉川家文書』)・庄駿河入道(『吉川ヶ文書』・『東寺百合文書』)・庄十郎(『地蔵院文書』)・庄近江入道(『古和文書』)・庄四郎(『石清水文書』)・ 莊駿河四郎次郎頼資(『相国寺供養記』)・庄六左衛門尉(『長福寺文書』)・守護代庄甲斐守(『池上家文書』)・庄信濃守(『長福寺文書』)・庄四郎五郎(『永享以來御番帳』)・ 庄藤衛門尉(『石清水文書』)・庄伊豆守元資(『小早川家文書』)等の名が見いだせる。しかし前にも触れたとおり、系図等と一致するものは極めて少なく、 それぞれの関係を知り得ない。

應永二十七年(一四二〇年)三月二十五日、鎌倉公方足利持氏、武蔵國児玉郡梅原村を安房國龍江寺に寄進する。

二六八  關東公方足利持氏寄進狀写〔集古文書〕

  寄進    龍江(安房)
   武蔵國兒玉郡梅原村塩谷孫太郎入道跡事、
  右爲當寺領、所寄附之狀如件、
   應永廿七年三月廿五日
左兵衛督源朝臣(足利持氏)(花押影)
(『埼玉県史』資料編五)
解説

これは關東公方足利持氏が安房国龍江寺に武蔵國兒玉郡梅原村埇谷孫太郎入道の跡を寄進したものである。梅原村は現在の児玉町大字金屋 の小字名に梅原があり、『新編武蔵風土記稿』金屋村の項にも梅原が見える。埇谷孫太郎入道については知見がないが、或は兒玉党系武士 の塩谷の間違いであろうか、既に頃には兒玉党系武士も所領を失い離れるケースが多くみられるが、梅原は児玉系の塩谷・児玉氏との関係 との関係の深い土地であった。安藝の国に西遷下児玉氏の所領池屋(『新編武蔵風土記』金屋村の項には池ノ谷と見える)も梅原村の近くにあった。

下野國鍐阿寺の僧栄範は寺領狀を作成する。文中に武州鳥形中務入道並びに阿佐美二郎右衛門跡の記載がある。
  

 應安四年(一三七一年)閏三月十二日、室町幕府は小早河貞平の勲功の賞の替地として小早河春平に安藝國能美島塩谷孫太郎入道跡を宛がう。

二〇七  室町幕府管領細川頼之下知状〔小早川家文書〕

可令早小早河美作守春平領知安藝國内部庄三戸彦七跡・同國能見嶋鹽谷孫太郎入道跡事。〘入道跡 鹽谷孫太郎

右、爲父貞平法師勲功之地下總國阿玉郷之替、所充行也者守先例、可致沙汰之狀、依仰下知如件、
    應安四年閏三月十二日       武蔵守源朝臣(細川頼之)(花押)
(『大日本古文書』)
解説

応安四年(一三七一年)に室町幕府が小早河美作守春平に安藝國内部庄と能美島塩谷孫太郎入道跡を春平の父貞平が勲功の賞として得た下総国阿玉郷の替地として宛がわれたものである。
   兒玉文書中元応に年(一三二〇年)の六波羅御教書(第一章参照)に塩谷左衛門入道が兒玉七郎入道と共に安藝國亀頸の海上警護を命じられていることから、 塩谷氏の安芸国内に所領を有していたと思われ田がこの史料によって兒玉党塩谷氏が安芸国能美島に地頭識を得ていたことが判明する。おそらく兒玉氏と同様に弘安四年(一二八一年)に 安芸国の所領に下向するよう鎌倉幕府より命じられ、一族が西遷していたたものと思われる。 安藝國における塩谷氏の行動は全く不明であが、同国竹仁上下村を領した兒玉氏が 南朝方の足利直冬に属し活躍していたことをかんがえると、塩谷氏の同様な行動をとったことが考えられ直冬の役落とともに北朝方によって没収されたのではないか思われる。 しかし塩谷氏は近世期毛利氏の家臣に塩谷氏があるので、所領をうしなったあとも安芸国周辺で活躍し後に毛利氏に従った者であろう。

 應安四年(一三七一年)六が六日、幕府は庄駿河入道に命じて、竹鼻入道覺知の山城國円城寺敷地、山林等を押領するのを停止させ、下知を仁和寺の雑掌に交付する。

二〇八  室町幕府管領細川頼之奉書写〔東寺百合文書〕

仁和寺雑掌宗尋申山城國圓城寺敷地・山林等事、解状副具書如此、子細見狀、勅裁以下證跡分明也、早小串次郎右衛門尉相共莅彼所、不日退竹鼻新左エ門入道覺智知行、 沙汰付竹下地於雑掌、可莅執請取之狀、依仰執達如件、
    應安四年六月六日          武蔵守(細川頼之)
  庄駿河入道殿
(『大日本史料』六ー三十四)
解説

この史料は幕府が、庄駿河入道・小串次郎左衛門尉に命じて、仁和寺雑掌宗壽の訴える同寺領山城国円城寺敷地・山林等を押領する竹鼻新左エ門尉入道覺智の知行を退け、 下地を雑掌に渡せたものである。管領武蔵守細川頼之が庄駿河守に将軍の命を奉じて出したものである。
   庄駿河入道の実名も不明で、兒玉党の流れをくむ備中國(岡山県)草壁庄の地頭庄氏一族の武士と思われが、詳細は不明である。正平十八年(一三六三年) と同二十一年(一三六六年)の『吉川家文書』に、備中國草壁庄庄駿河守・庄駿河入道跡の記載が見られるから、同一人であろう。管領細川頼之から直接文書が出されている ことから、幕府の奉行衆の一員であろうか

 應安五年(一三七一年)十二月十七日、後光嚴上皇は民部大輔(西園寺実俊ヵ)に、幕府に春日社領山城國葛原新庄菊末・定宗両名に於ける塩谷入道の濫坊を停止させるよう伝えさせる。

二〇九  後光嚴上皇院宣案〔東寺百合文書〕

春日社領山城國葛原新庄菊末・貞宗名鹽屋入道以下輩押坊事、興福寺學侶僉議狀幷盛深儈正狀副具書如件、子細見狀候歟、可沙汰居雑掌於下地之由、可被仰遣武家之旨、 新院御氣(御光嚴上皇)色所候也、仍言上如件、
 忠光恐惶謹言、
   應安五               十二月十七日  権中納言忠光(柳原)              進上  民部大輔殿(西園寺実俊ヵ) (『大日本史料』六ー三十六)
解説

この史料は興福寺より、春日大社領の山城國葛原新庄菊末・貞宗名が、塩屋入道等によって押領されていることを訴えられたものである。塩屋(谷)入道については、兒玉党流塩谷氏と宇都宮氏流の下野國出身の塩谷氏 があって、どちらに属する武士か不明である。
鎌倉期の永仁元年(一二九三年)九月に小山氏の被官塩谷入道が京都で活躍していたことが知られるが(『新玄僧正日記』)、この塩谷入道が宇都宮氏系塩谷氏と見て間違いないと思われるが、ここに登場する塩谷入道戸は、 凡そ八十年もの時間差があり、どちらの武士か不明である。

 文中二年(一三七三年)九月八日、南朝方(北畠顕泰ヵ)は伊勢國古和一族に同國飯高郡深田御園地頭識志村方半分 (庄近江入道知行分)を、兵糧料所として知行させる。
  二一〇  兼顕奉書写

(北畠兼顕ヵ)

伊勢國飯高郡深田御園フカタ ミソノ地頭ショク志村方半分、知行文、庄近江入道知行分爲兵糧料所可令知行之狀、仍仰執達如件、
   文中二年九月八日              中務大丞兼アキ
    古和一族中
(『大日本史料』六ー三十八)

 應安七年(一三七四年)九月二十九日、備前國守護守護代浦上助景は、御教書及び施行状の旨に任せ、富田五郎左衛門尉(康知)に命じて備前國金岡東庄領家職を額安寺雑掌に打渡させる。

二一一  備前國守護代浦上助景遵行狀〔額安寺文書〕

額安寺雑掌申、備前國金岡東庄領家事、任去年十二月廿日御教書幷當年九月十四日施行狀之旨、退兵粮方預入、可被渡雑掌一圓所務之狀如件、

   應安七年九月廿九日         左衛門尉浦上助景(花押)
   富田五郎康知左衛門尉殿
(『大和郡山市史料』)